車いす少女「中学行きたい」

今春、地元の公立中学校への進学を望んだ奈良県下市町の車いすの女児(12)が町教育委員会に入学を拒まれた。「この中学で1日に上り下りする階段は800段」として、町教委は特別支援学校を勧める。地元小学校に通わせた母親(45)は「同じように学びたいという思いが成長させた」と訴えるのだが。

http://www.asahi.com/edu/news/OSK200904110113.htm
朝日の朝刊に載っていた記事で4月15日のものだ。いささかに旧聞のそしりを受けそうだが、なぜか机の上にこの新聞がある。たぶんいろいろ思うことがある、そういうことでわざわざ自室に持ってきたのだろう。
難しい問題だとは思う。障害者であっても健常者と同じ学校に行きたいという気持ちはとてもよくわかる。それに社会の本来のあり方というのは実はこうであるべきなのである。障害を理由に隔離する必要がどこにある。そういうことだ。しかし現実問題としていえば、世の中を障害者に対して非常に敷居が高い、バリアだらけの世界なのである。
妻が障害者となってからも何度か学校に連れて行く機会がある。土曜日の授業参観、体育祭、音楽会などなど。その都度思い知らされたのが学校ほどバリアフリーから程遠い施設はないのではないかということだ。実際、エレベーター設備のある学校などというものを公立学校ではたぶん聞いたことがない。新しい学校はともかくたいていの学校が築20〜30年を経過している。施工当時にバリアフリーだのユニバーサルデザインなどという考えが入り込む余地などあろうはずもないのだから。

この女児は小学校時代、町側が雇用した介助員2人と担任教諭に上り下りを手伝ってもらって。しかし、堀光博教育長は「思春期になれば体が大きくなる。介助中に足を滑らせて階段から落ちれば、命の危険につながる」と話す。
町教委は事故時に過失責任が問われることを懸念する。年間40億円の町予算では、介助員の増員、バリアフリー化の改修は難しいという。

自治体の財政難の問題、事故が起きた時の責任問題、それが一番大事ということか。確かに自治体レベルでの努力では限界もありそうだ。それ以前になぜこの子のためにだけ、公的な金を使って介助員をあてがわなければならないのかという陰口も聞こえてきそうだ。逆の意味で不平等ではないかとか。そしてそれらをよりもっともらしく言いつくろうために、またまた例の自己責任論が出てくる。介助員は本人負担で行いなさい。親や本人負担で雇った介助員を充当させてくれれば、教委としても就学を認めますよ。もちろん事故が起きても自己責任です、学校には責任がない旨の誓約書を提出してもらいます。そんなところか。
障害者と健常者が共生する社会、それが理想なのだとは思う。でもそれを達成するための道のりはあまりにも遠い。ほぼ実現は難しいのだろう。

国は、公立学校のバリアフリー化の進み具合について調査していない。文科省は改修費を3分の1補助する制度を設けているが、過去3年間の申請は161件にとどまる。

記事はこの記述で終わる。これが何を意味するのか。国がバリアフリー化の進捗状況を調査していない。なぜか、ほとんど進んでいないからだろう。やっても国の無策をさらけ出すだけだから。まあやりようがないというところか。国は改修費の3分の1も補助するのに申請が少ない。これは自治体の怠慢なのか、いや3分の1もではなく、3分の1しかだからなのだろう。残りの3分の2を負担する自治体には実施するほどの財力がまずない、だからやりようがない。故に申請がわずかなのである。
財政難という現実の中では、福祉はたいてい後回しになる。まして障害者はマイノリティである。もっと多数の者が享受できるような基本的な施策が必要なのに、一部の人の利益のみに金は回せないということだ。
多数の者が享受できるような施策、例えば定額給付金のようなものか。