映画『薔薇の名前』を観た

 映画『薔薇の名前』を久々に観た。

 もちろん公開当初に劇場で観ている。その後、一度くらいはレンタルDVDで観ていたかもしれないが、それからでもだいぶ経つ。たぶん20年以上かそこらか。

 哲学者、記号論ウンベルト・エーコによる哲学・歴史小説の映画化である。

 中世末期の14世紀、北イタリアの修道院を訪れたフランシスコ会の修道士パスカヴィルのウィリアムとその弟子アドソが、修道院内で起きる奇妙な殺人事件に遭遇しその謎を解く。中世末期の修道院を舞台にしたミステリーであり、そこにフランシスコ会教皇庁との間で起こった「清貧論争」、そして異端者を悪魔の所業として火刑に処す過酷な異端審問官などが描かれる。さらに殺人事件の原因となるのは、修道院内に秘匿される様々な写本、その中で存在したかどうかがあやふやなアリストテレスの『詩論第二部喜劇について』がキーワードとなっていく。

 修道院内の図書室は立体迷路のようでもあり、それはさながらホルヘ・ルイス・ボルヘスの「迷宮図書館」を具象化・映像化させたかのようでもある。

 主人公のパスカヴィルのウィリアム、その弟子アドソは、それぞれコナン・ドイルシャーロック・ホームズとワトソンを連想させる。「パスカヴィル」は『パスカヴィルの犬』を、アドソのイタリア語の発音は「ワトソン」に似ている。そしてアリストテレスの『詩論』を隠匿する修道院の図書館長はホルヘ師という。まさにホルヘ・ルイス・ボルヘスを連想させる。

 この歴史小説的ミステリーはこうした様々な引用、インスパイアに溢れている。

薔薇の名前 - Wikipedia (閲覧:2023年11月7日)

 

 そしてこの小説のモチーフとなるのは中世修道院で連綿と続けられていた写本である。写字生でもある修道士たちは毎日写本制作を続ける。日のさす日中、祈祷の時間を除いて、ひたすら写字室で机に座り、白鳥の羽のペンを用いて羊皮紙に美しい書籍を写していく。中には挿絵係もいて美しい挿絵を独自の意匠により描いていく。

 この小説を読み、また映画を観ることで、初めて中世の写本作りというものを知ったのだと思う。グーテンベルク活版印刷が生まれるまで、本というものはこうして修道院の中で写本という形で作られ続けてきたのだ。何百年もの間。中世の文字文化はそうやって伝承されてきたのである。

 その多くはキリスト教にまつわるもので、聖書や教義書である。さらにはスコア派哲学によってキリスト教の教義とギリシア哲学が融合されたことにより、ソクラテスプラトンアリストテレスの著作やギリシアローマ神話もまたギリシア語原典、あるいはラテン語翻訳の形で写本として伝えられてきたのである。

 

 最近学習している西洋美術史の一コマでのレポート課題が「ギリシア・ローマの文学や思想が、後世ヨーロッパにどう影響を与えたか」についてだった。キーワードになるのは文献学である。その課題を目にしたときに、最初に思いついたのは、このウンベルト・エーコの『薔薇の名前』であり、中世修道院における写本制作だった。

 実際、ルネサンスにおける文芸復興は、文献学によって広がったともいえる。14世紀の人文主義者たち、ゲーテやペトラルカ、ボッカチオらは、写本にアプローチし、ある者は修道院から原典の写本を発見し、その中からラテン語訳を実現させていく。そのようにしてホメロス作品はラテン語訳化された。

 また14世紀後半には、ビザンティン帝国からクリュソロラス、プレトンといった文人たちがフィレンツェに招聘され、ギリシア語講義がさかんに行われるようになる。そこからポッジョによるキケロの演説原稿写本の発見、フィチーノによりプラトン全著作のラテン語訳が完成される。

 さらに15世紀半ばには、北方ドイツのマインツグーテンベルクが金属活字を開発し、ブドウ圧縮機を転用して活版印刷を実用化させる。そこから山深い修道院の中で秘儀として写本制作され継承されてきたギリシア・ローマの思想や文芸は、ルネサンス期ヨーロッパに広がっていった。

 レポートにはそんなことを書こうと思った。そして実際、内容的にはそんなことを展開した。そのために『薔薇の名前』を観てみたいと思った。もちろん上下巻の大著を読めばいいのだが、多分にそんな時間もなく、ジャン=ジャック・アノー監督による映画を観ておさらいすればいいかと思った。

 でも今、『薔薇の名前』はなかなか入手もできないし、サブスクの配信サービスでも見当たらない。AmazonプライムNetflixにもない。TSUTAYAのレンタルでもない。そのうち探すかと思っていたのだが、学習のため利用している市立図書館の貧弱なDVDの棚の中でそれを見つけた。つい数日前のことだ。小躍りして借りてきたようやく観たという次第だ。

 映画は重厚な哲学・歴史小説&ミステリーをいい意味で卑俗化している。最初に観たときにも、ウィリアム師を初代ジェームズ・ボンドショーン・コネリーがやるというのはミス・キャストではないかと思ったりもした。でも実際に観てみると、いい意味で人間臭い、インテリ修道士でありながら、どこか人間的で生臭坊主的な部分をも感じさせるところを、ショーン・コネリーを見事に演じていた。

 すでにジェームズ・ボンド色を抜け出そうと様々な役を演じていたが、この映画にいたってアクション俳優から渋い演技派、それでいて男の色気を感じさせる名優に見事に脱皮したのではないかとそんなことを思った。

 二十年ぶりくらいで観た今回もショーン・コネリーに対する見方はまったく変わらなかった。ときに陰惨で、猥雑、そういう中世的雰囲気の中で、ショーン・コネリーの軽みはある意味救いでもある。アカデミー主演男優賞あげてもよかったんじゃないかと思ったりもする。試しに1986年のアカデミー賞はというと男優賞はウィリアム・ハート(『蜘蛛女のキス』)、うむむむ。ちなみに翌年の1987年にショーン・コネリーは『アンタッチャブル』で助演男優賞を受賞している。余談である。

 ウィリアム師の弟子アドソを演じているどこかあどけない少年ぽい俳優はクリスチャン・スレーターだったのを改めて発見。当時はまったく意識もしてなかったし、その後はたとえば『ブローク・アロー』とかを観ても、あのアドソが・・・・・・、みたいなこともなかった。思えば80年代後半から90年代はあまり映画みていない時期ではあったのだけれど。

 とりあえずレポートとかそういうことで思い出した『薔薇の名前』だったが、今さらながら面白い映画だったとは思う。1986年公開、およそ37年前の作品。主演のショーン・コネリーも2020年に90歳で亡くなっている。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

https://www.netflix.com/jp/title/81064867

 これはNetflixで観た、多分。どうも最近はアマプラとNetflix、どっちで観たのかがあやふやなことが多い。それもつい昨日とかそういうごくごく至近のことでも判らなくなる。なので多分としか。

 1970年前後のハリウッドの雰囲気、チャールズ・マンソン・ファミリーによる映画女優殺害などを題材にした映画。旬の過ぎた西部劇のテレビ俳優(レオナルド・デカプリオ)とその友人のスタントマン(ブラッド・ピッド)のメインにその隣人としてロマン・ポランスキーシャロン・テートを配する。虚実とりまぜた物語の終焉は、マンソン・ファミリーによる襲撃とその意外な結末。

 チープでがさつな映像とストーリーの展開は、まさにタランティーノの真骨頂というところ。本作はタランティーノの9本目の監督作品。

 当時のハリウッドの撮影所の雰囲気がうまく描かれている。そしてテレビの西部劇スターの凋落と彼がイタリアに出稼ぎに出てマカロニウェスタンで成功する様が描かれる。それはそのままクリント・イーストウッドらの当時のエピソードでもある。そして頻繁に繰り広げられるプレイボーイ・パーティのバカ騒ぎ。そこにはセレブが多数参加する。そこにはやはり実在のスティーブ・マックウィーンも。

 マックウィーンはこの映画の主人公である凋落したテレビ・スターとは逆に、テレビから映画に進出して大成功する。そういえばデカプリオ役の過去のスターが『大脱走』のスクリーン・テストを受けているシーンも挿入され、クスリと笑わせる。俺がマックウィーンの代わりに映画スターになっていた可能性があるんだというくすぐりだ。

 シャロン・テート役のマーゴット・ロビーはすでに『スーサイド・スクワッド』、『アイ・トーニャ』に出演して売り出し中だったが、この映画でも新進気鋭のシャロン・テート役を見事に演じている。この映画、実は彼女でもっているような感じがする。明るく陽気な売り出し中の女優役、でもその実人生の悲劇的結末、それをこの映画を予備知識をもって観る誰もが知っている。だからこそ陽気なアメリカン・ガールの姿が痛々しくもある。

 この映画はレオナルド・デカプリオとブラッド・ピッドという二大人気俳優の共演作なのだが、どうしてもマーゴット・ロビーが全部おいしいところもっていってしまったような印象がある。まあシャロン・テート役というのはある意味インパクトを含めておいしい役柄だったのかもとも思う。

 もっともデカプリオもいい味出している。ただし彼の雰囲気は往年のアクション俳優という風には見えない。なんかこうすでにジャック・ニコルソンみたいな雰囲気である。そのへんがこの映画のタランティーノの安っぽさ(誉めている)とややミスマッチのような気もする。それに対して、ブラビはどうか。もうこれはタランティーノの世界たいへんマッチしている。昔からオバカなマッチョ役をやらせたら最高なのがブラビである。絶対にないだろうけど、『パルプ・フィクション』をリメイクすることになったら、トラボルタ役はこの人にやらせたい。

 という点でこの映画、主役のデカプリオは確実にブラビとマーゴット・ロビーに食われたような印象がある。そのくらい二人の存在感が際立っていたか。

 この映画は悲劇的な結末を意外な形に変えてしまった。それが映画の面白さにいい結果を間違いなくもたらしている。この映画は1970年前後のアメリカ、ハリウッドのお伽話、サイドストーリーなのかもしれない。

「昔々、ハリウッドで・・・・・・」

 

フェイブルマンズ

 アマゾンプライムで観た。

 今では巨匠監督の一人となったスティーヴン・スピルバーグ監督の自伝的映画である。スピルバーグの分身でもあるフェイブルマンズ少年が、映画に夢中になり8ミリビデオ撮影に明け暮れる少年時代を描いた作品。巨匠の伝記映画という意味で、話題を呼びアカデミー賞作品賞など7部門にノミネートされた話題作でもある。

 95回アカデミー賞の授賞式の前には、かなり宣伝もされたが結局無冠。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』に全部かっさわれた感じだったか。授賞式前後に日本でも映画公開されたが、なにかあっという間に上映が終わってしまったような感じで見過ごしてしまった。サブスク配信が始まったというのでまあ観た訳だ。

 感想を一言でいうと、ちょっと物足りない。いやちょっとではないかもしれない。巨匠映画監督の自伝的映画である。当然のごとく映画愛に溢れた作品を想定していたのだが、どうもそうではない。もちろん彼が最初に観た映画、デミルの『地上最大のショウ』や影響を受けた西部劇の巨匠監督の『リヴァティ・バランスを撃った男』などのエピソードもある。しかしもっとスピルバーグが、夢中になった映画について語り続けるような、そういう映画、ハリウッド映画へのオマージュ作品を期待していた。

 しかし映画はどちらかというともっとドメスティックな部分と、スピルバーグの青春時代のエピソードをちりばめたようなそういう内容だった。物静かで仕事を、家族を、愛している科学者の父。元ピアニストで芸術家的趣向性をもつ奔放な母。やんちゃな二人の妹。特に自分の映画趣味、8ミリビデオ撮影に理解を示す母に対する思い。そして両親の不仲と離婚。

 スピルバーグって結局のところマザコンなんかなと思ったり、なんだこの映画は結局のところスピルバーグの「母恋し」みたいなそういう映画なのかと思ったりもした。

 当然、母親は好意的で魅力的に描かれている。演じるのはミシェル・ウィリアムス。『マリリン 7日間の恋』でマリリン・モンロー役を演じたこともある。キャリアをみるといろいろな映画に出演しているのだが、今一つ印象が薄い。『ブロークバック・マウンテン』にも出ていたらしいがこれも覚えていない。

 本作ではショートカット、家族を笑わせる剽軽な部分、元ピアニストとしての芸術家的な雰囲気や表現者としての部分などを魅力的に演じている。この役は50年前だったら、シャーリー・マクレーンだったかなと思わせるくらいに、雰囲気が似ている。そういうイメージが作りがあったのかなと思ったりも。

 フェイブルマンズ少年の学生時代、ボーイスカウト仲間との8ミリビデオ映画作り、高校に入ってからのイジメにあう部分などは、ほぼスピルバーグの体験に基づいているようだ。そして映画作りのなかで周囲の理解を得て行くところなども。

 映画はドメスティックな部分と、少年の映画作りの部分を中心に描いている。しかしその入り組みがあまりうまくいっていない。というか映画への愛がどうにもスクリーンから伝わってこない。

 映画作りや映画に囲まれた少年時代を描いた映画というと、例えばトリフォー『アメリカの夜』、ジュゼッペ・トルナトーレニュー・シネマ・パラダイス』なんかを思い出す。監督の映画への思い、映画愛に溢れた映画だ。ああいうかって自分が夢中になって観た映画への思い、ノスタルジー、そういうものが残念ながら『フェイブルマンズ』にはあまり感じられなかった。スピルバーグの映画への思い入れ、そういうものがどうにも伝わってこない。

 ラスト、映画撮影所で仕事を得て、フェイブルマンズは敬愛する大物監督と対面する。大物監督は言う。

地平線が画面の上にあるといい絵になる。下にあってもいい絵になる。地平線が画面の真ん中にあると死ぬほどつまらない

 これはある意味、映画の本質を捉えた言葉だ。映画は、映像は、捉え方によって面白くも、凡庸にもなる。捉え方によってヒーローが生まれ、負け犬も描かれる。捉え方によって家族は仲睦まじくもあり、隠された不和や不義が充満していることを予感させることもある。

 地平線の描き方。それを主人公に語るのは、アーミー・ジャケットを着て葉巻を加えた隻眼の大物監督。アカデミー賞監督賞を唯一4度受賞した男、ジョン・フォードだ。なぜか演じているのは同じ映画監督のデヴィッド・リンチ。ある意味『フェイブルマンズ』は、このジョン・フォードのエピソードだけで良かった。2時間30分の長尺よりも最後のほんの数分の巨匠とのエピソード。そこだけが印象深く残ったし、ある意味このためだけにこの映画はあるような気もした。

 こんなに冗長的な少年時代のエピソード、母親へのオマージュなど必要なかった。巨匠との短い邂逅、それで事足りた映画というと、多分酷評過ぎるかもしれない。でも自分にはそれで良かったかもしれない。とはいえこの映画は実はそれほど嫌いではない。

 でも出来れば『激突!』、『ジョーズ』、『未知との遭遇』、『インディ・ジョーンズ・シリーズ』、『ジュラシック・パーク・シリーズ』、『プライベート・ライアン』を撮った希代の大監督である。彼の映画愛に溢れる伝記的青春時代を描いた映画。そういうものを観てみたい。

デビッド・マッカラム死去

(閲覧:2023年9月27日)

 新聞の訃報欄に載っていた。90歳、大往生なのだろうけど淋しいね。

 デビッド・マッカラムといえば記事にもあるとおりに『ナポレオン・ソロ』のイリヤ・クリヤキンだ。このシリーズは人気があった。女好き、プレイボーイのナポレオン・ソロに対して理知的なイリヤ・クリヤキン。スパイ・シリーズとして絶妙なコンビだったか。

 ナポレオン・ソロ役のロバート・ヴォーンは2016年に83歳で亡くなっている。ヴォーンは1932年生、マッカラムは1933年生。一歳違いだったか。

ロバート・ヴォーン死去 - トムジィの日常雑記

 デビッド・マッカラムはとにかくイリヤ・クリヤキンの印象が強い。大ヒットドラマだが、キャラクター・イメージが定着してしまった感もあるか。どの映画に出ても、イリヤが出ているみたいな感じになる。『ナポレオン・ソロ』以前というと『大脱走』に出演していたのを覚えているくらいか。

デヴィッド・マッカラム - Wikipedia (閲覧:2023年9月27日)

 彼の経歴をみていると前妻はジル・アイルランドとある。ジル・アイルランドはたしかチャールズ・ブロンソンと再婚した。おしどり夫婦として共演作も多い。チャールズ・ブロンソンは『大脱走』にも出演している。またロバート・ヴォーンも出ていた『荒野の七人』にも出演していたと記憶している。集団劇みたいな映画で、特異な風貌で鮮烈な記憶を残す性格俳優、のちにアクション・スターとして大成した。そのチャールズ・ブロンソンは2003年に81歳で亡くなっている。彼は1921年生だからデビッド・マッカラムロバート・ボーンより一回りくらい年長になる。

 デビッド・マッカラムイリヤ・クリヤキンの声はいつも野沢那智が担当していた。ロバート・ヴォーン矢島正明、マッカラムは野沢那智、この二人の声優が担当したこともシリーズが日本で大ヒットした理由の一つかもしれない。とにかく絶妙な掛け合いみたいな感じだった。

 その野沢那智も2010年に72歳で亡くなっている。矢島正明は91歳、まだ存命のようだ。彼はロバート・ヴォーンと同じ1932年生まれだ。

 

 懐かしい60年代のスターが90歳で亡くなる。もう60年前のスターなのだから、こればかりは致し方ない。みんな向こうへ逝く。そういうものだ。

 とはいえ訃報に接すれば、淋しい、ただただ淋しい気持ちになる。

 さらばデビッド・マッカラム、さらばイリヤ・クリヤキン

 ご冥福を祈ります。

雑感~風邪をひいて

 だいぶ間が空いた。

 ここのところ、ずっと風邪っぴきで調子が悪い。

 先週、妻と伊豆旅行に行って来た。まあそのこともおいおい。下書きしてあるものを少しずつか。旅行前から妻が風邪ひきで、旅行中自分もうつった模様。妻は熱がでず、もっぱら喉の痛み。自分は土日には37度台の熱が出たが、その後熱はおさまる。咳や喉の痛みはない。そして二人とも寝込むほど具合が悪くはない。自分はあまり熱には強くないのと、平熱が35度台なので、これまでだと37度台になると途端に具合悪くて寝込んでいたのだが、今回はまあ普通に家事とかはこなしている。

 そう、風邪ひいても生活は変わらない。やらなければならない家事とかは普通にあるし、炊事や掃除、洗濯、毎朝のゴミ出しなどなど。結局、調子悪くても誰かがやらないといけなし、それが我が家の場合は自分ということになる。まあいいか。

 ゴミ出しといえば、生ごみにしろ、資源ごみにしろ、当日集めて出していたが、最近はというと前日夜に集めて、朝は出しにいくだけだ。これはどういうことだろうか。ちょっと考えてみるにつけ、多分ゴミの出し忘れの予防策みたいなことなのかもしれない。歳とったせいか物忘れもあるし、ポカやるかもしれない。とっさの対応もできないことがある。かといってゴミ出し忘れとかが続けば生活の質が間違いなく低下する。前日にゴミを集めるとか、そういう準備はある種の強迫観念かもしれない。

 これをやらんと生活レベルが落ちる。ごみ屋敷とまではいかないが、多分家の中がじょじょに荒れていく。そのためには日々のごみ出しはある種の生命線、防衛ラインみたいな・・・・・・。

 

 風邪をひいて体調が悪いけど野暮用はいくらでもある。スマホのカレンダーアプリをみると用事のほとんどが通院。歯医者に通う、泌尿器科に通う、妻の通院や健診の付き添い送り迎え。

「年とると、外出の用事がぜんぶ通院ばっかり」

 と次の予約日を決めたときに歯科助手の女性に話したら、苦笑というか笑われてしまった。まあそういうことだ。

 

 いよいよiPhone15が発売されるようだ。予想されていたとおり充電ケーブルはType-Cに代わるとのこと。それに伴い旧型機な若干値下げされたという。いまだiPhone8を使ているだけに、本当にそろそろ代えなくてと思いつつも、とりあえず壊れないし、普段使いは8でも十分みたいな感じでいる。

 近場の家電店なども回っていても、14も上級機種はあるが無印は品薄。13もほとんどない状態。多分、15の発売にあわせて旧型機の供給絞って新機種誘導がありありのようだ。しかし日常的に必要だといっても、スマホごときに14万とかをだすのもなあ。もうパソコンよりも明らかに高い。まあ今のスマホは携帯性に優れた高性能のパソコンという側面もあるから、これは致し方ないのだろうけど。

 今使っている8からすれば、多分SEで十分なのはわかっている。一応、高齢者のはしくれだから、機能的には十分。わかっちゃいるけど・・・・・・。まあ、今しばらく煩悶とした日々が続くか。

 

 三連休と子どもが家に来ていた。風邪ひきの両親の看病のため。いやいや、ただただのんびりと連休を過ごすため。妻と二人だと割と簡単なものですますことも多いのだが、やはり三人となるときちんと食事を作る。多少、熱があってもすき焼き作ったりとかなんとか。まあいいか。

 子ども、病気自体は快癒している。いやそもそも病気だったのだかどうかも怪しい。でも相変わらず休職状態が続いている。次の現場がなかなか決まらないのだとか。そのへんのことは7月くらいから聞いていたので、真面目に転職してはどうかと勧めてはいた。でもって、そろそろ本格的に就活を行うのだとか。

 職務経歴書とかも見せてもらったりもした。まだ3年かそこらだから半人前といえば半人前。それでも盛りに持った3枚の経歴書を見せてもらい感想とかを少し。まあ若いし、今は転職は普通の世の中だからあまり心配はしていない。と、6度転職した親は割と楽観的に考えている。IT系はまあまあツブしがききそうということもある。

 とりあえず幸運を祈るとしかいいようがない。

 

 学習のほうはレポート二本提出、一つはAでもう一つはC。まあそういうものだ。今はちょっと中休み的なのだが、ある意味なにもする気にもならない。動画配信とかもあまり見ていない。ちょっと前だと、毎回Netflixの新作とかを必ず一本観ていたのだ、それもいまはない。ちょっと気になってもニ三話観て、あと最終回観て終了とか。今はそれすらもないか。そろそろNetflixもやめようかと。まあアマプラは送料無料の兼ね合いもあるから多分引き続きかなとも。こうやってAmazonの奴隷生活が続く。

 

 映画もちょこちょこ観ているのだが、なにか観た先から忘れていくような気もする。多分、月にすれば少なくとも4~5本はなにかしら観ているはずなのだが、サブスクで観たものはほとんど覚えていない。これはヤバイ兆候かもしれないし、コンテンツの受容ということでいえば大変幸福な状態かもしれない。観ているときは、90分とか2時間とか時間を忘れて画面に集中。観終わったら、全部忘れてしまう。

 こういう映画の消費の仕方って実は娯楽映画の王道かもしれない。映画館に入って2時間、アクション映画やコメディ映画を観て、ハラハラドキドキ、笑ったりして、映画館でたらスッキリして終了。映画って、まあそういうコンテンツではあったんだな。

 アマプラで溝口健二とかベルイマンとか、昔の名作系もちょこちょこ出ているのだけど、どうにも食指が動かないというか。多分、絶対に寝るの必須な気もする。昔は、そういうのでも良かったんだ。必死に睡魔をこらえてスクリーン直視とか、結局爆睡こいてえらく後悔とかなんとか。でも、もはや残り少ない時間の中で、寝落ち必須の名画を観るというのはどうにも。

 80年代くらいから映画を観る機会が減った。ちょうどその頃には、家に二台のビデオデッキを用意してダビングしたり、出始めたレンタルビデオとかで昔の映画を追いかけていた。自分にとっての「昔の映画」は1960年代以前のものだった。ようやく50年代のハリウッド映画とかにあたりがつくようになったと思ったら、時代は世紀末から新世紀になっていて、ちょうどその頃、ようは同時代の映画が全然観ていなくて。そんな映画がもはや20~30年前の古い映画になりつつある。

 それらを2023年の今、少しずつ追いかけようかと思わないでもないのだが、これはもう圧倒的に時間が足りない。老後の楽しみというか、時間が出来たら古い映画三昧とかいっても、まあ働かなくても家事だの野暮用はある。とても時間が足りない。長生きして沢山映画を観たい、本を読みたいとか思っていても、多分きちんと2時間集中して映画が観ることができるのは、せいぜいあと数年だろうなと思ったりもする。読書も多分同じようなものだ。

 もっと時間が欲しい。これは切実な願い、願望、希求、もろもろ。でもいくら高齢化社会といっても、いずれその日はやってくる。いやそれ以前に、映画も観ることができない、本も読めない、多分、音楽も聴くことが出来ないような、そういう老いもやってくるに違いない。

 ディランが二十代に書いた「フォー・エバー・ヤング」が身に染みる今日この頃。まあそんなこともないか。

「空に梯子を架けて・・・・・・」

 

 シアーシャ・ローナンの『ハンナ』をアマプラで観た。

 前から知ってはいたのだけど、そのうち観ようリストのどこかにしまっていた。たまたまなんだ、『バービー』を撮ったグレタ・ガーウィグの第一回監督作品が『レディ・バード』で、その主演がをやっていたのがシアーシャ・ローナンだというので、『レディ・バード』も観てないな、彼女は『ブルックリン』を観ていい女優だなと思ったことなどを思い出して、アマプラのリストを見ていてヒットしたのが『ハンナ』。まあこういう数珠つなぎみたいのが嫌いじゃない。

 シアーシャ・ローナン、ちょっと呼び辛いというか。「Saoirse」=シアーシャはアイルランドゲール語らしい。Google翻訳で発音を聞いていると「サーシャ・ロネン」と聴こえるのだけど。どうでもいいけどマーゴット・ロビーは「マーゴ・ラービー」にしか聴こえない。まあほんとどうでもいいことだ。

 そしてシアーシャ・ローナン、美人は美人だけど独特な雰囲気を持っている。子役からキャリア初めて、若いけれど出演作も多い。アカデミー賞にも何度もノミネートしている。こういう女優さんは、どこかで取らないとずっと未冠の女王みたいな存在になってしまうかもしれない。一度取ると続けて二度、三度となるかもしれない。確かな演技力と独特な存在感、雰囲気を醸し出す。そういうタイプ。多分、どこかで脇役に回って助演女優賞の常連みたいなことになるかもしれない。

 まあそれまでは『ブルックリン』しか観ていないし、『レディ・バード』をずっと観ないままでいるのも、なんとなく『ブルックリン』と同じ雰囲気がして、そういうのはもういいかなみたいな感覚もないでもなかったか。なんていうのだろう、やや地味、真面目だけど、心の中にいろいろ抱えているような女の子の成長期みたいな、そういうやつね。

 『ハンナ』はアクション系でちょっと類型的だけど、シアーシャ・ローナンと相手役のケイト・ブランシェットでもたせる。まあそういうタイプの映画。ケイト・ブランシェットも類型的というか、ちょっとバカっぽい感じもしないでもないけど。

 映画を観ていてシアーシャ・ローナンって、誰かと雰囲気が似ているなと思った。多分、あれだ、日本の黒木華とか。多分、そう思っている人けっこういるように思う。

 シアーシヤ・ローナンは多数の主演作あるけどまだ29歳。これからどんな女優になっていくか楽しみといえば楽しみ。個人的にはキャリー・マリガンシアーシャ・ローナンが一番気になる女優かもしれない。この二人ってまだ共演ないだろうか。けっこう演技合戦みたいになって面白そう。ググると『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』で共演の可能性があったらしいけど。

 ローナンの映画、少しまとめて観ようかと思う今日この頃だ。

『バービー』を観た (9月9日)

 土曜日は吹奏楽のコンサートに行き、速攻帰宅。その後、妻と二人で近所のサイゼリヤで飲食。まあ子どもの演奏聴けたし、親バカ的にはコンサート大成功で乾杯と。

 最近、二人でパーッとやる場合の定番がサイゼリヤ。二人で中生二杯ずつ飲んで、ピザだのハンバーグだの食べて、とどめに自分はワインをデカンタで飲んで・・・・・・。それでも5千円弱でおさまる。年金生活のジジババにとってサイゼリヤは神的な場所だな。

 それからすぐ帰ればいいのに、ちょっとスーパーにでも寄ろうかとなって、ご近所の小さなショッピングモールに。そこには小ぶりのシネコンがあるので、『バービー』まだやってるかと思ったら、ちょうどレイトショー9時5分からがある。あと15分くらいというところ。というか『バービー』はもはやレイトショーだけしかやっていない。やっぱり日本ではこの手の映画は難しいのかな。このままだと地元ではもう公開終わってしまうかもしれない。

 ということで勢いで観ることにした。妻も賛成したけど、多分寝ると思う。案の定始まってすぐにお休みになられた。

映画『バービー』オフィシャルサイト (閲覧:2023年9月11日)

バービー (映画) - Wikipedia (閲覧:2023年9月11日)

 

 面白かった。もの凄く面白かった。メチャクチャ面白かった。

 前評判は聞いていたけど、それ以上かもしれない。フェミニズム映画、性の多様性、ジェンダーをテーマにした映画であるとか、あとアメリカで大ヒットしているとも。とはいえストレートにそういうテーマを持ってくるのではなく、あくまでポップで笑かし的である。このへんがやはりショービジネス大国アメリカ、ハリウッドの真骨頂かもしれない。

 冒頭からしてあの『2001年宇宙の旅』のバロディである。赤ちゃん人形のお世話するお遊びにあけくれる少女たちのもとにモノリスならぬ水着姿のバービーが突然現れる。そして啓示を受けた一人の少女が、赤ちゃん人形を大地にたたきつけ、空に投げ上げる。レイトショーで数少ない観客の中で大爆笑してたのは、自分とやや後ろにいるオジサン、オバサンのカップルくらいだったろうか。これ、アメリカでは多分大爆笑なんだろうなと思ったり。

 そしてピンクに彩られたバービーワールド。そこにはバービーとバービーのボイーフレンドしかいない。バービーは商品化された様々なバービーがいる。大統領、医師、サッカー選手などなど。その中心にいるのが定番バービー、マーゴット・ロビー。そして彼女の永遠に曖昧な関係のボーイフレンド・ケン。これを演じるのはライアン・ゴズリング。超一流の売れっ子俳優なんだから、役を選べよという気もするが、よくぞ演じたと思ったりもする。ゴズリングの役者魂も凄い。

 幸福でお気楽な生活を送っている定番バービーは、あるとき「死」について考える。するとそれまでのお気楽なバビーワールドに少しずつズレが生じ、定番バービーにもそれまでではあり得ない変化が訪れる。その問題を解決するためには、人間の世界でバービ人形持ち主と出会い、持ち主の問題を解決する必要がある。定番バービーとケンは二人で人間の棲む現実世界に向かう。それは二人の自分探し、アイデンティティを見つける旅でもある。

 何の悩みもないかわいい服を着たかわいい女の子としてバービー。そしてあくまでバービーの添え物的な存在である永遠の曖昧な関係のケン。二人ともバービーワールドの中では性的な機能を有していない。かわいい人形とその曖昧な関係のカッコいいボーイフレンド。彼らはリアルな人間社会で自分たちの存在の虚構性と向き合う。そして矛盾だらけの人間世界に対峙していく。

 そして女性とは、女らしさとは、かわいい少女とは、その相手役たる男とは、男らしさとは、男のカッコよさとは、そうした社会的役割の欺瞞性や矛盾、まさにジェンダー、社会的性差がつきつけられる。それま正攻法に真面目かつ重くとは真逆な笑かしとして。

 よく出来たなと思う。これは脚本と演出の勝利。監督のグレタ・ガーウィグは『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』を撮った女性監督。脚本は彼女と彼女のプライベートでもパートナーであるノア・バームバックの共作。『レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ』は、シアーシャ・ローナンが主演している。『ブルックリン』以来気になる女優で、いつか観なくてはと思っているのだけどなんとなくそのままだ。

 そして主演はマーゴット・ロビーハーレイ・クインシャロン・テート役をやっていたり『スキャンダル』でセクハラ被害を受ける若手リポーターやっていたかと思いきやいつのまにかトップ女優になってしまったって感じ。

 

 多分、ジェンダーやセクハラといった重いテーマは、ハリウッドでは、あるいはアメリカ的には社会派ドラマとして正攻法で描くより、こうした笑かしの中で扱う方が受けがいいのかもしれない。例えば『SHE SAID』とかと比べても、多分作品的に上かもしれない。あれはあれで正攻法の社会派ドラマでけっこう好きなほうだけど、笑かしの中に社会の矛盾、ジェンダーの問題ををくすぐるという方が了解可能なんだろう。

 すでに全世界で10億ドル(約1400億円)の興行収入を得ており、女性監督の作品としては史上最高の作品になるのだとか。もっとも世界的ヒットとは裏腹に日本での興行収入はやや不振とも。日本ではこういうポップな笑かしは受けないのか、いやそれ以前に日本ではアニメとアイドルもの意外は多分ヒットしないのかもしれない。そういう文化というかなんというか。

 さらにいえば、日本にはリカちゃんという不動の存在があり、もともとバービー人形はあまり売れていないという事情もあるかもしれない。しかしもしリカちゃんを実写映画化したとしても、『バービー』のような社会性、ジェンダーをはらんだ笑かしが出来るか。メーカーのマテルの全面協力のもとでマテルを諧謔的に描くようなことが、タカタトミーに出来るかどうか。全部、微妙な気もするし、たぶん実写化となるとアイドル使った甘々な映画になるような気もしないでもない。まああんまり考えないようにしよう。

 

 多分、『バービー』は来春のアカデミー賞ではけっこうノミネートされるかもしれない。ひょっとすると監督賞と主演女優賞はけっこう堅いかもしれない。個人的にはライアン・ゴズリングに助演ではなく主演男優をあげたい。その価値あると思うんだけど。

 

 

 

 

 

『君たちはどう生きるか』を観てきた

 

 宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を観てきた。

 近所のシネコンで20時45分の最終回、風呂入って夕食食べてからのんびりと。いつも思うことだけど、地元に映画館があるのはこういうのができるとこ。普段着の映画鑑賞的というか。

 宮崎駿のキャリア最後の作品、前宣伝がまったくなくトレイラーもない。情報がまったくない中で出てきたのが一枚のイラスト。

 

 鳥人間・・・・・・?

 そうしたなかいざ公開されると、「面白い」、「難解」、「意味不明」などなどの感想がネットにとびかっていた。でもやっぱり宮崎駿のネームバリューで興収はいいようでヒットしている。

 自分の周辺でも観た人がチラホラと。感想的にはけっこう真逆というか「宮崎駿らしい」派と「それまでの宮崎駿らしくない」派になんとなく分かれているような。

 

 自分はというと多分宮崎駿ジブリ作品の良き観客ではない。まあ子育て時期がジブリ全盛だったので、一応一通り観ているし家にはほぼ全部のDVDがある。でも正直いうと、きちんと全部通して観たジブリ作品ってあんまりない。『トトロ』や『魔女の宅急便』は繰り返し観ているはずなのでけど、最後まできちんと観たことがない。『ナウシカ』や『ラピュタ』、『もののけ姫』にいたっては断片的に観ているだけだ。

 きちんと劇場で観たのはというと、『千と千尋の神隠し』、『ハウル』、『ポニョ』、『風立ちぬ』くらいか。でも印象に残っているのは『千と千尋』と『ハウル』『ポニョ』あたりか。

 なんとなくだが、宮崎駿作品は映像イメージや想像力、そうした部分は魅力的なのだが、ストーリー的には尻すぼみに終わってしまうみたいな感想を抱くことが多かった。『千と千尋』は構想力、キャラクターなどえらく面白く感じたのだが。なんとなく途中で失速、最後にいたっては、「えっ、これでお終い」みたいな感想をもった。同様に『ハウル』なんかも、結局何が言いたいみたいな感じ。

 

 シークエンスの奇抜さ、面白さ、イメージの発露・爆発、映像美の確かさ、などなど映画の作り込みや楽しみ方はそれぞれだ。でもその終わらせ方についていえば、あえて中断、中途半端的な強制終了もあれば、大団円的なものもある。そこに映画監督の作家性が込められるみたいな部分。

 ここで持ち出すのはちょっと違うかもしれないけれど、例えば『ニューシネマ・パラダイス』のラスト・シーンは本当によくできました的だし、すべてが回収され、センチメンタルかつ映画への愛が溢れる終わり方だ。例えば『8 1/2』のラスト「人生は祭りだ、共に生きよう」は映画監督の妄想、エゴを映画的に終わらせるまさに大団円だ。

 そういう映画的な締め方からすると、宮崎駿作品はどこか中途半端感を思うことがある。構想、キャラクター、イメージ、すべてが素晴らしいので、どこか放置したまま締めることなく終わらせてしまう。ハリウッドだったら、編集権もってるプロデューサーとけっこうもめるだろうなと適当に想像したり。

 まあそれでずっとやってきているので、宮崎駿作品というものは「そういうものだ」みたいな感覚が実はあったりもする。そして今回はというと、珍しくというか、キャリアの最後でなんとなくきちんとオチのある作品に仕上がっているような風に感じた。

 最後の最後、リアルな人生を歩み始める主人公、まさに「君たちはどう生きるか」というタイトルにいきつくような、そんな感じだろうか。

 

 ネタバレでもないし、多分にアバウトな、あるいは的外れな理解かもしれないが、『君たちはどう生きるか』は、戦禍にあって母親を亡くした喪失感から精神世界に逃避する心病んだ少年が、新しい環境の中で、母親の死ときちんと向き合い、継母との生活を受け入れ、実人生を生きることを決意するというお話。ある意味では正攻法なビルドゥングス・ロマン的作品ではないかと思う。

 

 疎開先での生活の中で出現する様々な鳥のイメージ、森と不思議な塔、海と城壁の中での闘争。それらはおそらく病んだ少年がみる幻影の類だろう。その中で亡くなった母親は少女化し、子を宿した継母は眠り続ける。

 少年と行動を共にするアオサギや彼と対峙する精神世界に生き続ける謎の老人=大叔父は、おそらく少年の中で分裂した自我なのかもしれない。少年は老人の跡を継いで精神世界の総ての決定者として生きることを望まれるが、すんでのところでとどまる。自分はピュアな存在ではなく、悪意を抱く人間だという自我を確立することによって。

 この映画は、このストーリーはきわめて精神分析的、フロイト的かもしれない。そしてかなりアバウトでもある。病んだ少年には亡き母親と継母*1の実家での生活はすでに歪んだ妄想によって構築されている。あの七人の小人のような老婆たち=女中は、みな少年の妄想だろう。実際、複数の女中、婆やの類かなにか。その中の一人がさらなる精神世界の中にあっては、少年を導く強い女性となる。そして少女化した亡き母もまた強き女性として、少年をサポートする。

 

 この映画のタイトルは吉野源三郎の書いた小説『君たちはどう生きるか』に由来する。しかし映画と小説にはほぼほぼ連関性はない。時代が戦中という部分はあるが、空襲で母親を亡くすという設定から、映画は戦争末期のことだが小説は日中戦争が勃発した時期だったはずだ。

 小説は山本有三が監修した児童向け双書シリーズ『日本少国民文庫』の一冊として新潮社から刊行された。もともとは山本有三が書くはずだったが、事情により編集を担当していた吉野源三郎が書くことになった。

 吉野はそのすぐあとに岩波書店に入社し岩波新書創刊に関わる。よくいわれることだが、岩波文庫小林勇が、岩波新書は吉野が創刊編集者だったとされている。戦後、吉野は雑誌『世界』の初代編集長となり岩波書店の編集方針をリードする。『世界』は準備段階にあっては、保守リベラル的な安倍能成等が編集するはずだったが、戦後思潮の動向がラディカルに傾くなかで、吉野が主導する革新派の雑誌として創刊されたという。

 その後、吉野は岩波書店の労組をたちあげ、ほどなく編集担当役員として岩波書店をささえた。彼が日本共産党員だったかどうかは定かではないが、戦後日本の論壇が左傾化する中で、日本共産党とはきわめて親和的だったのはまちがいない。また、一方で反代々木の急先鋒であった全共闘運動にも一定の理解を示してもいた。

 東大紛争時の全共闘の議長山本義隆*2が、ある時期吉野源三郎の娘の家庭教師をしていたことは有名である。吉野は山本の才能をかっていて、その考え方や行動には賛同できない部分があったにせよ、相応のシンパシーを感じていたようだ。

 吉野源三郎は守備一貫してリベラルな思想の持主であり、時に時代の振り子の振れ幅によってはラディカルに傾いたとしても、基本は西欧的なリベラル(自由主義)の人だったと思う。

 その彼の書いた『君たちはどう生きるか』は歴史的名著だと思う。私自身はというと、「君たち」ともいうべきティーンエイジャーからはるかに時を隔てた三十代に読み感銘を受けた。それからも何度も読み返しているし、自分の子どもにも買い与えた。この本は、社会的な認識、人と人との社会関係、社会構成、さらに社会における生産関係を、平易に意識させることができると思っている。

 この本(岩波文庫版)の後書きは、政治学丸山眞男が書いているが、そこで丸山はこの本をこう評価している。

いかにも幼いコペル君にふさわしい推論を積みかさねて「法則」に到達する過程が、すこしも「大人」の立場からの投影という印象を与えず、きわめて自然に描かれているのにも感心しますが、おじさんがこの手紙を承けて、そこから一方ではコペル君をはげましつつ、他方で「人間分子の法則」の足りないところを補いながら、それを「生産関係」の説明にまで持ってゆくところに読み進んで私は思わず唸りました。

 これはまさしく「資本論入門ではないか」——。

<中略>

中学一年生の懸命の「発見」を出発点として、商品生産関係の仕組みへとコペル君を導いてゆく筆致の鮮やかさにあ然としたのです。

君たちはどう生きるか』 後書き「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」丸山眞男 P312-313

 

 さらにこの本はマガジンハウスから漫画化され、これは200万部を超える一大ベストセラーになった。あのマンガはある種の自己啓発的な雰囲気で全面に押し出され、原作のもつ社会認識やリベラルな志向についてはなんとなく後景化されているような気もしないでもなかった。しかし『君たちはどう生きるか』という書籍の存在を現在において改めて周知させる絶大な影響があった。

 そういった原作部分は映画と連関しているかというと、それはほぼ皆無といっていいかもしれない。映画の中で亡き母が主人公のために残してくれた書籍のなかに小国民文庫版『君たちはどう生きるか』があり、それを読んで主人公が涙するシーンが挿入される。しかしその涙は内容に対するものではなく、その本を残してくれた亡母に対する哀惜の情からのものだったのではないか。

 映画と原作には関連するものはない、多分。宮崎駿はタイトルのみを借用し、自分なりの『君たちはどう生きるか』をイメージし、展開してみたのだろう。それは矮小化した理解ではあるけど、*3喪失感と精神世界への逃避、そこを抜け出して実人生を生きることに、リアルワールドに踏み出す決意をした少年の成長物語ということだ。『君たちはどう生きるか』は、そのままそれぞれの少年少女たちの「私たちはどう生きるか」に展開されていくということだ。

*1:母親の妹らしい

*2:今は物理学の泰斗でもある

*3:誰かがこの映画を村上春樹的な要素があると語っていたが、まさにこの部分かもしれない