東武ワールドスクウェア

二日目は、午前中に霧降高原をちょっとドライブ。今シーズン、スタッドタイヤが役立ったのはここだけ。それも数百メートルだけ。風が強く、ただただ途中まで車で行きそのまま戻っただけ。なんだかスキー場も閉鎖されているようだったね。やっぱり雪が少ないといろいろあるのだろう。
その後は鬼怒川の東武ワールドスクウェアへ行く。
http://www.tobuws.co.jp/default.htm
ここも実は大好き。娘もここは気に入っていている。大きなおもちゃ箱、箱庭みたいな感覚なんだろう。前回来たのは確か3歳くらいだったのだが、けっこう覚えているようだった。園内はそこそこ広いのでいちおう妻用に車椅子を借りていたのだが、途中から妻は歩くと言い出して。半分くらいの行程は歩いた。風が強く、肌寒い中ではあったが、2時間くらい家族で楽しむことができた。
ここは世界中の有名な建造物、遺跡を1/25スケールで再現、展示してある。ちゃちい模型といってしまえば、それまでのことではあるけれど、精巧に再現された建造物はどれもそこそこに赴きがある。
それこそ何十年、何百年もかけ、多く労働力が投下されて作り出されたそうした建造物のことを思うと、けっこういろんなことを考える。寺院など宗教建築物がほとんどなので、やっぱり宗教のもつ偉大な力とその愚かしさみたいなことも思う。それこそ天文学的な資金、労働の投下を必要とするこれらのモニュメント建造のモチベーションはまさしく宗教的な熱狂の産物ということになるんだろう。
さらにいえば、その宗教的権威を背景にした政治的権力。やれ国王だの、法王だのという存在。それらが恣意性のままに自己の権力を誇示するためだけにこうした建造物を作り出したんだろう。そういう愚かしさが凝縮されている巨大な建造物に、現代のわれわれは感動すら覚えてしまうということなんだろうな。
世界遺産の多くが、実はそういう愚かしさの産物なんだろうとは思う。それを現代のわれわれはやれ人類の英知の結晶のごとく有難がるわけだ。でもこういう建造物の背後には様々な人生があったんだろうなとも思う。たとえばサン・ピエトロ大聖堂には18人の教皇が関わっているという。なかにはこの建造だけに追われた教皇だっていただろう。あるいはもっと市井の民にとってはどうだろう。何十年、何百年もの間、たとえばひたすら代々石積みだけをやっている職人一家なんていうのがいくらでもいたのだろうなどと想像する。たぶんそういう人々からすると、その仕事の目的性なんていうことを問うのは無用なことだったのだろうな。「我石積み故に、我あり」みたいなアイデンティティって・・・。
建造物にもやっぱり好みとかいろいろあるようで、個人的にはやっぱりガウディのサクラダ・ファミリアは好きだな。いつか実物を観にいきたいとつねづね思っている。圧倒的な意匠の面白さということもあるけど、なんかあほらしい感じすらするのだよね。それと今回一番なんか考える部分もあったのは、実はこれ。
 もはや失われた建物であるということ。そして9.11の記憶が蘇ってくることとか。やっぱりあの日を境にして世界が変わっちゃったということとかを脈絡なく考えてしまうくらなんだろうな。それはそれとして、このモニュメントにどうせなら飛行機突っ込ませてみたらなどと言ってみたら、傍らにいた妻からそれはあまりに不謹慎とおしかりを受けた。
まあ、パレスチナ東武ワールドスクェアがあれば、そういう意匠もありそうだなとも思う。所謂アメリカ帝国主義への鉄槌の象徴としてというところだろうか。