障害者自立 国が目標値

http://www.asahi.com/health/news/TKY200602090376.html
 家に帰って夕刊を手にとった途端、一面のヘッドラインが目に入ってきた。おそらく妻が障害者とならなければ、こういう記事に関心をもつこともなかったはずなのだが、今は我が日常のまさしく最大の関心事の一つでもあるわけで食入るように読んでしまった。
 いつのまにか制定され4月から施行される障害者自立支援法については、様々な批判もあり障害者にとってはかなりの負担を強いるものになりそうな、相当に問題のある法律との認識ができつつある。これまで福祉サービスを受けるための負担を所得に応じた「応能負担」から、サービス利用量に応じた「応益負担(原則1割)」に変えるというのが、この法律のキモらしい。そうなると重度障害等でまったく無収入、あるいは障害者年金だけという障害者でも福祉サービスが受けられていたのに、これからはサービス利用によって自己負担が生じることになる。法律上では生活保護を受けている障害者は自己負担がゼロになるそうだが、年金受給があれば当然利用負担は発生する。つまりは低所得でも負担が必要になるわけで、障害のため定職につけない障害者には自己負担は重い足枷になり、サービス利用の敷居は高くならざるを得ないのではないかと思うのだ。
 朝日の記事でも障害者自立支援法のこうした負の部分を後半でこう解説している。

 障害者自立支援法は、障害者が自立した生活ができるように必要な福祉サービスの提供や、安心して暮らせる地域社会の実現を目指したもので、障害者が地域で安心して暮らせる「ノーマライゼーション」の考え方に沿ったものだが、自己負担を所得に応じた「応益負担」から、サービス利用量に応じた「応益負担(原則1割)」の仕組みが導入される点に、障害者団体などから反発が出ていた。

 なお障害者団体のこの法律に対する批判は以下のWebに詳しくのっている。
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm
 しかし、そもそも障害者が地域で安心して暮らせる地域社会がどこにあるのだろうか。ハード的にもソフト的にもバリアだらけの社会にあって、この法律が一人歩きすることでどんな弊害が生じるのか。'02年に閣議決定された「新障害者プラン」による「脱施設」の方向性が示されて以後も、障害者をもつ家族が施設を希望するケースが多く、施設入所者が増え続けているのはなぜか。障害者が安心して暮らせるような地域社会などどこにもないから、そして脱施設化=家庭での介護という家族への負担が極端に増すためだからではないのか。
 今回も国=厚労省は基本方針と目標値を設定してはいるが、具体的な福祉サービスや環境整備はすべて地方に丸投げしている。それでは各自治体に均一なサービスが期待できるのかどうか。目標値のためにかえって切り捨てられる負の部分が増大しかねないのではないか。
 そもそも受入環境の整備など条件が整えば退院できる人を約7万人と推計というが、受入環境の整備がきちんと成されているのかどうかが大きな疑問になる。本来であれば受入環境整備の目標値をきちんと設定し、環境整備が整って初めて「脱施設」化の目標値を設定すべきなのに、これでは話が逆じゃないかと思うのだ。
 障害者が安心して暮らせる地域社会の実現の道程は、日本社会にあっては悲しいほど遠い先のことのように思う。国の目標値のとおりに施設入所の削減が行われれば、受け入れる家族=家庭の負担はきわめて増大する。さらにいえば精神科5万人の退院は、現在でも精神障害者による犯罪に対してきわめてヒステリックに反応する社会状況にあっては、精神障害者に対するさらなる偏見、差別を助長するはずだ。
 ノーマライゼーションはある種の理想社会だ。障害者の自立、障害者との共生、どれも素晴らしい響きをもった言葉だし、そうした社会が出現することを私も望んでいる。しかし言葉だけで社会的なインフラもなく、一方で格差社会が進行し、社会互助の意識が失われ、自己責任、自助努力のみがうたわれる世知辛い世の中にあっては、それは絵に描いたモチのようなものなのだ。
 この法は天下の悪法だと思う。いくら言葉巧みにノーマライゼーションを口にしても、根底にあるのは財源不足をネタにした国家の公的福祉の放棄、個人や家族への一方的な負担の押付けだけだと思う。妻はこんなハードにしてかつシビアな世の中にあって障害者になってしまったわけだ。そしてそんな彼女を主たる家族として私と小さな娘は支え続けていかなくていけないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3