長野に行ってきた

土日の2日、妻の実家がある長野に行ってきた。今年もゴールデンウィーク、お盆ともに家族旅行しているので、正月以来一度も行っていなかったのが第一の理由。墓参りもなんもしていなかったからね。
高速飛ばせば3時間程度でいけるので、今回みたいに土日にぶらりと顔見せにいくのはいつでもできそうなのだが。娘が中学にあがってからというもの、例の部活の活動があるので、土日に家族で出かける機会が去年に比べてえらく減ってきてしまった。土曜日はほぼ毎週午前中が部活だし、場合によっては日曜日もそう。土曜日だというのに親も6時台に起きてきちんと朝食作らなくてはならないし、それはそれで面倒である。
もっとも小学生時代の土日というと、起こさないと11時頃まで平然と寝ていたグータラ娘なので、規則正しい生活ができているという意味ではけっこう有難かった。夏休みとかもほぼ毎日学校通っていたようなものだったし。
そうなるとまたまた家事系も増える。学校ではほとんど体操着で過ごすため、ほぼ毎日洗濯。おまけにワイシャツだかブラウスだかも毎日取り替えのため、これも毎日洗濯が基本。3日に一度はアイロン掛けまでしなくてはいけないし。
などとどんどんと話は日々の家事ごとの愚痴話に落ちていく。なんの話だっけ、そうだ長野へ行ってきたのだ。まあそんなこんなで土日のお出かけもご近所の買い物だけで終了することが何ヶ月も続いているので、妻は毎度毎度どこかへ行きたい、連れて行けを連発している。ここのところはやれ紅葉狩りがどうの。
そういうこともあり、お盆やお彼岸にも行っていないので、ちょっと時期外れっぱなしだけど、墓参りでするかというつもりで長野行きとなった。
土曜日は最初に義弟の家を訪問。まもなく2歳になる甥っ子(でいいんだっけ?)の顔をみてくる。目のくりくりした男の子で生まれてすぐの時も顔立ちのきれいな子だったが、そのまますくすくと育っている。子どもの成長は早いね。
いや〜、このくらいから5歳くらいまでの子どもというのは本当に可愛らしい。普通に町を歩いていてもこういう幼児をみかけるとつい顔がくずれるというか、ついニコニコしている。娘にも「パパは本当に子ども好きだね」とか言われる。
リタイアして、もし余裕があれば保育園とかでボランティアとかしたいなとか思わないでもない。でもまず無理だろうな。体はたぶん動かないだろうし、子育てというか、子どもの面倒見るのが体力勝負だということは体験として身についているから。でもきつかったこと、けっして忘れちゃいないけど、思い出すのは、子どもの可愛かったときのこととか、そういうことばっかりなんだよな。
妻の実家に着いてから義兄や妻の母親と出来合いもので夕食をとる。自分を含めてみな等しく老いていくんだなということを、なぜか再確認する。
翌日は午前中の短い時間、りんごの葉摘みを行う。これはどういう作業かというと、ようは熟してきたりんごに出来るだけ日光を当てるために、周囲の葉を摘むというもの。なぜ日光を当てなくちゃいけないかって、そうしないと着色しないから。真っ赤なりんごにするためには欠かせない作業なのだという。
とはいえこの仕事、とにかく単調なこと、単調なこと。背の届くところから、脚立を使って高所までとにかく摘むべし、摘むべし。えぐるように摘むべし、みたいな感じだ。こういう地味な作業の繰り返しなんだよな、農業って。そしてどれも地味で単調だけど、けっして端折ることができない重要な作業でもある。どれ一つとってもきちんとやらないと、最後の収穫のとき、ようは結果に大きく影響してくる。
作業しながらつくづくこういう仕事はたぶん自分には向いていないのだろうなと考えていた。別にもっと高度な業務だの、知的な仕事だの、などとえらそうなことを言うつもりはさらさらない。実際そんな仕事していないから。でも山っ気、ムラっ気ありありの性格でこの年まできてしまったわけなのである。今さら修正を気かすこともできまい。とにかく地道な仕事、小さなことからこつこつみたいな、積み重ね的なことは難しいねとつい思ってしまうわけだ。
小さな果樹園ではあるが、それでも数十本のりんごがある。妻の母親はその木々を指差して、「向こうからこっちまでみんな私がやったんさ〜」と誰に話すでもなくつぶやいている。「たいへんだった〜」と。70を過ぎた女手が貴重な戦力なのである。しんどい現場でもある。こういうのもある意味では、日本農業の実態の一つでもあるのだ。とはいえだからどうなのということもなく、私に出来ることなんて、こんな風に気まぐれに訪れて半日、ほんのちょっとのお手伝いをするだけということなのである。
2時過ぎに長野を後にしたが、例の高速1000円の影響でも毎週見事に込み合う高速道路である。横川の先あたりから見事に渋滞にはまって、帰宅したのは8時前後だったか。その後はいつものように買出しをして終了した。