ふじみ野市長のおとしまえの中身

これももはや本当に旧聞に属するものになってしまったけれど、ふじみ野のプール事故の顛末。一部には市長の辞職説とかもあったのだけれど、予想した最悪の顛末模様になってしまった。プール事件の刑事責任として、教育委員会職員2名及び委託管理会社の代表者2名が業務上過失致死罪で書類送検されることなったというのにこの市の首長はその責任を高々六ヶ月の減俸処分を自らに科すだけで処してしまったというのだ。

<埼玉プール事故>
ふじみ野市幹部を減給

 埼玉県ふじみ野市議会は30日、市営プールで小2女児が吸水口に吸い込まれて死亡した事故を受けて、島田行雄市長の給与・賞与を半年間50%減額などとする改正条例案を賛成多数で可決した。12月1日に施行し、具体的には▽市長367万1583円▽助役192万3472円▽教育長182万1893円が減額される。
毎日新聞

よくぞここまでの処分を自らに科したと喝采すべきか、罪人が自らを罰するということはこういう甘い舐めきったことをすると皮肉の一つでもいうかは・・・・、「自由だ!」とでも叫べばいいのか。いずれにしろこれで幕引きしようってことなんだろうな。
長きに渡って危険なプールを放置して利用する市民の安全を脅かし続けたこと、その結果としてたまたまあの日偶然遊びに来ていた所沢の小学二年生の娘さんの命を奪ってしまったこと、その刑事責任を問われて市の職員2名と委託管理業者の代表者2名が送検されるにまで至ったことの政治責任が六ヶ月の減給なのである。「舐めたマネしてるんじゃないですか」と心底思う。でもこいつら、首長、助役、教育長という小役人どもからすれば、たまたま巡り合わせでこういうことになっちゃっただけっていう感じなんだろうな。心理状態としては、いじめで生徒が自殺しちゃった学校の校長とか、所属警察官が不祥事起こした時の県警本部長なんかと同じ、「あちゃー、なんで俺ん時に」とか「これで上、あがる目がなくなっちまった」っていうところなんだろう。ようするに彼らからすれば、自らに降りかかってきた災難程度にしか思っていないんだろうということだ。
ストレートに思う。自らが立ち上げた事故調査委員会のあの不完全な調査報告書ですら、ずさんの連鎖とまで指摘したプール管理の実態、それにより将来ある子どもの命が奪われたのだ。この事故は、蓋然性に支配された単なる偶発的な事故ではなく、いつか必ず起こりえる事件だったのだよ。
どこかの市会議員が上尾の保育園で起きた熱中症で園児が死んだ事故と同列にして論じていたけれど、これはそういう問題じゃないんだと思う。熱中症であれば個人差とかいろいろの問題がある。気温が40度でも死に至ることがなかったり、逆に25度だって死ぬこともある。でも今回のプール事件は、針金で防護柵を固定するというずさんな管理を10年近く続けていたのだ。針金は塩素系のプールの水で腐食劣化する。あの日のように柵がはずれれば、その場にいた誰でもが吸水口に飲み込まれるのはもう必然的なわけ。あのプールはね、人を飲み込む殺人プールだったんだ。それをずっと放置してきた責任がおざなりの減給なのか。
今回送検される市の職員は、1月の移動で着任した旧上福岡の職員だという。まあ、だから同情できるかといえばそんなことはない。それが役人というものだ。しかしだよ、最高責任者として減俸処分を決めた市長、助役はたしか旧大井町系だよ。市長は旧大井町の町長を数期努めていたし大井プールの着工時も町長だったはずだ。助役もずっと大井の職員だったはず(このへんは詳しく調べていないから違う部分あるかもしれない)。これでこの処分はないだろうというのが率直な思いだ。
まず政治・行政責任として辞職する。それが第一だと思う。そのことにより、とにかくずさんの連鎖を断ち切る。これが市長の生きる道だと思う。そのうえでさらに道義的責任をとるべく、仏門に入るとか、私財を投げ打って、プールの安全管理のためのシンクタンクを作るとか、まあなんでもしてくれ。とにかくまず辞職して政治責任にけりをつけてもらいたいとつくづく思う。
例によって今回の処分の件を各市議のブログから。
山川市議
http://sumizumi9.tea-nifty.com/yamakawa/2006/11/post_a248.html
鈴木啓太郎市議
http://www.keitarou.info/klog/index.php?e=334
民部佳代市議
http://blog.livedoor.jp/mimbu_kayo/archives/50966526.html
山川市議はふじみ野市議会唯一の野党、共産党だから趣旨は明快そのもの。市長の責任の取り方として今回の減俸を批判する部分では私も単純同感だ。
それに対してやや複雑なのは、民主党系の鈴木市議と民部市議だろうな。鈴木市議はわざわざヤスパースまで引用してみせているけれど、論旨はおよそ不鮮明だ。プール問題の専門家有田一彦氏を招いて開いた学習会での有田氏の発言の一部分を最大限に強調して「責任はこの問題に関わったすべての者にあり」論をふりあげている。私などはそれこそがまさしく責任問題を不鮮明なものしてしまう、「一億総懺悔論」だと思うのだが、鈴木氏はそれに気づかない。いや彼も政治家だから気づいていても自分に都合の悪い言説はあえてふれないのだろう。
鈴木氏はヤスパースの言説をこう引用する。

戦後日本が「総懺悔」論で、実際の戦争犯罪を免罪したり、天皇の責任論をも回避してしまったのにたいして、ヤスパースは漠然とした国民の罪(ナチスを成立させた罪)のような考え方を拒否して、各自が負っている罪の内容を、刑法上の罪、政治上、道徳上、形而上学的なそれに概念を分けて論じ、法や政治の場での清算が可能なものと、個人の良心の内面で自問し続けることの両立を可能にした。

ヤスパース政治責任や法的責任と道義や倫理的責任を明確に区別して論じた。ようは政治家の政治責任を例えば選んだ側の有権者一人ひとりの責任と同列にして曖昧にすることを避けようとしたのだと思う。その対極にあるのが「一億総懺悔」だ。
有田氏は今回のプール問題の責任を「関わった者すべてにある」と語られた。しかし、このブログにもコメントを寄せていただいたけれど、「責任は関係者みんなにあるが、そのオトシマエの付け方はそれぞれの権限や社会的な位置によって異なります。」と補足されている。そのうえで有田氏は問題解決・再発防止は市長や教育長の責任でと続けられているが、ようは問題になっているのは市長の政治責任、行政責任の取り方についてなのだ。
鈴木市議はいう。

私は総懺悔を言いたいのでも求めているのでもない。われわれも議員として「かかわった」一人であるのだから、その道徳的、形而上学的な内省に踏まえて、送検された職員の方にも、社会的な制裁や批判を甘んじて受けようとしている市長にもエールを送りたかったのである。

「社会的制裁や批判を甘んじて受けようとしている市長」、本当にそうか。社会的制裁や批判への対処が減俸6ケ月なのか、そこのところが私の感覚とはずいぶんずれているような気がする。
聞けば島田市長はなかなかの人格者で高潔な人柄だとの話だ。ロックバンドを作ってベースを担当したりするなど、なかなかの好人物なのだろう。今回のプール事件では相当に心痛を重ねているのだろうことは想像できるところでもある。でもそれらは一私人としてのことだ。公人としての市長はいったい何をしてきたか。プール事件以後の市議会の顛末にしろ、不完全な事故調査委の報告にしろ、みんなこの人がまいた種だろうと思う。あるいは取り巻き連中が悪いのだろうか。
さらに思うのだが、プールのずさんな管理を放置してきた結果、一少女の命を奪うことになってしまった事件、それによりふじみ野市およびふじみ野市民が蒙ったネガティブなもろもろ、それに対してこの市長は真摯に自分の言葉で市民に対する説明責任を果たしてきたのか。彼の口から市民に直接謝罪の言葉が表明されたのかどうか。
各市議は日々議会で市長と近しく接している。だから市長に対しての温度差もそれぞれだろうが、そこそこ親近感をもったりもするのだろう。でもね、市民は、有権者はぜんぜん違うのだ。市長はお役所のトップであり、政治家なんだ。鈴木市議は簡単にエールを送るんじゃなく、もっと市民、有権者の側に立った形で是々非々の姿勢をとってもらいたいものだ。市長や役人とお仲間意識持った市議など必要ないじゃないか。それともだ、鈴木市議の支持者はみんな市長や市職員にエールを送っているとでも思っているのだろうか。
なんとなくだが、今回の市長、助役、教育長の減俸処分で幕引きというレールを無理やり引こうとするのが見え見えの感じがする。鈴木市議のブログでは続いてプール事故調査委員会が市議会に設置されることが決まったという記述がある。
http://www.keitarou.info/klog/index.php?e=342
調査事項は以下の二つ。

①大井プール事故の再発防止の提言
②市公共施設の安全管理対策についての提言

事故の原因究明はやっぱり蔑ろにされてしまったようだね。市公共施設の安全管理対策についての提言は、やっぱり予算のぶんどりやりたいからなんだろう。最もふじみ野にはとうぶんプールは設置されないだろうし、安全管理対策に予算をもってこようにも赤字自治体に転落してしまったこの町では端から予算もないだろう。
この幕引きの根底には、市長にしろ、市議会議員にしろ、プール事故はすでに風化しているという認識、さらにはこの件は票にならないっていう意識があるんじゃないかなと思う。