20世紀少年<最終章>ぼくらの旗

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用事という用事をぜんぶすませたのが6時頃。疲れてもいたので早々に帰ることにする。あっ、移動は車です、当然。やっぱり車椅子押して電車で新宿来る根性はないから。車は高島屋の駐車場に入れておいて、その周辺をうろうろしてました。それで寄り道しないで鶴ヶ島まで戻ると思いの他早くに帰ってきていて、時刻は7時ちょい過ぎ。1時間と少々で戻ってきた。これって電車なんかより圧倒的に早い。別にとばしてきたわけでもなく、普通に明治通りから目白通りに入って関越のって戻ってきただけなんだけど。道路が空いていると、鶴ヶ島もそれほど遠くはないのだなと思う。
7時台に帰るとなるとなんとなくこのまま帰るのはもったいなくなる。先週公開してすぐに妻が観たいといっていた「20世紀少年」の最終章でも観るかということになる。携帯サイトからワカバウォークにあるシネプレックスわかばの公開スケジュールを調べると最終回が8時10分から、楽勝で間に合う。娘もみたいというしそれじゃあということになる。
20世紀少年」の映画の出来とかに関してはあまり多くは語る気もない。この映画を観るのは、これは前にも書いたけどある種のイベントみたいなものだと思っている。とにかく原作コミックに忠実に忠実にというのがコンセプトの映画である。とはいえ原作は全22巻だか23巻もの長大なコミックだ。とにかくストーリィを追うのに精一杯なのである。全3部作で総制作費60億とかいう話らしいが、そういう巨額の金をかけて作ったのはコミックの映像版ダイジェストみたいものである。
最終章ではいよいよ「ともだち」の正体が明かされる。それも最後のラストタイトルロールの後に。すでに観た人からもその話を聞かされていたし、テレビとかでもさかんに喧伝されていた。チケットを買う際にもタイトルロールの後にもまだありますので席を立たないようにと案内されたりもする。
そういうエピローグでなにが描かれるかというと、これがまた見事な「21世紀少年」の映像ダイジェストなのである。「20世紀少年」がああいう形で終わったために、様々な不評が出たために謎解き的な形で「21世紀少年」が書かれたという話を聞いたことがある。それでも最後の最後まで「ともだち」=○○○○君というところは、たぶんそうじゃないかなみたいな思わせぶりな表現だったようにも思う。
それが映画となるとより明快な形をとることになる。もう完璧に○○○○君と言い切ってしまっている。でもね、映画でそれをやるとこれはもう謎解きとしては完全に掟破りである。ほとんどまったく登場してこなかったような人物がいきなり真犯人みたいな感じなのである。映画だけしか観ていない人にとっては、なんだこれ的な印象もたれないだろうかと、ちょっと心配である。
そして最後に思うのだが、コミックには昭和30年代から40年代に少年時代をおくった者のノスタルジイとか、まあ様々なものが注ぎ込まれている。単なるSFではない部分もあるのだが、映画は原作のストーリィに忠実でありつつ、より簡略化させてしまっている。そのため最終的にこのお話は、なんていうのだろうある種の教育的な訓話みたいなものに落ち込んでしまったようにも思う。
「いじめ」はやめましょう。「いじめ」を受けた人はそれがトラウマとなってしまいます。その結果人類を滅ぼすほどのゆがんだ人格形成をしてしまいます、みたいな。さらにいえば、過ちをおかしたら、素直に謝りましょう。そうすれば誰かがを必要以上に傷つけたりすることもなく、そのことをずっと抱えたまま生きていくこともないでしょうみたいな。
なんかね、もちろん一つの材料としてはあるのだと思うよ、子どもの残忍さとかそういう部分も。でも「いじめ」みたいなある種の表層部分だけを主眼にして描くと、どうにもこの長大な、そこそこに読者を引き込み、飽きさせない魅力的なコミックが、なんていうか皮相で、しょうもないお話に貶められてしまうような気もしてならないな。
こうやって書いてしまうと、どうにもこの映画に対して酷評していることになってしまうけど、それでもこの三部作はそこそこに面白かったとは思う。とりあえず三作とも封切りしてすぐに観に行っているのだからね。
だけどもう一言、二言。あのラストの万博会場でのコンサートシーン。コミックでは結局ケンジは例の「グータララ」を歌わなかった。

結局、あの曲はやりませんでした。

これが作者浦沢直樹のこだわりなんだと思う。ケンジは大音響のロックを新曲を3曲だけやってステージを降りる。そこんところにロックンロールへのオマージュというか、こだわりを感じたんだけど、どうだろう。それが映画はいきなりロック版「ぐーたら」をやって感動のフィナーレみたいなことになる。ここは違うのだとやっぱり思った。
そして最後のもう一つ。これはもう本当にどうでも良いことなんだが、常盤貴子のバストはとても豊満であるということ。彼女がカンナと最後に向き合って話しをするとき、この人こんなに胸大きかったっけと素直に思いました。別に平愛梨との比較でそう感じたわけでもなく。映画的にはちょうど佳境というかグランドフィナーレに向かって一気呵成にみたいな流れなんだが、こっちは何観ているんだか。駄目だなオヤジは。