訃報記事から

まずは恒例の訃報から。連休あたりでもいろいろ人が死んでいる。そういや戦旗派荒岱介も死んだらしい。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0505/TKY201105050123.html:TITLE
ブント、社学同などという言葉が浮かんでくる。70年安保前後の神話、あるいはおとぎ話みたいなものかもしれんな。当時、新左翼とか過激派とか呼ばれた若者たちが、いったい何を主張していたのか、もう誰も覚えちゃいないだろう。私自身本当に何一つ覚えていない。
ただし問題意識をもって社会変革のために行動にうってでる。そうすれば世の中はひょっとすると変わるかもしれないという、今となっては概ね幻想のようなもの、当時的にいえば一種の共同幻想みたいなものにとわられていたのだろう。ある種の流行り病みたいなものだろうか。
ただね、なんとなく思うのだが、あの時代に何か一つでもいいほうに転がっていればだよ、ようは社会が何か一つでも変わる兆しとか、なんかしらがあったら、世の中はこんな風じゃなかったのかもしれないと思う。歌の文句じゃないけど、「力を合わせて生きること」で何かしら世の中が変わっていたらよかったのに。
若者たちが社会を変えるために行動を起こす。それが社会変革につながる。世界史レベルではけっこういろいろあるだろうそういうのって。お隣の韓国にだってそういうのがあった。ヨーロッパにだって。東欧だの、ソ連が崩壊したのだってそうだろう。最近のモロッコやエジプトだってそうだ。
そういう契機が日本にだってあったはずだったんだろうと思う。ただし時代的にそれが60年代、70年代だったかどうかはわからない。でもあそこで声をあげた若者たちは、その先鋭化した部分は、しょもない仲間割れとか味方同士の殺し合いとかという、とんでもない方向にいっちゃったしね。流行に追随したようなその他大勢はというと、みんな若気の至りと反省してというか、なにもなかったように髪切って就職して。みんな今やリタイアしてますよね、団塊世代として。
70年代に若者たちだった彼らは結局なにもしなかったし、たぶん自分たちの子どもたちにも、きちんと自分の生き様示してきてなかったのかもしれないな。だってその後の日本はこんなにとんでもなく平和で、とんでもなくしょもない国になっているんだから。
70年代以降、この国では社会変革とかを声にするのは、それこそ悪とまではいわないけど、完全に「ダサイ」「ウザイ」ことになってしまったまま定着している。政治家はとりあえず叩くものだし、かといって自分たちが何かをするわけでもなくみたいなことになっている。
まあ団塊世代のフォロワーとでもいうべき次世代の人間の一人としていえば、たぶん同じように追随してきているから、えらそうなこと言えた義理でもない。半分ごまめの歯ぎしりだし、とりえあず悔いの多い人生だと思う。
自分の子どもの世代に、一生懸命頑張れば、社会悪とか、社会の矛盾とかについて、きちんと真面目に考えて、それを変えていこうとすれば、少しづつでも世の中は変わっていくのだと、気恥ずかしさとかそういうものなく話すことができないことが、大変残念に思う。
かっての新左翼党派の指導者、あるいは過激派セクトの首領の死に際して思ったのは、たぶんそんなことである。