「8時間労働」のゆくえ

 ずっと気になっていた朝日の2/28〜3/2日にかけて生活面に連載された特集記事の感想を少しだけ。

労働基準方の規制で1日8時間労働を原則としてきた職場が揺れている。来年の法律改正を目指して、技術者や事務職、販売や管理業務に携わる人たちの一部を規制から外す議論が本格化し始めてたからだ。労働時間の規制緩和は過労死の温床か、仕事と生活の両立のカギなのか。(竹信三恵子

 以上のようなテーマから8時間労働をめぐる実態として過酷な超過勤務の事例や、大企業を中心に在宅ワーキングやフレックス制などの多様化する働き方の事例を紹介し、産業界や厚生労働省の対応などを追っている。署名記事を書いた竹信三恵子記者は、女性労働問題やワークシェアリングに関する著作を数冊だしている、労働問題のエキスパートでもある。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index%3Dbooks-jp%26field-author%3D%E4%B8%89%E6%81%B5%E5%AD%90%2C%20%E7%AB%B9%E4%BF%A1/249-2334085-6960355
 2/28日付けの記事は「広がる対象外〜残業・夜勤歯止めなく」として、勤め先との間で訴訟を起こした事例を3件取り上げ、現在の8時間労働の原則にあっても、8時間規制の枠外におかれる管理職や労使が協定を結べば、事実上無制限に例外勤務が認められるといった日本の労働環境を報告している。
 最初にこの記事に目がいったのは、事例として報告された中に書店チェーン「文教堂」の店長のことが記載されていたからだ。この元店長は朝10時から夜10時まで店にはりつき、3ケ月休みなしに働いたため体調をくずした。会社と労働条件の交渉中に事故にあい休職した。その後問題が多いとして一般店員に降格される。現在、会社に対して未払い残業代と慰謝料を求めて訴訟を起こしているという。
 本の業界に身をおいているだけに文教堂という名前には馴染みがある。十数年前に書店営業をしていた頃にはいくつかの店舗を営業で回ったこともある。元々は川崎市にある中規模の書店だったのだが、二代目だったか銀行あがりの社長が、積極的な出店をすすめて100店舗を越える一大書店チェーンを成功させた。借金をして店舗を拡大してもも日銭が入ってくる商売だから成功するとか、各店の一日の売上合計は紀伊国屋にも匹敵すると業界紙に自信満々に社長が語っていたような記憶が裏覚え的にある。
 店舗はたいてい100坪程度で、店長と社員が1名程度。あとはパートだけというのが一般的で、ここの店長が相当の労働強いられるのは傍からみていても明らかだとは思った。こうした書店の店長は売上に責任をもたされ、仕入れや在庫等にも目を光らせていなければならない。さらにはパートの労務管理等も行わなければならない。それでいて書店労働者というのはたいていの場合低賃金だ。もっとも書店の場合は、特に文教堂が突出しているのではなく、たいていの書店チェーン店の労働実態はこんなものだろうとは思う。
 もともと書店労働者は長時間労働、低賃金と相場が決まっていた。自分自身、若い時分に数年間書店員をしていたからそれは身をもってわかる。文教堂の場合この記事にもあるのだが店長は管理職のため、8時間規制の枠外に置かれ残業代もつかないというが、たいての場合どこの書店も店長に残業代がつくことはないだろう。かえって部下やパートに残業させないために時分が居残ることだってザラのはずだからだ。そのようにして人件費も抑えないと店舗経営が成り立っていかない。そうした労働実態の中で体調をくずした元店長が会社と交渉したり、結果として訴訟に発展することになったのには、そりゃあるだろうなとは実感として思う。
 この記事にあるように8時間労働の対象外とされる管理職については、厚生労働省は通達で以下のように規定しているという。

管理職とは自分で出退社などを決められる経営者に近い働き手とされる

 これが以下に形骸化されているかは、世の中の会社の一般的な労働実態として明らかだろう。普通、係長あるいは課長以上の管理職になると残業代がつかなくなる。どこの企業でもそんなところだろう。しかし、そうした管理職もたいていの場合は、タイムカードで管理されているし、休みや遅刻といった勤怠の届出もきちんと提出しなければならない。自分についていえば、一応肩書きだけは管理職のはしくれではあるけれど、経営者に近い働き手なんかではさらさらない。所謂中間管理職というのは、たいての場合経営者とはほど遠い従業員の一人でしかないのが実情なんじゃないかと思う。そういう意味では8時間労働の形骸化などは、ずっと以前から進行していたに過ぎないのではないかとも思うのだが。
 3/1日付けの記事は「両立の条件〜「いつ働く」思考錯誤という副題のもと、多様化する労働時間の形態を報告する。日本テレコムの在宅ワーキング制度、ジョンソン・エンド・ジョンソンの出退社時刻が全く自由な超フレックス制。社員の6割が働く時間を時分で決められる裁量労働制NEC。などなど。しかしここで報告されるのは先進的な大企業、一部上場企業の例であり、どう考えても一般的な労働実態とはかけ離れた事例としか感じられない。
 3/2日付けの最終部では、超過勤務〜「消される時間」じわりという副題で、経団連など経営側が目指す8時間労働規制の緩和の意味とそれが今後に及ぼす影響をまとめている。産業界が求める規制緩和の中身については、

 労働界に昨年6月、衝撃が走った。日本経団連が発表した提言が、企業の社員の多くを8時間規制の外に置きかねない制度を新設するよう求めていたからだ。
 提言は、「(肉体労働ではない)ホワイトカラーは『考えること』が一つの重要な仕事」で「職場にいる時間だけ仕事をしているわけではない」として、法律などで決めた業務に就く「年収400万円以上の働き手」を時間規制の適用から除くべきだ、という内容だった。
 専門職やビジネスマン、店長などを残業代の適用除外にする米国の「ホワイトカラー・エグゼンプション(除外)」を参考にした仕組み。経済のグローバル化や24時間化に対応し、深夜も残業代なしで働けるなど、賃金の対象としての「労働時間」という考え方が消えることになる。

 また03年度以降、労基署から残業代の未払いで指導を受けた大企業が続発し、指導後に払われた賃金の合計が、03年度に約226億円、04年度は226億円にのぼったという。これに対しても経団連は「05年版経営労働政策委員会報告」の中で、サービス残業の取り締まりをこう批判してたという。

行政による規制的な指導は、労働者の自律的、多様な働き方や生産性向上、日本企業の国際競争力の維持、強化の疎外要因となりかねない

 経済のグローバル・スタンダード、市場競争力の名のもとに経営側は、もはややりたい放題、いいたい放題なのではないかというのが、この経団連の一連の提言についての感想だ。彼らには19世紀から20世紀にかけての労働をめぐる歴史的な過程とか、それによって築かれてきた労働観のすべてを黙殺しようとしている。「職場にいる時間だけ仕事をしているわけではない」とは、労働者の生活時間すべてを拘束しようということを意図しているのだろうか。それは仕事に人間存在の総てを縛り付けるという意味で、新しい奴隷制を構築しているようなものではないのか。

 労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売ることがゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。『賃金・価格・利潤』(カール・マルクス

 グローバル・スタンダード、国際競争力の名のもとにすすめられる様々な規制緩和、労働集中、生産性向上主義、その中でサービス残業という名の長時間労働がますます増加してきている。また経済格差は大きく広がってきており、富裕層と低所得層、正規社員と非正規雇用、様々な形で階層は分離してきている。グローバルにみても南北間の格差は前世紀に比してもまったく解消されることはない。
 20世紀、マルクス主義の台頭の中で資本主義経済は福祉の向上や個人所得の増大により全般的な経済格差を是正する方向で社会を推し進めてきた。それによって社会主義共産主義に勝利することができたのではなかったではないだろうか。20世紀末、社会主義圏の崩壊によって勝利した資本主義社会は、そうした歴史的過程をすべて踏みにじろうとしているようにも見える。勝利者は傲慢に逆コースの舵をとろうとしている。
 現在の状況を新しい格差社会の出現として論じる言説が幾つかでてきている。でもそれはけっして新しいものでもなんでもなく、古くからある階級という概念で説明できるものばかりだと実は思い始めている。対抗勢力なき資本主義社会=市場社会は、貪欲かつ傲慢に利潤追求のみに邁進する。今、必要なのは19世紀末に現れた経済学者にして歴史学者、哲学者、カール・マルクスの社会分析の言説にもう一度耳を傾けることではないのかと思う。グローバル・スタンダード規制緩和の名のもとに新たな収奪や人間疎外、そして古くからの階級、格差の増大という現実にあって、21世紀型のマルクス主義が再考、再構築される必要性を切々と感じる。経営者、資本家に理性的な思考を思い出させるためにも、彼らに対峙する主義、勢力が再度結集構築されることが必要なんだと思う。
 「8時間労働のゆくえ」という記事から連想したのは、我々が社会主義というものを、マルクス主義が根底に持っていた人間解放の理念をも含めて簡単に遺棄してしまったつけなのではないかということだ。
 なお、この記事には幾つかのブログですでに言及されている。興味をもてたのは以下のもの。
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 この方は、記事でもレポートされている人で長時間労働に起因するうつ病を発症し、3年間の休職期間の後に解雇されたことで会社と係争中だという。うつ病と仕事の因果関係の立証は難しいようで、ブログによると労災認定は不支給という結果となり、再審請求をしているという。労災の敷居の高さとともに、いろいろと参考になる。精神疾患と業務上の起因性はなかなか認められにくいというが、頑張ってもらいたい。
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 社労士の方のブログ。そこそこうまくまとめられているとは思った。