アーティゾン美術館へ行く~マリー・ローランサン (2月14日)

 

 アーティゾン美術館「マリー・ローランサン—時代をうつす眼」を観てきた。

 個人的にはマリー・ローランサンはあまり興味がない。パステル色使いのいかにも乙女チックな雰囲気とかがなんとなくしっくりこない。さらにいえば、この人とココ・シャネルはパリがドイツ占領下にあった時に対独協力者だったとか、そういう話を聞いたことなどから。

 今回はというと、友人がアーティゾンに行ったことがない、マリー・ローランサンが見たいとそういうことだったので、まあチケットを取ってやったりとか諸々。友人、同い年でまだ現役でバリバリ働いているのだが、オンラインチケットの取り方とかそのへんになると一気に情弱になってしまう。まあそういうものだ。

 ちなみに自分は今回初めて知ったのだが、アーティゾン美術館は学生は無料だという。オンラインで予約をとり、入場口に学生証を提示すると無料で入れる。まあ一応通信教育とはいえ大学生なので、今回初めて利用させてもらった。しかしもう2年も高齢大学生しているのに、いわゆる学割とかそういうのを利用するのは初めてだったりする。まあいいか。

 

 

マリー・ローランサンについて

 マリー・ローランサンは時代的には、エコール・ド・パリ派の画家として括られる。ピカソがいたアトリエ兼住居アパート、通称洗濯船に集った芸術家とその周辺の画家の一人。有名どころでは、モディリアニ、シャガール、キスリング、パスキン、キース・ヴァン・ドンゲン、ユトリロ藤田嗣治あたりか。ローランサンはというと、このメンバーの中心にいた詩人、評論家のアポリネールと恋仲になった。若い芸術家たちのリーダーかつ理論的支柱ともいうべき人物の恋人にして、女流画家というある意味特別なポジションにいたということ。

 アポリネールとの恋愛は4年で終わったという。それはアポリネールが当時、ルーブルの「モナリザ」盗難事件の容疑者として収攬されたことなどが理由(のちに無罪となる)。その後もアポリネールローランサンを想い続けたとか。ローランサンはその数年後にドイツ人伯爵と結婚してドイツ国籍になる。第一次世界大戦が始まると敵性国民となったためスペインに亡命する。

 1920年に離婚してパリに戻り、その後は死ぬまでパリで過ごした。エコール・ド・パリ派の画家としては、比較的早くから絵が売れた人で、この頃のパリの上流階級の婦人たちの間ではローランサンに自画像を注文するのが流行したこともあったという。

 同時代的な部分で現在では絵や画家の評価はまったく違うのだろう。例えばモディリアニは当時はまったく売れなかった。それに対してキスリングなどは、当時から売れっ子画家だった訳だし。そして上流階級からの絵の注文という点でいえば、キース・ヴァン・ドンゲンやローランサンの絵もよく売れたということなのだろう。そういえば藤田嗣治もそこそこに売れっ子だったとも。

 マリー・ローランサンはある意味では生涯パリジェンヌだったのかもしれない。また絵の他にも彫刻や詩も多くの残している。

 第二次世界大戦中は、住んでいたアパートが接収されたり、戦後は対独協力を理由に一時期収容所に収攬されたこともあったとか。その後は家政婦だった女性を養女に迎え、1956年6月8日に亡くなったという。1983年、ユトリロと同じ年に生まれ、ユトリロは1年早い1955年に亡くなっている。ちなみにローランサンが亡くなった10日後に自分は生まれている。まあ本当にどうでもいい話だけど。

エコール・ド・パリ - Wikipedia

マリー・ローランサン - Wikipedia

 

 自分がマリー・ローランサンの名前を知ったのは実は絵よりも詩の方。それも落合恵子の歌に引用された詩の一文から。落合恵子は今では作家として、児童書専門店クレヨンハウスのオーナーとして知られているが、かっては文化放送のアナウンサーであり深夜放送のアイドルDJだった。彼女の人気から、エッセイ集が数冊出版され、レコードも出ていた。今の彼女にとっては黒歴史かもしれないが、その歌の中でローランサンの詩が引用されていた。

 ググると割とすぐに出てきたりする。便利な世の中である。

 

「一番哀れな女は、忘れられた女」・・・・・・

 作詞は落合恵子本人、作曲は小室等だった。

 引用されているのは「鎮静剤」という詩だ。今回の企画展で、フランス留学時代にマリー・ローランサンと交流があったという堀口大学の訳が有名だ。

鎮静剤
        マリー・ローランサン
堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

マリー・ローランサン「鎮静剤」

 

マリー・ローランサン—時代をうつす眼

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 マリー・ローランサンの大回顧展である。作品はほとんどが国内の収蔵品中心である。これは2019年に閉館したマリー・ローランサン美術館のコレクションが大きく寄与している。この美術館は個人コレクションから始めて、収蔵品は600点(油彩画98点)を超える規模となっている。現在は公開展示はなく、国内外への貸し出しを中心にしているという。

マリー・ローランサン美術館

 一般公開をせず、コレクションを他館に貸し出すのみで活動している美術館というと、スイス・プチ・パレ美術館を思い出すが、国内のマリー・ローランサン美術館もそうした道を選んだということか。

 昨今は円安の影響で海外からの作品を借り受ける費用も高騰している。まあ単純にいってしまえば、例えば100万円で借りることができた作品を150万円ださないと借りることができない時代なのだ。そういう意味では、今は例えばルーブルやオルセーなどから多くの作品を借りて大がかりな企画展を開くということは難しい時代なのかもしれない。

 今はキュレイションを駆使して、自館収蔵品や国内の収蔵作品を借り受けて企画展を行うというのが主流にならざるを得ないというところだろうか。それを思うと、マリー・ローランサン美術館のコレクションをメインにしたローランサンの回顧展は、地方に巡業してもいけるのではないかと思ったりもする。

 今回の企画展では、マリー・ローランサンの作品及び同時代の作品(アーティゾン収蔵品)を中心に57点が展示されている。

展覧会構成

序章  :マリー・ローランサンと出会う

第1章:マリー・ローランサンキュビスム

第2章:マリー・ローランサンと文学

第3章:マリー・ローランサンと人物画

第4章:マリー・ローランサン舞台芸術

第5章:マリー・ローランサン静物

第6章:マリー・ローランサンと芸術

気になった作品

《自画像》

《自画像》 1905年頃 油彩・板 40.0×30.0cm マリー・ローランサン美術館
《自画像》

《自画像》 1908年 油彩・カンヴァス 41.1×33.4cm マリー・ローランサン美術館
《帽子をかぶった自画像》

《帽子をかぶった自画像》 1927年頃 油彩・カンヴァス マリー・ローランサン美術館

 冒頭に自画像3連発である。実際はもう一枚正面から描いたものもあった。これを観ていると、彼女の絵のスタイルの変遷がよく判る。最初は習作的かつ写実風。美人だけど個性的かつある種の意思の強さがよく表れたポートレイト。次はちょっとモジリアニ風で、おそらくエコール・ド・パリの他の画家のスタイルを取り入れ、自分のスタイルを模索していた頃。そして最後の帽子のは、独自のスタイルを確立した頃ということになるのだろうか。

 彼女のスタイルはパステル調で、水彩画のような淡い雰囲気を油絵で出すみたいなところに特色があったのかもしれない。ちょうど藤田嗣治が油彩画で日本画的な細かい線を描いたのと同じような。

《椿姫 第1図》

《椿姫 第1図》 1936年 水彩・紙 20.9×16.4cm マリー・ローランサン美術館
《椿姫 第9図》

《椿姫 第9図》 1936年 水彩・紙 23.2×19.0cm マリー・ローランサン美術館

 デュマ(子)の書いた小説『椿姫』のために描かれた挿絵だ。彼女の淡いパステルーカラーのタッチのイラスト風な雰囲気が水彩で美しく描かれている。やっぱりこの人は水彩画のような油彩画を描いた人という感じがする。

《手鏡を持つ女》

《手鏡を持つ女》 1937年頃 油彩・カンヴァス 46.3×38.4cm アーティゾン美術館

 実はこの作品が一番気に入ったかもしれない。淡いピンクを基調としたパステルカラーのローランサンからすると、かなりカラフルな色使いだ。一緒に行った友人は、こうした多色を使ったものよりも、色を少なくした感じの方が良いと言っていた。たしかにそっちがローランサンの本流かもしれないが、この鮮やかな色使いが妙に気に入っている。

《二人の少女》

《二人の少女》 1923年 油彩・カンヴァス 64.9×54.2cm アーティゾン美術館
《プリンセス達》

《プリンセス達》 1928年 油彩・カンヴァス 130.0×130.0cm 大阪中之島美術館
《三人の若い女

《三人の若い女》 1953年頃 油彩・カンヴァス 97.3×131.0cm 
マリー・ローランサン美術館

 おそらく今回の企画展でも一番の目玉的な大型の作品である。ある意味、マリー・ロラーンサンの集大成ともいうべき作品か。ただどちらかといえば、この人は大画面作品よりも小ぶりの小品のほうがなんとなくしっくりくるような気もしないでもない。やはり淡いパステルカラー、イラスト調の特色は大画面でインパクトを与えるのではない。なんていうのだろう、会場芸術よりも卓上芸術みたいな感じがしないでもない。

 とはいえ、マリー・ローランサンはこれまでずっとなんとなく敬遠していたような部分もあるが、ちょっといいかもと思ったりもした。芸術性とか美術史における位置づけとかそういう部分は除いても、美的かつ詩情感の漂う美しい絵。そういう部分、もっと評価してもいいのかもしれないと思った。

 個人的にはエコール・ド・パリ派の画家としては、絵が売れた人、上流階級の婦人たちに評価されるスノビズムとその背景に潜む、実は色彩感覚豊かでポップな部分、ほどよいデフォルメ感などで、マリー・ローランサンとキース・ヴァン・ドンゲンを同じような括りでとらえたいと思う。もちろんいい意味で。

府中市美術館~現代アート体験 (2月8日)

「芸術」から「アート」へ

 20世紀後半頃から、それまでの「美術」、「芸術」という言葉に代わり、「アート」という言葉がマスメディアで用いられるようになってきた。英語やフランス語における「art(アート/アール)」という言葉が、絵画や彫刻といった既存の芸術ジャンルを総体的に示す言葉から、広義での制作行為や創造的行為を含む抽象的な意味合いをもつようになった。それは「アート」という言葉よりも適切には「アートなるもの」といった方が正しいかもしれない。

 そして「アートなるもの」の需要者は、より広い意味での資本主義社会にあっては、消費者として「アートなるもの」を体験的に消費していく、多分そういうことなのかもしれない。

 「アート」してみるとか、美術館で「アート」を体験したとか、それは「アートなるもの」=コンセプチュアルな商品を消費したということになるのかもしれない。

 

 我々が美術館で鑑賞する伝統的な「絵画」や「彫刻」は、それが具象であれ、抽象であれ、これまでの芸術史の延長線上で展開されてきたものである。それとは異なるものとして、20世紀後半以降に生まれたコンセプチュアル性の高い創造物を受容するために、我々はある意味便宜的に「アートなるもの」という言葉を用いて、それを消費していると言い換えてもいいかもしれない。

 

 ニワカ、半可通なまま、芸術作品を受容してきた者は、理解のための多少の努力と、判ったフリをしていくために、必死に受容のための前提条件的なものを事前に、あるいは後付け的に用意していく必要があるのかもしれない。複雑で、もろもろとこんがらがった世の中である。コンプレックス、あるいはソフィスティケートされた社会に過ごすことの生きづらさみたいな部分でもある。

 

 多分、受容者が感じる居心地悪さと同じ文脈で、実は製作者はより困難なものを感じているのかもしれない。具象であれ、抽象であれ、コンセプトであれ、ミニマルであれ、ある意味先駆者によって蹂躙された荒野で、途方に暮れて立ち尽くす。多分そうした地点から新たなものを生み出すなくてはいけないのかもしれないから。

 新しいものが全てにおいて正しい。古きものへの反逆もまた正である。造反有利。20世紀の中庸以降において、そうしたスローガンがいくつも現れた。それはすぐに何かにとって代わられる皮相なものだったかもしれないし、今ではどちらかといえばメインストリームになってしまったものもるかもしれない。

 ただし一つだけいえることは、「新しいもの」を排除しては多分いけないのだろうし、それを受容する、あるいは理解不能だとしてもとりあえずその存在を認知する感受性を持ち続けることが必要かもしれない。

 老境にあって新しいもの、理解不能なものに接するのは辛い。でも排除することだけはしない。とりあえず、いつもとりあえずだけど、いったん保留、判断保留、永遠に保留であり続けるにせよ、スルーする程度のことは必要かもしれない。排除ではなく便宜的にスルーする。

 

 自分は何を言いたいのか。多分、特に言いたいこともないし、思考停止状態をダラダラと述べているだけのような気もする。ようは新しいもの、理解不能なものに接したとまどいをグダグダしているだけのことなのだろう。

 

白井美穂 森の空き地

 府中市美術館で行われている「白井美穂 森の空き地 Miho SHIRAI Clearing in Wood」なる企画展を観てきた。

白井美穂 森の空き地 東京都府中市ホームページ

  

 残念ながら年老いて錆びついた感受性には理解不能な「アート」かもしれない。多分、インスタレーションなのだろう。自分なりに了解可能領域に引き戻せばそういうことだろうか。インスタレーション、いろいろな意味合いが込められるが、まあ一言でいえば「設置・空間展示」みたいな理解になる。

インスタレーション

「設置」という意味。1970年頃から試みられるようになった現代芸術の形式で、屋外屋内を問わず、永続的な存在を前提としない造形作品を設置すること。美術館に通常美術作品と見なされないようなものが設置されたり、あるいは逆に通常作品を展示する空間ではない場所に作品が設置されることで、その場所の意味を変化させるのみならず、その場の時間や環境の中で新たな意味が生じることを目的としている。また展覧会のように一時的な場を前提とするものだけではなく、撤去をせず自然崩壊などの時間的変化そのものを視野に入れる場合もある。従って基本的には写真やヴィデオなどの映像としてのみ残ることになり、それ自体が市場において取引されることはない。(岩波西洋美術用語辞典)

 そして白井美穂の美術館入口に設置してあった作品。

 

 

 

 結局のところ、芸術作品の受容はまあひとことでいえば、それを「面白い」と思えるかどうか、多分にそこに尽きるのかもしれない。

 「考えるより、感じろ」

 ブルース・リーとフォースが教える普遍的なテーゼだ。

 理屈でいえば多分なんとでもなるだろう。空間の連続、延長、想像力的な広がり、あるいは断絶とか。まあニワカなのでこれ以上は何も言わない。面白いか面白くないかでいえば、多分面白い。

 2階の展示作品も概ね面白かった。「不思議な国のアリス」を翻案したようなビデオ作品もチープな作りながら、面白さは伝わった。かって大林宣彦が「HOUSE ハウス」でやってみせたようなチープな作りによる乾いた笑いに通じるような。

 ただし白井美穂を絶賛するかといえば、これもまた判断保留。多分、記憶にとどめるけど、容量の少ない老人の脳的ストレージには限界がある。どこかでまた作品を観たときに、これってどこかで観たなと思える程度かもしれない。

 そして繰り返しとなるけど、理解し得ないことを理由として拒絶はしない。どちらかといえば作品が理解を求めていないような気もしているので、とりあえず判断保留。

 

髙田安規子・政子

 

第88回公開制作 髙田安規子・政子 東京都府中市ホームページ

 

 公開制作としてガラス張りのスタジオの中でアーティストがなにかを作っていた。囚人もとい衆人環視の中で制作を行う。芸術家=アーティストも大変だ。

 高田安規子・政子・・・・・・、何か聞き覚えがある。どこかで聞いた、観た覚えがある。

 ポーラ美術館だっただろうか。

ポーラ美術館「部屋のみる夢」 (3月30日) - トムジィの日常雑記

 そのときのインスタレーション作品に独特の静謐感を感じて、けっこう印象的に覚えていた。そして偶然に作者のこうしたパフォーマンスに遭遇する。結局、美術館で作品に接するというのはこういうことなんだろうなと思ったりもする。

 なにやら芸術的な空間を構成し、その中の作品の一部をパフォーマンスしているような双子のアーティストさん。いったいどんな作品が創られていくのかどうか。多分、この公開制作は、その制作の過程、アーティスト自体が作品の一部を構成することになるのだろうか。興味深いものはあったが、閉館間際だったのであくまでチラ見的な感じだった。

 しかしこういう公開スタジオみたいなものって、観る者はどこか覗き見的な部分があり、ちょっとした罪悪感のようなものを思ったりもする。それもまたある種の計算された趣向なのかもしれないと思ったりもしたけど。

「印象派 モネからアメリカへ」 東京都美術館 (2月1日)

 東京都美術館で始まったばかりの「印象派 モネからアメリカへ —ウスター美術館所蔵—」を観てきた。

 

企画展概要とウスター美術館のもろもろ

【公式】印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵 (閲覧:2024年2月4日)

 

 2024年は第一回印象派展(1874年)が開かれてから150周年になるのだという。それに当てつけて—もとい—因んで印象派展がいくつかあるようだ。先だって大盛況だった上野の森美術館の「モネ 連作の情景」展もそんな触れ込むだったか。

 

 今回の企画展が新しい切り口は、印象派アメリカでの受容ー「アメリカ各地で展開された印象派の諸相」にスポットライトをあてるというもの。さらには印象派をフランス印象派の優位性だけに着目するのではなく、各地での受容として国際的なパラダイムの中で捉えようとしている。そのためフランスのよく知られる印象派の大家たち(モネ、ルノワールピサロシスレーなどなど)だけでなく、アメリカの印象派の画家、さらに北欧やドイツ、さらに日本の印象派として、黒田清輝や久米桂一郎から始まり、斎藤豊作、太田喜二郎、児島虎次郎などの作品も紹介している。

 とはいえメインはウスター美術館所蔵ということで、目玉となるのはアメリ印象派の作品ということになる。よく知られるアメリ印象派といえば、チャイルド・ハッサムだと思うし、今回も4点が紹介されているが、その他にも多くの印象派的な画風の作家がいる。それでもアメリ印象派を紹介する企画展はこれまでもあまりなかった。そういう意味で、アメリ印象派をまとまった数で紹介するという点で嚆矢となる魅力的な企画展でもある。

 

 しかしそもそもウースター美術館って・・・・・・。

ウスター美術館について

ボストンから西へ約70キロ、アメリカ・マサチューセッツ州第2の都市ウスターに位置するウスター美術館は1896年、地元の篤志家スティーヴン・ソールベリー3世らが中心となって設立しました。

1898年の開館以来ウスター美術館は、古代から現代まで、時間と空間を超えるおよそ40,000点のコレクションを気づいてきました。

『図録』ー ウスター美術館について 

Worcester Art Museum  (閲覧:2024年2月4日)

 

 マサチューセッツといえば古い世代からするとついビージーズを口ずさんでしまう。それ以外はなにかといえば、やっぱりボストンだ。ボストンといえばレッドソックスだし、美術的には岡倉天心も勤めていたこともあるボストン美術館である。明治期にモース、フェノロサ、ピゲロー等が渉猟した国宝級の作品により、一大日本美術コレクションが形成されている。ときどき里帰り的にボストン美術館所蔵展が企画されていたりもする。

 あと名古屋にボストン美術館の姉妹館があったりして貸出作品による企画展が多数行われていた。惜しむらくは2018年に閉館してしまっている。

 ということでマサチューセッツといえばボストンな訳で、ウスターってなんだということになる。ことによるとあのウスターソースなのかと思ったのだが、あれはイギリスのウースターシャー州にある都市ウスターが発祥なのだとか。地図で確認するとオックスフォードの北東、バーミンガムの南に位置している。そしてアメリカのウスターは姉妹都市になっているのだとか。

 どうでもいい話が続くけど、一般的にはウスターは「ウースター」もしくは「ウォースター」と発音するみたい。試しにGoogle先生に「Worcester」と発音させてみましたが、どう聞いても「ウスター」ではない。

 ということでウスターは「ウースター」であり、けっしてウスターでもウスターソースとも関係はないのだが、ひょっとして、まさか、グッズにウスターソースはないだろうと思ったのだが、残念ながら展覧会記念でありました。これは悪乗りでしょ。

 

 

印象派コレクションのフロンティア

 アメリカでのフランス印象派の受容は二人の人物の寄与するところ大きい。一人は初期から印象派の画家を支援していた画商ポール・デュランである。彼は1883年にボストンでの展覧会を開催、1886年に289点の作品をニューヨークで展示するなど印象派作品を多数輸出した。さらに1887年にはニューヨークに支店を開設し、アメリカの収集家や美術館に作品を売り込んでいった。

 一方で、パリに滞在するアメリカ人として唯一印象派展に参加したメアリー・カサットは、母国の実業家に印象派を紹介し、作品の購入を仲介した。もともとアメリカの資産家の令嬢であるカサットにとって、アメリカの富裕層との間ではある種の金満ネットワークがあったのだろう。

 デュラン、カサットらによって、多くの印象派作品がアメリカに輸出され、ニューヨークやボストン、フィラデルフィアなど東部の資産家の間でコレクションが築かれていった。一方で美術館でのコレクションは遅れをとり、20世紀初頭にあっても印象派絵画の購入は少なかった。

 1909年、ウスター美術館はメアリー・カサットの作品を購入した。それはニューヨークのメトロポリタン美術館と並んでカサット作品を最初にコレクションした最初の美術館のひとつであったという。

メアリー・カサット

《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーベル》 メアリー・カサット 1902-03年
 油彩・カンヴァス 68.1×57.3cm ウスター美術館蔵

 いつものカサットの母子像である。ただなんとなくその筆致はカサットの従来のものよりも、どこかルノワール的である母の顔、赤ん坊の髪の表現など、なんとなくそんな雰囲気が漂っている。モデルの女性レーヌ・ルフェーベルはカサットの別荘のコックで、赤ん坊の母親ではない。

モネ《睡蓮》

 ウスター美術館はカサット作品を購入した翌年、デュラン=リュリエル画像からモネの絵画2点を購入する。それはモネ作品を最も早くにコレクションしたアメリカの美術館でもあったという。それが今回の展覧会の目玉の一つでもある《睡蓮》である。

《睡蓮》 クロード・モネ 1908年 油彩・カンヴァス 
94.8×89.9cm ウスター美術館蔵

 美しい《睡蓮》だ。この淡い青を基調として紫の花が添えらえている。《睡蓮》の連作は長期間にわたっているが、この淡い青のものはあまり観たことがない。構図的には図録でしか観たことはないがシカゴ美術館所蔵のものが近いような気もする。

 1908年というとモネは68歳のはず。その後72歳のときに両目を白内障と診断されている。次第に病状は悪化し、それにつれてモネの絵は具象性を失い多色の筆触による抽象画の様相を帯びる。この絵はまだ眼病がさほど進んでいない時期のものといえるかもしれない。

 しかしモネの《睡蓮》はいったいどのくらいあるのだろう。睡蓮をモチーフにした作品は1899年から描き始め、おおよそ200点が残されているという。

睡蓮 | コレクション | ポーラ美術館  (閲覧:2024年2月4日)

 1905年には、デュラン=リュエル画廊で「睡蓮、水の風景の連作」という個展が開かれ48点が展示され大成功を収めたという。その出品リストは、三菱一号館で開かれたイスラエル博物館所蔵「印象派・光の系譜」展の図録に収録された「ジヴェルニーの『水の庭』の生成と、『睡蓮:水の風景連作』展」(安井裕雄ー三菱一号館美術館上席学芸員)に詳しく紹介されている。

 そのリストには国内の美術館に所蔵された作品も、アーティゾン、和泉市久保惣記念美術館、ポーラ、DIC川村、東京富士など5点があげられている。そして今回のウースター美術館の作品もこのリストにある。

 しかしおおよそ200点あるという睡蓮の連作、どんなものがあるのだろう。試しにウィキペディアググると《睡蓮》だけで項目ができている。

睡蓮 (モネ) - Wikipedia

 多分、両手くらいは実作を観ているはずだとは思う。しかし個人蔵作品はおそらく日の目を見ることないだろうし、もはや1905年の48点も一同に会すこともないだろう。

アメリ印象派

 今回の企画展はアメリ印象派の画家作品を多数紹介しているということが売りでもある。印象派以外の作家を含めておおよそで10数名の作品が展示してある。

 アメリ印象派の画家は19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ東部で美術を学び、その後フランスやドイツに留学して、当時のヨーロッパの思潮に触れ、印象派の画風を受容して帰国。その後は母国アメリカの美を見出すように促されて、アメリカの大自然や都市生活などを主題に描くようになっていった。

 その中で、ボストンやニューヨークで活動する10人の画家たちが、アメリ印象派グループとして「テン・アメリカン・ペインターズ」(通称ザ・テン)の展覧会を開催し、以後約20年にわたって活動を続けた。

テン・アメリカン・ペインターズ - Wikipedia  (閲覧:2024年2月4日)

テン・アメリカン・ペインターズのメンバー

 その10人のメンバーとその留学歴をざっとメモしてみる。

        フランク・ウェストン・ベンソン - Wikipedia

チャイルド・ハッサム

 アメリ印象派の代表選手でもある。この人の作品はウェブサイトでも様々な形で紹介されることもあり、またこれまで観てきた企画展でも1~2点展示されたりもする。アメリカの印象派の先駆者でもあり、商業的にも芸術的にも大きな成功を収めた。非常に多作の人で、その画業はおおよそ3000点にものぼるという。

 今回の企画展の目玉の一つは、チャイルド・ハッサムの作品がまとまって観ることができるという点でもある。

花摘み、フランス式庭園にて

《花摘み、フランス式庭園にて》 チャイルド・ハッサム 1888年 油彩・カンヴァス 71.1×55.1cm ウスター美術館蔵 

 ちょっとマルタンやシダネルの雰囲気があると感じたが、考えてみるとハッサムは1959年生で、マルタンより1つ上、シダネルより3つ上である。ほぼ同時期にパリで画塾に通い、印象派の洗礼を受けていた同時代の画家だった。

 おそらくハッサムは多くのフランスの画家、あるいはパリに集まった異国の画家(の卵)たちと切磋琢磨して新しい技術、画風、画題を学んでいたのだろうか。

コロンバス大通り、雨の日

《コロンバス大通り、雨の日》 チャイルド・ハッサム 1885年
 油彩・カンヴァス 43.5×53.7cm ウスター美術館

 パリから帰国後、ボストンの開発されたばかりのサウスエンド地区コロンバス大通り沿いに居を構えたハッサムが都市生活をとらえた作品。今回、紹介された作品の中では割と好きなもののひとつ。正面に捉えられた馬車の後ろ姿と右端の傘を差した男性にだけピントがあっている。これってスケッチしたものだろうか、なんとなく写真かなにかを元に再構成したような、そんなことを想像させる。

 こうした都市のスケッチはどこかカイユボットを想起させる部分もある。あとイスラエル博物館所蔵展で観たレッサー・ユリイにこんな色調の都市スケッチがあったようなうっすらとした記憶がある。レッサー・ユリイも1861年生でハッサムと同時代人。おそらく同時期にパリを訪れているはずだ。

 しかし新興都市ボストンの情景ながら、どこかパリ的なものを感じさせる。

シルフズ・ロック、アップルドア島

《シルフズ・ロック、アップルドア島》 チャイルド・ハッサム 1907年
 油彩・カンヴァス 63.5×76.2cm ウスター美術館

  これはもう完全にモネの《エトルタ》である。このアップルドア島はニューハンプシャー州メイン州の海岸から15キロ離れた島嶼の一つだ。多分、ここを訪れたハッサムは、「これはエトルタだ」と叫んだかどうかは知らないが、クールベ、コロー、ヴーダン、モネらが画題にした奇崖との類似を感じたのではないか。

朝食室、冬の朝、ニューヨーク

《朝食室、冬の朝、ニューヨーク》 チャイルド・ハッサム 1911年 油彩・カンヴァス 63.8×76.5cm ウスター美術館

 二度目の渡欧から帰国した後、ハッサムはニューヨークに定住した。近代的な大都市に変貌を続けるニューヨークで、ハッサムは都市生活を画題にしたという。部屋に佇む女性を描いた<窓>シリーズの連作を1909年から1922まで手掛けている。この窓の向こうにうっすらと描かれているのは竣工されたばかりの摩天楼の一つ、フラットアイアン・ビルディング。女性が着ているがうんはどこか東洋風。

その他の気に入った作品

キャサリンチェイス・プラット

《キャサリンチェイス・プラット》 ジョン・シンガー・サージェント 1890年
 油彩・カンヴァス 101.9×76.7cm ウスター美術館蔵

 見事な素晴らしい作品だと思うし、とにかく心惹かれるものがある。ヨーロッパで活躍したアメリカ人画家サージェントは、たびたび帰国するたびに肖像画の依頼が殺到したという。ある意味凱旋帰国した自国人画家にぜひ肖像画を描いてもらおうと、そういうことだったのだろう。

 この作品はウスター美術館の館長代理を務めたこともあるフレデリック・プラットが娘のキャサリンを描いてもらために、ウスターにサージェントを招いて依頼したもの。ただし作品をプラットは気に入らなかったため、本作は未完のままで終わったのだとか。素人目にはどこが未完なのだろうと思ったりもするけど。

ルーアンラクロワ島

ルーアンラクロワ島》 カミーユピサロ 1883年 油彩・カンヴァス
 54.3×65.5cm ウスター美術館

 ちょっとシスレー的な趣もあるけど、ピサロのまさに印象派的な作品。手前の船置き場、遠くのアーチ型橋、そして対岸の工場と煙突。自然と近代化の対比うんぬんとかいいたくなるが、ここでは普通に水辺の風景の一ショットというべきか。

 アプリで絵画作品の価格当てクイズみたいなものがある。二つの絵を表示させて、どちらが高いかを当てるというものだ。その中でもう鉄板というのか、ピサロシスレー、そして北斎などの浮世絵は、必ず安いということが定式化されている。勝つのはセザンヌゴッホであったり、クリムトであったり、モジリアニであったり、エゴン・シーレであったり。ことほどさようにピサロシスレーは低く、安く見られているいるようだ。もっともゴッホクリムトが〇百億に対して、ピサロシスレーが一億から少し欠ける数千万というところで、もちろん庶民にとっては高価であるのは決まっている。

 かって、ピサロが息子に送った書簡の中で、なぜ自分やシスレーがモネやルノワールに比べてひどく評価が低いのかと嘆いているのを読んだことがある。いつの時代でも比較すると彼らの絵の評価は低いのである。なぜか、たぶん美しい絵であることはわかるが、どこか凡庸であり、個性的でないということなのかもしれない。まあこれは個人の感想だ。

《風景》

《風景》 斎藤豊作 1912年頃 油彩・カンヴァス 
65.2×80.3cm 郡山市立美術館

 日本における印象派の受容いうことで展示してあった。点描表現である。この作品の解説に、1906年斎藤豊作が渡仏してラファエル・コランに師事したが、翌年アンリ・マルタンの絵画に接して感銘を受けて、点描技法への関心を深めたとある。

 斎藤豊作はマルタンか。ちょっと合点がいったというか、なるほどと思ったりもする。それを考えるとこの絵は斎藤の点描技法の習作ということになるのだろうか。

オリーヴの木々

《オリーヴの木々》 ジョルジュ・ブラック 1907年 油彩・カンヴァス 
37.9×46.4cm ウスター美術館蔵

 ジョルジュ・ブラックフォーヴィスム。その一点でなんとなく面白く思った。1月28日まで西洋美術館でやっていたキュビスム展で沢山出品されていた、あの幾何学てんこ盛りのブラックにもこういう時代があったのかと、そのへんが面白く思いましたね。

 いろいろ新しい表現、技法を模索するなかで、ブラックはフォーヴィスム的な色彩表現にも手を染めたというか、ある種の習作的な作品なのかもしれない。でもブラックにもこういう時代があったのかと。

 その点でいうとピカソフォーヴィスム的な作品ってあっただろうかと。ちょっとすぐに出てこないし、あるいはあまりその手の作品はないのかもしれない。ピカソマティスをリスペクトしていたようだし、マティスの表現を肯定的にとらえている。でも自らああいう表現は行わなかった。なんとなく適当に思うに、ピカソは色彩の効果とか色彩による表現の爆発みたいなものには無頓着というか、あまり興味がなかったのかもしれない。

 これは近代美術館でのピエール・ボナールの作品のキャプションかなにかにあったけど、マティスはボナールの色彩感覚を鰓評価していたのたいして、ピカソはボロクソのように言っていたとかなんとか。なんとなくそれがストンと落ちるというか理解できる。ボナールは色彩の魔術師のようにいわれることもあったようだけど、多分そういう部分ピカソは好きじゃなかったし、関心もなかったのかもしれない。

 ルネッサンスの時代から、対象の形態性を線素描で描いていくディセーニョを重視するミケランジェロなどフィレンツェ派に対して、筆致と色彩を重視するヴェネツィア絵画—ティツィアーノらの対比があったと思う。形態を分析総合し立体的に把握するキュビスムと対象の再現性を排して色彩の効果を最大限に生かした平面性のフォービスム。このへんはけっこう絵画世界の永遠のテーマかと、ニワカ的に夢想してみたりする。

 とりあえず若きブラックの試行錯誤作品というところだろうか。

ナタリー

《ナタリー》 フランク・ウェストン・ベンソン 1917年 油彩・カンヴァス 76.2×63.5cm ウスター美術館蔵

 いい絵だと思う。ひょっとしたら今回の企画展の中でも一番気に入った作品かもしれない。秀逸な肖像画は人物の内面性を浮かび上がらせる。ベンソンはモデルの貴意のある高い精神性を表出させている。結局、良い絵かどうか、観るものにインパクトを与えるのは、そういう精神性の発露みたいな部分もあるのかもしれない。

 この絵はベンソンが家族旅行で訪れたワイオンミング州の牧場で制作されたものだ。図録には牧場で椅子に座ってイーゼルに向かうベンソンと気の柵に腰をかけているモデルを写した写真も掲載されている。

 この《ナタリー》はアメリ印象派というカテゴリーよりもリアリズム作品という感じがする。そう、どこかワイエスなどに通じるアメリカン・リアリズム的なものだ。

今後の巡回スケジュール

 「印象派 モネからアメリカへ  ウスター美術館所蔵」展は東京都美術館で4月初旬までのロングランで展開する。それ以降3ヶ所で巡回予定。

[東京展]

2024年1月27日(土)~4月7日(日)

東京都美術館

[郡山展]

2024年4月20日(土)~6月23日(日)

郡山市立美術館

[八王子展]

2024年7月6日(土)~9月29日(日)

東京富士美術館

[大阪展]

2024年10月12日(土)~2025年1月5日(日)

 一館で2ヶ月~3ヶ月弱というロングランで展開されていくようだ。首都圏近郊に住んでいる自分などは、ワンチャン東美でもう一度観るかもしれない。なんなら夏に富士美でもう何度かチャンスもありそうである。アメリ印象派作品に触れる機会などあまりないので、何度か足を運びたいと、そう思わせる企画展だ。

たましん美術館「邨田丹陵-時代を描いたやまと絵師」 (1月31日)

 

 立川で友人に連れて行ってもらった。

 たましん歴史・美術館、初めて聞く美術館。多摩信用金庫を母体とするたましん地域文化財団が運営する美術館。

たましん地域文化財団 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

【予告】企画展「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」1月13日(土)開幕

(閲覧:2024年2月3日)

 

 

 邨田丹陵、初めて知る画家だ。

邨田丹陵 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

邨田丹陵 :: 東文研アーカイブデータベース (閲覧:2024年2月3日)

 武者絵を得意とするやまと絵師川辺御楯に弟子入りし10代で頭角を現す。川端玉章が川辺御盾に働きかけ、後進の育成のために結成された日本青年絵画協会に丹陵は19歳で参加した。日本青年絵画協会は会頭に横山大観が就任し、寺崎広業、小堀靹音らも参加。

 明治5年(1872年)生まれの邨田丹陵は、明治元年(1868年)生まれの横山大観より4歳下でほぼ同時代人である。また寺崎広業は義兄にあたる。

 日露戦争には寺崎広業とともに従軍し、多くの戦争報道画を描いた。また多くの展覧会で受賞を重ねたが、明治40年(1907年)の第一回文展で3等賞を受賞後は中央画壇から遠のいた。晩年は東京府北多摩郡砂川村に居住。立川市にとっては郷土の画家ということになる。

 画力に優れ、有職故実に即した細密な歴史画、武者絵が多い。絵の雰囲気は武者絵はなんとなく小堀靹音と同じような感じがする。女性を描いた絵には、同じようにやまと絵に傾倒した伊藤小坡と同じような雰囲気もある。

 近代、明治以降のやまと絵は教科書や近代美術史の書籍などでも触れられることが少ない。せいぜい小森靹音や梶田半古の門下である安田靫彦前田青邨、松岡映丘らの歴史画にその影響の跡をみるなど。

 邨田丹陵やその師の川辺盾山など、いわゆるやまと絵師は、本当に美術史の本でも記述がない。手元にあった草薙奈津子の『日本画の歴史 近代篇』にもまったく記載がない。邨田丹陵が忘れられた画家というよりも、近代日本画史においてやまと絵自体が忘れられた存在になっているようだ。とはいえ明治から昭和初期にかけて、やまと絵は大観らの日本美術院系の画家たちの総称である新派に対するいわゆる旧派の一ジャンルとして、それなりの勢力を持っていたのではないかと思ったりもする。

 近代におけるやまと絵、そういう企画展があれば観てみたいような気もする。細密な描写にすぐれた画力ある画家が、それも忘れ去られた画家が沢山いるのではないかと思ったりもする。

 今回の邨田丹陵の絵、みな見事な美しい絵ばかりである。ただし、その細密描写の絵はどこかただ上手いだけの絵みたいな感じがしないでもない。なんていうのだろう、我々が近代の歴史画、特に安田靫彦前田青邨らの絵から感じるような緊張感あふれる画面やある種の精神性みたいなものはやや希薄なようにも思わないでもない。まあちょっとした思いつきの類ではあるが、そのへんが芸術家と職人的な絵師の差でもあるのかもしれない。

 

小早川隆景公仮寝図》 明治35(1902)年 紙本着色 109.5×41.3 三原市所蔵

 

聖徳記念絵画館壁画下図「大政奉還」》 昭和9年(1934年)  76.0×65.3 明治神宮蔵 

キュビスム展 (1月25日)

 28日に終幕した西洋美術館の「キュビスム展」に25日に行ってきた。

 この展覧会は開幕してすぐの10月に行っている。

キュビスム展美の革命 (10月12日) - トムジィの日常雑記

 大型企画展なので出来ればもう一度と思っていたので、閉幕ギリギリのところで滑り込んだ感じ。

 くわしい感想は前回のときにあらかた書いているので、なんとなく補遺的なものを書いておく。

キュビスムの変容的なもの

若い女性の肖像》 パブロ・ピカソ 1914年 油彩・カンヴァス 130×96.5cm
MNAM-CCI 

 この企画展を評したどなたかが、キュビスム創始者ピカソとブラックのうち、ブラックは最後までキュビスムにとどまりこだわり続けたが、ピカソは早々にそれを乗り越えて新しい地平を切り開いていったみたいなことを書かれていた。だいぶ表現は違うが、たぶんそういうような意味だったような記憶が。

 そういう意味でいえばこの作品などはまさにそう。もはやこれはキュビスムとはいえないし明らかに抽象絵画への接近だろうか。ピカソカンディンスキーみたいな趣がある。まあコラージュされた具象は総合的キュビスムの名残り的ではあるけれど。

 

《輪を持つ少女》 パブロ・ピカソ 1919年 油彩、砂・キャンバス 142.5×79cm
MNAM-CCI

 当初のキュビスムが持っていた多視点、多面性からの立体表現、ある種の2次元としての絵画の中に3次元を取り込むイリュージョンはここにはない。平板な抽象的な色面的コラージュ、かといってドローネーのような鮮やかな色面による多面性もない。暗い落ち着いた色調のなかでピカソは対象を記号的な抽象の組み合わせにしてしまおうとしているような感じさえする。キュビスムから抽象へということにピカソの関心があったのかなどと考えてしまう。

 

《ギターを持つピエロ》 ファン・グリス 1919年 油彩・カンヴァス 90×73cm MNAM-CCI

 ファン・グリスもまたじょじょに多面性、多視点から別のフェイズに移っていったように感じさせる。これは抽象画というよりも対象を単純化したある種のデザインのようにも思える。下部の床(?)の文様にしろ、背景の抑えた色調にしろ、どこか形象を単純化させた晩年のマティスみたいな雰囲気さえある。ピエロのやや角ばった表彰はレジェのそれに近い。さながら単純化されたロボットのような。マシンエイジとそれに続くコルビュジェの抽象画と同じ匂いがする。

ドローネー《パリ市》

《パリ市》 ロベール・ドローネー 1910-1912 油彩・カンヴァス 267✕406

 

<同時主義(シミュルタネイスム-simultanéisme)>

時間と空間の相互連関的な変化相を、同一画面に同時に表現しようとした美術上の主義。20世紀前半、フランスの画家ドローネーやイタリア未来派などが試みた。同時主義。

 この絵では近代的なエッフェル塔ギリシャ神話的な三美神、さらにアンリ・ルソーのプリミティブ的なモチーフ(左側の船や橋の部分)などを同一画面に分割的に描いているという。さらに三美神はピカソの《アヴィニョンの娘たち》のようにアフリカ芸術の彫像のような趣をみせている。

 切子のような、プリズムのような表現で対象を分割する表現で描かれる三美神は近接して観ると異形な雰囲気だ。

 

 全体として三美神、分解されたエッフェル塔の部分、三美神の背景の緑は自然的な風景であり、右側は拡大されたモダンな建物の分割、左側はルソーの船とヨット、さらにその後景には町の建物、その向こうには山々が連なる。どこか静的な詩情を漂わせるところは、アポリネールが評価したオルフィスム(オルフェウス的=詩情的)によるキュビスムということになるのだろうか。

 

 キュビスムセザンヌの提唱したフォルムの幾何学的形象化をもとに、多視点から分割された対象を一画面に表現することから始まり、さらには同時主義のように時間軸や空間軸の位相を同時に表象する、さらに時間的な変化を一画面に描くなど様々な発展形があった。

 運動を連続撮影する写真技術を応用して、対象の連続的な動きを描いたのはマルセル・デュシャンの《階段を降りる裸体》シリーズだった。その発展形にはスピードのダイナミズムを作品化したジャコモ・バッラなどの未来派がある。

 今回の展覧会でもそうした運動のダイナミズムに挑戦した画家としてミハイル・ラリオーノフの作品が紹介されている。

《散歩:大通りのヴィーナス》 ミハイル・ラリオーノフ 1912-1913年 
油台・カンヴァス 117×87cm  MNAM-CCI

ミハイル・ラリオーノフ

ロシア・アヴァンギャルドを代表する画家で、レイヨニスム(光線主義)の創始者として知られた。1898年からモスクワの絵画彫刻建築学校に学び、生涯の伴侶となるゴンチャローワに出会う。最初は印象派風の画風を見せたが、1906年にサロ・ドートンヌへの参加を通じてフランスの現代美術に触れると、1908年からは国際的に活躍する前衛芸術家たちとともに「金羊毛」展に参加。しかし次第にフランス美術の模倣をやめ、ロシアの民衆芸術に触発されたネオ・プリミティヴィスムへと転じていく。1910年には、美術にオケルロシア・アヴァンギャルドの黎明期を代表する「ダイヤのジャック」展をゴンチャローワらとともに組織し、これをすぐに離脱すると、1912年にはより急進的な「ロバの尻尾」展、翌年には「標的」展を開催した。この頃ラリオーノフが実践したレイヨニスムは、キュビスム未来派、オルフィスムに立脚した新たな芸術様式で、無数の光線が画面内に行き交う、抽象絵画の先駆けともなる表現といえる。カジミール・マレーヴィッチらとともに、キュビスムから多くを学んだ立体未来主義を推進するなど、ロシアの前衛芸術運動の発展に大きく貢献した。

『図録』P243より

  そしてこの人のプリミティズム的な作品が多分これだろうか。

《春》 ミハイル・ラリオーノフ 1912年 油彩・カンヴァス 86.5×68.2cm
 MNAM-CCI

 どのへんがプリミティブかというと多分この辺ではと適当に思ったり。

 

 この雑さはまさにプリミティブ的。これは犬か、猪か、多分犬なんだろうな。

 ラリオーノフは1915年にロシアを離れ、ロシア革命後は長くフランスで過ごし一生を終えた。もしもロシアに戻っていたら過酷な後半生が待っていたのかもしれない。

ミハイル・ラリオーノフ - Wikipedia (閲覧:2024年1月29日)

 

東京富士美術館 (1月11日)

 1月二回目の美術館巡りは東京富士美術館(以下富士美)。

 ここを訪れたのは9月の末以来なので三か月ぶり。何度か書いているけど、家から30分くらいで行けるたぶん自宅から一番近くにある美術館。もちろん圏央道という高速道路を使っていくので一本で行ける。電車だとここはかなりアクセスがしんどい。JR八王子駅まで出てそこからバスみたいなことになるのか。美術館の周囲はほぼ創価大学のキャンパスなのだが、創価大学の学生の通学はけっこう大変だろうなと思ったりもする。

 

ホーム | 東京富士美術館(Tokyo Fuji Art Museum, FAM) (閲覧:2024年1月14日)

 

 現在の富士美は常設展示「西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで」。他にミニ企画として「写真で巡る世界遺産の旅」、「特集展示「シルクロードと日本」~池田大作先生と平山郁夫先生が紡いだ文化交流の足跡~」など。

 いつも企画展を行っている展示室はシャッターが閉まり閉鎖されている。常設展のみのため入館料も800円になっている。

 

 昨年11月に創立者池田大作氏が亡くなっているので一大コレクション展でもやっているか、その準備でもしているのかと思ったのだが、そういうのはなく今のところ予定もないみたい。創価学会池田大作氏に対してはいろいろと評価も別れるだろうけれど、東京富士美術館の膨大で価値あるコレクションが、池田大作氏の意思により築かれていったことを考えれば、その功績をコレクションとともにトレースしていくというのは、けっして英雄賛美とかではなく、あってもいいのではないかと思ったりもする。

 東京富士美術館とそのコレクション、そして周囲の整備された創価大学のキャンパス。さらに周辺の創価学会の施設、それらはある種の宗教的情熱によって築かれたものだろう。それはヨーロッパの世界遺産に指定されるような宗教施設ー大聖堂、あるいはアフリカやアジア、南米などの巨大な寺院などにも多分通じているのかもしれない。そんなことを、館内から見える創価学会の宗教施設東京牧口記念会館の異形な外観を見ながら思ったりもした。もうこれはギリシャの宮殿じゃないかみたいな独り言も。

 

 

常設展-西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで 

 ウィークデイということもあり、展示室はガラーンとしている。まあ自分らだけということではないけど、だいたい1室に一人二人いるかいないかみたいな感じである。コレクションの質や量からすれば、もっと来場者あってもいいと思う。創価大学以外にも近隣にはいくつも大学あるので、もっと学生さん来てくれてもいいとも。

 都内の有名な美術館でこの規模のコレクション展を行えば、それも新聞社やテレビ局が後援して広告代理店の宣伝が入ったりすれば、けっこう行列できるだろうなと思ったりもする。そのくらい充実した内容でもある。

 2017年に一度「とことんみせます!富士美の西洋絵画展」ということで、コレクションの中から一挙275点を展示してくれたことがあった。ああいうのをもう一度観てみたいと思うのだが、あれをやる労力はたいへんなものがあるとは思う。今年あたり、それこそ前述したように創立者池田大作先生」の功績を偲んでみたいな形でもいいので、やってくれたらと思ったりもする。

 

 展示作品は69点で前回(9/27)と展示はまったく変わっていない。そして興味がいくのもだいたい同じ絵が多い。今回はというとちょっと細部をクローズアップしてみた。

ドレーパリー

ドレーパリーあるいはドレイパリー。日本語的には衣文、衣襞と解される。

彫像や人物画における着衣のひだやしわの表現のこと。時代や作者によって表現は異なり、衣の下に隠された人体の動き、立体感を示すものとして、画家、彫刻家が表現を追求した。『西洋の芸術史造形篇Ⅰ 古代からルネサンスまで』(藝術学舎)

衣の襞のこと。「衣襞」「衣褶」などと訳す。古代ギリシア以来、西洋美術は衣の表現を好み、特に水に濡れて裸体に張り付いた衣、麻・綿・絹などの素材により襞の違いなどの表現は彫刻家、画家の情熱の対象であった。ドレイパリーのパターンが時代様式を表す場合も少なくない。『岩波西洋美術用語辞典』(岩波書店

 

 ニケのを覆う衣、ビーナスの腰にまいてある布、その襞がまさにドレイパリー。模造品が一緒に並んでいるのはご愛敬(三重・ルーブル彫刻美術館)。

 このドレイパリー、西洋美術だけでなく東洋美術にもある。仏像などにもまあ普通に表現されている。例えば興福寺の《無著・世親菩薩立像》(運慶作)なんかでも袈裟の衣文がはっきり描かれている。

 

 この衣文、西洋用語辞典ではないが画家の情熱にちょっとだけ着目してみた。

《ヘッドフォード伯爵夫人アン・カーの肖像》

《ヘッドフォード伯爵夫人アン・カーの肖像》 アントニー・ヴァン・ダイク
 1639年 油彩・カンヴァス 103.0×79.5cm

 
《ジョフラン夫人》

《ジョフラン夫人》 ジャン=マルク・ナティエ 1738年
 油彩・カンヴァス 145.0×115.0cm

 
《ユスーボフ公爵夫人》

《ユスーボフ公爵夫人》 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン 1797年
 油彩・カンヴァス 141.0×104.0cm

 

 

 ヴァン・ダイクはバロック期の肖像画家。ナティエとルブランはロココ。時代的な隔たりはあるが表現的にはさほどの違いはないか。しいていえばヴァン・ダイクは陰影表現が強く写実的、ナティエは写実性よりもどこか軽やかなな感じ。ルブランはドレイパリーについてだけいえば写実的な感じもする。

 ドレイパリーの表現は線描だけでなく、絵の具の濃淡による陰影によって立体感を視覚的に生じさせる表現のような感じがする。それは西洋絵画が追求してきた遠近法などと同じで、3次元の空間を対象をいかに2次元の中に表出させるかということに尽きるのかもしれない。なにかの本で遠近法は2次元の絵画の中に3次元を描くイリュージョンみたいなことが書いてあったような気がする。同じようにドレイパリーも一種のイリュージョンなのかもしれない。

 と、ここまで考えてきて、そういえば日本画の中ではドレイパリーの表現あまりみないなと思ったりもした。日本画は基本線描の世界で、立体感を出すことにあまり積極的意味を見出していない。遠近法も部分的に用いるが、明確な消失点をもたなかったりもするし、表現的には墨や顔料の濃淡による空気遠近法が主流のような感じか。美人画などの着物の襞もどちらかといえば、やや太めの線描で描くことが多かったりもする。

 日本画でも例えば浮世絵風景画は、遠近法を積極的に取り入れていて、ある種のイリュージョン効果を狙っているところがある。でも肖像画美人画などはどちらかといえば平面的、2次元的で、ドレイパリーに対する描き手の情熱は薄いような感じだろうか。

 まあこのへんは全部、適当な思いつきなので、的を外した物言いかもしれない。

様々なクローズアップ

《煙草を吸う男》

《煙草を吸う男》 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 1646年? 
油彩・カンヴァス 70.8×61.5cm

 

 若い男が、燃え木に息を吹きかけ火をおこし、パイプに火をつけようとしている。燃え木の火によって照らされる男の横顔、上半身、左手。それに対してもえ木の下部やそれを持つ右手は影となっている。さらに男の後頭部や背中は深い闇に溶け込んでいる。

 光と影による劇的な対比、バロック期の独特の表現でもある。夜の画家と称されるラ・トゥールは長く歴史の舞台から消えていて、20世紀初頭に再発見された画家である。この作品も1973年に個人宅で発見され、父ジョルジュ・ラ・トゥールと息子エチエンヌの合作とされる作品だ。

《小川のある森の風景》 クロード・ロラン 1630年 油彩・カンヴァス 99.0×149.0cm

 

 この風景画は中央に配置される人物たち、これはギリシア神話「アモルとプシュケ」の一場面だ。恋人アモルに見放され。もの思いに沈んでいるプシュケを農夫たちが慰めようとしている場面。

 風景画は16世紀にじょじょに表れてきたものだが、基本的には宗教的な主題や神話的主題の背景として描かれたもので、それは実際には存在しない理想的な風景=世界風景だったといわれている。その後、そうした主題はじょじょに後退して風景描写の割合が高まるようになる。

 クロード・ロランは自然の光と大気の表現に腐心し、この絵でも牧歌的な風景を現出させている。そして本来の主題たる「アモルとプシュケ」は風景の中に溶け込んでいて、そこに特段の意味を持たせてはいないようでもある。

《釣り人のいる川の風景》

 《釣り人のいる川の風景》 ヤン・ファン・ホイエン 1644年
油彩・カンヴァス 100.6×134.9cm

 
 《宿の前での休息》

 《宿の前での休息》 サロモン・ファン・ロイスダール 1645年 
油彩・カンヴァス 86.5×118.5cm

 
《ローマ、クィリナーレ宮殿の広場》

《ローマ、クィリナーレ宮殿の広場》 カナレット 18世紀 
油彩・カンヴァス 39.5×68.5cm

 

 カナレットのヴェドゥータ(景観画)は楽しい。細部の描写を観ていると飽きない。この絵でも犬同士のお見合いのような描写。二匹の犬はとても吠えあっているようには見えない。

 そして右の母子の様子からはなんとなく二人の会話が聞こえてきそうな気もする。母親は子どもを急かせている。「早く歩きなさい」という声がする。子どもちょっとぐずりかけているような。

4人の美女

《漁師の娘》

《漁師の娘》 ウィリアム・アルフ・ブーグロー 1872年 
油彩・カンヴァス 116.0×87.5cm 

 

 白いすべすべした手、腕、首から胸のあたり。とてもこれは漁師の娘には見えない。本来の漁師ならもっと浅黒く、日に焼けてもいるだろう。この娘は画家のアトリエで漁師の衣装を着せられたモデルだろうか。

《散歩》

《散歩》 エドゥアール・モネ 1880年頃 油彩・カンヴァス 92.3×70.5cm

 
若い女

若い女》 ピエール・ボナール 1905年頃 油彩・カンヴァス 70.5×46.7cm

 
《ヴァイオリンのあるマルト・ルバスクの肖像、サントロペにて》

《ヴァイオリンのあるマルト・ルバスク、サントロペにて》 アンリ・ルバスク
 1920年頃 油彩・カンヴァス 122.0×86.5cm

 

 

その他

 

 

閉館後、駐車場から見た夕景、微かに富士も



小杉放菴記念日光美術館 (1月3日)

 

 

 今年も美術館の初詣は小杉放菴記念日光美術館。

 ここは東照宮まで近い市営駐車場に隣接しているのだけど、駐車場の入り口で係の人に美術館利用と告げると2時間までは無料になる。

 今回の企画展は「五百城文哉生誕160年記念文哉と放菴」。日光に住み日光の風景画を「みやげ絵」として描き続けた五百城文哉とその弟子で、後に洋画から日本画まで画風を広げた小杉未醒=放菴の二人展だ。この二人の日光の名所を描いた風景画は、この美術館でも何度も観ているし、さらには京都近代美術館「発見された日本の風景」展、府中市美術館「ただいまやさしき明治」展でも観ている。ただし今回の企画展は、五百城文哉生誕160年記念ということで、質量ともにかなり充実している。もっともこれを目当てに来たという訳でもなく、たまたまというか、三が日だけ開館して4日から6日まで年始休館になるというので行っただけ。まあ偶然開かれていたというところだけど、けっこうラッキーだった。

展覧会・催し物|小杉放菴記念日光美術館  (閲覧:2024年1月9日)

 

 そもそも五百城文哉って誰か。配布されている『「五百城文哉生誕160年記念文哉と放菴」展解説付出品目録』に解説があるので引用。

https://www.khmoan.jp/cgi-bin/cms/cms_res/file/000/001/1701423349_1065.pdf

(閲覧:2024年1月9日)

五百城文哉(1863-1906)は、現在の茨城県水戸市に生まれた洋画家です。本名は熊吉。20 代のときに農商務省山林局に勤め、前後して高橋由一に西洋画を師事。その後、不同舎でも学んでいます。1892(明治 25)年、シカゴ万国博覧会への出品作制作のため日光を取材に訪れたのを機に永住。二社一寺周辺を描いた精緻な絵画をはじめ、高山植物の研究にともなう写実性に優れた植物画を数多く描きました。そして何より、少年時代の小杉放菴に絵画の基礎を教えたのが、この五百城文哉でした。

 そもそもなぜ五百城文哉は日光に永住して日光の名所を題材にした絵を描き始めたか。そのへんは江戸幕府の瓦解により、日光がそれまでの東照宮門前町としての繁栄が見込めなくなったこと、新たに外国人たちが観光地として日光の地を見出したことなどによるようだ。

 そのへんについては、「発見された日本の風景」展の図録に「描かれた日光と五百城文哉」(田中正史)という一文があり、詳細に説明されているので引用する。

日光には、アーネスト・サトウトーマス・グラバーといった、幕末から明治の初頭にかけて来日したイギリス人たちが、日本の蒸し暑い夏に辟易して、避暑に訪れていたが、さらに、彼らが中禅寺湖周辺を中心とする奥日光の自然に故郷であるイングランド湖水地方や、あるいはスコットランドのハイランズに似た風景を見出したことにより、その人気は高まっていく。

これは、1874(明治7)年に制定された、外国人の日本国内での旅行についての制限を定めた『内地旅行規則』において、横浜居留地在住者の病気療養地に日光が指定され、翌年の『外国人内地旅行免状』の誕生により、事実上、日光への旅行が解禁されたことに由来していたとされる。同年には、アーネスト・サトウによる『A GUIDEBUOOK TO NIKKO』という旅行案内書がジャパン・メイル社から発行されており、次いで1881年には、やはりアーネスト・サトウアルバート・ホーズと共同編集した『中央部・北部日本旅行案内』の初版がマレー社のハンドブックとして、横浜のケリー商会から発売されるなど、早くから国際的に紹介される機会にも恵まれていた。1893年に『中央部・北部日本旅行案内』の第3版として改訂された『日本旅行案内』の発行は、日光を訪れる外国人の数に。さらに拍車をかけることになる。

 こうして日光を訪れる外国人観光客が本国に持ち帰るために、気に入った名所旧跡や景勝地や日本の風俗などの水彩画が「おみやげ絵」として売られていた。

 日光では五百城文哉や小杉未醒らその弟子たちが、また横浜では五姓田芳柳やその子義松らが「おみやげ絵」の制作を担った。さらに文哉や未醒らも学んだ小山正太郎の不同舎出身の画家たちも外国人向けの「おみやげ絵」をさかんに描いていた。

 そうした「おみやげ絵」の中でも、五百城文哉や小杉放菴の作品は充実度も高く、二人を中心に日光では五百城文哉派のような集団が形成されていたとも指摘されている。

 五百城文哉については小杉放菴記念日光美術館が多くの作品を収集しているが、比較的最近まで忘れられていた画家であり、1906年に42歳で亡くなっている。1983年に生まれ故郷の水戸市の博物館で回顧展が開かれてから、その画業が脚光を浴びるまでは、小杉放菴が自らの師匠として紹介するのみだったといわれている。

 その五百城文哉が日光で絵を描くことになったか。それは日光の名士として地場産業の振興に尽くした守田兵蔵という人物の存在があったからだ。

 守田は1894年(明治27)に、自邸に美術工芸品を陳列する鐘美館を開設し、「日光」の名を冠した工芸品や絵画を創設しようとした。当時、日光にすでに居住していた五百城文哉が招かれて「日光絵画」的作品を制作する担当となったのではと指摘されている。文哉は守田兵蔵の鐘美館と契約し、日光の名所を描いた水彩画を制作することで一定の収入を確保できたという。

 さらに文哉は高山植物の百花譜を得意としており、それは初期のボタニカルアートとして、植物学者たちからも評価されたという。

 守田兵蔵が鐘美館を開設したのも外国人観光客の受容があったからだが、その趣向に合わせた水彩画にはヨーロッパの新しい自然観や風景の見方、制作技術などが取り入れられており、五百城文哉の作品は水彩画の本場イギリスでも高い評価を受けることになった。

 「おみやげ絵」という、今でいえば絵葉書のようなイメージもあり、芸術的にはやや低い感じもしないでもないが、何気ない日常にも美があること、懐古趣味的な神社仏閣の風景のなかにも日常的な人物を配置するなどして、生活の中の「詩情」を見出すような画風は、日本美術史に新たな日本の風景画を見出すことに繋がっていった。

 おりしも時代的には、フェノロサ岡倉天心による日本画の偏重と洋画排斥の時代、作品に求められるのは芸術性、精神性という風潮の中で、詩情あふれる日本の原風景を描いた風景画が誕生していた。その担い手が「おみやげ絵」を描いた五百城文哉や小杉放菴だった。

 まとめて文哉、放菴の絵を観ていくと、特に小杉放菴の作品には「おみやげ絵」的な類型からじょじょに作家性や西洋絵画の影響、バルビゾン派印象派的な要素を帯びていくことが感じられた。さらに放菴はそれをも脱して、万葉風の洋画や洋画と日本画を折衷したような独自の画風へと変化していく。文哉から未醒、そして放菴へと画風の変化を感じさせるような、なかなか面白い企画展だった。

 しかし正月の3日、みんな寺社仏閣への初詣はしても美術館によるということはないのだろう。今回も館内は閑散としていて、観覧者は我々夫婦二名だけだった。

 この企画展1月28日までなので、日光を訪れる方には少しでも足を運んでもらいたいと少しだけ思ったりもした。

 

<作品はすべて小杉放菴記念日光美術館所蔵>

東照宮・陽明門》 五百城文哉 1892-1905年頃 紙・水彩 75.5×118.0cm

 

《滝尾神社・鳥居》 五百城文哉 1892-1905年頃 紙・水彩 46.7×62.7cm

 

《神橋》 小杉未醒 1901年頃 紙・水彩 34.0×50.9cm

 

《黄初平》 小杉未醒 1915年 カンヴァス・油彩 52.0×45.3cm