宮崎勤の死刑確定

http://www.asahi.com/national/update/0117/TKY200601170259.html
 ライブドアの事件でなにか片隅に追いやられてしまった感があるが、幼女連続殺人事件の宮崎勤の死刑が確定した。それにしても17年の月日を経過しての死刑確定、やっぱり日本の裁判は長すぎるよ。殺された子どもたちがもし生きていれば23〜24歳になるわけだ。家族にとってはずっと悲しみの記憶につつまれた時間だったんだろう。いや、多分これからもずっと。4人の幼女を無残に殺したのだから、現在の法律上からいえば間違いなく死刑になるということだ。死刑制度について今はどうのこうのいうつもりもない。
 自分自身小学生の娘をもつ親だから、やはりこの事件の加害者宮崎には一切同情の余地はないと思う。しかし、死刑制度を存続させるのなら、もっと迅速な形で裁判すすめなくてはとも思う。少なくとも死刑制度は犯罪抑止としてあるはずなのだからね。
 この報道の中では高村薫が朝日に寄稿した一文がもっとも心に残った。他の識者たちのある種紋切り型思考みたいな事件の風化とか、なにも解決されていないとか、問題は云々とは少々違った切り口で、この事件の象徴性を解き明かしているように思えた。

被告の世界、今そこに
 宮崎勤被告の死刑が確定する。しかし何かが解決したという感はない。
 動機の解明に費やされた年月は、精神鑑定の困難さと限界を明らかにしただけで、この種の事件で動機や責任能力の有無を問うことのむなしさを残した。
 事件当時、メディアも言論も、宮崎勤被告がどんな人物で、なぜあのような事件を起こしたのか、背景を解明しようと努力した。しかし、私たちは、そこから浮かび上がってきた若年層の社会性の欠如や、そのことと不可分な映像情報の氾濫という時代環境に対して、何らかの戸惑いを共有したものの、結果的に立ち止まることがなかった。
 「おたく」はその後、むしろ時代の先端として社会に広く受け入れられ、おおっぴらに消費されている。小学生の少女アイドルは珍しくなくなり、秋葉原では少女たちを人形のように着飾らせた撮影会に、白昼、青年たちが群がる。また、インターネットの爆発的な普及によって、性的な映像情報は日常生活にあふれだしている。
 かって宮崎被告がこっそり楽しんでいた世界が、今では日常の隣にある。これが事件から17年の間に、私たちが作り上げてきた社会だ。
 この間、どれだけ同様の事件が起こり、どれだけの子どもや女性が犠牲になってきた。危険は通学路にあるのではない。子どもを大人の性的欲望の対象にしないという良識を捨て去った、何でもありの社会自体が危険なのだと思う。表現の自由や、情報化社会の名のもとに誰もが黙り込む社会の「不作為」が、子どもを犠牲にしている。
 映像の刺激におぼれ、そこに閉じこもることを加速させる社会の是非を問い直さなければ、私たちは宮崎事件から何も学ばなかったことになる。

 結局のところ、今必要なのは我々が黙視してきたありふれた良識、モラル、倫理観とかいったものをもう一度再構築していくということなのだろう。高村氏がいうとおり、この「何でもありの社会」にあっては、様々な好色、猥雑化された映像情報が氾濫しまくっているわけだ。宮崎勤が「こっそりひそかに楽しんでいた」あのビデオ6000本の部屋はまさしく日常的な世界に洪水のように流出してしまっている。誰もが目に入るまでにだ。
 インターネットが日本で爆発的に広まったのは、実はオヤジたちがエロサイトを閲覧するようになったからという話もある。まさになんでもありの世界が現出してしまったわけだ。この事件が宮崎勤という特別な人間のゆがんだ想像力の産物だという事件の矮小化はもはや誰もが認めることができないものだと思う。今ではそこらじゅうに宮崎予備軍が輩出してしまっている。しかも彼らが消費する様々な情報もまたあふれ出ているのだから。
 どこかでこの「なんでもありの世界」に歯止めをかけなくては、子どもたちや女性は常にゆがんだ欲望のために消費されるモノ、あるいは記号として対象化されていくわけだ。じゃあどうするのか・・・。結局モラルの復権、いやもっと単純なことをみんなが思い出すということだ。そう、高村氏のいうように良識を思い出すということなんだろう。