子どものいじめについて

福岡の三輪中学の男子がいじめを苦にして自殺して以来、いじめ問題が世上を騒がしている。あたかも同じ福岡で起きた飲酒による暴走車に追突されて幼い児童が亡くなった事故以来、飲酒運転に対するアンチキャンペーンが燎原の火のごとく広がっていることに似た現象となりつつある。飲酒運転の次はいじめみたいな感もある。マスヒステリーの一種なのかもしれないななどと思うこともある。
いじめ問題については、小学生の娘を持つ親としては切実な問題でもある。子どもがいついじめの被害者、あるいは加害者になるかということへの危機感を常に抱いている部分のなきにしもだ。子どもと話していても、やれ○○君から意地悪されたなどという話を聞くたびに、すわいじめかみたいな過剰反応をするところもある。だから子どもの発するシグナルに出きるだけ敏感にありたいとは常々思っているところでもある。
でも子どもが実際にいじめの当事者となった時に親としていったい何ができるかというと、なかなか想像力が働かない部分もあるなとは思う。でもたぶん自分は出来うる限りのことをしたいとは思う。こういうのもやっぱり危機管理意識というものかなとも考えるところもある。
それにしてもこの三輪中学のいじめ事件、かなり深刻な問題がありそうだ。男子へのいじめを集中して行っていた7名の男子グループは、男子の自殺後は別の男子を標的にしていじめをはじめていたということが新聞記事にもなっていた。自分たちがいじめたことによって人が一人死んだことにも衝撃を受けることもなくいられるほど、この子どもたちの精神は荒廃してしまっているということなのだろうか。
http://72.14.235.104/search?q=cache:FK7DS3ouXKQJ:www.asahi.com/national/update/1103/SEB200611030003.html%3Fref%3Drss+%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E3%80%80%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%81%E3%80%80%E8%87%AA%E6%AE%BA&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=6
今回の事件によって、いじめをゆるさない社会が形成されていけばいいとは私も思う。でも、実のところはいじめは多分けっしてなくならないだろうというペシミスティックな考えもないではない。なぜか、それは子ども社会が実は大人社会の縮図であるからだ。子どもたちだけに、いじめは絶対してはならないこと、他者への思いやりをもつことが必要だと訴えてもあまり意味がないのではと、逆説でもなく切実に思う部分もある。
我々大人の生きる社会を振り返ってみればはっきりしていることがある。他者への思いやりだの、互助精神などが今の世の中にあるのかどうか。効率性からもれていく人々への冷徹な切捨て、リストラとうな名のいじめが横行している現実、弱者を切り捨てることによって成立している格差社会を目の当たりにしていれば、子どもたちが自らの小さな社会=学校で同じことをより直裁な形で行動したとしても、それを理屈のうえで納得させえるだけのものが我々の側にあるのかどうか、それを考えるとけっこう憂鬱になってしまう。
実際、我々の生きる社会では様々な小さないじめが蔓延している社会でもあるのだ。それは会社とかでの我々の行動を翻ってみれば、けっこう思い当たることが多いのではないだろうか。そう、小さな他者への嘲笑、哄笑、あざけり、直接的な暴力がないだけで、けっこうシビアに他者を傷つける行動、行為にあふれているのではないだろうか。
それでもやはり子どもたちには、他人を傷つけてはいけないことを、他者を思いやることを時間をかけて、繰り返し繰り返し教えていかなくてはならないのだとは思う。繰り返し、繰り返し語りかけることで、刷り込むようにして子どもたちの精神に根付かせる以外ないだろうという気もする。
それとつくづく思うことなのだが、実際いじめで我が子を亡くした親御さんのお気持ちというのはどうなのだろう。もし自分がそういう立場になったら、我が子の自殺などということは想像するだに身震いして端から否定してしまいたいようなおぞましいことでもある。でも、もしそんな悲劇が訪れたら。自分は多分、理由はどうあれいじめを黙認(結果として)した学校なり、教師を絶対には許さないだろうと思う。そしてまた直接的、間接的に我が子をいじめぬいた子どもたちをも絶対許すことはないだろうとも思う。そこにはどんな綺麗ごともない。再発防止など、ちゃんちゃらというところか。たぶんそんなことはあり得ないと思いつつも、私の想像力の中で想定できるのは、過剰で押さえの利かないルサンチマンが沸点に達しているだろうなということだけだ。