「出版大崩壊 電子書籍の罠」

出版大崩壊 (文春新書)

出版大崩壊 (文春新書)

  • 作者:山田 順
  • 発売日: 2011/03/17
  • メディア: 新書
新聞広告が出ていたので、ついそのコピーにつられて購入、一気に読んだ。そのコピーはほぼ帯についているものがそのまま掲載されていた。

某大手出版社が出版中止した「禁断の書」
元敏腕編集長が実体験を基についてに書いた!

著者の山田順氏は長年光文社で編集に携わり、自身でもたくさんの著作をもっているノンフィクション・ライターでもある。光文社が音羽グループであることから、ここでいう某大手出版社はおそらく講談社あたりなんだろうと勝手に推測する。
内容的には出版編集を通じて出版の表裏を知り尽くし、実際に自らも電子出版に関わったベテラン編集者による電子出版に対する批判的なレポートということになるだろう。
電子出版は出版不況の脱出の助けとなるか、ノーである。電子出版によって書店取次だけでなく、出版社さえが中抜きさていく。究極的には著者とプラットフォームとユーザーだけとなり、出版社の存在意義はなくなる。
日本市場での電子出版とは20代向けのエロが中心のケータイマンガだけであり、彼らは書店に行ったこともない、もともと紙文化に触れることがなかった者たちである。
自炊により誰もが簡単に本のデジタル化ができる。また書籍のデジタル化によって不正コピーが蔓延する。
なぜ手間隙をかけて自炊を行うのか。それは数百冊の所蔵書籍をデジタル化して専用リーダーや携帯タブレットに取り込むことで、本棚などというスペースをとる保管場所も必要がなくなる。本棚を携帯して持ち歩くことが可能になるのである。
セルフパブリッシングがよって、誰もが著者となり質の悪い作品がネット内に蔓延する。それによってプロの作品、良質な作品郡が埋没されてしまう。
コンテンツフリーというネット社会の慣習が、コンテンツを作り出す人々の生活を疲弊させており、ひいてはコンテツン産業自体を脅かし始めている。
ネット配信によってコンテンツの価格はダンピングされていき、プラットフォームのみが一人勝ちしていく。その結果としてコンテンツ産業は衰退していく。すでにCDの売上げは急激落ち込んでおり、音楽業界は苦境にたっている。その図式はそのまま近い将来の出版業界に当てはまっていく。
最後に著者はこう綴っている。

ネット社会も大きく変わって、娘がいまいちばんアクセスしているのは、「Facebook」だ。そこには、彼女がいちばん大切にしている友人たちのネットワークがある。
現在、娘が少女時代に夢中になった「ボックスカー・チルドレン」シリーズは、家の本棚の奥に眠っている。最近、娘は昔の本や雑誌を整理したが、これは捨てないで残っていた。私も本棚に青年時代に読んだ本を捨てられないで残している。
これらを思い切って捨てられるようになったとき、本当の電子書籍の時代は来るのだろう。それは、もう明日のことかもしれない。

著者の鳴らす警鐘はきわめて真っ当である。iPadの発売と同時に様々に喧伝された電子出版、電子書籍ブームについていえば、出版に携わる者はみなそれをバラ色の未来として受け止めてはいないと思う。出版業界の末端で、物流やアウトソーシングとして窓口業務を運営することなどで、職を食んでいる私自身それは同じ思いだ。電子出版が普及し、ダウンロードサービスが主流となれば、リアルな本の物流で商売しているところは、たいてい壊滅的になるだろうと、まあきわめて普通の反応をしているだけだ。
そのうえで電子書籍時代が到来するかどうかは、ある意味読者の本に対するフェティシズムに依拠しているのかもしれないという著者の最後の問いかけもまたよく理解できる。愛書家でそれこそ家が傾くほどに蔵書された方が亡くなる。遺族がすることといったら、葬儀やら相続やらのもろもろが一段落すると、古本屋に電話をして蔵書の整理と処理を行う。まあこれが普通だろう。でも本を愛した個人の思いを考慮すると、どうにも処分は気が引ける。
そんなときに蔵書を処分すると同時に断裁、スキャンしてすべてをデジタル化する商売なんかも出てくるのだろうか。蔵書されていた数万冊の本の総てをハードディスクに保存してお渡しします、料金は○○万円ですみたいなこと。所詮本への愛なんていうのものは、個々人の思い入れ、ある種のフェティシズムみたいなものなんだろうから。
ある意味この本に書かれていることはほぼすべてにわたって正しい。新規なものはなにもないけれど、現在の出版業界の置かれているかなり絶望的な状況に対する認識から、電子書籍の現況、そしてその将来にわたって正しく理解できそうだ。ようはこれは商売にもならんだろうということ。
本をそこに書かれたものを情報としてとらえれるならば、グーグルが推し進める総ての出版物を電子化したクラウド上の電子図書館構想こそ、究極の姿なのかもしれないと思う。過渡期としてアマゾンやアップルがビジネスモデルとして隆盛を極めることはあっても、いずれそれは衰退するだろう。最後に笑うのはやっぱりグーグルだろうと思う。なんといっても志というか、目的が高すぎるものね。
 私自身、出版業界についてはきわめてネガティブな思いでずっときていた。長年そこで生きてきた業界がもろに衰退産業であるというこは大変悲しい事実である。片手以上の会社を漂流してきたけれど、幸か不幸か在籍時に会社が跳んだみたいなことは一度もなかった。私が辞めた後でそうなったというのが数社あったかもしれないけど。
定年まで後数年みたいな年齢になって、業界全体がえらい勢いで収縮しているのを目の当たりにしているときに一番に思うのは、やはりエゴイスティックになんとか定年まで持ってくれるかね会社はとかそんなことだ。しかしへたをすると自分のいる会社を含めて、業界全体にえらい激変が走るかもしれないとも思っている。自分のキャリアの最後の最後に、業界の浮沈を目撃することになるかもしれない。なんとも因果な話である。ただの本好き、本屋好きだけでこの業界に足を踏み込んだ、ただのおっちょこちょいに過ぎなかったはずなのにね。
2010年の電子出版元年の盛況のなかで思ったことはそんなことだったし、ここのところ続けざまに電子出版関係の本を読んでもたいてい悲観的な思いでいた。だから本書で山田順氏の語る総てに首肯せざるを得ない。まあ認識としては同じだった。電子出版の総ての前提は紙文化、プリントメディアの衰退につきるわけなのだから。
しかしあの地震があってから、そう3.11以降、なぜかそれとは別の思いを抱き始めている。およそ電子と名のつくもの、ネットを含めた総てのもの、IT技術、我々が享受しているそれらの総体を支えているのは、電力供給なのである。社会、経済、産業のインフラとでもいうべきものは、20世紀初頭より一環して水、電気、ガスといったものに依拠している。
日本を含めた先進諸国、主に北半球の各国は事情は個々に異なるとはいえ、その繁栄の基盤にあるのは概ね、水、電気、ガス等の安定的な供給体制であるはずだ。それが天災によって脆くも崩れるということ。東北地方の広範囲での地震津波被害の燦燦たる有様、被害の甚大さもあるが、それ以上にたった一箇所の原子力発電所の壊滅的被害により、先進国日本の首都圏を中心とした機能、市民生活が大幅に制限されてしまうという現実。
デジタルコンテンツの総てが、ネットを含むすべてのIT産業が、電力不足による停電ですべての機能を停止させてしまうこと。地震津波により総てが失われた地にあっては、クラウドコンピューティングによって蓄積された膨大な情報、ノウハウなどなんの価値もないこと。すべての携帯端末も充電されなければ、なんの価値もなくなってしまうということ。
3.11が突きつけた事実から、私はそうした教訓をも受けた。デジタル技術は一瞬にして破綻する。そのときに利用できる情報はなんなのかというと、結局のところ多少の不便さはあっても、アナログ的なもの、一回性のリアルなライブ的なもの、それらに収斂されていくのではないかと思っている。
活字離れは紙離れであると山田順氏は述べる。だとすればもう一度活字文化、紙文化の復権を改めて謳いあげてもいいのではないかと思う。晴耕雨読ではないが、雨の日中であれば別に電気がなくても本は読めるのである。そして暗くなってしまったら寝てしまうに限るのだ。
災害ですべてが失われても新聞があれば情報を得ることができる。本があれば美的な感動を得ることも、必要な情報を得ることも可能だ。日中の停電であれば、どこにいても本を読むことが可能だ。
3.11によって突きつけられた様々な事柄の中でポジティブなものを見出すとしたら、私のようなプリントメディアで生きてきた者はそうしたことの導き出しくらいにしか想像力がいかない。
ちょうど3.11を前後にしながら私はこの本をそんな思いをもちながら読んだ。