そしてアート・バックウォルドが死んだ

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http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200701180403.html
81歳、すでに過去の人だったのだろうが、この人のコラムには本当に楽しませてもらった。文春から何年かに一度発売される『バックウォルド傑作選』はとても楽しみにしていたものだ。政治コラム、政治風刺、上質なパロディというものがどういうものかを、教えてもらったようにも思う。
この人のことをなんで知ったのかというと、学校を卒業して初めて勤めた書店でだったと思う。文芸書の担当になってすぐの頃だった、入荷した新刊書をバックヤードで手にとったのが始まり。そのタイトルよりもお馴染みだった和田誠の装丁、イラストでどんな本かと目次に目を走らせた。そして最初のコラムを走り読みしてモロにはまった。政治風刺が中心だから時代的な限界もいろいろあるから、今となるとあんまり面白くないものもあるけれど、この最初のコラムはある種時代を超越した面白さをもっているようにも思うのだが、どうだろう。少し長いけど全文引用してみる。

六分間ルーヴル
スポーツマンならだれでも、ルーヴル美術館で必見の陳列品は三つだけ、すなわち「翼ある勝利の女神」と「ミロのヴィーナス」と「モナ・リザ」だというだろう。それ以外の彫刻や絵画はこのビッグ・スリーを引き立たせる飾りにすぎず、ほかに見るべきものが山ほどあるパリにいながら、ルーヴルで時間を浪費するのは利口ではない。
ルーヴルがこれらの美術品を入手して以来、世界じゅうのアマチュアたちがその鑑賞に要する時間を短縮すべく努力してきた。戦前の世界記録保持者は、全コースを七分三十三秒で走破した三人のスカンジナヴィア人だった。この記録は1935年に、ウェールズ人の妻をペース・セッターにして、七分フラットで回った英人マーゲンセイラー・ウェイズリーウィローによって破られる。ウェイズリーウィローは第一回のトライで六分四十九秒という記録を出したが、「ミロのヴィーナス」を完全に一回りすることを忘れたために失格した。
1938年にいたって、「スウェーデンの韋駄天」と呼ばれたストックホルムの男が、スニーカーを採用して六分二十五秒という新記録を樹立した。
この記録は戦時中ずっと保持され、戦後の「スウェーデンの韋駄天」に対する挑戦は1947年ににはじめておこなわれた。このときはヨーロッパにおける旅行制限のために、アメリカ人がコースを独占した。アメリカに最初の栄冠をもたらしたのはオクラホマ出身のテックス・ヒューストンで、記録を二秒短縮した。1949年にはマイアミ大学オハイオ州>のトラック競技の花形選手が六分十四秒という新記録を立てた。1951年にはオーストラリア人が六分十二秒という新記録でタイトルをアメリカ人から奪った。
このころにはだれもが六分間ルーヴルについて噂するようになていた。科学者たちはなめらかな床と、理想的な照明と、無風という完璧な条件が揃えば、この大記録の樹立は可能であろうと予言した。しかしそれから四年間はだれもオーストラリア人の記録を破ることができなかった。
やがてある日曜日のこと、わたしは一人のアメリカ人観光客が記録に挑戦するという噂を耳にした。彼の名前はピーター・ストーンといい、すでに数回トライしたものの失敗に終わったという経歴を持っていた。ミスター・ストーンはその有名な言葉を多くの雑誌や新聞に引用されていた。「翼ある勝利の女神」を一時間にわたって観察したあとで、彼はこうのたもうたのである。「こいつは飛びそうもないね」
彼はまた、『モナ・リザ』を眺める一群の観光客を前にして、「おれはこいつのオリジナルを持っているやつを知っている」と大声でいったために、ルーヴルから追い出された経歴を持つ人物でもあった。
ストーンは専属トレーナーを一緒に連れてきた。彼は特別製のインドア・トラック・シューズをはき、少しでも負担を軽くするためにポケットをからっぽにしていた。テストに日曜の朝を選んだおかげで、いくつかの利点に恵まれた。一つは入場切符が不要なために、切符売場で貴重な数秒を失わなくてもよいことだった。
もう一つは日曜の朝のルーヴルがいたって閑散としていて、ほとんどの部屋に邪魔者がいないことだった。あらゆるルールに従うために、ストーンはタクシーからおりて運転手を待たせておかなければならなかった。それから館内に駆けこみ、コースを一巡して、ふたたびタクシーに戻っる。タクシーは公式計時が開始される前に歩道の縁石から四フィートはなれていなければならない。アメリカン・エクスプレスとトーマス・クック・アンド・サン旅行社と、フランス観光局の計時員が立ち会った。
ストーンはトレイナーから最後の指示を受けた。
「なにはともあれ、『サビーヌの凌辱』には近づかないようにしろ、さもないと新記録は難しいぞ」
ストーンはルーヴルが観光客用に入口に用意している松脂の箱にトラック・シューズを突っこんでから、タクシーに乗りこんだ。やがて号砲一発、彼はタクシーからとびおりて館内に突進した。ルールでは走ることが禁じられており、挑戦者は歩くことを義務づけられていた。彼はまっすぐ前方に視線を向けながら、ドノンの間を急いで通りすぎた。ダリュ階段の下で、「翼ある勝利の女神」にちらと一瞥をくれて左に曲がり、短い階段を二つおりて円形広間を抜け、一直線に「ミロのヴィーナス」に向かった。ヴィーナス増を完全に一回りしてから「翼ある勝利の女神」のほうへとってかえし、ローマとギリシアの古美術陳列室を通って近道をした。「ミロのヴィーナス」までの所要時間は一分五十ハチ秒という好タイムだった。
ストーンは階段を一度に二段ずつのぼって、「翼ある勝利の女神」の前で二秒間立ちどまった。それから先は二つのルートがあった。まずナポレオン一世の戴冠式がおこなわれているダリュの間を通るか、イタリア派の作品が展示されている七巨匠の間を通るかである。彼はダリュの間を選び、ナポレオンの絵の前に一秒間だけ足を止めてから、「モナ・リザ」が待っているグランド・ギャルリーへと急いだ。三十秒後にはこの絵の前に達していた。ルールによれば、挑戦者はこの絵についてなにか観光客らしい月並みな台詞を口にしなければならない。
ストーンはいった。「この絵のどこがいいのかさっぱりわからんよ」それから、くるりと回れ右をして今度は七巨匠の間を通り抜けた。大急ぎで階段をおり、帰りは「翼ある勝利の女神には目もくれずドノンの間を通り抜けると、レオナルド・ダ・ヴィンチと発音する間もあらばこそ、通りを出てタクシーに乗り込んだ。タクシーが走りだすと同時に号砲が鳴り響き、ストーンのタイムは五分五十六秒の世界観光新記録と認定された。かくて栄誉はアメリカに奪回された。
この快挙を記念する広告に彼を使いたいという雑誌や旅行社からの申し入れを断って、ストーンは謙虚にも栄誉の大部分をトレイナーに与えた。
「わたしがつぎに狙うのはローマのサン・ピエトロ寺院です」と、彼は独占インタビューで語った。「そしてそのつぎは−そうだな、ロンドン塔にでも挑戦してみますか。四分以内では無理だといわれてますが、ま見ててください」
新チャンピンオンは母親の肩を抱き、カメラマンたちが写真を撮りはじめた。
『だれがコロンブスを発見したか バックウォルド傑作選1』文藝春秋社刊 P15

冷戦時代の初期、ドルの一人勝ちだった時代、ヨーロッパにはアメリカの刊行客が大挙訪れていた。パリにはアメリカのお上りさんがゾロゾロしていた。そんな風潮をシニカルに描いたんだろうなという作品だ。「パリのアメリカ人」や「ローマの休日」の時代。このコラムももはやクラシックなものなんだろうな。
バックウォルドの作品は以下のサイトに詳しい。
http://homepage1.nifty.com/ta/sfb/buchwald.htm