放って置いても人は死ぬし、女と寝る

 前日書いた『ケイコ 目を澄ませて』について。どちらかというと辛口というか悪口というか、ややネガティブな感想を並べたてた。そして一番言いたかったことを書き忘れた。ある意味、この映画の一番気に入った部分でもあるのに。こういうのって、まあよくあることだ。なんとなく気に入った部分、良かったなと思った部分、そういうのをうまく言語化できないままで終わらせてしまう。

 あの淡々とした女性ボクサーの日常を描いた映画の一番良かったところ。それを大昔の村上春樹の小説の中の警句のような言葉が、えらくフィットしているような気がする。その言葉は、多分私が村上春樹の小説の中の言葉で、ひょっとしたら唯一きちんと覚えている言葉かもしれない。

鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういものだ。 『風の歌を聴け』P28                                

 この言葉をいろいろな映画や小説の感想を述べる際に、けっこう引用している。人は放っておいても死ぬし、男と女は寝る。そうかもしれない。でも例えば自分たちの日常を思い返してみる。日々、沢山の人が死んでるのだが、意外と死は日常の中にはなかったりもする。

 セックス、もう老齢の身だからという訳でもないけど、セックスも意外と日常的ではなかったりもする。いちおう既婚者だし、昔はある種セックスは日常的に身近だったこともある。それ以前に結婚する前の遠い遠い昔のことを思い出してみる。それこそ十代の頃はもう毎日、毎日、セックスのことばかり考えていた時期もあるけれど、だからといって実際の行為が日常的だったことはない、多分。二十代、三十代には、たまにモテ期みたいな時期もあったし、セックスがきわめて身近だったこともない訳ではない。

 ようはなにがいいたいかというと、人の死やセックスは身近なようでいて、意外と日常的ではなかったりもする。なのでそれがドラマ性を生む。物語の中で誰かが死んだり、登場人物のセックス・シーンがあれば、ある種のカタルシスみたいな効果が得られる。しかも簡単にだ。だから人の死やセックスは物語を動かす際のある種の常套句にもなる。よく映画を観ていて、小説を読んでいて思うことがある。「安易に殺すな、寝るな」と。

 だから村上春樹がデビュー作で書いた警句「放って置いても人は死ぬし、女と寝る」には大いに賛同したし、ある種の普遍性のある言葉だと思っていたりもする。なのでよくこの言葉を引用する。そして青春小説や青春映画について評するときに使う。さらにいえば、青春映画を定義付けるときにも使ったことがある。

秀逸な青春映画にあっては、そう簡単には人は死なない。そして男の子と女の子は寝ない。

 放って置いても十代の男の子と女の子は悩みを抱えて自死するかもしれない。放って置いてもセックスするかもしれない。でも実はそう簡単に誰も死なないし、セックスばかりしている訳ではない。そういうカタルシスを与えるものは実はありそうでない。それが日常というものだと思っている。少なくとも老人が大昔の自分の若い頃を思い返す限りではということだ。なのでリア充真っ盛りの若者から、いやいや今は違うよという話があれば、とりあえずふ~んとうなずくが、多分あまり耳を傾けないかもしれない。

 そして、やっと話が戻ってきた。そう、『ケイコ 目を澄ませて』の中では、実は誰も死なない。そしてセックス・シーンもない。ボクシングという、ある意味死を身近に感じるスポーツを題材にしている。でも死と隣り合わせの殴り合いへの恐怖、破壊衝動と死への願望といった衝動が描かれることもない。

 ボクシングジムは、ほぼほぼ男だけの世界だ。そこにただ一人若い女性ボクサーがいる。ケイコはストイックに練習に取り組んでいるので身体も絞られていてスタイリッシュだ。聴覚障害というハンディがあっても、彼女を女性として視るジム仲間がいてもおかしくない。

 しかしこの映画の中では見事はほどに、「死」も「性」も描かれないしスルーされている。ボクシングジムという閉鎖された世界や、ケイコの仕事などの日常が描かれるのに、安易に愛だの恋だの、生きることだの、その対極にある死だのは描かれない。ケイコが抱える様々な思い、それは彼女が日々ノートに記す練習内容などの中に見え隠れしている。そして彼女のコミュニケーションの手段である手話では、彼女が伝えたいことが、その思いがきちんと表現し難い。

 聴覚障害という極端な属性を抱える女性を主人公にしていながら、この映画がある種の普遍性を獲得しているのは、実はそういう伝えきれない思い、言語化できない諸々を抱えて生きている等身大の女性をきちんと描いているからかもしれない。

 『ケイコ 目を澄ませて』には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。