『報道災害「原発編]』

こんなものを読んでいるシリーズの続き。9月の後半あたりに読んだ。それこそ一気に読んだ。
なぜマスコミは震災とそれに続く原発災害において、正しい情報を伝えることを忌避してきたのか。東電や政府、経産省の言うがままを伝えてきた、おそらくその答えが本書なのかもしれない。本書のなかでもさかんに書かれている原発報道における大本営、東電、政府による虚偽を無批判でそのまま広報するマスコミ。その一義的な理由は、記者クラブという特権的な地位に居座ることの弊害なのだろう。フリーな報道、批判意識をもったジャーナリストを一切排除して、官が用意した情報を特権的に享受し、それを広報することに終始する姿勢、それがこの国のマスコミの姿であるということをこの本は暴き出している。
例えば広河隆一は『福島原発と人々』(岩波新書)の中でマスメディアの問題点をこう指摘した。

原発事故報道で、メディアの問題点として、まず東電、保安院、官邸の発言をそのまま伝えることしかしなかったということがあげられる。それは結果的に事故の責任者である電力会社と、原発推進政策をとってきた政府の言い分を、時としてそのまま垂れ流すことにもつながった。P90

同様に本書でもマスコミの原発報道をこのように批判する。

普通の国なら原子力災害時には最悪の事態を想定して国民の生命を守ることを第一優先にしますよ。そしてメディアのほうも東電や政府が隠そうとする情報があったら、「なぜ隠すんだ」と追求するのが仕事なんですね。ところが、日本の場合は東電が嘘をつけば官邸も騙され、そしてそれをチェックする機関であるはずのテレビ・新聞も一緒になって騙される。結果として事故発生から2週間、「安心です。放射能は飛び散るけど安心です。放射能が入った水を飲んでも直ちに影響を与えるものではない」と言い続けた。P94

いったいなぜそうなのか。本書でも比較的冒頭でその解の一つが提示される。それは日本のマスコミが実際に現場に出向いての報道を行わないという実態があるからだ。ようはサラリーマン化した記者たちは、会社から危険のないようにと指示されれば、それを受けて安全な場所にまず批判し、そこから状況報道のみを行うということなのだ。

イラク戦争で言えば、開戦した2003年3月20日、全世界のジャーナリストがバグダッドを目指したわけです。それなのに日本人の社員記者たちは同じ日に全員イラク国外に出たんですよ。世界で唯一、日本の記者だけですよ。「危険なところには行っちゃいけない」なんていうおかしなルールを持っているのは。P56

そしてこの体質は原発報道の初期においてもまんま踏襲される。

日本の報道には「現場感がない」と言いましたが、それにはもうひとつ理由があるんです。日本の報道は権力側の発表を批判することなく「安全だ」と広報してきました。しかし、それには理由があって「安全だ」と報じている人間たちが、実は原発から遥か遠くに逃げているんです。原発事故があった直後に調べたら、朝日新聞は50km圏外、時事通信は60Km圏外に逃げているんです。P54

南相馬から逃げた記者たちが許しがたいのは、自分たちが逃げるんだったら「政府発表の20Kmとか10Kmの批判区域設定は間違っている」と書かなきゃダメだってことなんです。要するに権力側の発表に疑問を持って、紙面で「こんなのデタラメだ。放射能はもっと出ていて危険だ。私たちも逃げている」と、なんで書かないのか。紙面では「安全だ」と書いておきながら自分たちは逃げる。それこそ風評被害ですよ。だって、自分たちが報道と全く逆の行動をしているんだもん。みんな不安になるのは当たり前じゃないですか。P56

なぜマスコミは原発災害の実態をきちんと報道しなかったのか。やはり多くの識者が指摘するように、一大広告主である電力会社の圧力に起因するのか。本書ではその理由をもっとイージーなものだという。

よく、「朝日新聞とか大手メデイアは電事連から広告圧力があって、原発のこと批判しなかったのか?」と聞かれる。私は答えます。いえいえとんでもない。そういう立派な理由じゃない。もっとトホホな理由、ただ単に怠けたとか、勉強してなかった、ラクしてた。P239

実際、ほんまかいなと思わざるを得ない部分もある。しかしたとえば、つい数日前の初公判後に行われた小沢一郎の記者会見で、国会での説明責任について質問して、逆に小沢から公判中に立法権で議論することについて、あるいは三権分立について質問されて窮してしまった記者の姿とかを見ると、あながち記者の怠慢とか不勉強とかは的外れではないのかなと思う。
あの逆質問で困ってしまったのは共同通信の林という記者だったらしいが、少なくとも政治家の説明責任について問う以上、もう少し法律論とかも含めたバックボーンをもっている必要があったんではないか。
なぜ「君は三権分立についてどう思う」と問われたら、まさしく三権分立であるからこそ、政治家である以上、立法府の場できちんと説明する義務があるのだと。司法の場では法に触れたかどうかの事実関係が争われる。それと政治家として疑惑を持たれたこととは別であるとなぜ反論できなかったのか。少なくとも幹事社としてマスコミを代表しているのに、答えに窮するのもなんだろうという気もしないでもない。
しかし、本書でもさかんに宣伝される記者クラブに対峙する組織として著者上杉隆が立ち上げた自由報道協会についても諸手をあげて賛成というわけにはいかない。もちろん原発報道にあたってはかなりの成果をあげてはいるだろう。しかし例えば小沢一郎を巡る報道において彼らが果たしているのは、ほとんどまんま小沢一郎の広報組織みたいな動きでしかないようだからだ。
小沢が逆ギレしたその公判後の記者会見でも、自由報道協会に属する田中龍作なるフリー・ジャーナリストは、小沢の耳に心地よい検察批判めいた質問をしている。「なぜあなたは検察やマスコミから狙われるのか」みたいな。
田中龍作ジャーナル | 小沢氏初公判 第3の検察と化した記者クラブ
まあ見方を変えれば、ある意味どっちもどっちみたいな部分もあるのかもしれない。
ただし本書で指摘されるマスコミの劣化した状況はほとんどが当たっているのではないかと私も思う。だからこそ児玉龍彦氏の国会での参考人としての意見陳述もいっさい報道されなかったのだろう。
また今後についても、3.11以後安全、安全と吹聴し続けてきた自身の報道についての内省、自己批判、検証とかもおそらく一切行われることもないだろうという気がする。
あまり認めたくないことなのだが、本書では日本のマスコミを中国以下とさえ断じている。しかし実際そのとおりなのかもしれないなと頷く部分もあるにはあるのだ。

上杉 そうですね。だから言論の分野で言うと、今や完全に中国のほうが上ですよ。メディアにおいては完全に日本より中国のほうが先を行っている。テレビは70何チャンネルもある。そうした多様性があるってことは、少なくとも可能性があるということですよ。中国版のツイッターも1億人ぐらいがやっています。
鳥賀陽 中国国内からはツイッターSNSへのアクセスは規制されている。それでもいろんな方法でやっている人はいるみたいですね。
上杉 何といっても日本と一番違うのは、中央電視台、新華社、人民日報を作っている記者も、書いている記者も、読んでいる読者も、全員が全員「政府のプロバガンダだ」と了解しているところなんですね。そこをちゃんと認識している。「報道に真実はない」ということをみんなわかっている。だけど日本は政府のプロバガンダをやっていて、政治家も政府も官僚も記者も「政府のプロバガンダじゃない」と思って発表をそのまま書いている。P127-128

結局のところ報道する側もそれを受け入れる一般ピープルにあっても、ようは自覚の問題と、そういうことになってしまうのだろう。