映画『ザリガニが鳴くところ』を観た

 観たいとずっと思っていた映画がAmazonプライムで配信されたのでようやく観ることができた。

 原作小説はアメリカでベストセラーとなり、日本でも書店の担当者の間で評判になりけっこう高い評価を得ている。当然、読んでいたので映画化ある種期待を持ちつつも、原作の雰囲気をきちんと描き出しているかと思ったりもしていた。

ザリガニの鳴くところ - トムジィの日常雑記

 

 しかし公開されるとあっという間に終わってしまった。相当不入りだったのだろう。もっとも日本で外国映画はディズニーかマーベル(これもディズニー)あたりでないと、だいたい二週間程度で終わってしまう。まあ邦画もアニメかアイドルでないと、なかなか長期上映はない。

 そもそも『ザリガニの鳴くところ』は埼玉のシネコンではほとんどかかってなかった。なのでいつ頃DVD化されるか、配信が始まるかとちょっと思ってはいた。まあ心待ちというほどではないけれど。

 小説の感想でも思ったことだが、この作品は動物行動学者であるディーリア・オーウェンズが70歳にして初めて書いた小説だ。小説の魅力は一にも二にもノースカロライナの湿地帯の自然描写だ。

 自然小説と自然の中で放置され一人で生きてきた少女の孤独、そして恋と裏切りというロマンス、さらに殺人事件というミステリー要素も加わる。しかし自然描写と孤独な少女のサバイバル、それがある種の本筋であり、残りの部分はやや微妙。ミステリーにいたってはきちんと回収されないでいる部分もある。

 なので映画化にあたっては、そのどの部分にスポットあててくるかというところが気になる部分でもあった。湿地の自然と少女のサバイバルか、少女のロマンスか・・・・・・。

 映画は基本的に原作に忠実だった。それは好感がもてる。とはいえやはりロマンス部分にもかなり割いている。少女カイアのラブロマンス、初恋の人であるテイトやカイアの体を目的に近づいてきたチェイスとのセックスなども描かれる。そのへんは今風なのだが、もう少し省略しても良かったかなと思ったりもするのは、ハリウッドのプロダクション・コードに馴らされて育った古い世代だからだろうか。セックスシーンは花びらがぽとっと落ちる意味深カットで十分だったりとか。

 

 結論的にいうと、映画は原作のもつ弱さをそのまま踏襲している。ミステリーとしては正直弱いのだ。チェイスを殺されたのか、ただの事故だったのか。カイアは実際に犯人なのか。そのへんに関しては原作でもかなり整合性がとれていない。もっともこれは小説の感想でも書いたが、本筋はミステリーではなくあくまで自然とその中で生きる少女のサバイバルなのだ。

 そういう点でいえば、この映画はけっこう小説の雰囲気をきちんと映像化していて好感がもてた。そう、映画としては破綻なく成功している。映画のアメリカでのレビューでは、批評家たちからはあまり良い評価が得られていないが、観客には好印象だったようで、スマッシュヒットしている。そうこの映画は本国ではそこそこのヒット作だったのだ。おそらく小説を読んだ人々が劇場に足を運び、概ね高評価を与えたということなのだろう。

 

 この映画はまた女性映画でもある。原作のディーリア・オーウェンズも女流行動生物学の学者である。制作にはアカデミー賞女優のリース・ウィザースプーン。監督はオリヴィア・ニューマン、脚本もルーシー・アリバーだ。ある意味、徹底した女性映画的であり、セックスシーンなどもあるが、男性目線的な性的なシーンやカットはほとんどない。そのへんも好感がもてるかもしれない。

ザリガニの鳴くところ - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日

リース・ウィザースプーン - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日

Olivia Newman - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日

 

 でもこの映画には実は致命的な問題がある。主役のデイジーエドガー=ジョーンズだ。品のいい英国の女優で演技力もある。でも南部の湿地地帯で一人で暮らす女性にしては小ぎれい過ぎるのだ。たしかにカイアは黒髪の白人女性ではある。でもずっと湿地帯で一人で生存した女性だ。もっと野生児風であるべきだし、湿地帯でサバイバルを続けてきた以上、もっと小汚い風情であるのがちょっとしたリアリズムではないかと思ったりもする。

 多分、アメリカだったらもっと野性味のある若い女優さん、沢山いたはずだと思うし、もし英国女優を使うのだとしても、メイキャップや衣装もリアリズム的にすべきだったのではないか。たしかカイアが着る服はカイアをサポートする黒人夫婦からのおさがりだったはずだ。貧しい黒人一家のおさがりである。なのに映画の中のカイアはなんとなく小ぎれいで清楚ですらある。

 湿地帯という野生の中での生活よりも、カイアの内気な部分、そういう内面性を演技として体現できるということで英国女優デイジーエドガー=ジョーンズが選ばれたのかもしれないけれど、もっと粗野な演技、表情をもつ女優さんを選ぶか、そういう演技をさせるべきだったと。

 

 まあ基本は映画というお伽話の世界だ。原作を読んで感じた部分を引用する。

「湿地の少女」は南部湿地帯における共同幻想の所産ではないか、あるいはもっと卑俗な幽霊譚なのではないかなどなど、ありふれた想像がもたげてくる。もしくは実在する「湿地の少女」の側の幻想、空想に起因する物語。カイアは実在していたのかどうか、もし実在していたとしたら、逆にテイトやジャンピンが彼女の想像の産物ではなかったのか、などなど。

 「湿地の少女」は幻想の産物なのかもしれない。リアルに考えれば独りぼっちの少女が生存していくのは難しいだろう。もし生きていても、あの粗野な南部にあっては、荒くれの男たちのある種の欲望の対象となっていたかもしれない。噂を聞いて探し回っても見つからない「湿地の少女」。誰かが見かけたというそういう噂だけの存在。

 実は原作を読んでいてそんなことを思っていた。それが映像化されてしまうと、美しいがとてもリアルではないだろうとそういうことになる。考えてみれば、大人であっても一人で生きていくのが難しい湿地帯の奥、ザリガニが鳴くところで、小さな少女が貝を採ってそれを糧に生きて行くことが可能なのか。ある種のマジックリアリズムとしての小説世界ではありえても映像でそれを見せるには、想像を超えるようなファンタジーとそれを底辺で支えるリアリズムが必要だ。

 そのへんが映像化の難しいところなのかもしれない。映画『ザリガニが鳴くところ』は原作の雰囲気をきちんと映像化している。でもある種湿地のお伽話、奇譚である部分は消化されていない。湿地の奥の奥、ザリガニが鳴くところはもっと幻想的で怪異な場所であるべきだろうから。

『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』を観た

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル|映画|ディズニー公式 

(閲覧:2023年7月11日)

インディ・ジョーンズと運命のダイヤル - Wikipedia (閲覧:2023年7月11日)

 『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』を地元のシネコンでカミさんと一緒に観た。シリーズ5作目でおそらく最後となるであろう作品。そして最初の『レイダース』から数えて実に42年という息の長いシリーズだ。

 インディ・ジョーンズ・シリーズは、大好きだしほぼリアルタイムで観てきた。『レイダース』が公開されたのは1981年、25歳の頃だったか。多分、その頃は映画を一番観ていた頃で、年に100本くらいは劇場で観ていた。

 前年の80年の暮にはジョン・レノンが撃たれて死んだ。アメリカの大統領はたしかロナルド・レーガンで、エイズが世界的に流行し始めた。翌年の1982年にはCDが発売され、スペインでワールドカップが行われた。そしてさらに翌年の1983年にTDLが開園し、インターネットが日本でも東大や東工大などで実験的に開始された。

 なにが言いたいかといえば、インディ・ジョーンズ・シリーズは、自分史的にももちろんそうだがすでに歴史の一部になっているということだ。

 ハリソン・フォードはすでに1977年に公開された『スター・ウォーズ』で大スターとなっていた。そして『インディ・ジョーンズ』はジョージ・ルーカスが制作総指揮、スティーヴン・スピルバーグが監督した。これはもう面白いに違いないと劇場に足を運び、実際に面白かった。第一級の娯楽作品だ。

 それから41年、ハリソン・フォードは世界的な大スターとなり齢80歳となった。さらに記憶をたどればあの『アメリカン・グラフティ』でチンピラ的な走り屋を演じていた彼がである。なにか「遠い目」的に来し方を見やるみたいな感じである。

 今回、シリーズ第5作はおそらく最後のインディ・ジョーンズとなるだろう。さすがにハリソン・フォードにアクションはもう難しいだろう。007シリーズのように役者を変えてシリーズを延々と続けるということもできただろうが、それをルーカス、スピルバーグはしなかった。そして多くのファンもそうだっただろう。誰もライアン・ゴズリングダニエル・クレイグインディ・ジョーンズを観たいとは思わなかった。インディ=ハリソン・フォードとして定着したということだ。

 

 さてと今回の『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』である。まあ普通に面白かった。さすがにハリソン・フォードは老けすぎだが、1969年という時代設定、大学教授も退官となるというところでうまくマッチしている。アパートに一人暮らしのインディが隣人の若者たちの大音響の音楽で起こされるシーン、その音楽がビートルズの「マジカル・ミステリー・ツアー」だというのも笑えるところだ。一説によれば、これ一曲の使用料が一億以上になるのだとか。

 

 映画はプロローグとして1944年のドイツを舞台にして、今回のキーとなる秘宝「ロンギヌスの槍」をインディがナチスとの間で奪い合う。この時のインディはCGにより若々しい。

 

 ここまでの再現性があるのであれば、全編これでもいいんじゃないかと密かに思ったりもした。

 そして1969年の年老いたインディ。

 

 80歳のハリソン・フォードはアクションシーンもこなしたというが、さすがにこれはシンドイだろうとは思った。もっとも最初は気になった年齢もストーリー展開とともにあまり気にならなくなる。まあ映画とはそういうものかもしれない。長くインディ・ジョーンズ・シリーズを観てきているファンからすれば、動くハリソン・フォードがスクリーンにいるだけで満足なのかもしれないし、少なくとも自分はそうだった。

 

 今回のシリーズからは制作総指揮だったジョージ・ルーカスが抜け、スピルバーグは制作に回った。そして監督はジェームズ・マンゴールド。ハリウッドではかなりのキャリアのある監督で、最近では『フォードvsフェラーリ』も彼の作品。あれはけっこう面白かった。

 ただし自分のような古いファンからすれば、やはりこのシリーズはスピルバーグの監督作品で観たかったし、制作はジョージ・ルーカスであって欲しかった。やはりインディ・ジョーンズ・シリーズ独特のテンポアップされた構成は、ルーカス・スピルバーグのタッグでないといけないみたいな感覚がある。

 実際、この映画を観ていると、中盤の部分で若干ダレ場があったような。具体的にどのシーンというのではないのだが、どこかモッサリしたものを感じ、少々眠くなった。観ているこっちの年齢のせいもあるのだろうが、このシリーズでダレ場を感じたのは初めてのことだ。

 

 本作でヒロイン役を演じるのはフィービー・ウォーラー・ブリッジ。長身でスタイリッシュな女優だ。役柄はインディの旧友の考古学者の娘ヘレン・ショーで、子どもの頃インディが「ウォンバット」とあだ名をつけたというエピソードがある。今は秘宝を盗んでは競売にかけるヤクザな仕事をしている。考古学の知識は父親譲り、そしてインディ顔負けの冒険アクションをこなすという。さしずめ女性インディ・ジョーンズだ。

 

 フィービー・ウォーラー・ブリッジは好演だが、これも何か違和感がある。年老いたインディ=ハリソン・フォードの代わりにアクションをこなすような感じだが、このシリーズのヒロインは少なくとも第一作、第二作とも、インディにかかわって冒険に加わる巻き込まれ型の役柄だ。それが三作目、四作目からはインディに対峙する敵役となり、五作目では女性版インディである。なにか違うぞという感じがする。

 インディ・シリーズのヒロインはやはり第一作『レイダース』のカレン・アレンが一番だ。インディの師匠である考古学者の娘で、インディのかっての恋人、しかも大酒飲みという立ちすぎのキャラクラーだ。彼女のキャラは印象的で、ある意味インディ・ジョーンズのヒロインは彼女一択といってもいい。そのせいか四作目にも再登場してインディと結婚するし、五作目の本作でも登場する。

 ある意味ではカレン・アレンが演じるマリオンはインディ・シリーズにとっては必須のキャラクターなのかもしれない。どうせなら二作目以降もずっと登場させてもよかったかもしれない。それが難しければテレビシリーズでインディ・マリオンの冒険ものであっても良かったかも。

 ついでにいえば、二作目『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のヒロインは、ケイト・キャプショー。上海のキャバレーの専属歌手だったのが、インディの冒険に巻き込まれる。とにかくひたすら「キャー、キャー」と悲鳴を上げる役柄だった。その後、彼女はスピルバーグ夫人におさまるのだけど。

 とりあえず今回の女版インディを演じるフィービー・ウォーラー・ブリッジは、巻き込まれというより、自ら率先して冒険、危機に渦中に主役的に入っていく。逆に老身ハリソン・フォード=インディが巻き込まれるような、そんな感じがした。それはまあそれで面白いけれど、どこかインディ・ジョーンズ的ではないような。

 そして最後の最後にある意味シリーズのヒロイン一択であるマリオンが登場する。カレン・アレンも老いた。とはいえはやはり彼女は美しく、陽気なアメリカン・ガールの雰囲気を残している。彼女の登場でなんとなく目頭がウルウルするかと思ったが、そうはならなかった。まあ、それがインディ・ジョーンズだ。

 

 とりあえずインディ・ジョーンズ・シリーズのファンである自分は十分楽しめたし、154分という長さも気にならなかった。時空を超えて、アルキメデスも出て来るし、あのままインディを過去に置き去りにしても良かったかもしれない。

 エピローグにシラクサで新たな洞窟遺跡が発見される。そこに描かれる壁画の中にはインディ・ジョーンズに似た人物が・・・・・・。

放って置いても人は死ぬし、女と寝る

 前日書いた『ケイコ 目を澄ませて』について。どちらかというと辛口というか悪口というか、ややネガティブな感想を並べたてた。そして一番言いたかったことを書き忘れた。ある意味、この映画の一番気に入った部分でもあるのに。こういうのって、まあよくあることだ。なんとなく気に入った部分、良かったなと思った部分、そういうのをうまく言語化できないままで終わらせてしまう。

 あの淡々とした女性ボクサーの日常を描いた映画の一番良かったところ。それを大昔の村上春樹の小説の中の警句のような言葉が、えらくフィットしているような気がする。その言葉は、多分私が村上春樹の小説の中の言葉で、ひょっとしたら唯一きちんと覚えている言葉かもしれない。

鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういものだ。 『風の歌を聴け』P28                                

 この言葉をいろいろな映画や小説の感想を述べる際に、けっこう引用している。人は放っておいても死ぬし、男と女は寝る。そうかもしれない。でも例えば自分たちの日常を思い返してみる。日々、沢山の人が死んでるのだが、意外と死は日常の中にはなかったりもする。

 セックス、もう老齢の身だからという訳でもないけど、セックスも意外と日常的ではなかったりもする。いちおう既婚者だし、昔はある種セックスは日常的に身近だったこともある。それ以前に結婚する前の遠い遠い昔のことを思い出してみる。それこそ十代の頃はもう毎日、毎日、セックスのことばかり考えていた時期もあるけれど、だからといって実際の行為が日常的だったことはない、多分。二十代、三十代には、たまにモテ期みたいな時期もあったし、セックスがきわめて身近だったこともない訳ではない。

 ようはなにがいいたいかというと、人の死やセックスは身近なようでいて、意外と日常的ではなかったりもする。なのでそれがドラマ性を生む。物語の中で誰かが死んだり、登場人物のセックス・シーンがあれば、ある種のカタルシスみたいな効果が得られる。しかも簡単にだ。だから人の死やセックスは物語を動かす際のある種の常套句にもなる。よく映画を観ていて、小説を読んでいて思うことがある。「安易に殺すな、寝るな」と。

 だから村上春樹がデビュー作で書いた警句「放って置いても人は死ぬし、女と寝る」には大いに賛同したし、ある種の普遍性のある言葉だと思っていたりもする。なのでよくこの言葉を引用する。そして青春小説や青春映画について評するときに使う。さらにいえば、青春映画を定義付けるときにも使ったことがある。

秀逸な青春映画にあっては、そう簡単には人は死なない。そして男の子と女の子は寝ない。

 放って置いても十代の男の子と女の子は悩みを抱えて自死するかもしれない。放って置いてもセックスするかもしれない。でも実はそう簡単に誰も死なないし、セックスばかりしている訳ではない。そういうカタルシスを与えるものは実はありそうでない。それが日常というものだと思っている。少なくとも老人が大昔の自分の若い頃を思い返す限りではということだ。なのでリア充真っ盛りの若者から、いやいや今は違うよという話があれば、とりあえずふ~んとうなずくが、多分あまり耳を傾けないかもしれない。

 そして、やっと話が戻ってきた。そう、『ケイコ 目を澄ませて』の中では、実は誰も死なない。そしてセックス・シーンもない。ボクシングという、ある意味死を身近に感じるスポーツを題材にしている。でも死と隣り合わせの殴り合いへの恐怖、破壊衝動と死への願望といった衝動が描かれることもない。

 ボクシングジムは、ほぼほぼ男だけの世界だ。そこにただ一人若い女性ボクサーがいる。ケイコはストイックに練習に取り組んでいるので身体も絞られていてスタイリッシュだ。聴覚障害というハンディがあっても、彼女を女性として視るジム仲間がいてもおかしくない。

 しかしこの映画の中では見事はほどに、「死」も「性」も描かれないしスルーされている。ボクシングジムという閉鎖された世界や、ケイコの仕事などの日常が描かれるのに、安易に愛だの恋だの、生きることだの、その対極にある死だのは描かれない。ケイコが抱える様々な思い、それは彼女が日々ノートに記す練習内容などの中に見え隠れしている。そして彼女のコミュニケーションの手段である手話では、彼女が伝えたいことが、その思いがきちんと表現し難い。

 聴覚障害という極端な属性を抱える女性を主人公にしていながら、この映画がある種の普遍性を獲得しているのは、実はそういう伝えきれない思い、言語化できない諸々を抱えて生きている等身大の女性をきちんと描いているからかもしれない。

 『ケイコ 目を澄ませて』には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

ケイコ 目を澄ませて

映画『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト (閲覧:2023年5月31日)

 これはAmazonプライムで観た。2022年12月に公開されたばかりの新作である。

生まれつき耳が聞こえないケイコは、下町の小さなボクシングジムで練習を続け、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。真っすぐな性格だが人付き合いが苦手な彼女には悩みも多いが、言葉に出来ない思いが日々溜まっていく。休まず続けるボクシングの練習もどこかで限界を感じていて、「しばくらく休みたい」という手紙をジムの会長宛てに書くものの、それを渡すこともできない。一方、ジムの会長は健康面で不安を抱え、ジムを閉鎖することを決める。そして最後の試合に臨むケイコは・・・・・・。

 女性ボクサーをテーマとした映画というとクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』や安藤さくらが主演した『百円の恋』などを思い出す。いずれも暗く、これまでの人生に様々な問題を抱えた主人公がボクシングに打ち込む話だ。『ミリオンダラー~』では、主人公を演じたヒラリー・スワンクは最後に打ちのめされて、寝たきりの状態に陥るという悲劇が待っている。いい映画だが、二度と観たくない映画のリストの五指に入る絶望的な映画だ。

 『百円の恋』は30代引きこもりの女性が、男性ボクサーに恋してボクシングを始め、いつのまにか真剣にボクシングに取り組むようになる。そして懸命に練習をこなし、人生を変えようと試合に臨み、あえなくノックアウトを喰らう。そして何も変わらない日常が待っている。

 とにかく女性ボクサーを描いた映画は暗い、陰鬱というイメージがある。なのでこの映画もちょっとどうかと戸惑った部分もある。そして最後の試合の結果も・・・・・・。

 とはいえこの映画はどこか淡々と物語が進む。主人公の苦悩もきちんと描かれているが、とはいえ思いの外暗くない。とにかく淡々としている。そして聾唖者を描くという点でいえば、映画は靜的である。こういう靜的なのあったなと思ったが、同じく聾唖者を主人公にした北野武のサーフィン映画だったか。

 映画は主演の岸井ゆきのの演技、脇を固める役者陣の安定感でみせる。ボクシングジムの会長役の三浦友和は枯れた飄々とした演技が上手くはまっている。往年の二枚目俳優はかくも見事に老成した性格俳優となったものだ。彼も71歳、なのに同世代の自分らかすると、いつまでたっても百恵ちゃんの相手役というイメージがあるから彼には申し訳ないと思う部分もある。

 三浦友和の演技という点では、古くはNHK大河ドラマ独眼竜政宗』で伊達政宗の家臣を演じたあたりからけっこう注目していた。そして重厚さよりもどこか飄々とした軽みのある演技は例えば三木聡『転々』なんかでも注目していた。今回の映画でも感情の起伏のないどこか軽みのある演技で、耳の聞こえない女性ボクサーの指導を行う。二人でミットやシャドーを行っているとこでは、言葉がなくてもきちんと心の交流しあう様がスクリーンから伝わってくる。

 淡々としてあまり起伏のないストーリー、聴覚障害者が主人公ということで全体としてセリフも少ない。繰り返しになるが、とにかく淡々と始まり、淡々と物語が進み、淡々と終わる。ボクシング映画だが、観客が主人公やドラマに感情移入する部分は少ないかもしれない。観客もまた淡々と映画を観終える。

 良い映画だとは思う。等身大の女性を岸井ゆきのが好演している。でもこの映画を観てなんの感興もない。ハッピーエンドでもなくカタストロフィもない。正味1時間39分、これも繰り返しになるが淡々と聴覚障害の女性ボクサーの日常を目にし続ける。

 観終わって、特に破綻もないし多分良い映画だったんだろうなとちょっと思ってテレビの電源を切る。そういう感じだ。

 前述したように女性ボクサーをテーマにした映画はどれも暗い。今回の『ケイコ』は絶望的な暗さはないがとにかく地味だ。『ミリオン・ダラー~』のような極めつけのカタストロフィ、究極の絶望的ラストみたいなのは勘弁だが、もう少し明るい話題はないものかと思ったりもする。

 それを思うと同じボクシング映画で『ロッキー』がいかに素晴らしいハッピー感に満ちた映画だったかと改めて思ったりもする。その前後に『レイジング・ブル』みたいな暗い映画を見せられていた人々は『ロッキー』のアメリカン・ドリーム的なラストに狂喜したのだ。

 あそこまで絵にかいたようなハッピーエンドでなくても、例えば自転車レースをテーマにしたピーター・イェイツの『ヤング・ゼネレーション』みたいな映画もあった。うだつの上がらない、大学生たちに劣等感を抱く田舎町の高卒の若者たちの淡々とした日常を描いた映画。でも最後に自転車レースで高卒チームは大学生たちに勝ってしまう。あのとき映画を観ている観客もスクリーンに拍手喝采を贈ったのをよく覚えている。

 まあ極端な例だけど、そういうハッピーエンドな映画があってもいい。障害を抱え、人付き合いもうまくないワーキングクラスの女性。彼女が何かを変えたいとボクシングに打ち込む。だったらそれを成就させるような映画であっても良かったのではとちょっと思ったりもする。

 20世紀の日本映画、特に独立映画系、ATGとかそういうところで作られた映画は基本だいたいが暗かった。そしてたいていの場合、絶望的な終わり方だったか。リアリズムとかまあそういうもの重要視された時代。日本映画は暗い、そして映画館を出た後観客はうつむき深刻そうに映画を享受して深刻そうに俯きながら劇場を出る。まあ適当にいってるだけだけど、もうそういう暗さはもういいのではないかと思っている。

 今回の『ケイコ~』も前半、中盤は淡々と、なにも変わらないような日常を淡々を描く。聴覚障害のワーキングクラスの女性の日常は何も変わり映えせず、基本暗い。でも最後の試合で彼女は劇的な結果をおさめる。そして彼女の人生は変わるのではないかと、そう観客に思わせて(匂わせて)終わる。そういう映画であっても良かったかなと思ったりもする。

 『ケイコ 目を澄ませて』は良い映画だと思う。破綻なく観ることができた。でも、もう一度観るかといわれたら、ちょっと微妙と答えるかもしれない。

『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』を観た

 『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』をようやく観た。

 アカデミー賞の発表前後に公開されていたが、すぐに終わってしまったし、そもそもディープ埼玉では公開すらなかった。家から歩いていけるシネコンだと邦画はアニメ系かアイドル系、洋画はマーベルかディズニーみたいな流れが多く、こういう社会派ドラマはなかなかかからない。

 今回はTSUTAYAのDVDレンタルで観た。しかしTSUTAYAでのレンタルなど久しぶりのこと。サブスク配信で有料でレンタルできるようなのだが、なかなか時間がとれずに。まあ無料配信だといつでも観れる気軽さがあるけど、有料レンタルは観始めたら1日かそこらと時間限定されているとか、そのへんがどうも今一つな気がして。

映画『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』公式サイト (閲覧:2023年5月30日)

SHE SAID/シー・セッド その名を暴け - Wikipedia (閲覧:2023年5月30日)

#MeToo - Wikipedia (閲覧:2023年5月30日)

ハーヴェイ・ワインスタイン - Wikipedia (閲覧:2023年5月30日)

 

 さてと『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』である。今や誰でも知っている、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる長年のセクハラ、性加害を告発し、世界的な運動となった#MeTooの火付け役のニューヨーク・タイムズの二人の女性記者による取材と告発記事。ワインスタインからの性被害をためらう被害者者たち、女優やスタッフたちの苦悩。映画は原作に忠実に展開している。

 ニューヨークタイムズの記事は2017年で、それ以降この問題はマスコミを賑わすだけでなく、司法の場でもワインスタインの訴追も行わた。2020年にアメリカに旅行した際でもテレビのニュースショーではその裁判について連日報道されていた。ワインスタインがどの性加害を認めたとかなんとか・・・・・・。

 まず前提だけど、これは誰かが本のレビューで書いていたけど、もともとの原題は『SHE SAID』だけだ。それに「シー・セッド/その名を暴け」と副題をつけるのはちょっと過剰という気もする。普通に「シー・セッド」だけでいいし、タイトルに意味内容を含ませるなら「SHE SAID/彼女たちは声をあげた」とか「SHE SAID/#MeTooはここから始まった」とか。まあいいか。

 権力者の不正を記者たちが追求するという内容は、古くは『大統領の陰謀』、最近だと『スポットライト』や『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』なんかがある。ほぼ同じような映画の作りで、記者たちの地道な取材により権力者たちの罪悪に迫っていくという。俳優や監督の演出も含め、娯楽色というかエンターテイメントとして見せるという点でいうと、『大統領~』>『ペンタゴン~』>『SHE SAID~』>『スポットライト』みたいな順だろうか。

 逆に社会派ドラマとしてのシリアスさを基準にすると、『スポットライト』>『SHE SAID~』>『大統領~』>『ペンタゴン~』みたいな感じだろうか。取り上げる内容がローマ・カトリックの牧師たちによる性被害、著名映画プロデューサーによる性被害という深刻度みたいな部分が加味される部分大きいかもしれない。

 『SHE SAID』は原作読んでないけど、おそらく原作に忠実、さらにいえば報道された事件をそのままトレースしている。もうド直球的で娯楽的な遊びはまったくない。まあテーマが性被害というシリアスなものなので、へんに娯楽性を入れるとブレるという判断もある。ここでいう娯楽的な遊びとは、たとえば『大統領の陰謀』でいえば記者と上司のデスクとのやりとりとか、『ペンタゴン~』でのニューヨーク・タイムズの主幹ベン・ブラッドリー家での文書の解読作業のシーンでの、ブラッドリーの娘がレモネードを売るプロットとかああいうユーモラスなやつ。

 『SHE SAID』は性被害と声をあげた女性たちがテーマでもあり、追求する二人の女性記者の物語だ。もともとワインスタインの性加害を追求していたジョディ・カンターとオバマ家やトランプの不正を告発していて後から報道に関わるミーガン・トーウィの二人をゾーイ・カザンとキャリー・マリガンが演じている。この二人の演技が圧巻で、ある意味映画はこの二人でもっている感がある。

 本来的にはジョディ役のゾーイ・カザンがメインなのだが、ネーム・バリュー的になんとなくキャリー・マリガンが主役みたいになっている。まあこれはキャリアにもいたしかたない。キャリー・マリガンは例によって年齢よりも多少フケ役みたいな感じだが貫禄十分で、ゾーイ・カザンと並ぶとなんとなく年長、主役然としているし存在感が半端ない。逆にゾーイ・カザンはどこかセンシティブというか繊細なタイプという感じだった。

 当然、年齢もキャリー・マリガンの方が上かと思ったのだが、後で調べるとゾーイ・カザンの方が2歳年長だった。キャリー・マリガンのフケ役演技が半端ないか。ゾーイ・カザンについてはどこかオリエンタルな容貌で、インドとかそっち系かと思ったら、どうもトルコ系らしい。さらにいえば祖父はあのエリア・カザンだという。長生きすると往年の名監督の孫娘の活躍を目にするのだなとちょっと遠い目になる。

キャリー・マリガン - Wikipedia (閲覧:2023年5月30日)

ゾーイ・カザン - Wikipedia (閲覧:2023年5月30日)

 この映画はなんとなく賞レースからは無視されたみたいで、キャリー・マリガンゴールデン・グローブ賞助演女優賞にノミネートされただけで、アカデミー賞にいたっては一つもノミネートされていない。映画的には良質だし、役者の演技も見事な社会派ドラマなんだけど、やっぱりハリウッドの性被害というセンシティブな問題だけに、敬遠されたのかもしれない。逆にこの映画が賞を総なめしたら、「いかにも」感があまりにも大きいし、LGBTに続いてハリウッドは#MeTooに真剣に取り組んでます感があざと過ぎると思われたか。

 しかしこの映画を観て思ったのは、誰しもがそうかもしれないけれど、職場での男性優位、権力者による様々なパワハラ、セクハラ・・・・・・、そういうものが——20世紀的には許容され、当然視されていたものが——、21世紀的にはまったく許されないものになっているということを、再認識しなければいけないということなんだろうと思う。いわば社会意識のアップデートというやつだ。

 かっての映画界では権力をもつプロデューサー、撮影所所長、監督らによる俳優やスタッフへの性加害は日常的なことだった。日本でも「女優を妾にしたのではない、妾を女優にした」と豪語したプロデューサーがいた。目を覆いたくなるようなことだけど、子役だったジュディ・ガーランドがMGMの名プロデューサーだったアーサー・フリードから性被害を受けていたことなども判っている。ジュディがアルコールや薬物中毒になったのも、そうした影響があったのかもしれない。

 芸能界では、セックスをした相手に役や契約を回すキャスティング・カウチが横行していた。いや現在でも多分恒常的に行われているのだと思う。最近は日本でもジャニーズ事務所でのジャニー喜多川による少年たちへの性被害がようやく実名告発や報道がなされるようになった。欧米と日本の違いは、権力者ハーヴェイ・ワインスタインがきちんと告発され、訴追され、現在は収監中であるのに対して、ジャニー喜多川の場合は彼が死んで数年してからようやく告発されるようになったということだ。日本では権力者の罪は死なないと暴かれない。

 ここで引用するのは不謹慎といわれるかもしれないが、暗殺された安倍元総理も、亡くなって初めて統一教会との関係も明るみに出てきた。残念だが日本では「その名は死なない限り暴かれない」のかもしれない。

キル・ボクスン

キル・ボクスン | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト (閲覧:2023年4月10日)

キル・ボクスン - Wikipedia (閲覧:2023年4月10日)

 これはNetflixで観た。なんの予備知識もなく、期待することなく観たがまあまあ面白かった。超一流の殺し屋が、家ではシングルマザーとして子育てに奔走みたいなシチュエーションにちょっと興味をひいた。

 ギル・ボクスンは暗殺請負会社MKエンターテイメントに所属する一流の殺し屋。業界では尊敬を込めて「キル・ボクスン」と呼ばれている。一方では、15歳のこじらせ系の一人娘の母親でもある。彼女は娘とのコミュニケーションもうまくいかず、子育てに悩む日々を送っている。ボクスンは娘との関係を修復するために、会社との契約更新のタイミングで引退を決意する。その最後の仕事は、子どもの不正受験スキャンダルを追求された政治家が自分の子どもを自殺を装って殺害するというものだった。その秘密を知ったボクスンは、「会社の仕事は必ず請け負う」という気即を破ってしまう。そして彼女は殺し屋業界全体から命を狙われる。

 女性が殺し屋であり主人公である。派手な日本刀、斧、ナイフなどを用いたアクションがあることなど、多分タランティーノの『キル・ビル』あたりをオマージュしている。そして一流の殺し屋が思春期の娘の子育てに悩み、そっけない応対ばかりでほとんど口もきかない娘とのコミュニケーションに苦労する。おまけに娘は学校で事件を起こすわ、ゲイであることを告白するわ。

 こじらせた娘との関係に悩む母親。おまけに娘はゲイである。なんかつい最近そういう設定の映画を観たような気がする。って、あれだ『エブ・エブ』こと『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』だ。両方ともアジア系の女優が主演でド派手なアクション付きだ。

 しかし最近は母子の葛藤劇を描くのにSFカンフーアクションだのクライム・アクションだのという突飛な設定にしなきゃならんのか。ちょっとばかり「やれやれ感」が漂う。これはもともとアクション映画にドメスティックな問題を付加したのか、それともドメスティックなテーマを普通ではもう食傷気味だろうから、そこにハードなSFだのアクションだのをぶち込んでみましたなのか。もっとストレートにしてもいいのではないかと、ちょっと思ったり。

 そのせいか、今時の重要なテーマであるべきLGBTがなんとなく皮相なものになってしまうような気もしないでもない。こういう多様性とかアイディンティティに関わる問題をチープな素材にしちゃいけないのでは、と思ったり。

 まあそこまで堅苦しくは考えないで、映画、作り物の世界ということで、普通に殺し屋かつシングルマザーの子育ての憂鬱というギャップを楽しむべきなのでしょう。『エブ・エブ』だって中年婦人の憂愁とマルチバース&カンフー・アクションを素直に受容すればいいと、まあそういうものだ。

 なのでややこしいことあまり考えず、とりあえず楽しんだ。まあまあ面白かった。ボクスンとその上司かつ超A級の殺し屋であるMKエンターテイメントの代表者チャ・ミュンギョとの関係も微妙かつ複雑。その関係は二人の出会いのシーンにあるのだが、なんかこれもどこかで観たことがある。

 殺し屋が17歳の女子高生のボクスンと会う。そしてボクスンの意外な行動と魅力的な笑顔。900年生き続けるイケメンの鬼が現代において女子高生の女の子に心を奪われるとかいうドラマ『トッケビ~君もがくれた愛しい日々』にもそんなシーンなかったっけ。

 殺し屋でシングルマザーというある意味シチュエーション・コメディでもあるので、小ネタもけっこう満載である。冒頭、拉致した在日のヤクザと闘うシーンは日本語なんだけど、その日本語がカタコトっぽくてやや失笑。これって日本の市場ではちょっと受入れにくいところがあるかもしれない。もっとも韓国ドラマ見ていると、けっこう日本人や日本語はネタ的に使われるから、そういうものと受け入れればいい。

 殺し屋ボクスンが予定表を見て、明日は保護者会となり、子どもに何を着て行くべきか相談するとか、保護者会(金持ちのマダムがカフェで談話する)では出張が多くて子どもと接する機会がないとか適当に言い訳したり。

 さらには子どもがボクスンのバックから拳銃と偽造パスポートを見つけ、「ママの仕事は本当になんなの」と問い詰める。ボクスンが言いよどんでいると、娘はひょっとして国家保安院と聞く。ボクスンが「それは答えられないの」と言うと娘が納得するとか。

 とりあえずこの映画はあんまり深刻に観てはいけない、殺し屋とシングルマザーというギャップ、そういうシチュエーションが醸す笑いと迫真のアクション、そういうのを楽しめばいいと思いました。あんまり深く考えない、悩まない。

 主演のチョ・ドヨンは50歳、ベテランの美人女優さんらしい。

チョン・ドヨン - Wikipedia (閲覧:2023年4月10日)

 深夜、映画観ている最中に、これ日本でリメイクするなら誰がいいかなとか適当に考えていたりして。個人的には大塚寧々あたりかなと思った。

 この映画、Netflixの非英語圏映画部門では全世界1位になっているとか、まあまあヒットしているようだ。ようはアジア圏でヒットしているということ。そういう意味では冒頭の日本語カタコトもけっこう受けるのかもしれない。

ドライビング Miss デイジー

 これもまたBSプライムを録画していたもの。公開当時もかなり話題になったし、今では80年代から90年代にかけて制作された映画としては、すでに名作とされる映画の一つでもある。実をいうと初めて観る。いつか観ようと思っていてそのまま30数年が経ってしまった。

 この映画では、主演のジェシカ・タンディアカデミー賞主演女優賞を受賞、共演のモーガン・フリーマンは男優賞にノミネートされた。ジェシカ・タンディは戦前から活躍する美人女優で、たしか80歳での受賞は主演女優賞としては最高齢となるはず。アカデミー賞の授賞式をまとめたビデオで受賞の様子を何度か観ていたが、観客がスタンディング・オベイションで迎えるなかで、ユーモラスにスピーチしていたのを覚えている。

ドライビング Miss デイジー - Wikipedia (閲覧:2023年3月22日)

ジェシカ・タンディ - Wikipedia (閲覧:2023年3月22日)

 映画の舞台は、1940年代から70年代にかけてのアメリカ南部。元教師である老齢の未亡人デイジーは活動的で自分で運転する車で町での買い物などをしている。あるとき運転を誤り事故を起こしてしまう。母親のことを心配する実業家の息子は、黒人の専属運転手ホークを雇い、彼女の家に向かわせる。最初は運転手自体を、そしてホークが黒人であることから抵抗していたデイジーは、じょじょに受け入れていき二人の間には密かな友情を芽生えていく。

 1940年代はまだ人種差別が合法だった時代。そこから公民権が施行される70年代までの歳月、運転席と後席での二人の会話を中心に繰り広げるドラマが起伏も少ない。たんたんとしたという表現がよく似合う。

 デイジーとホークの年齢は具体的に語られることはないが、おそらく物語の最初の頃デイジーは60代前半、ホークが50代半ばくらいだとして、それから40年の歳月というと、映画の最後はデイジーは90代超、ホークもゆうに80代ということになる。とはいえもともと最初から老人二人の物語だけにあまり年齢を重ねたというイメージはない。

 デイジーは元教師でありインテリである。開明的な部分と頑迷な部分が入り組んだとっつきにくいタイプだ。彼女はユダヤ人でもあり、そのへんが南部という土地柄のなかでも、アングロサクソン系の白人とはどこか違っている。いわば白人社会の中ではもっとも低くみられ差別される立場の者が、より低層の黒人に接するという複層的な構図がある。

 デイジーは自分は他の白人のような人種差別はしないという考えを持っている。家で長く使っている黒人家政婦に対しても、お互いの領域をあまり干渉しないような付き合い方をしている。しかしホークはフレンドリーにデイジーの領分に入ってくる。そのことがデイジーの気分を逆なでするし、デイジーは自身が黒人に対して無意識に抱いている差別意識を否応にも意識せざるを得ない。

 映画の後半、はお互い何も言わなくても心通じあうよう雰囲気の中で特にドラスティックな展開もなく終わる。

 ジェシカ・タンディは凛とした気品を感じさせる元教師の老婦人を熱演した。オスカーは当然だと思う。第62回(1990年)の他のノミネート女優は、ミシェル・ファイファージェシカ・ラングイザベル・アジャーニ、ポーリン・ジョーンズ。ジョーンズを除くとみんな美人女優でけっして演技派とは言いにくい。受賞は幸運だったかもしれない。とはいえ他の候補者たちは現在までノミネートも受賞もない。彼女たちにとっても恵まれた作品での唯一のチャンスだったかもしれない。星廻りみたいな部分だろうか。

 モーガン・フリーマンは当時52歳くらい。長いキャリアの中でもこの映画あたりから注目され始めた。今や名優的存在だがキャリアの成功は多分この映画からだろう。

 デイジーの息子役を演じているのは、ダン・エイクロイド。あの『ブルース・ブラザース』のエルウッドだ。才人で『サタデー・ナイト・ライブ』出身のコメディアンの彼も、この映画では母親を心配する太った中年男を好演した。コメディ俳優としてはすでに80年代『ゴーストバスター』などで一本立ちしていたが、この映画あたりから準主役クラスの性格俳優として活躍するようになった。

 この映画はある意味高齢者映画でもある。南部の田舎町で運転が出来なくなった老婆が生活に諸々支障をきたす。それまで自由に運転して町に買い物に行けたのに、それが出来なくなる。そこで息子が心配して運転手を手配する。他人に運転を委ねることへの不安、しかも相手は黒人である。しかしそんな生活に慣れて行く日々。

 ある意味では現代の超高齢化社会を先取りするようなテーマ性がある。日本のようなモターリゼーション社会では、特に地方では車がないと日々の生活が成り立たない。しかし高齢ドライバーの危険運転も日々社会問題となっている。

 この映画のような金持ちは個人的にドライバーを雇うことは可能だろう。でも日本のような社会でそれは一般的ではない。介護保険の導入で介護を家庭ではなく社会で行う仕組みは2000年より外形的に導入され、すでに20年を経過している。老健施設などの通所サービスから、ヘルパーによる訪問介護なども普通に実施されている。その質の部分や急速に進む高齢化での財政的な問題などはあるが、一応制度としては機能している。

 そうした仕組みの中に、こうしたドライバーの派遣事業などを組み込むことは可能だるか。今現在、そうした事業は通所サービスへの送迎などに限られているが、もっと日常的な生活補助として、一人のドライバーが幾つかの家庭を掛け持ちで運転を行う。サービスを受ける側は、ドライバーが来ることで町での買い物や医療機関への通院、場合によっては観光的なちょっとしたドライブなどを楽しむことができる。

 地方では車という足がないと、生活自体が成立しない。高齢者の運転免許返納が進まないのは、そうした地方の事情ということもあるのかもしれない。

 『ドライビング Miss デイジー』を観ていて、そんなことが感想として浮かんでくる。それもまた自身が高齢者でもあり、そして超がつく高齢化社会に日々生きているからかもしれない。