https://www.netflix.com/jp/title/80146301
Netflixで配信されていたので、2~3日前に一気見してしまった。
もともとは確か2012年頃にテレビで放映されていた。雑誌やオンラインでの連載は2010年頃だったか。日常系脱力モノの一つだったと記憶している。その頃、多分中学生だった子どもの影響だったか、その手のものに妙に嵌っていてあらゐけいいちの『日常』などと共にコミックを全巻揃えたりしていた。アホなジジイである。
とはいえいわゆるアニメ系はあまり観ない。ジブリも新海誠も細田守も、深夜にやっている沢山のアニメ群も。子どもがHDDに取りためていたので、題名とかは目にするがまずは観た試しがない。そういう意味では『男子高校生の日常』と『日常』だけは観ていたということだ。
アニメについていえば、もともとは50年代~60年代のディズニー・アニメで人格形成したクチである。小学生の頃の放課後は、『おそ松くん』(『おそ松さん』ではない)、『魔法使いサリー』、『秘密のアッコちゃん』、『少年忍者風のフジ丸』、『ピュンピュン丸』なんかを嬉々として観ていた。なので親和性がないということはない。
ディズニー以外でもルーニー・テューンズやハンナ・バーベラとかもけっこう観ていたような記憶がある。『ロードランナー』、『チキチキマシン猛レース』などなど。
でも、中学生くらいから急速にアニメに対する興味がなくなった。最後にディズニーの劇場版を観たいのは『ジャングル・ブック』だったように記憶している。それから数十年して90年代に入ってから『美女と野獣』まではほとんど観ていないような気がする。まあ子どもが生まれてからはDVD三昧になったのだけれど。
『男子高校生の日常』は基本、17歳くらいの男の子たちのおバカな日常生活をちょっと笑かしで描いているだけだ。派手なケンカもなければ、恋愛もない。自意識過剰で基本は真面目、素直な男の子たちのたわいない日々が戯画的に描かれている。舞台となる高校は県立の男子高校。おそらく進学校で校風も緩やか。クラスメイトもどことなく穏やかである。地方には必ずこういう県立の男子高校あるよねという「アルアル」である。
出てくる他校の女子高校生たちはほとんどが顔の表情が描かれていない。これはなんなんだろう、多分自意識過剰な男子にとって女子高校生たちはある種の記号的存在であり、日常的にはその顔を直視できないような存在なのかもしれない。
男子高校生は日々、どうしたら彼女ができるのか、女子と話ができるのかについて妄想的会話を繰り広げる。放課後、先生から言いつけられてプリント整理をする女の子を手伝うことで彼女と親しくなるという設定での様々な脳内シミュレーションによる会話が延々と続く。最後に「うちって男子校じゃないかよ」というオチ。
男子高校生の一人はいっこ上の姉と二人暮らしをしている。おそらく父母は仕事の都合かなにかで海外もしくは他県で生活しているのかもしれない。基本仲が良い姉弟なのだが、弟の男子高校生は一つしか年が違わない姉にまったく頭があがらない。この二人の会話で綴られるエピソードが何気に気に入っている。
姉「あんたさ、ズキューンってきたことある?」
弟「いや、というかあの、まずズキューンてのがわからないんだけど」
「心臓に鉛玉ぶちこまれた音?」
姉「そんなやわなものじゃないよ。ハート射貫かれた音でしょうが」
弟「あってるじゃん、ハートね」
「なんで姉とそんな話しなけりゃいけないの」
姉「あたしないのよね、なんでかな」
弟「今日はカレーにしてね」
姉「ねえ、なんでだと思う」
弟「そりゃまあ、基本ねえちゃんは人を小バカにするとこあるじゃん。そういうのやめてさ、もっと人との距離をつめた方がいいんじゃない」
姉「はぁ~、そいうもんか」
この何気ないというか、どうでもいい会話の中にけっこう真理っぽいものがあるような気がする。多分、最初に読んだ10年前にも思ったことだ。「人との距離をつめる」っていうのが人間関係のある種の本質であり、けっこう普遍性があるような気がしている。
「友だちができない」「恋人ができない」、そういう悩みを抱えている人から相談を受けたときには、「もっと人との距離を縮めてみたら」というのは割と一般的な解になるような気もする。脱力系アニメの中にも真理はあると、還暦過ぎたジイさんは思ったりもするし、ある意味目から鱗でもある。
それではどうしたら人との距離を縮めることができるのかどうか。それはまあ、本屋さんにいって心理学関係の本でも読んでもらうしかないような気もする。60を遠に過ぎても実はその答えわからないのだから。