福島県は原発に関して被害者なのかどうか

4月25日朝日「声」欄に原発関連収入に関する投稿が載っていた。

原発関連収入 何に使ったのか
 無職 前田康宏 (神奈川県鎌倉市 65歳)
 報道で、福島県原子力発電所の稼動にかかる県税として「核燃料税」を課しており、今年度は44億円に上る予定だったことを知った。この一部は周辺市町村にも分配されるという。
また、原発を誘致することにより、県も当該市町村も国から多額の特別交付金を毎年配分され、さらに固定資産税、住民税などの地方税も入ったはずだ。多くの住民が原発関連で雇用される効果も含め、相当の経済効果が県や当該市町村にあったと思う。
福島県知事は今回の原発事故で、ことあるごとに補償、補償と訴えているが、県や当該市町村は、これまで得られた、このような原発関連の収入で、不測の事故が起こった場合の備えをどれほそしていたのだろうか。例えば基金として蓄えていたお金を避難住民に一定期間快適に居住できる避難場所を設定していた、などという話は全く聞こえてこない。一体、多額の収入を何に使っていたのだろう。
政府の復興構想会議がスタートしたが、いつどこで、どれほどの規模で起こるかわからない巨大地震津波の被害と、一定の想定ができた原発事故の被害を同じ土俵で議論してはならないと思う。

う〜ん、なんとも微妙な切り口である。確かに原発を誘致した自治体は金銭的に潤っていたはずだ。事故が起きたとたんにいきなり被害者面もないだろうと思わないわけでもない。
日本は開かれた市民社会で、報道の自由がある国といわれるが、多様な情報がきちんと整理されて伝わっているかといえば、概ね疑問でもある。実際、ちょっと考えれば原発のある自治体には相当な金がつぎ込まれていることは、なんとなく想像がつくことだが、そのことがきちんと報道されてはいない。
かといってそのことを一大キャンペーンのようにして喧伝すれば、どうなるか。おそらく例の自己責任論が渦巻くに決まっている。お前ら原発で潤ったんだろう、ずいぶんと金が落ちてきたんだろう。原発事故があったからといって、今さら被害者面して「補償、補償」っていうなよ。まあそういう話がいくらでもでそうだ。
実際、今の福島県知事の態度には、なんとなく違和感が憶える人もたくさんいるようだ。あそこまで東電だの、政府だのに対して上から目線で、被害者面して、強面でいろいろ言っていいのだろうかみたいな意見だ。ネットでもこんなことを書かれている方もいる。
http://60643220.at.webry.info/201104/article_7.html
実際、この佐藤雄平という男、バリバリ原発容認派だし、昨年8月、福島第1原発3号機のプルサーマル稼働を承認している。前任知事はこれに反対したためかどうかはわからないが、汚職で立件された首になっている。そのへんについて自ら捜査、裁判に異を唱えるべく本も出していて、アマゾンのベスト100位以内に長いこと位置していたりもする。

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件

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一方で原発事故で苦労されている住民たちの立場を守るため、朝日の投稿者に対しての批判の声をあげる方もいる。
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この方の論もある部分納得できる。ややもすれば感情論的な意味合いもないではないという気もするが。

原発は町に助成金と雇用をもたらしました。
大熊町は40年間原発とともに共存共栄してきました。
それが何か?
これほどのリスクを背負って何の見返りもなく慎ましく暮らせと?
首都圏に電気という恩恵だけを送ってお前ら田舎ものは貧乏暮らしが
お似合いだとでも?

典型的な都市生活者と地方生活者との相克みたいな論法である。都市生活者は様々な文明の恩恵を受けてきている。そこに発生する負の部分に関してはみんな地方に押し付けていながら、うんぬん。う〜ん、わからないでもないが、これはロジックとしては弱いとも思う。

40年前国が決めたことに福島県民がどう対応できたって言うんですか?
純朴な農民たちが徒党組んでデモやって原発を追い出せた可能性がどれほとあったっていうんですか?
40年前25才のあなたは原発を福島に持って行くな、鎌倉に寄越せって言ってくれたんですか?

私もある意味都市生活者にくくられるのだろうが、私自身、原発に積極的に賛同はしていない。具体的な反対活動をしてきていないという意味では、ネガティブに原発に賛同してしまったのかもしれない。でも、私はどの時点でも、都市あるいは、自分の住んでいる地域には原発はいらない、自分の生活圏とはほど遠い地方であれば、設置されてもいたしかたない、文明の必要悪だし、電気は必要なんだから、みたいな考えに立ったことは一度もない。
理性的にも、情緒レベルでも、原発は自分の住む町にも必要ないし、地方にも、例えば福島にも新潟にも福井にも必要ないとずっと思っている。基本的にはどこにも寄越さなくていいと思う。
純朴な農民が徒党を組んで・・・・、かって千葉県でいきなり誘致が決まった空港建設のため、自分たちの土地を、生活基盤を奪われるために、異議申し立てをして、それこそ徒党を組んでデモをされた農民たちを私は知っている。彼らはなにも過激派に扇動されたおっちょこちょいでもなんでもなく、農業を続けたい、自分たちの生活を守りたいという、ただただそのことだけで、反対運動を続けられていた。
もちろん国側から様々な懐柔策もあり、金も潤沢に落ちてきたりもしたけど、それに長いことノーと言い続けて10数年やせ我慢の運動を続けられた農民がたくさんいた。結果としてその運動は大きな成果をあげることはなかったけれど、最終的には国に頭を下げさせることはできた。
私も現地に数回行った。若気の至りの、おっちょこちょいかつ性急な行動だったかもしれない。一緒に行った当時の友人の何人かは逮捕されたり、警察にマークされたりして、ある意味人生棒に振った者もいないではない。でも国家に対して異議申し立てをすることはなにも、おかしいことではないということだけは、直感的に学んだつもりである。
国が決めたことに対して、地域住民に何ができるのか、結局受け入れざるを得ないではないかというのは、現実的にはきわめて正論的である。でも、それは一方では想像力の欠如ではないかとも思う。

つきつめていったらその人たちにも私自身にもそし日本国民ひとりひとりにも責任はあります。国が推進してきたことに反対してこなかった責任です。
この投書をした人にもあります。

そのとおりである。すべての者に責任がある。だから国、政治家、リーダーの責任を不問にする。みんな悪いのだから。これはこの国が戦争を起こし、敗戦となったときに蔓延した論調である。一億総懺悔というやつである。これにより戦争指導者の、国を戦争に導き、結果として多くの国民を死傷させた責任を総て不問にしてしまった。
日本という国は、連合国から突きつけられて仕方なく戦争犯罪を認めたけれど、自らの手では一切戦争責任を不問にしてきている。政治家は自国民に対しての責任をとるこもなく、ましてやアジア諸国に対してもきちんと責任をとろうとしていない。そのうえでここ十数年では、それこそあの戦争は間違っていなかったとか、日本はアジアを一切侵略していないなどという論まででてきている。
問題の基底はどこにあるか。政治家=リーダーの責任と、一般市民の個々の責任論がきちんと分離されていない、意図的に混同されていることだと思う。政治家の責任は結果責任で問われる。どんなに動機付けが正しかったとしても、その結果国民に大きな災厄をもたらしたとすれば、そのことにより責任を問われるのである。それをその政治家を選んだのは大衆である。だから大衆のほうがもっと悪いとか、政治家と同様選んだ大衆も断罪されなければならないなどという言い方で、政治家の責任を霧消させようとする。そういう論理のすり替えが問題なのだ。
原発被害にあっている被災者は保護され、出来るだけ補償もなされなくてはならない。しかしそのことを全面に出して、自ら原発を容認する政策を実行してきた政治家の責任が回避されるわけではない。福島県知事は被災県民のために補償を国、東電に求めていく必要はある。しかし同時に自ら原発を誘致、推進してきたことに対してはきびしくその責任を問われなくてはならないと思う。
その責めの大小によっては地位を追われなくてはならないかもしれない。それが政治家、リーダーの義務でもあるのだと思う。
事象はすべて多面的に把握すべきなのだと思う。ある一面だけを強調されても、別の面が多々あるのである。それらを出来るだけ総合して理解する必要があるのだ。被害を強調する福島にも原発を誘致、容認し、その恩恵を預かってきた面もあるのである。もちろんその部分だけをあげつらって自己責任論を展開するなどもってのほかだ。しかし、被害者が被害者だけではないというのも、複雑、錯綜した現代社会にあっては当たり前の事実なのかもしれないのである。
朝日の投稿者が投げかけたのも現実の別の側面についての疑義である。私はその問題提起を正しいものと考えているし、興味深く読んだ。原発問題を巡る現実はくんずほぐれつ錯綜しているのである。注意深く、その多面性を読み解くリテラシー能力が必要なのだろうと思う。