『ルポ イチエフ 福島第一原発レベル7の現場』

ルポ イチエフ――福島第一原発レベル7の現場

ルポ イチエフ――福島第一原発レベル7の現場

  • 作者:布施 祐仁
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「僕等は、被曝することを『食った、食った』と言うんです。作業が終わった後、『0.6(ミリシーベルト)も食っちゃったよ。君は何ミリ食った?』みたいな感じで」
彼は笑いながら口にしたが、労働者に放射線を「食わせ」ながら発電する原発に、私は暗いものを感じた。
P1 プロローグ

本書は福島第一原発事故から1年余りの間に50人以上の原発作業員に取材した記録である。それまで東電本社の対応だの、政府、保安院の対応だのの不備について様々な見聞をしてきた者からすれば、実際の現場で作業にあたる労働者の肉声はある意味生々しくもあり、我々の想像を超えるような過酷な原発事故の現場の状況が伝わってくる。
しかも原発作業員の多くは原発労働ヒエラルキーの低層に位置する日雇いなど非正規雇用の弱い立場にある人々である。原発労働ヒエラルキーとは東京電力を頂点とする原発内労働の重層構造でり、偽装派遣、違法派遣が恒常化している現場のことである。その構造を本書では以下のようなヒエラルキーとして構図化している。

画像にある3次請けまでが東電が公式的に認めている。それより下部の部分はすべて偽装請負であり違法な雇用、労働がまかりとおっている。本書では以下のようなレポートされている。

清水は、元請からみて四次下請けだが、東電には二次下請け業者の従業員として登録している。原発内で着用している作業着も、二次下請け業者の社名が入ったものだ。形式上、二次下請け業者の「出向社員」といういことにになっている。
なぜこんなことになるかというと、東電は公式には原則三次下請けまでしか認めていないからだ。
もちろん、実際にはその下に会社法人を持たない「人夫出し」と呼ばれる業者が連なっていることを知らないはずはないが、見て見ぬふりをしているのが実態である。P127

原発は、年に一度の定検時に大量の労働力を必要とする。その労働力を集め、管理するために重層下請け構造ができあがっている。
それをまとめると、おおまかに以下のようになる。
まず、電力会社が直接工事を発注する元請け会社がある。東電の場合は、原子炉メーカーである日立と東芝、建築土木工事を担当するゼネコン、東電工業、東京エネシス東電環境エンジニアリングといった東電子会社などが元請けとなる。
メーカーである日立製作所東芝は、その下に日立プラントテクノロジー日立GEニュークリア・エナジー東芝プラントシステムといった原発関連の子会社を置いている。東芝の下には、IHI(旧石川島播磨重工業)プラント建設が入ることが多い。
この下にくる一次下請けは、東京に本社を置き、全国の原発で事業を展開している原発専門の株式会社が多い。前出の大平電業などがこれに当たる。
実際の工事現場では、元請けと一次下請けの社員が作業の指揮命令や監督を行う。両者を区別して「工事担当(元請け)」「業者貫禄(一次下請け)などと呼ぶ場合もある。元請けでも、日立製作所東芝の社員が工事担当になることはまずない。工事担当になるのは、ほとんどが現場作業の経験を積んだ下請け業者からの「出向社員」である。
その下の二次、三次の下請けには、一定の技術と経験を有する地元の株式会社あるいは有限会社が入る。高い技術を持つ職人は社員として抱えるが、外注の作業員も多く使う。工事に必要な労働者の頭数を揃えるのも、ここの役割である。「作業班長」など、実際の現場作業の中心を担う。
ここまでが東電の登録業者で、その下に作業員を集めて二次、三次の会社に送り込む「人夫出し」の業者が何千と存在している。
この構造は、事故後の緊急作業でも基本的には変わっていない。 P130

そして下部構造で働く非正規雇用の労働者ピンハネにつぐピンハネにより、過酷な被曝労働を負いながら使い捨てされているのである。本書は最終章でこんな風に綴っている。

この取材で最も耳にしてきた言葉は、「使い捨て」であった。原発は、さまざまなことを隠すことで、ここまで発展してきたとも言える。「安全神話」のもと都合の悪い事実には蓋をし、下請け作業員を被曝労働で「使い捨て」にすることで成り立ってきた原発というシステム。もしかしたら、そのなれの果てが今回の原発事故だったのかもしれない。 P178

あまり語られることのない原発作業員の使い捨てされる実態を通して思うのは、やはり原子力発電所は肯定してはならない存在であるということの再認識だ。見通しのつかない使用済み核燃料の問題、末端労働者に被曝を強い、その上で初めて成立する<安全>かつ<低コスト>な原子力発電。ありえないだろうというのが率直な感想でもある。
とはいえ本書でレポートされる原発作業労働者の実態について、これまで何も語られてこなかった、報じられてこなかったかというと、いやいやある程度はすでに報道されてきてもいた。最初は衝撃的であったそれらは、なんとなく情報を享受する側からすると、なんとなく知っているよそんなこと、でもどうしたらいいの率直にいって、みたいな感じにもなってきているのではないか、本書を読みながら感じたのはそんなことである。
本書の刊行は9月27日である。実は発売と同時に購入してすぐに読み始めた。半分くらいは一気に読み進めた。しかしじょじょにページをくくる手がゆるくなった。いつもカバンの中に入れていながらつい別の本に手が伸びるようになってくる。そんなこんなで読み終えるのに3ヶ月近くかかってしまった。
なぜなだろうか、3.11以降断続的に原発関連の書籍を読み次いできた。その数はたぶん両手以上になるだろう。同時にいてもたってもいられない思いで国会前のデモとかにも何度か参加してもきた。でもどこかでややもすると原発問題について食傷気味な部分も実はあるのではないかと、そんな風にに内省する部分もあるにはある。もちろん本書と並行して菅元首相の本やら吉岡斉の本やら何冊も原発関連書を詠み進めてもいる。けっして問題意識を喪失しているわけでもない。でもなんとなく、なんとなくだが、心の中でも、社会的関心事はけっして原発だけではないだろうみたいな思いもじょじょに生じてきてもいるような気もしてならない。
それでは世間一般はどうか、これはもう明らかに原発問題には食傷なんだろうとも思う。そして小出しにでてくる原発事故の実態やら汚染の現実に対して、なんとなく我々はマヒし始めているのではないかとさえ思えるのだ。さらには新しい問題、報道に対しては、なんとなく目そらしをするそんな雰囲気が現れてきているように思えるのだ。
だから、本書のようなある種の告発本、原発作業労働の実態をルポしても、どこかでこんな囁きがあるのではとも思う。
「そう大変ですね、でもそれでどうしろっていうんですか」
原発が大変なこととか、マジ、終わっていることくらいわからないわけではないですよ。でも原発なくなると電気足りなくなるんでしょ」
原発で作業している人って、地元の人が多いんでしょ。その人たちは原発なくなったら失業しちゃうんでしょ」
などなど。そして日々の生活に埋没することで、原発に関する事柄から耳を塞ぎ、目を閉ざしていく。それがサイレント・マジョリティなのだろう。
国会前での脱原発デモが広がらないのも、おそらく今度の選挙で原発推進を続けてきた自民党が大勝するだろうことも、急造された脱原発政党への支持が広がらないのも同様な理由からだろう。そうなのだ、もうみんな原発に関して飽き飽きしているのかもしれないのだ。ある種の厭戦気分ならぬ<厭原>気分が蔓延しているのではないかと、そんな気がしてきた。そうやって現実から逃避していく、あるいは<所与>の事実として受け入れていくみたいなことだろうか。
実際のところ低線量の被曝についてはもう完全に受け入れている部分とかもあるだろう。福島でもいわき辺りではすでに普通に生活しているわけだし、これから5年、10年くらいで青少年の甲状腺とかに相当な被害が出たとしても、それを<科学>的に被曝との因果関係を証明することはきっとしない、できない、のである。明らかな因果関係といっても<科学的に証明できない>と言い出すどこぞの権威ある学者さんがゾロゾロ出てくるのである。
では、そうした<厭原>気分に覆われたこの国にあって、本書のようなルポルタージはなんの意義を持たないのか。いやそんなことはないのである。本書のようなルポが繰り返し繰り返し告発を続けることによって、たぶん政府、マスコミ、電力会社、財界によって撒き散らされた<厭原>気分やら、原発は必要だというイデオローグやら、そうしたもろもろに対峙していくことになるのだと思う。
状況はけっこう絶望的かもしれないが、とりあえず「継続は力」なのだ、と思う。本書の著者布施祐仁氏には今後も継続して福島第一原発周辺の取材を続けていただきたいと思う。本書の続編、続々編をぜひぜひまとめてもらいたい。そして本書を出版した岩波には引き続き、本書のような骨太なルポの出版を、発表する場を設けてもらいたいと思う。
そして最後に本書の読書感想として私もまた小さな決意を新たにしたいと思う。やっぱり「継続は力」だから、ひつこく「原発本」を読んでいきます。原発デモにも時々は参加します。そして何より子どもたちの世代のためにも「脱原発」をけっして声高々ではなくても、ぶつぶつとつぶやいていきたいと思う。