東近美に行く (2月29日)

 2月29日、そうか今年は閏年か。4年後、自分はこの世にいるんだろうか。

 そんなちょっとした感慨を覚えつつ、今年最初の東京国立近代美術館(東近美)に行ってきた。企画展は写真家中平卓馬の回顧展。MOMATコレクション展「美術館の春まつり」は3月15日からの予定なのだが、先行して「桜」や「花」をモチーフにした作品がすでに展示されていた。

 

 

中平卓馬 火―氾濫

中平卓馬 火―氾濫 - 東京国立近代美術館 

  この名前には聞き覚えがある。と、写真を見て思い出した。去年の夏に神奈川県立近代美術館で、森山大道中平卓馬の二人展を観ていた。

神奈川県立近代美術館葉山館 (7月15日) - トムジィの日常雑記

 いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」と称されるインパクトのある、なんていうんだろう状況を切り取ったようなそんな写真群という感じで、写真を観ればなるほどと思うのだけど、うまく言語化できない。ただいえるのはこの手の作品、手法は普遍性よりも、時代性の影響とかを反映しているようなそんな気もしないでもない。

 でも、「アレ・ブレ・ボケ」ってなんだ。

中平卓馬森山大道といった『プロヴォーク』(1969創刊)の写真家たちに特徴的な手法で、当時、第三者からは「ブレボケ写真」と総称された。彼らの写真に特徴的なノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面は、既存の写真美学——整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど——に対する否定の衝動に由来しており、反写真的な表現のラディカリズムを追求するものであった。中平によればそうした写真は「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」ものであった。しかし、その後70年代には多くのエピゴーネンを生み、広告表現にも使用されるなど、初発のラディカリズムは次第に骨抜きにされていった。76年には『アサヒカメラ』誌上で「ブレボケはどうなった」という特集が組まれるが、「時代遅れ」の手法として揶揄するような側面が強い誌面となっている。森山や中平たちは50年代のニューヨークを荒々しい手法で撮影したウィリアム・クラインの影響を受けていることを告白してる。

           (著者: 小原真史)

アレ・ブレ・ボケ | 現代美術用語辞典ver.2.0 (閲覧:2024年3月1日)

  • 「ノーファインダーによる傾いた構図、高温現像による荒れた粒子、ピントがボケてブレた不鮮明な画面」
  • 「既存の写真美学—整った構図や美しい諧調、シャープなピントなど—に対する否定の衝動に由来している」
  • 「視線の不確かさ、と同時に世界の不確かさをひきずりだし、それを対象化する」

 なるほどそういうことかとストンと落ちる感じだ。あの「アレ・ボケ・ブレ」によって活写され対象はキレイで整った、秩序だった様々な表象の裏側にあるもの、それは衝動であったり、矛盾であったり。ようは世界の表象の内面性を抉り出すための手法だったのかと。

《夜》 1969年頃 東京国立近代美術館

 ただしその手法による作品群は、おそらく60年代後半というある種激動の時代にあってこそ効果があったのではないかと思ったりもする。時代が収束に向かった70年代半ばから、そうした作品のインパクトはじょじょに力を失っていったのだろうし、それとともに中平や森山の活動も低迷していく。

  この写真もなんとなくだけど、市街を疾走する軍用トラックのごとく見える。それは70年安保を前にした時代状況、ベトナム戦争への反対機運、それを契機とした世界規模での反戦運動、そういう時代の雰囲気を伝えているのかもしれない(違ってたらごめんなさい)。

 この「アレ・ボケ・ブレ」によって切り取られた対象は、その対象の背後にある文脈や時代性を抜きにしたとき、作品単体としてはなんかよく判らないけれど、なんとなく迫ってくるもの、みたいなインパクトだけみたいなものになってしまう。

 ようは「アレ・ボケ・ブレ」はインパクトを与える手段、手法になってしまうとういことだ。実際この手法は普通に商業写真にも取り入れられいくようになる。中平や森山にはジレンマを感じさせただろうが、ようは換骨堕胎みたいなもので、「アレ・ブレ・ボケ」のインパクトだけが独り歩きしていったということなんだろうか。なんとなく覚えているけれど国鉄のディスカバー・ジャパンのポスターとかその手の類だろう。多分こんな感じのやつだろうか。

 

 まあそれはそれとして、中平の写真は21世紀の今みても一定のインパクトをもっている。でもやはり彼のもっとも印象的な作品はやはり60年代後半という時代を背負っている。時代の内面を抉り出すような作品が、なんとなくノスタルジックな感傷性を秘めてしまう。そしていささかの古さとともに。

 60年代後半、まだ小学校か中学校に上がるくらいの子どもだった自分にも、中平の写真はなんとなく同時代性を感じさせる。ただそれは同時代を生きたという部分での懐かしさみたいな部分だ。あの反体制への情動にも似たうねり、ああいうものはもはや失われてしまったもの、こと、として受容される。中平や森山の作品の背後にあった問題意識みたいなものを、多分も失われてしまったんだろうなという思い。まあいいか。

 

 

 

 

 中平は大学卒業後の数年、雑誌『現代の眼』の編集者だった。最初の彼の作品は勤めていた社の雑誌が発表の場所だった。『現代の眼』、新左翼運動への共感、共闘を全面に打ち出していたいわゆる新左翼系雑誌だ。当時の問題意識をもった若者たち、今風にいえば過激な左翼的志向の彼らが手にした雑誌は、『朝日ジャーナル』と『現代の眼』だった。

 自分も高校生の頃だったか、『朝日ジャーナル』や『現代の眼』はよく読んでいた。70年安保に遅れてきた少年の一人として、問題意識と知的好奇心がそうした雑誌を手にとらせたんだと思う。まだ若者が社会変革を唱えることが当たり前だった時代でもあった。まあもろもろ下火にはなっていたけど。 

 もっとも『現代の眼』を発行していた現代評論社は、右翼総会屋が経営していた。総会屋が法規制で凌ぎがなくなると同時にこの雑誌も廃刊となった。そんな話を聞いたのはずいぶん後になってからのことだ。

MOMATコレクション

 
《行く春》
《行く春》 川合玉堂 1916年

 常設展示は3月15日からの「美術館の春まつり」の展示作品を先行展示しているようで、4階ハイライトはこの時期恒例の川合玉堂のこの作品から。

 川合玉堂は四条派の写実を望月玉泉や幸野楳嶺に学び、上京してから橋本雅邦に師事して、狩野派の手法を取り入れたという。よくいわれることだが、この作品でも対岸の崖や手前の岩石の輪郭線や岩肌の皴法などが特徴的だ。さらに散りゆく桜の花びらの舞う渓谷と係留された舟、そこで働く人など、日本的なふるさとの原風景、桜の季節の終わる頃のゆったりとした時間の流れ、そうした牧歌的かつ抒情的瞬間を活写した作品だ。

 よく見ていると単なる写実性とは異なる、ある種の強調表現も多用されている。以前にも思ったことだが、散りゆく桜の花びらは渓谷の風景に対して、妙に大きいような感じがする。桜は画家の近くで舞っているのだろうか。それは画家の至近で花吹雪のように舞う桜の花びらの中で、遠景の渓谷を眺めているのかもしれない。それでもやはり花びらは渓谷の上を舞っているように見える。一種の強調表現なのかもしれないし、遠近法を超えたイリュージョンなのかもしれない。

 そしてゆっくりと舞う花びらとともにゆったりと時間が流れていくような雰囲気。それでいて渓谷の川の流れは急であり、係留された舟は流れに対して一本の縄でひっしに留まっている。そして水車から流れ落ちる水流。

 桜の花びらが舞うゆったりとした渓谷の時間、忙しなく流れる渓流。それがどこか対比されているような感じもする。この絵、至近で細部を観ているとまったく飽きることがない。

 

 

 
《春秋波濤》

《春秋波濤》 加山又造 1966年

大阪・金剛寺の《日月散水図屏風》が、四季を屛風一双に表しているのを見て感銘を受けた加山が、切金、金銀泥、金銀箔、沃懸地*1、の技法を駆使して描いた、桜の山と紅葉n山という春秋を象徴する二景が、うねる波濤によって六曲一隻の屛風におさめられ、時空を超越したこの世にならぬ光景となっている。 『東京国立近代美術館所蔵名品選 20世紀の絵画』より

 大胆な意匠と装飾性は尾形光琳を意識したものとはよくいわれる。至近で観てみると、抽象表現主義の技法も取り入れているのではないかと思えるほど抽象度が高いように思える。やはり自分的には加山又造は奇想の人というイメージがある。

《南風》

《南風》 和田三造 1907年

 これも4階ハイライトに。隣が原田直次郎の《騎龍観音》なので重要文化財つながりみたいなところだろうか。まあ観慣れた作品、名作ではあるが一介の漁師がこんなギリシャ彫刻のような筋骨隆々かと突っ込んだりして。

 今回、改めて解説キャプションを見てみると、この作品は和田三造の実体験をもとに描かれたものだとか。和田は1902年、美術学校在学中に八丈島航路で嵐に遭遇して三日間漂流して伊豆大島に漂着したという経験をしている。船が沈まないように荷物を捨て着の身着のまま状態だったのだが、船長のはからいで画学生の和田は画材を捨てずにすんだという。画面左側にひざを抱えて座る人物は和田自身。

 この作品は1907年の第一回文展で最高賞の二等賞を受賞。困難に立ち向かう不屈の精神性が、当時の列強に立ち向かう日本に呼応するような形で受容されたという。

 明るい陽射しのもとで海を進んでいくようなイメージを感じていたが、漂流シーンだったかと改めて思った。とはいえ西洋画によくある漂流をモチーフにした作品のような、劇的なものを感じさせない。1900年代初頭の日本には、まだ西洋画のロマン主義的作風は伝来していなかったのかもしれない。あくまでも「明るく、たくましく」的である。

《コンストルクチオン》

《コンストルクチオン》 村山知義 1925年

ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成した。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品だが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意思を感じさせる。

 海外の前衛的な思潮を伝えた戦前の振興美術運動のリーダー的存在であった村山知義は、帰国後柳瀬正夢らと前衛グループ「マフォ」を設立。建築や演劇など幅広いジャンルで活躍した。吉行淳之介の母である吉行あぐりの山の手美容院の設計や日本プロレタリア美術家同盟設立などに中心的な役割を果たした。

 この作品にも近代文明への批評や批判、そして構築のイメージなどが入り組んだ先進的な表現があるとされている。そのうち初期の前衛美術の受容作例として重文指定でもされるのではないかと、ひそかに思っていたりする。

 でも至近でよく見てみるとちょっとユーモラスな文様もあったりして、これを大真面目に付加したのか、あるいはちょっとしたイタズラ心だったのか。この「豚、鳥、蓄音機風、ヘビの文様を『マヴォ』の広告デザインとの関連、あるいは原始キリスト教チベット仏教由来のものとの関連を指摘する論文もあったりする。ちょっとしたイタズラ心でかたずけてはいけないのかもしれない。

村山知義の 「過度期」 の作品に就いて
《キーワード》コラージュ 構成主義 新興美術 写真」 (ジョン・ワインストック)

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/4-3.pdf

 

 

 
《麗子六歳之像》

 4階3室では岸田劉生のミニコーナーがある。なんでも今年は劉生の娘麗子の生誕110年にあたるということで、ちょっとした《麗子像》祭といった雰囲気だ。一番有名なトーハクの《麗子像》の借り受けはないようだが、いつも見慣れた《麗子肖像(麗子五歳之図)》とは違う《麗子像》の展示もあった。

《麗子六歳の像》 1919年 水彩・紙

 キャプションには岩波茂雄旧蔵、岩波雄二郎遺贈とある。岸田劉生の全集が岩波書店から出ていることもあり、戦前岩波茂雄岸田劉生には交流があったのかどうか。まあ普通に戦前の高額所得者であった岩波なので絵画もそこそこ収集されていたのかもしれない。岩波雄二郎は二代目岩波書店の社長。個人経営だった岩波書店が1949年に株式会社化したときに30歳で社長に就任、以後、会長、相談役を歴任して2007年に死去している。

 モダンな青年実業家で社長就任と同時に東京商工会議所の発足に中心的な役割を示した。岩波の経営は主に小林勇が担っており、岩波書店と岩波家の架け橋的存在だったのではないだろうか。ゴルフ嫌いである時期までは岩波書店でゴルフの話題は禁句だったというエピソードが実しやかに語られていた。

 絵の来歴一つみていてもいろいろ喚起することがあり、それも絵画鑑賞の楽しみかもしれない。

 このコーナーでは麗子の写真も展示してある。リアル麗子はなかなか利発そうな雰囲気の少女だ。右側は母親で茶人でもある蓁(しげる)。

 
芹沢銈介

 3F日本画のコーナーでは染色工芸家、図案家芹沢銈介の特集。

芹沢銈介 - Wikipedia

 ほとんど馴染みのない人だが意外と面白い。

 

 
《蟻》

《蟻》 ジュルメーヌ・ルシエ 1953年 ブロンズ 

新収蔵&特別公開|ジェルメーヌ・リシエ《蟻》 - 東京国立近代美術館 (閲覧:2024年3月1日)

 2Fギャラリー4では新収蔵品《蟻》の特別公開ということで、関連するハイブリッドをモチーフにした作品や彫像作品が展示してある。

ジェルメーヌ・ルシエ

略歴|1902年、南仏アルル近郊グランの生まれ。モンペリエのエコール・デ・ボザールにて、オーギュスト・ロダンの弟子ルイ=ジャック・ギーグに彫刻を学ぶ。26年パリに出て、エミール=アントワーヌ・ブールデルに師事する。34年、初個展。35年、ポンペイを訪れ、溶岩により石化した身体から新たな表現へのインスピレーションを得る。39年、第二次大戦のためチューリヒに居を移し、同地にて制作を続け、ジャン(ハンス)・アルブ、アルベルト・ジャコメッティマリノ・マリーニなどと親交を結ぶ。46年、パリに戻る。50年、スイス国境近くの村アッシーにある教会に、キリスト像を設置するも、翌年、記号的に表現されたその像は地元の反対によって撤去される(71年に再設置)。51年、第1回サンパウロビエンナーレ彫刻部門で一等賞受賞。56年、パリの国立現代美術館で回顧展開催。59年、南仏モンペリエで死去。

(解説キャプションより)

 人間(女)と蟻の混成交雑—ハイブリットをモチーフにした作品。異形としか言い得ぬような感じがするし、どこかグロテスク気分を抱くのはいたしかたないか。抑圧された女性と小さく、踏みつぶされたり、他の昆虫に捕食される蟻とのイメージの交錯をみるみたいなことだろうか。

*1: 蒔絵(まきえ)の技法の一つ。うるし塗りの器面全体に金粉または銀粉を蒔きつめて、その上から漆を塗り、磨きあげて地としたもの

マリー・ローランサンと堀口大学

 アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン」の回顧展の解説キャプションに印象深い記述があった。メモをとっていたのでそのまま引用する。

マリー・ローランサンと芸術

ローランサンは、同時代の芸術家たちと交流を持っていたものの、ある特定の流派に正式に属するのではなく、独自の画風をつくりあげた。そのようなローランサンの作品を特徴づけているのは、そのパステルカラーの色彩だろう。
堀口大學 (1892-1981)は、1915年、外交官の父の赴任先であるマドリードに滞在していたときに、ローランサンと出会った。堀口は、ローランサンの散歩のお供を務めて、アポリネール(1880-1918)をはじめとする文学や芸術を教えてもらい、絵の手ほどきも受けた。あるとき堀口は、ローランサンから、自分の使っている色はこれだというメモを渡されたという。そこには7つの絵の具の色が書かれていた。

コバルトブルー(bleu de cobalt
群青 (bleu d'outremer)
茜紅色 (laque de garance)
エメラルドグリーン(vert emeraude)
象牙黒(noir d'ivoire)
銀白(blanc d'argent)
鉛白(blanc de zinc)

この7色のうちに青が2種、白が2種含まれており、色の種類は4つのみになる。とてもシンプルな色合いである。ローランサン自身も「夜の手帖』のなかで、「朱色(vermillon)が使えず、茜紅色を使った」、「赤(rouge)は敵だった」と書いている。その後、ローランサンのパレットには黄色も加わり、より鮮やかさを増していくが、基調色は変わらない。ローランサンの優美で華やかな女性たちは、パステルカラーの色面で表されており、その身体を感じさせない。そういう意味で、女性たちは中性的に表現されているとも言える。とはいえ、画面はなめらかに仕上げられるのではなく、絵の具の質感を全面に出している。ローランサンの芸術とは何であったのか。彼女の群像表現を通じて確認してほしい。

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 

      <コバルトブルー>             <群青>



       <茜紅色>            <エメラルドグリーン>

 

       <象牙黒>              <銀白>

 

 <鉛白>


 さらにこれに黄色がまざるという。マリー・ローランサンのパレットのこの色を想像しながら実際の絵を観てみると、妙に納得感があったりもする。

 

 

 堀口大学は仏文学者として有名なあの堀口大学である。我々の世代にはお馴染みで、自分などもヴェルレーヌやランヴォーの詩をこの人の訳で読んだクチである。

堀口大學 - Wikipedia

 堀口が渡欧中にマリー・ローランサンと交流があったというのは、今回初めて知ったのだが、一部ではけっこう有名な話のようだ。堀口(1892-1981)、ローランサン(1883-1956)、9歳の歳の差がある。出会ったのは1915年の頃で、第一次世界大戦のさなか、ドイツ人男爵と結婚しドイツ国籍となったローランサンは夫とともにスペインで亡命生活を送っていた。堀口は当時外交官であった父親の赴任先だったスペインにいたという。ローランサンは9歳下の若い東洋人の学生に詩や絵の手ほどきをしたのだという。

 二人に恋愛的な感情があったのかどうかは様々な説がある。堀口は帰国後もそのことについては多くを語っていないとも。しかし引用した文にあるとおり、ローランサンは自らの絵画制作の基本となること部分を示唆しているところなど、かなり親密な部分があったのかもしれない。

 

 堀口大学というと、自分はやはりランボーの詩のことを思い出す。多分、読んだのは16~17歳の頃のことなので、いまだに覚えているのはけっこう印象深かったのだろうと思ったりもする。

 それはまあランボーの代名詞ともいうくらい有名な詩なので、70年代あたりで文学に少しカブレたような少年が覚えたとしてもまあまあ不思議ではないかもしれない。

<永遠>

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った(つがった)海だ。  堀口大學

 

 この詩は他にも多くの文学者、詩人が訳出している。有名なところを三人くらい引用するとこんな感じだ。

 

とうとうみつかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽(いりひ)といっしょに
去って(いって)しまった海のことだ。  金子光晴

 

また見つかった。
何がだ? 永遠。
去って(いって)しまった海のことさあ。
太陽もろとも去って(いって)しまった。 中原中也

 

また見附かった。
何が、永遠が。
海と溶け合ふ太陽が。   小林秀雄

 

 多分、一番意味が判りやすいのは小林秀雄かもしれない。でも、自分は最初に読んだ堀口訳がなんとなくしっくりきた。「番った」の意味を調べ、そしてフランス語で太陽が男性名詞であり、海が女性名詞であることなどを調べたりしたときに、この詩のもつエロチックな感傷性みたいなものを想像(今風にいえば妄想)してみたものだった。そうか永遠とはそういうエロチックな部分なのかみたいな・・・・・・。

 まあ16~17歳の多感かつ稚拙な思考の産物かもしれないが、早熟な天才詩人の感性は、アホな男子の想像力(妄想力)を喚起するに十分だったのかもしれない。

 

 画家として、詩人としてのマリー・ローランサンは、堀口大学とのエピソードなどから、なんとなくそれまでのエコール・ド・パリ派周辺の女流画家というポジションから、ちょっとだけ親和感が増したような気がした。まあそんなところだ。

アーティゾン美術館へ行く~マリー・ローランサン (2月14日)

 

 アーティゾン美術館「マリー・ローランサン—時代をうつす眼」を観てきた。

 個人的にはマリー・ローランサンはあまり興味がない。パステル色使いのいかにも乙女チックな雰囲気とかがなんとなくしっくりこない。さらにいえば、この人とココ・シャネルはパリがドイツ占領下にあった時に対独協力者だったとか、そういう話を聞いたことなどから。

 今回はというと、友人がアーティゾンに行ったことがない、マリー・ローランサンが見たいとそういうことだったので、まあチケットを取ってやったりとか諸々。友人、同い年でまだ現役でバリバリ働いているのだが、オンラインチケットの取り方とかそのへんになると一気に情弱になってしまう。まあそういうものだ。

 ちなみに自分は今回初めて知ったのだが、アーティゾン美術館は学生は無料だという。オンラインで予約をとり、入場口に学生証を提示すると無料で入れる。まあ一応通信教育とはいえ大学生なので、今回初めて利用させてもらった。しかしもう2年も高齢大学生しているのに、いわゆる学割とかそういうのを利用するのは初めてだったりする。まあいいか。

 

 

マリー・ローランサンについて

 マリー・ローランサンは時代的には、エコール・ド・パリ派の画家として括られる。ピカソがいたアトリエ兼住居アパート、通称洗濯船に集った芸術家とその周辺の画家の一人。有名どころでは、モディリアニ、シャガール、キスリング、パスキン、キース・ヴァン・ドンゲン、ユトリロ藤田嗣治あたりか。ローランサンはというと、このメンバーの中心にいた詩人、評論家のアポリネールと恋仲になった。若い芸術家たちのリーダーかつ理論的支柱ともいうべき人物の恋人にして、女流画家というある意味特別なポジションにいたということ。

 アポリネールとの恋愛は4年で終わったという。それはアポリネールが当時、ルーブルの「モナリザ」盗難事件の容疑者として収攬されたことなどが理由(のちに無罪となる)。その後もアポリネールローランサンを想い続けたとか。ローランサンはその数年後にドイツ人伯爵と結婚してドイツ国籍になる。第一次世界大戦が始まると敵性国民となったためスペインに亡命する。

 1920年に離婚してパリに戻り、その後は死ぬまでパリで過ごした。エコール・ド・パリ派の画家としては、比較的早くから絵が売れた人で、この頃のパリの上流階級の婦人たちの間ではローランサンに自画像を注文するのが流行したこともあったという。

 同時代的な部分で現在では絵や画家の評価はまったく違うのだろう。例えばモディリアニは当時はまったく売れなかった。それに対してキスリングなどは、当時から売れっ子画家だった訳だし。そして上流階級からの絵の注文という点でいえば、キース・ヴァン・ドンゲンやローランサンの絵もよく売れたということなのだろう。そういえば藤田嗣治もそこそこに売れっ子だったとも。

 マリー・ローランサンはある意味では生涯パリジェンヌだったのかもしれない。また絵の他にも彫刻や詩も多くの残している。

 第二次世界大戦中は、住んでいたアパートが接収されたり、戦後は対独協力を理由に一時期収容所に収攬されたこともあったとか。その後は家政婦だった女性を養女に迎え、1956年6月8日に亡くなったという。1983年、ユトリロと同じ年に生まれ、ユトリロは1年早い1955年に亡くなっている。ちなみにローランサンが亡くなった10日後に自分は生まれている。まあ本当にどうでもいい話だけど。

エコール・ド・パリ - Wikipedia

マリー・ローランサン - Wikipedia

 

 自分がマリー・ローランサンの名前を知ったのは実は絵よりも詩の方。それも落合恵子の歌に引用された詩の一文から。落合恵子は今では作家として、児童書専門店クレヨンハウスのオーナーとして知られているが、かっては文化放送のアナウンサーであり深夜放送のアイドルDJだった。彼女の人気から、エッセイ集が数冊出版され、レコードも出ていた。今の彼女にとっては黒歴史かもしれないが、その歌の中でローランサンの詩が引用されていた。

 ググると割とすぐに出てきたりする。便利な世の中である。

 

「一番哀れな女は、忘れられた女」・・・・・・

 作詞は落合恵子本人、作曲は小室等だった。

 引用されているのは「鎮静剤」という詩だ。今回の企画展で、フランス留学時代にマリー・ローランサンと交流があったという堀口大学の訳が有名だ。

鎮静剤
        マリー・ローランサン
堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

マリー・ローランサン「鎮静剤」

 

マリー・ローランサン—時代をうつす眼

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 マリー・ローランサンの大回顧展である。作品はほとんどが国内の収蔵品中心である。これは2019年に閉館したマリー・ローランサン美術館のコレクションが大きく寄与している。この美術館は個人コレクションから始めて、収蔵品は600点(油彩画98点)を超える規模となっている。現在は公開展示はなく、国内外への貸し出しを中心にしているという。

マリー・ローランサン美術館

 一般公開をせず、コレクションを他館に貸し出すのみで活動している美術館というと、スイス・プチ・パレ美術館を思い出すが、国内のマリー・ローランサン美術館もそうした道を選んだということか。

 昨今は円安の影響で海外からの作品を借り受ける費用も高騰している。まあ単純にいってしまえば、例えば100万円で借りることができた作品を150万円ださないと借りることができない時代なのだ。そういう意味では、今は例えばルーブルやオルセーなどから多くの作品を借りて大がかりな企画展を開くということは難しい時代なのかもしれない。

 今はキュレイションを駆使して、自館収蔵品や国内の収蔵作品を借り受けて企画展を行うというのが主流にならざるを得ないというところだろうか。それを思うと、マリー・ローランサン美術館のコレクションをメインにしたローランサンの回顧展は、地方に巡業してもいけるのではないかと思ったりもする。

 今回の企画展では、マリー・ローランサンの作品及び同時代の作品(アーティゾン収蔵品)を中心に57点が展示されている。

展覧会構成

序章  :マリー・ローランサンと出会う

第1章:マリー・ローランサンキュビスム

第2章:マリー・ローランサンと文学

第3章:マリー・ローランサンと人物画

第4章:マリー・ローランサン舞台芸術

第5章:マリー・ローランサン静物

第6章:マリー・ローランサンと芸術

気になった作品

《自画像》

《自画像》 1905年頃 油彩・板 40.0×30.0cm マリー・ローランサン美術館
《自画像》

《自画像》 1908年 油彩・カンヴァス 41.1×33.4cm マリー・ローランサン美術館
《帽子をかぶった自画像》

《帽子をかぶった自画像》 1927年頃 油彩・カンヴァス マリー・ローランサン美術館

 冒頭に自画像3連発である。実際はもう一枚正面から描いたものもあった。これを観ていると、彼女の絵のスタイルの変遷がよく判る。最初は習作的かつ写実風。美人だけど個性的かつある種の意思の強さがよく表れたポートレイト。次はちょっとモジリアニ風で、おそらくエコール・ド・パリの他の画家のスタイルを取り入れ、自分のスタイルを模索していた頃。そして最後の帽子のは、独自のスタイルを確立した頃ということになるのだろうか。

 彼女のスタイルはパステル調で、水彩画のような淡い雰囲気を油絵で出すみたいなところに特色があったのかもしれない。ちょうど藤田嗣治が油彩画で日本画的な細かい線を描いたのと同じような。

《椿姫 第1図》

《椿姫 第1図》 1936年 水彩・紙 20.9×16.4cm マリー・ローランサン美術館
《椿姫 第9図》

《椿姫 第9図》 1936年 水彩・紙 23.2×19.0cm マリー・ローランサン美術館

 デュマ(子)の書いた小説『椿姫』のために描かれた挿絵だ。彼女の淡いパステルーカラーのタッチのイラスト風な雰囲気が水彩で美しく描かれている。やっぱりこの人は水彩画のような油彩画を描いた人という感じがする。

《手鏡を持つ女》

《手鏡を持つ女》 1937年頃 油彩・カンヴァス 46.3×38.4cm アーティゾン美術館

 実はこの作品が一番気に入ったかもしれない。淡いピンクを基調としたパステルカラーのローランサンからすると、かなりカラフルな色使いだ。一緒に行った友人は、こうした多色を使ったものよりも、色を少なくした感じの方が良いと言っていた。たしかにそっちがローランサンの本流かもしれないが、この鮮やかな色使いが妙に気に入っている。

《二人の少女》

《二人の少女》 1923年 油彩・カンヴァス 64.9×54.2cm アーティゾン美術館
《プリンセス達》

《プリンセス達》 1928年 油彩・カンヴァス 130.0×130.0cm 大阪中之島美術館
《三人の若い女

《三人の若い女》 1953年頃 油彩・カンヴァス 97.3×131.0cm 
マリー・ローランサン美術館

 おそらく今回の企画展でも一番の目玉的な大型の作品である。ある意味、マリー・ロラーンサンの集大成ともいうべき作品か。ただどちらかといえば、この人は大画面作品よりも小ぶりの小品のほうがなんとなくしっくりくるような気もしないでもない。やはり淡いパステルカラー、イラスト調の特色は大画面でインパクトを与えるのではない。なんていうのだろう、会場芸術よりも卓上芸術みたいな感じがしないでもない。

 とはいえ、マリー・ローランサンはこれまでずっとなんとなく敬遠していたような部分もあるが、ちょっといいかもと思ったりもした。芸術性とか美術史における位置づけとかそういう部分は除いても、美的かつ詩情感の漂う美しい絵。そういう部分、もっと評価してもいいのかもしれないと思った。

 個人的にはエコール・ド・パリ派の画家としては、絵が売れた人、上流階級の婦人たちに評価されるスノビズムとその背景に潜む、実は色彩感覚豊かでポップな部分、ほどよいデフォルメ感などで、マリー・ローランサンとキース・ヴァン・ドンゲンを同じような括りでとらえたいと思う。もちろんいい意味で。

府中市美術館~現代アート体験 (2月8日)

「芸術」から「アート」へ

 20世紀後半頃から、それまでの「美術」、「芸術」という言葉に代わり、「アート」という言葉がマスメディアで用いられるようになってきた。英語やフランス語における「art(アート/アール)」という言葉が、絵画や彫刻といった既存の芸術ジャンルを総体的に示す言葉から、広義での制作行為や創造的行為を含む抽象的な意味合いをもつようになった。それは「アート」という言葉よりも適切には「アートなるもの」といった方が正しいかもしれない。

 そして「アートなるもの」の需要者は、より広い意味での資本主義社会にあっては、消費者として「アートなるもの」を体験的に消費していく、多分そういうことなのかもしれない。

 「アート」してみるとか、美術館で「アート」を体験したとか、それは「アートなるもの」=コンセプチュアルな商品を消費したということになるのかもしれない。

 

 我々が美術館で鑑賞する伝統的な「絵画」や「彫刻」は、それが具象であれ、抽象であれ、これまでの芸術史の延長線上で展開されてきたものである。それとは異なるものとして、20世紀後半以降に生まれたコンセプチュアル性の高い創造物を受容するために、我々はある意味便宜的に「アートなるもの」という言葉を用いて、それを消費していると言い換えてもいいかもしれない。

 

 ニワカ、半可通なまま、芸術作品を受容してきた者は、理解のための多少の努力と、判ったフリをしていくために、必死に受容のための前提条件的なものを事前に、あるいは後付け的に用意していく必要があるのかもしれない。複雑で、もろもろとこんがらがった世の中である。コンプレックス、あるいはソフィスティケートされた社会に過ごすことの生きづらさみたいな部分でもある。

 

 多分、受容者が感じる居心地悪さと同じ文脈で、実は製作者はより困難なものを感じているのかもしれない。具象であれ、抽象であれ、コンセプトであれ、ミニマルであれ、ある意味先駆者によって蹂躙された荒野で、途方に暮れて立ち尽くす。多分そうした地点から新たなものを生み出すなくてはいけないのかもしれないから。

 新しいものが全てにおいて正しい。古きものへの反逆もまた正である。造反有利。20世紀の中庸以降において、そうしたスローガンがいくつも現れた。それはすぐに何かにとって代わられる皮相なものだったかもしれないし、今ではどちらかといえばメインストリームになってしまったものもるかもしれない。

 ただし一つだけいえることは、「新しいもの」を排除しては多分いけないのだろうし、それを受容する、あるいは理解不能だとしてもとりあえずその存在を認知する感受性を持ち続けることが必要かもしれない。

 老境にあって新しいもの、理解不能なものに接するのは辛い。でも排除することだけはしない。とりあえず、いつもとりあえずだけど、いったん保留、判断保留、永遠に保留であり続けるにせよ、スルーする程度のことは必要かもしれない。排除ではなく便宜的にスルーする。

 

 自分は何を言いたいのか。多分、特に言いたいこともないし、思考停止状態をダラダラと述べているだけのような気もする。ようは新しいもの、理解不能なものに接したとまどいをグダグダしているだけのことなのだろう。

 

白井美穂 森の空き地

 府中市美術館で行われている「白井美穂 森の空き地 Miho SHIRAI Clearing in Wood」なる企画展を観てきた。

白井美穂 森の空き地 東京都府中市ホームページ

  

 残念ながら年老いて錆びついた感受性には理解不能な「アート」かもしれない。多分、インスタレーションなのだろう。自分なりに了解可能領域に引き戻せばそういうことだろうか。インスタレーション、いろいろな意味合いが込められるが、まあ一言でいえば「設置・空間展示」みたいな理解になる。

インスタレーション

「設置」という意味。1970年頃から試みられるようになった現代芸術の形式で、屋外屋内を問わず、永続的な存在を前提としない造形作品を設置すること。美術館に通常美術作品と見なされないようなものが設置されたり、あるいは逆に通常作品を展示する空間ではない場所に作品が設置されることで、その場所の意味を変化させるのみならず、その場の時間や環境の中で新たな意味が生じることを目的としている。また展覧会のように一時的な場を前提とするものだけではなく、撤去をせず自然崩壊などの時間的変化そのものを視野に入れる場合もある。従って基本的には写真やヴィデオなどの映像としてのみ残ることになり、それ自体が市場において取引されることはない。(岩波西洋美術用語辞典)

 そして白井美穂の美術館入口に設置してあった作品。

 

 

 

 結局のところ、芸術作品の受容はまあひとことでいえば、それを「面白い」と思えるかどうか、多分にそこに尽きるのかもしれない。

 「考えるより、感じろ」

 ブルース・リーとフォースが教える普遍的なテーゼだ。

 理屈でいえば多分なんとでもなるだろう。空間の連続、延長、想像力的な広がり、あるいは断絶とか。まあニワカなのでこれ以上は何も言わない。面白いか面白くないかでいえば、多分面白い。

 2階の展示作品も概ね面白かった。「不思議な国のアリス」を翻案したようなビデオ作品もチープな作りながら、面白さは伝わった。かって大林宣彦が「HOUSE ハウス」でやってみせたようなチープな作りによる乾いた笑いに通じるような。

 ただし白井美穂を絶賛するかといえば、これもまた判断保留。多分、記憶にとどめるけど、容量の少ない老人の脳的ストレージには限界がある。どこかでまた作品を観たときに、これってどこかで観たなと思える程度かもしれない。

 そして繰り返しとなるけど、理解し得ないことを理由として拒絶はしない。どちらかといえば作品が理解を求めていないような気もしているので、とりあえず判断保留。

 

髙田安規子・政子

 

第88回公開制作 髙田安規子・政子 東京都府中市ホームページ

 

 公開制作としてガラス張りのスタジオの中でアーティストがなにかを作っていた。囚人もとい衆人環視の中で制作を行う。芸術家=アーティストも大変だ。

 高田安規子・政子・・・・・・、何か聞き覚えがある。どこかで聞いた、観た覚えがある。

 ポーラ美術館だっただろうか。

ポーラ美術館「部屋のみる夢」 (3月30日) - トムジィの日常雑記

 そのときのインスタレーション作品に独特の静謐感を感じて、けっこう印象的に覚えていた。そして偶然に作者のこうしたパフォーマンスに遭遇する。結局、美術館で作品に接するというのはこういうことなんだろうなと思ったりもする。

 なにやら芸術的な空間を構成し、その中の作品の一部をパフォーマンスしているような双子のアーティストさん。いったいどんな作品が創られていくのかどうか。多分、この公開制作は、その制作の過程、アーティスト自体が作品の一部を構成することになるのだろうか。興味深いものはあったが、閉館間際だったのであくまでチラ見的な感じだった。

 しかしこういう公開スタジオみたいなものって、観る者はどこか覗き見的な部分があり、ちょっとした罪悪感のようなものを思ったりもする。それもまたある種の計算された趣向なのかもしれないと思ったりもしたけど。

「印象派 モネからアメリカへ」 東京都美術館 (2月1日)

 東京都美術館で始まったばかりの「印象派 モネからアメリカへ —ウスター美術館所蔵—」を観てきた。

 

企画展概要とウスター美術館のもろもろ

【公式】印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵 (閲覧:2024年2月4日)

 

 2024年は第一回印象派展(1874年)が開かれてから150周年になるのだという。それに当てつけて—もとい—因んで印象派展がいくつかあるようだ。先だって大盛況だった上野の森美術館の「モネ 連作の情景」展もそんな触れ込むだったか。

 

 今回の企画展が新しい切り口は、印象派アメリカでの受容ー「アメリカ各地で展開された印象派の諸相」にスポットライトをあてるというもの。さらには印象派をフランス印象派の優位性だけに着目するのではなく、各地での受容として国際的なパラダイムの中で捉えようとしている。そのためフランスのよく知られる印象派の大家たち(モネ、ルノワールピサロシスレーなどなど)だけでなく、アメリカの印象派の画家、さらに北欧やドイツ、さらに日本の印象派として、黒田清輝や久米桂一郎から始まり、斎藤豊作、太田喜二郎、児島虎次郎などの作品も紹介している。

 とはいえメインはウスター美術館所蔵ということで、目玉となるのはアメリ印象派の作品ということになる。よく知られるアメリ印象派といえば、チャイルド・ハッサムだと思うし、今回も4点が紹介されているが、その他にも多くの印象派的な画風の作家がいる。それでもアメリ印象派を紹介する企画展はこれまでもあまりなかった。そういう意味で、アメリ印象派をまとまった数で紹介するという点で嚆矢となる魅力的な企画展でもある。

 

 しかしそもそもウースター美術館って・・・・・・。

ウスター美術館について

ボストンから西へ約70キロ、アメリカ・マサチューセッツ州第2の都市ウスターに位置するウスター美術館は1896年、地元の篤志家スティーヴン・ソールベリー3世らが中心となって設立しました。

1898年の開館以来ウスター美術館は、古代から現代まで、時間と空間を超えるおよそ40,000点のコレクションを気づいてきました。

『図録』ー ウスター美術館について 

Worcester Art Museum  (閲覧:2024年2月4日)

 

 マサチューセッツといえば古い世代からするとついビージーズを口ずさんでしまう。それ以外はなにかといえば、やっぱりボストンだ。ボストンといえばレッドソックスだし、美術的には岡倉天心も勤めていたこともあるボストン美術館である。明治期にモース、フェノロサ、ピゲロー等が渉猟した国宝級の作品により、一大日本美術コレクションが形成されている。ときどき里帰り的にボストン美術館所蔵展が企画されていたりもする。

 あと名古屋にボストン美術館の姉妹館があったりして貸出作品による企画展が多数行われていた。惜しむらくは2018年に閉館してしまっている。

 ということでマサチューセッツといえばボストンな訳で、ウスターってなんだということになる。ことによるとあのウスターソースなのかと思ったのだが、あれはイギリスのウースターシャー州にある都市ウスターが発祥なのだとか。地図で確認するとオックスフォードの北東、バーミンガムの南に位置している。そしてアメリカのウスターは姉妹都市になっているのだとか。

 どうでもいい話が続くけど、一般的にはウスターは「ウースター」もしくは「ウォースター」と発音するみたい。試しにGoogle先生に「Worcester」と発音させてみましたが、どう聞いても「ウスター」ではない。

 ということでウスターは「ウースター」であり、けっしてウスターでもウスターソースとも関係はないのだが、ひょっとして、まさか、グッズにウスターソースはないだろうと思ったのだが、残念ながら展覧会記念でありました。これは悪乗りでしょ。

 

 

印象派コレクションのフロンティア

 アメリカでのフランス印象派の受容は二人の人物の寄与するところ大きい。一人は初期から印象派の画家を支援していた画商ポール・デュランである。彼は1883年にボストンでの展覧会を開催、1886年に289点の作品をニューヨークで展示するなど印象派作品を多数輸出した。さらに1887年にはニューヨークに支店を開設し、アメリカの収集家や美術館に作品を売り込んでいった。

 一方で、パリに滞在するアメリカ人として唯一印象派展に参加したメアリー・カサットは、母国の実業家に印象派を紹介し、作品の購入を仲介した。もともとアメリカの資産家の令嬢であるカサットにとって、アメリカの富裕層との間ではある種の金満ネットワークがあったのだろう。

 デュラン、カサットらによって、多くの印象派作品がアメリカに輸出され、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアなど東部の資産家の間でコレクションが築かれていった。一方で美術館でのコレクションは遅れをとり、20世紀初頭にあっても印象派絵画の購入は少なかった。

 1909年、ウスター美術館はメアリー・カサットの作品を購入した。それはニューヨークのメトロポリタン美術館と並んでカサット作品を最初にコレクションした最初の美術館のひとつであったという。

メアリー・カサット

《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーベル》 メアリー・カサット 1902-03年
 油彩・カンヴァス 68.1×57.3cm ウスター美術館蔵

 いつものカサットの母子像である。ただなんとなくその筆致はカサットの従来のものよりも、どこかルノワール的である母の顔、赤ん坊の髪の表現など、なんとなくそんな雰囲気が漂っている。モデルの女性レーヌ・ルフェーベルはカサットの別荘のコックで、赤ん坊の母親ではない。

モネ《睡蓮》

 ウスター美術館はカサット作品を購入した翌年、デュラン=リュリエル画像からモネの絵画2点を購入する。それはモネ作品を最も早くにコレクションしたアメリカの美術館でもあったという。それが今回の展覧会の目玉の一つでもある《睡蓮》である。

《睡蓮》 クロード・モネ 1908年 油彩・カンヴァス 
94.8×89.9cm ウスター美術館蔵

 美しい《睡蓮》だ。この淡い青を基調として紫の花が添えらえている。《睡蓮》の連作は長期間にわたっているが、この淡い青のものはあまり観たことがない。構図的には図録でしか観たことはないがシカゴ美術館所蔵のものが近いような気もする。

 1908年というとモネは68歳のはず。その後72歳のときに両目を白内障と診断されている。次第に病状は悪化し、それにつれてモネの絵は具象性を失い多色の筆触による抽象画の様相を帯びる。この絵はまだ眼病がさほど進んでいない時期のものといえるかもしれない。

 しかしモネの《睡蓮》はいったいどのくらいあるのだろう。睡蓮をモチーフにした作品は1899年から描き始め、おおよそ200点が残されているという。

睡蓮 | コレクション | ポーラ美術館  (閲覧:2024年2月4日)

 1905年には、デュラン=リュエル画廊で「睡蓮、水の風景の連作」という個展が開かれ48点が展示され大成功を収めたという。その出品リストは、三菱一号館で開かれたイスラエル博物館所蔵「印象派・光の系譜」展の図録に収録された「ジヴェルニーの『水の庭』の生成と、『睡蓮:水の風景連作』展」(安井裕雄ー三菱一号館美術館上席学芸員)に詳しく紹介されている。

 そのリストには国内の美術館に所蔵された作品も、アーティゾン、和泉市久保惣記念美術館、ポーラ、DIC川村、東京富士など5点があげられている。そして今回のウースター美術館の作品もこのリストにある。

 しかしおおよそ200点あるという睡蓮の連作、どんなものがあるのだろう。試しにウィキペディアググると《睡蓮》だけで項目ができている。

睡蓮 (モネ) - Wikipedia

 多分、両手くらいは実作を観ているはずだとは思う。しかし個人蔵作品はおそらく日の目を見ることないだろうし、もはや1905年の48点も一同に会すこともないだろう。

アメリ印象派

 今回の企画展はアメリ印象派の画家作品を多数紹介しているということが売りでもある。印象派以外の作家を含めておおよそで10数名の作品が展示してある。

 アメリ印象派の画家は19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ東部で美術を学び、その後フランスやドイツに留学して、当時のヨーロッパの思潮に触れ、印象派の画風を受容して帰国。その後は母国アメリカの美を見出すように促されて、アメリカの大自然や都市生活などを主題に描くようになっていった。

 その中で、ボストンやニューヨークで活動する10人の画家たちが、アメリ印象派グループとして「テン・アメリカン・ペインターズ」(通称ザ・テン)の展覧会を開催し、以後約20年にわたって活動を続けた。

テン・アメリカン・ペインターズ - Wikipedia  (閲覧:2024年2月4日)

テン・アメリカン・ペインターズのメンバー

 その10人のメンバーとその留学歴をざっとメモしてみる。

        フランク・ウェストン・ベンソン - Wikipedia

チャイルド・ハッサム

 アメリ印象派の代表選手でもある。この人の作品はウェブサイトでも様々な形で紹介されることもあり、またこれまで観てきた企画展でも1~2点展示されたりもする。アメリカの印象派の先駆者でもあり、商業的にも芸術的にも大きな成功を収めた。非常に多作の人で、その画業はおおよそ3000点にものぼるという。

 今回の企画展の目玉の一つは、チャイルド・ハッサムの作品がまとまって観ることができるという点でもある。

花摘み、フランス式庭園にて

《花摘み、フランス式庭園にて》 チャイルド・ハッサム 1888年 油彩・カンヴァス 71.1×55.1cm ウスター美術館蔵 

 ちょっとマルタンやシダネルの雰囲気があると感じたが、考えてみるとハッサムは1959年生で、マルタンより1つ上、シダネルより3つ上である。ほぼ同時期にパリで画塾に通い、印象派の洗礼を受けていた同時代の画家だった。

 おそらくハッサムは多くのフランスの画家、あるいはパリに集まった異国の画家(の卵)たちと切磋琢磨して新しい技術、画風、画題を学んでいたのだろうか。

コロンバス大通り、雨の日

《コロンバス大通り、雨の日》 チャイルド・ハッサム 1885年
 油彩・カンヴァス 43.5×53.7cm ウスター美術館

 パリから帰国後、ボストンの開発されたばかりのサウスエンド地区コロンバス大通り沿いに居を構えたハッサムが都市生活をとらえた作品。今回、紹介された作品の中では割と好きなもののひとつ。正面に捉えられた馬車の後ろ姿と右端の傘を差した男性にだけピントがあっている。これってスケッチしたものだろうか、なんとなく写真かなにかを元に再構成したような、そんなことを想像させる。

 こうした都市のスケッチはどこかカイユボットを想起させる部分もある。あとイスラエル博物館所蔵展で観たレッサー・ユリイにこんな色調の都市スケッチがあったようなうっすらとした記憶がある。レッサー・ユリイも1861年生でハッサムと同時代人。おそらく同時期にパリを訪れているはずだ。

 しかし新興都市ボストンの情景ながら、どこかパリ的なものを感じさせる。

シルフズ・ロック、アップルドア島

《シルフズ・ロック、アップルドア島》 チャイルド・ハッサム 1907年
 油彩・カンヴァス 63.5×76.2cm ウスター美術館

  これはもう完全にモネの《エトルタ》である。このアップルドア島はニューハンプシャー州メイン州の海岸から15キロ離れた島嶼の一つだ。多分、ここを訪れたハッサムは、「これはエトルタだ」と叫んだかどうかは知らないが、クールベ、コロー、ヴーダン、モネらが画題にした奇崖との類似を感じたのではないか。

朝食室、冬の朝、ニューヨーク

《朝食室、冬の朝、ニューヨーク》 チャイルド・ハッサム 1911年 油彩・カンヴァス 63.8×76.5cm ウスター美術館

 二度目の渡欧から帰国した後、ハッサムはニューヨークに定住した。近代的な大都市に変貌を続けるニューヨークで、ハッサムは都市生活を画題にしたという。部屋に佇む女性を描いた<窓>シリーズの連作を1909年から1922まで手掛けている。この窓の向こうにうっすらと描かれているのは竣工されたばかりの摩天楼の一つ、フラットアイアン・ビルディング。女性が着ているがうんはどこか東洋風。

その他の気に入った作品

キャサリンチェイス・プラット

《キャサリンチェイス・プラット》 ジョン・シンガー・サージェント 1890年
 油彩・カンヴァス 101.9×76.7cm ウスター美術館蔵

 見事な素晴らしい作品だと思うし、とにかく心惹かれるものがある。ヨーロッパで活躍したアメリカ人画家サージェントは、たびたび帰国するたびに肖像画の依頼が殺到したという。ある意味凱旋帰国した自国人画家にぜひ肖像画を描いてもらおうと、そういうことだったのだろう。

 この作品はウスター美術館の館長代理を務めたこともあるフレデリック・プラットが娘のキャサリンを描いてもらために、ウスターにサージェントを招いて依頼したもの。ただし作品をプラットは気に入らなかったため、本作は未完のままで終わったのだとか。素人目にはどこが未完なのだろうと思ったりもするけど。

ルーアンラクロワ島

ルーアンラクロワ島》 カミーユピサロ 1883年 油彩・カンヴァス
 54.3×65.5cm ウスター美術館

 ちょっとシスレー的な趣もあるけど、ピサロのまさに印象派的な作品。手前の船置き場、遠くのアーチ型橋、そして対岸の工場と煙突。自然と近代化の対比うんぬんとかいいたくなるが、ここでは普通に水辺の風景の一ショットというべきか。

 アプリで絵画作品の価格当てクイズみたいなものがある。二つの絵を表示させて、どちらが高いかを当てるというものだ。その中でもう鉄板というのか、ピサロシスレー、そして北斎などの浮世絵は、必ず安いということが定式化されている。勝つのはセザンヌゴッホであったり、クリムトであったり、モジリアニであったり、エゴン・シーレであったり。ことほどさようにピサロシスレーは低く、安く見られているいるようだ。もっともゴッホクリムトが〇百億に対して、ピサロシスレーが一億から少し欠ける数千万というところで、もちろん庶民にとっては高価であるのは決まっている。

 かって、ピサロが息子に送った書簡の中で、なぜ自分やシスレーがモネやルノワールに比べてひどく評価が低いのかと嘆いているのを読んだことがある。いつの時代でも比較すると彼らの絵の評価は低いのである。なぜか、たぶん美しい絵であることはわかるが、どこか凡庸であり、個性的でないということなのかもしれない。まあこれは個人の感想だ。

《風景》

《風景》 斎藤豊作 1912年頃 油彩・カンヴァス 
65.2×80.3cm 郡山市立美術館

 日本における印象派の受容いうことで展示してあった。点描表現である。この作品の解説に、1906年斎藤豊作が渡仏してラファエル・コランに師事したが、翌年アンリ・マルタンの絵画に接して感銘を受けて、点描技法への関心を深めたとある。

 斎藤豊作はマルタンか。ちょっと合点がいったというか、なるほどと思ったりもする。それを考えるとこの絵は斎藤の点描技法の習作ということになるのだろうか。

オリーヴの木々

《オリーヴの木々》 ジョルジュ・ブラック 1907年 油彩・カンヴァス 
37.9×46.4cm ウスター美術館蔵

 ジョルジュ・ブラックフォーヴィスム。その一点でなんとなく面白く思った。1月28日まで西洋美術館でやっていたキュビスム展で沢山出品されていた、あの幾何学てんこ盛りのブラックにもこういう時代があったのかと、そのへんが面白く思いましたね。

 いろいろ新しい表現、技法を模索するなかで、ブラックはフォーヴィスム的な色彩表現にも手を染めたというか、ある種の習作的な作品なのかもしれない。でもブラックにもこういう時代があったのかと。

 その点でいうとピカソフォーヴィスム的な作品ってあっただろうかと。ちょっとすぐに出てこないし、あるいはあまりその手の作品はないのかもしれない。ピカソマティスをリスペクトしていたようだし、マティスの表現を肯定的にとらえている。でも自らああいう表現は行わなかった。なんとなく適当に思うに、ピカソは色彩の効果とか色彩による表現の爆発みたいなものには無頓着というか、あまり興味がなかったのかもしれない。

 これは近代美術館でのピエール・ボナールの作品のキャプションかなにかにあったけど、マティスはボナールの色彩感覚を鰓評価していたのたいして、ピカソはボロクソのように言っていたとかなんとか。なんとなくそれがストンと落ちるというか理解できる。ボナールは色彩の魔術師のようにいわれることもあったようだけど、多分そういう部分ピカソは好きじゃなかったし、関心もなかったのかもしれない。

 ルネッサンスの時代から、対象の形態性を線素描で描いていくディセーニョを重視するミケランジェロなどフィレンツェ派に対して、筆致と色彩を重視するヴェネツィア絵画—ティツィアーノらの対比があったと思う。形態を分析総合し立体的に把握するキュビスムと対象の再現性を排して色彩の効果を最大限に生かした平面性のフォービスム。このへんはけっこう絵画世界の永遠のテーマかと、ニワカ的に夢想してみたりする。

 とりあえず若きブラックの試行錯誤作品というところだろうか。

ナタリー

《ナタリー》 フランク・ウェストン・ベンソン 1917年 油彩・カンヴァス 76.2×63.5cm ウスター美術館蔵

 いい絵だと思う。ひょっとしたら今回の企画展の中でも一番気に入った作品かもしれない。秀逸な肖像画は人物の内面性を浮かび上がらせる。ベンソンはモデルの貴意のある高い精神性を表出させている。結局、良い絵かどうか、観るものにインパクトを与えるのは、そういう精神性の発露みたいな部分もあるのかもしれない。

 この絵はベンソンが家族旅行で訪れたワイオンミング州の牧場で制作されたものだ。図録には牧場で椅子に座ってイーゼルに向かうベンソンと気の柵に腰をかけているモデルを写した写真も掲載されている。

 この《ナタリー》はアメリ印象派というカテゴリーよりもリアリズム作品という感じがする。そう、どこかワイエスなどに通じるアメリカン・リアリズム的なものだ。

今後の巡回スケジュール

 「印象派 モネからアメリカへ  ウスター美術館所蔵」展は東京都美術館で4月初旬までのロングランで展開する。それ以降3ヶ所で巡回予定。

[東京展]

2024年1月27日(土)~4月7日(日)

東京都美術館

[郡山展]

2024年4月20日(土)~6月23日(日)

郡山市立美術館

[八王子展]

2024年7月6日(土)~9月29日(日)

東京富士美術館

[大阪展]

2024年10月12日(土)~2025年1月5日(日)

 一館で2ヶ月~3ヶ月弱というロングランで展開されていくようだ。首都圏近郊に住んでいる自分などは、ワンチャン東美でもう一度観るかもしれない。なんなら夏に富士美でもう何度かチャンスもありそうである。アメリ印象派作品に触れる機会などあまりないので、何度か足を運びたいと、そう思わせる企画展だ。

たましん美術館「邨田丹陵-時代を描いたやまと絵師」 (1月31日)

 

 立川で友人に連れて行ってもらった。

 たましん歴史・美術館、初めて聞く美術館。多摩信用金庫を母体とするたましん地域文化財団が運営する美術館。

たましん地域文化財団 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

【予告】企画展「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」1月13日(土)開幕

(閲覧:2024年2月3日)

 

 

 邨田丹陵、初めて知る画家だ。

邨田丹陵 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

邨田丹陵 :: 東文研アーカイブデータベース (閲覧:2024年2月3日)

 武者絵を得意とするやまと絵師川辺御楯に弟子入りし10代で頭角を現す。川端玉章が川辺御盾に働きかけ、後進の育成のために結成された日本青年絵画協会に丹陵は19歳で参加した。日本青年絵画協会は会頭に横山大観が就任し、寺崎広業、小堀靹音らも参加。

 明治5年(1872年)生まれの邨田丹陵は、明治元年(1868年)生まれの横山大観より4歳下でほぼ同時代人である。また寺崎広業は義兄にあたる。

 日露戦争には寺崎広業とともに従軍し、多くの戦争報道画を描いた。また多くの展覧会で受賞を重ねたが、明治40年(1907年)の第一回文展で3等賞を受賞後は中央画壇から遠のいた。晩年は東京府北多摩郡砂川村に居住。立川市にとっては郷土の画家ということになる。

 画力に優れ、有職故実に即した細密な歴史画、武者絵が多い。絵の雰囲気は武者絵はなんとなく小堀靹音と同じような感じがする。女性を描いた絵には、同じようにやまと絵に傾倒した伊藤小坡と同じような雰囲気もある。

 近代、明治以降のやまと絵は教科書や近代美術史の書籍などでも触れられることが少ない。せいぜい小森靹音や梶田半古の門下である安田靫彦前田青邨、松岡映丘らの歴史画にその影響の跡をみるなど。

 邨田丹陵やその師の川辺盾山など、いわゆるやまと絵師は、本当に美術史の本でも記述がない。手元にあった草薙奈津子の『日本画の歴史 近代篇』にもまったく記載がない。邨田丹陵が忘れられた画家というよりも、近代日本画史においてやまと絵自体が忘れられた存在になっているようだ。とはいえ明治から昭和初期にかけて、やまと絵は大観らの日本美術院系の画家たちの総称である新派に対するいわゆる旧派の一ジャンルとして、それなりの勢力を持っていたのではないかと思ったりもする。

 近代におけるやまと絵、そういう企画展があれば観てみたいような気もする。細密な描写にすぐれた画力ある画家が、それも忘れ去られた画家が沢山いるのではないかと思ったりもする。

 今回の邨田丹陵の絵、みな見事な美しい絵ばかりである。ただし、その細密描写の絵はどこかただ上手いだけの絵みたいな感じがしないでもない。なんていうのだろう、我々が近代の歴史画、特に安田靫彦前田青邨らの絵から感じるような緊張感あふれる画面やある種の精神性みたいなものはやや希薄なようにも思わないでもない。まあちょっとした思いつきの類ではあるが、そのへんが芸術家と職人的な絵師の差でもあるのかもしれない。

 

小早川隆景公仮寝図》 明治35(1902)年 紙本着色 109.5×41.3 三原市所蔵

 

聖徳記念絵画館壁画下図「大政奉還」》 昭和9年(1934年)  76.0×65.3 明治神宮蔵 

キュビスム展 (1月25日)

 28日に終幕した西洋美術館の「キュビスム展」に25日に行ってきた。

 この展覧会は開幕してすぐの10月に行っている。

キュビスム展美の革命 (10月12日) - トムジィの日常雑記

 大型企画展なので出来ればもう一度と思っていたので、閉幕ギリギリのところで滑り込んだ感じ。

 くわしい感想は前回のときにあらかた書いているので、なんとなく補遺的なものを書いておく。

キュビスムの変容的なもの

若い女性の肖像》 パブロ・ピカソ 1914年 油彩・カンヴァス 130×96.5cm
MNAM-CCI 

 この企画展を評したどなたかが、キュビスム創始者ピカソとブラックのうち、ブラックは最後までキュビスムにとどまりこだわり続けたが、ピカソは早々にそれを乗り越えて新しい地平を切り開いていったみたいなことを書かれていた。だいぶ表現は違うが、たぶんそういうような意味だったような記憶が。

 そういう意味でいえばこの作品などはまさにそう。もはやこれはキュビスムとはいえないし明らかに抽象絵画への接近だろうか。ピカソカンディンスキーみたいな趣がある。まあコラージュされた具象は総合的キュビスムの名残り的ではあるけれど。

 

《輪を持つ少女》 パブロ・ピカソ 1919年 油彩、砂・キャンバス 142.5×79cm
MNAM-CCI

 当初のキュビスムが持っていた多視点、多面性からの立体表現、ある種の2次元としての絵画の中に3次元を取り込むイリュージョンはここにはない。平板な抽象的な色面的コラージュ、かといってドローネーのような鮮やかな色面による多面性もない。暗い落ち着いた色調のなかでピカソは対象を記号的な抽象の組み合わせにしてしまおうとしているような感じさえする。キュビスムから抽象へということにピカソの関心があったのかなどと考えてしまう。

 

《ギターを持つピエロ》 ファン・グリス 1919年 油彩・カンヴァス 90×73cm MNAM-CCI

 ファン・グリスもまたじょじょに多面性、多視点から別のフェイズに移っていったように感じさせる。これは抽象画というよりも対象を単純化したある種のデザインのようにも思える。下部の床(?)の文様にしろ、背景の抑えた色調にしろ、どこか形象を単純化させた晩年のマティスみたいな雰囲気さえある。ピエロのやや角ばった表彰はレジェのそれに近い。さながら単純化されたロボットのような。マシンエイジとそれに続くコルビュジェの抽象画と同じ匂いがする。

ドローネー《パリ市》

《パリ市》 ロベール・ドローネー 1910-1912 油彩・カンヴァス 267✕406

 

<同時主義(シミュルタネイスム-simultanéisme)>

時間と空間の相互連関的な変化相を、同一画面に同時に表現しようとした美術上の主義。20世紀前半、フランスの画家ドローネーやイタリア未来派などが試みた。同時主義。

 この絵では近代的なエッフェル塔ギリシャ神話的な三美神、さらにアンリ・ルソーのプリミティブ的なモチーフ(左側の船や橋の部分)などを同一画面に分割的に描いているという。さらに三美神はピカソの《アヴィニョンの娘たち》のようにアフリカ芸術の彫像のような趣をみせている。

 切子のような、プリズムのような表現で対象を分割する表現で描かれる三美神は近接して観ると異形な雰囲気だ。

 

 全体として三美神、分解されたエッフェル塔の部分、三美神の背景の緑は自然的な風景であり、右側は拡大されたモダンな建物の分割、左側はルソーの船とヨット、さらにその後景には町の建物、その向こうには山々が連なる。どこか静的な詩情を漂わせるところは、アポリネールが評価したオルフィスム(オルフェウス的=詩情的)によるキュビスムということになるのだろうか。

 

 キュビスムセザンヌの提唱したフォルムの幾何学的形象化をもとに、多視点から分割された対象を一画面に表現することから始まり、さらには同時主義のように時間軸や空間軸の位相を同時に表象する、さらに時間的な変化を一画面に描くなど様々な発展形があった。

 運動を連続撮影する写真技術を応用して、対象の連続的な動きを描いたのはマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸体》シリーズだった。その発展形にはスピードのダイナミズムを作品化したジャコモ・バッラなどの未来派がある。

 今回の展覧会でもそうした運動のダイナミズムに挑戦した画家としてミハイル・ラリオーノフの作品が紹介されている。

《散歩:大通りのヴィーナス》 ミハイル・ラリオーノフ 1912-1913年 
油台・カンヴァス 117×87cm  MNAM-CCI

ミハイル・ラリオーノフ

ロシア・アヴァンギャルドを代表する画家で、レイヨニスム(光線主義)の創始者として知られた。1898年からモスクワの絵画彫刻建築学校に学び、生涯の伴侶となるゴンチャローワに出会う。最初は印象派風の画風を見せたが、1906年にサロ・ドートンヌへの参加を通じてフランスの現代美術に触れると、1908年からは国際的に活躍する前衛芸術家たちとともに「金羊毛」展に参加。しかし次第にフランス美術の模倣をやめ、ロシアの民衆芸術に触発されたネオ・プリミティヴィスムへと転じていく。1910年には、美術にオケルロシア・アヴァンギャルドの黎明期を代表する「ダイヤのジャック」展をゴンチャローワらとともに組織し、これをすぐに離脱すると、1912年にはより急進的な「ロバの尻尾」展、翌年には「標的」展を開催した。この頃ラリオーノフが実践したレイヨニスムは、キュビスム未来派、オルフィスムに立脚した新たな芸術様式で、無数の光線が画面内に行き交う、抽象絵画の先駆けともなる表現といえる。カジミール・マレーヴィッチらとともに、キュビスムから多くを学んだ立体未来主義を推進するなど、ロシアの前衛芸術運動の発展に大きく貢献した。

『図録』P243より

  そしてこの人のプリミティズム的な作品が多分これだろうか。

《春》 ミハイル・ラリオーノフ 1912年 油彩・カンヴァス 86.5×68.2cm
 MNAM-CCI

 どのへんがプリミティブかというと多分この辺ではと適当に思ったり。

 

 この雑さはまさにプリミティブ的。これは犬か、猪か、多分犬なんだろうな。

 ラリオーノフは1915年にロシアを離れ、ロシア革命後は長くフランスで過ごし一生を終えた。もしもロシアに戻っていたら過酷な後半生が待っていたのかもしれない。

ミハイル・ラリオーノフ - Wikipedia (閲覧:2024年1月29日)