原発事故短観

地震とそれに続く福島原発事故の状況については深刻な思いで受け止めている。ただの市井人としては、どうしても新聞やテレビニュース中心であまり詳しい状況はわからない。仕事や家事に追われているから、情報を読み取ることもこともままならない。いわばこの件に関してはリテラシー能力皆無にちかい。
地震原発事故の初期においては、新聞でも政府の取り組みの遅れとかを批判する論調もあった。野党からもそんな言説があったようにも思うが、事態の深刻さがそれらをすべて覆ってしまったかのようだ。
また政府の被災地支援の取り組みの遅れや不十分をつつくと論調もあるにはあった。政府の取り組みは被災地よりも原発対策がばかりであるとか。確かにそういう側面もあるにはあっただろう。政府も首脳もこうした未曾有な危機に対面していささかパニック状態になっていたのかもしれない。
しかし原発対策と被災地の取り組み、どちらを一義的に、どちらを二義的にということではなく、いずれにもベストを尽くすべきだとは思うが、批判を恐れずあえていえば、やはり原発対策をメインにせざるを得なかったのかもしれない。被災地の方々の状況、お気持ちを考えれば、そうした割り切りは非情かもしれない。しかし、もし地震で大きなダメージを受けた原発が想定する最悪のケースに達すれば、首都圏にまで及ぼす影響は計り知れないものがあるのである。微弱な放射能の影響ですら、野菜だの、水だのでパニックになりかけているのであるから。
その原発事故であるが、その深刻さはどの程度なのであろう。事故とその後頻繁に起こる水蒸気爆発等々、避難地域の拡大、じょじょに拡散され、微増し続けている放射能の数値のもろもろ。なんとなく感覚的に、これは自分の記憶にある原発事故のイメージとしては、すでにスリーマイルのレベルかあるいはそれ以上ではないかと思っていた。そこに出てきたのがこのニュースである。
http://www.asahi.com/national/update/0324/TKY201103240465.html:TITLE
技術的、科学的な数値の話になると、およそ門外漢ではあるが、記事の要旨としては、すでにスリーマイルのレベルを超えている可能性があり、原発に近い地区によっては汚染された状況は、もはやチェルノブイリのレベルに達するというのである。これは深刻の度合いの高さとしては尋常ではないと思う。
原発の事故による汚染は、場合はによっては空中爆発した直接の原子爆弾による影響以上のものもあるらしい。
<広島・長崎には放射能が残っているのかどうか>
http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa12.html:TITLE
チェルノブイリ放射能汚染と原爆の場合>
http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa12det.html:TITLE
それほど原発が事故を起こした場合の被害の大きさが甚大であるということなのだろう。もうこうなると、最悪の状況として首都圏でもかなりの放射能汚染の可能性もありと思っていたほうがいいのかもしれない。そのときどうするか、地方に逃げ出すか。いやどこにも逃げる場所などないし、自分の住んでいる地域でしのいでいくしかないのだろうとも思う。
こんなことなら、もっと真剣に原発の問題を考えていくべきだったのかもしれないなとも思う。自分らの年代はいい、そこそこに人生送ってきたから。でも子どもたちのことを思うと、後の世代のことを考えると、きちんと責任果たしてきていなかったかもしれないという悔いが残りそうである。
原発は安心である。想定する範囲では放射能汚染につながるような事故はありえません。われわれはそうした原発安全神話を軽くうのみにしてきた。いや少々やばいかもしれないけど、とりあえず自分たちの住む周りには作られないし、電気は必要だしと、たぶんそんな程度の認識だったのだろう。
若い時分に多少とも反原発運動みたいなものに少しだけ参加したこともあった。それがメインということではなく、市民運動の一環みたいなことだっただろうか。あのときもっと、真剣に取り組むべきだったのかもしれん。
原発を推進した人々に今度の一件について質問したとしても、たぶん同じような答えしか返ってこないのだろう。原発は基本的に安全に設計されている。そう聞いていました。ただ今回のケースは、ここまでのことは想定の範囲外でしたから・・・・・。
今回の地震、特に3.11から一週間の間には、東北地方で余震が度重なって起きた。そこに共鳴するかのように、長野で、新潟でと地震がおきた。一度、静岡近辺を震源地とするものもあった。地震列島という言葉がこれほど身近に感じられたことはない。
プレートとプレートのはざかいに乗っているのが日本列島である。地震はいつ起きてもおかしくないのである。そこに原発を作り、それが電力需要の何割かを支えているのである。原発は安全に作られている。100年に1〜2度あるくらいの地震にも耐えられるように作られている。ただし今回はその想定を越えたうえに津波も・・・・・。
地震の国で海沿いに作ればそれも想定にすべきだったかもしれん。とはいえ安全にコストをかけすぎては、はなから発電所なぞ作れないではないかと、結局は経済的な範疇に落とし込まれていくのである。費用対効果というやつである。
今回ばかりは民主党政府に対しては少なからず同情せざるを得ない部分もなきにしもというところだ。管のしらじらしいパフォーマンスだの、目が宙を泳ぐような表情など、もはや見たくないとも思う。しかし、彼らもまた想定外の事態に右往左往しているのである。本心としては、「なんで俺たちのときに」と思っているかもしれない。少なくとも私なら思う。彼らはまたこうも思うかもしれない。みんなこれ、歴代自民党政府と財界が進めてきたことじゃないの。なぜそのツケを俺たちが・・・・。
文句をいうな、それが政権交代というものなのだから。政権を担うというのは、そういうことなのだ。前政権の政策からまったくフリーに、歴史的断絶みたいな形ではいかないのが、責任政党による政府のあり方なのである。
翻って自民党の皆さんにも言っておきたい。一度下野したからって、過去の施策からすべて解放されるとはよもや思ってはいないだろうね。福島の原発事故はみなさんが進めてきた原子力行政の結果の一つであることは間違いないのだから。政治における責任はイコール結果責任であるはずだし、どんな政治行動も歴史的連続性から逃れることはできないのである。
今の自民党は過去の自民党政権の進めた政策に対して等しく責任を負わねばならないだろうし、その自民党の分派でもある民主党もまた等しく責任を負わねばならないのだろう。そうなると今回の困難な状況にあっては、それこそ大連立があってもおかしくはないのではないかとも思う。
ただしいずれにしろ全て責任はというと、実は我々国民にあることは間違いないのである。原発政策を容認し、支持し、それに負うところが大である電力を需要してきたのだから。ただし、これからの選択肢としては、とにかく次世代のために責任をもった方向性を選び取っていく必要がるとは思う。
アメリカではスリーマイル以後、新設の原子力発電所はないという話を聞いたことがある。真偽は今わからないが、日本でももう原発は作れないだろうなという予感がある。なんといっても地震列島である。海に隣接していれば津波被害も想定できる。しかし今の繁栄、今の電力消費量を原発なしでどうやりくりしていくのか。結局のところ文字通り、省エネ、節電ということになるのだろうか。あるいはほとぼりが冷めたら、またオール電化のバラ色幻想みたいなことに後戻りしていくのだろうか。