『脳のなかの幽霊』

 ここのところ少しづつ読み始めている。脳神経科学の第一人者による一般向けの本だが、とにかく興味深い。興味を覚えた部分、妻の症状に関連する部分を折にふれて引用していくことにする。

右脳が左脳にくらべて情緒的に不安定な傾向があることは、かなり前からよく知られている。左脳に卒中を起こした患者は、不安や抑うつにおちいったり、回復の見込みについて気をもむことが多い。これは左脳が損傷を受けたために右脳が優勢になり、あらゆることに悩むようになったからだと思われる。この反対に右脳に損傷を受けた人は、自分の困った立場にまるで無頓着な傾向がある。左脳はあまり同様しないのだ。

 次にほほえみという、単純な好意について考えてみよう。私たちがみな、人とのかかわりのなかで毎日していることだ。あなたは仲のいい友だちに会うと、にっこりする。しかしその友だちがあなたの顔にカメラをむけて、笑ってくれと言ったらどうなるだろうか。自然な表情ではなく、不気味な作り笑いになってしまうだろう。・・・・・略
 この二種類の笑顔がちがうのは、それを扱う脳の領域がそれぞれ異なり、その片方だけが特化した「笑いの回路」をもっているからだ。自発的なほほえみは大脳基底核によってつくられる。大脳基底核は、脳の高次な皮質(思考や計画を行うところ)と、それよりも進化的に古い視床とのあいだに位置する、いくつかのニューロン集団である。友だちの顔に出会うと、その顔の視覚情報が脳の情動中枢である大脳辺縁系に到達し、続いて大脳基底核に中継される。そして基底核が、自然なほほえみを生み出すのに必要な顔面筋の一連の活動をまとめる。この回路が活性化されると、ほほえみが本物になる。この事象のカスケードは、いったん作動するとまたたくまに完了し、思考をつかさどる皮質が関与する余地はない。
 では、だれかがカメラを構えて笑ってほしいと言ったときはどうなるか。カメラを構えた人の言葉による指示は、脳の聴覚中枢や言語中枢を含む高次の思考中枢に入って理解される。そしてそこから、たとえばピアノを弾く、髪をとかすなどの熟練した随意運動を専門にする運動中枢に送られる。ほほえみは簡単そうに見えるが、実は何十もの小さな筋肉がこまかな協調をしている。運動中枢にしてみれば、一度も練習したことがないラフマニノフを演奏することに匹敵するほど複雑な芸当なので、無残な失敗をする。そしてほほえみは、不自然にこわばった作り笑いになる。
 脳に損傷を受けた患者から、この二つの「ほほえみの回路」に関する所見が得られる。右側の運動中枢−左半身の複雑な運動を編成することを専門にする領域−に卒中を起こした患者は、左半身に問題が出る。こうした患者にほほえんでくださいと頼むと、例のこわばった不自然な笑いが生じるが、顔の右半分だけがほほえむので、なおさら不気味な笑いになる。しかし自分の好きな友人や家族が部屋に入っていくるのを見ると、同じ患者が口も顔も全体を使った自然なほほえみをたちまち満面にうかべる。基底核は卒中の損傷を受けておらず、したがって均整のとれたほほえみをつくる特別な回路がそこなわれていないからだ。