長野へ行ってきた

妻の父親が11月に入院した。足腰が急速に弱まったこと、手足にしびれがある、若干ボケがきているという理由だった。76歳だからそこそこよい歳だ。なにがあっても不思議ではない。その後の経過では、小さな脳梗塞の後が見つかったという診断もあったらしい。入院直後から環境の変化のせいか急速にボケた状態になったらしく、認知症が進行している疑いもあるのだという。
老人が入院すると急にボケが進むというのはよくある話だ。20年近く前の話だが、その頃面倒みていた祖母が足の骨折で入院した時も、入院とそれに続く手術の後には急にボケがきた。ちょうど昭和天皇が逝去した時分であったので、そのことを話してもほとんど反応がなかった。三つ違いのまさしく同時代人だったから、普通であればそれなりの感慨があったであろうに。もっともこのボケは一過性のもので、その後は急速に回復した。早く良くなれば家に帰れるよと励ますと、九十を過ぎていたのに周囲が驚くほどリハビリを頑張っていた。しかし数年前に一度逆の足を骨折してもいたので、自立歩行は難しいようだった。
その頃は兄と私の二人で祖母の面倒をずっとみていた。兄も私も三十をゆうに越えていたけれど独身だったから、日中はヘルパーに祖母の面倒をみてもらっていた。祖母は春から秋にかけてはそこそこ自立歩行ができていたのだが、冬が近づくと寝たきりになった。トイレが間に合わず粗相することもあったし、寝床に尿瓶や簡易便器を置き、朝になると中のものの始末をしたり、祖母の下半身をきれいにしてやること日課になっていた。骨折するのはたいてい夜中にトイレに一人で立とうとして転倒してのことだった。
ある部分心中暗鬱たる日々だったような気がする。ただこの時の経験があるから、今現在なんとかなっているのかなとも思う部分もある。ただし人生のバランスシートからいえば、かなり若い時に介護を経験していたから、自分にはもうこの手の債務は終了しているという風に思っていた。同居していた父親はすでにその頃には他界してもいたから。
祖母はそこそこの回復を見せていたけれど、一度転院させた。その間に福祉事務所に詰めて特養老人ホームのあてを探した。なんとか半年先には入所可能ということになったのだが、急に空きができたのですぐに入所できることになった。ずっと早く良くなって家に帰ろうと言ってきたのに、老人ホームに入ることになったので祖母にはずいぶんと恨まれた。しかしほぼ毎年転倒して骨折を繰り返していただけに、男所帯での介護はもう限界だったのだとは思う。
ある意味では、自分の人生の中でもけっこうしんどい時期だったようにも思う。年齢的には三十そこそこ。仕事にも本腰入れて取り組みたい時期だった。つき合っている女性も当然いたけれど、結婚など考える気にもならなかった。祖母の面倒をみるということがいくつかの場面で障碍となる部分も心理的にはあったのだろうという気がする。
祖母を老人ホームに入れるとすぐに私は念願だった出版社に転職した。週に一度は徹夜するような激務もあったが、それなりに面白おかしい時期を過ごすこともあった。一生のうちで最も仕事らしい仕事をしたのはたぶんあの時期だったのかしらんなどとは最近思うところだ。
話は脱線した。父親が入院したという話を聞いて以来、妻は父親の見舞いをしたいと言い募るようになった。とはいえ見舞う自身がまだまだ半病人みたいなものだ。父親が重篤ということなら駆けつけなくてはとも考えていたので、長野に住む義弟に電話をすると、現段階では検査入院みたいなものだからそれほど深刻でもないからわざわざ埼玉から妻を連れて見舞う必要はないという。そういうことだったので、正月に顔見せにいけばいいぐらいに考えていた。
しかし妻はもう毎日にように今度の土日は長野へと言ってばかりいた。例の出かけたい病だ。しかも病気以来、この手の一度言い出したらずっと執着するということがひどくなってもいる。箱根の小旅行もあり、出来ればさけたかったのだが、それでも一応親を思う部分もあるのだろうとも思い日曜にとんぼ返りで見舞いにいくことにした。もう関越を平均130キロ強で、二時間前後で走った。道路空いてたこともあるけど、けっこう最高記録じゃないかとも思えるスピードだった。
中野市内にある病院で見舞った義父はこちらが思った以上に重篤な様子だった。昼夜逆転しているということらしいのだが、ほとんど眠った状態。看護師や医師の呼びかけで目を覚ましたので、私や妻、娘が呼びかけると生返事はするのだが、けっして目を開けようとはしなかった。認知症、しかもかなり重い状態というのが、率直な印象だった。医師の話では今のところ原因不明という。なにかこのまま原因不明なまま、なんとなく年齢上の問題にされて、自宅療養ということにでもなりかねないのではとも思った。そうなると介護保険によるサービスはあっても、介護の大半を老いた義母がおこなうことになる。なんとなくだが、けっこうシビアな介護生活のイメージを想定してしまう。
妻は父親の変わり果てた状態を目にしても泣きもせずけっこうたんたんとしている。「おいおい、君が会いたがっていた父親なんだぜ」と思う部分もなきにしもなのだが、妻の感情の起伏の無さは、ある意味妻の病気のせいなんだろうなとこれも疑っている部分も実はあるのだ。脳の右部分とともに頭頂葉、そして前頭葉もやられている妻なのである。このたんたんとした一本調子の様子は病気になる前にはなかったことだし、個人的には前頭葉をやられていることの影響なのではとも思った。
さらにいえば、娘も自分の母親のことで経験値があるのか、祖父のひどい状態を目の当たりにしても普通にしている。小学三年生だというのに。もはやこの娘にとっては病気や入院といったことが日常的なものとして普通に受け入れられているのだろうなとも思った。
とりあえず朝、娘がスイミングスクールから帰ってきてからの出発だから11時過ぎ。それから12時間後の夜の11時に家に戻ってきた。