最後の役員会

 自分にとって最後の役員会が終了した。株主総会に向けての議案の承認、次の役員候補選任などが主なもので1時間くらいだったか。来週の株主総会をもって完全にリタイアとなる。役員になったのが2010年でまさしくジャスト10年、代表権を持ったのが2013年だからすでに7年になる。雇われ経営者とはいえよくもったなというところだろうか。

 思えばいろんなことがあった。まずは役員になった翌年の東日本大震災原発事故についての記憶がほとんどないくらいに、仕事と地震被害の後始末に翻弄されていたように思う。とはいえあの時の諸々の処置や判断がその後、代表に選ばれる際には評価されていたのかなと思わないでもない。

 その他にもパワハラ被害を訴えられたこともあるし、団交めいたこともいくつかあったが、無難に対応できた。パワハラの件も含め小さな会社の割には心の病系の人が何人も出てこと印象深い。じゃあ思い切りブラックな会社かというと、実は社員の残業が年間を通しても10時間あるかないかのホワイト、あるいは閑散とした会社である。まあこんなことをいうと叱られるだろうけど、自分らが経験してきた労働集中な会社の数々からすると隔世の感すらある。

 思えば自分が最初に入った会社は大学内の書店だった。当然、新学期の教科書販売が書き入れ時で、入社してすぐに月100時間残業の日々が続いた。毎日9時から夜の9時くらいまで働いた。閉店してから発注作業ときを行うので1~2週間は11時近くまで仕事をした。新卒で入って最初の仕事がそれだったから、残業がまあ普通だという感覚が身に着いた。あまりいいことじゃないけど、まあそういう時代だったのかもしれない。1980年代のことだ。

 それから取次、出版社を3社を経て今の会社と6度勤め先が変わった。もともと本の仕事に関わりたいということだったので、転職が続いても同じ業界にいるということで、自分の中ではある種の連続性があった。とにかく本の仕事で様々なことを経験したいと思っていたので、そういう意味では切れ目なく仕事できて幸運だったとおもう。

 書店、取次、出版社はだいたい3年から5年くらいで変わった。今の会社に入ってからは26年になる。まあ勤めてすぐに結婚し子どもが出来たこともあったが、もし結婚してなかったら多分すぐに辞めて次の仕事についていたかもしれない。

 今はなかなか転職が難しいという話を聞く。新卒で正社員となっても、そこで辞める、リストラにあうと、その後はなかなか次の仕事が見つからないとか非正規の仕事しかないというとこになる。それを思うと自分は本当に幸運な時代に生きてこれたのかもしれないと思うこともある。とにかく切れ目なく仕事をしてきた。金曜日に仕事を辞めて翌週の月曜からは次の会社で仕事をする。そんなことを繰り返してこれた。

 新卒で社会人となったのが1980年だ。それから足掛け40年、正直よくもったと思う。繰り返すが来週の株主総会をもって退任、完全にリタイアとなる。後はわずかばかりの年金だけが収入減となる。まあ子どもも社会人となって取り合えず手がかからない。年金ということでいえばカミさんの年金も出ている。家とかの借金もないので、細々暮らしていけばなんとかなると甘い目算をたてている。

 体が動くうちは働けばいいとか、まだ引退には早いでしょうと好意的に言ってくれる方も多いが、自分的には40年、40年働いてきたのだ。辞めた後何をするつもりと聞かれる。燃え尽き症候群・・・・、いやそんなことはない。やりたいことは、多分沢山ある。

 とにかく体が動くうちにやりたいこと、地方の美術館巡りをしたい。英語もまた一から勉強したい。家にはピアノもあるから、いじってみたいと思う。独学か習いに行くかはわからないが、少しは弾けるようにならないかと思ったりもする。BSでやっている駅ピアノや空港ピアノなんかを見ているとそんなことを強く思う。学生時代ずっとやっていたギターもまた少しいじってみたい。映画もなんだかんだで500本くらいのDVDがあるし、サブスクの観放題とかを含めれば優雅な映画鑑賞生活だってできる。目は疲れ気味だけど、積読状態の本も少しは読みたい。

 そんなことを考えていると、ちっとも自分は枯れていないし、ある意味煩悩の塊なのかもしれないと思ったりもする。それもこれも多分、体が動くうち。あと5~6年くらいのことになるのではないか。

 会議の後、お茶の水にある健保の診療所に寄る。先週受けた視野検査の結果を聞いた。とりあえず目については特に問題はないらしいが、引き続き定期的に目も検査をしていくことになる。

 仕事で神保町に出てくるのもあと1回である。遠い昔、書店の後に勤めた専門取次は神保町にあった。そこで5年くらい、神保町をベースにしていた。出版社に入ってからも三省堂本店に営業で行ったり、神田村の取次周りとかもあったから週に1度くらいはこの街で仕事をした。

 昼休みや仕事が終わった後に古本屋や中古レコード店巡りをした。学生街ということもありアイビー系の洋服屋もあった。月に1回くらいの割合でボタンダウンのワイシャツを買ったりもした。ある意味、神保町はわが青春の町でもあった。それを思うと、仕事で訪れるのがあと1回というのはちょっと感慨深いというか、少しだけ感傷的な気分になる。