ドライビング Miss デイジー

 これもまたBSプライムを録画していたもの。公開当時もかなり話題になったし、今では80年代から90年代にかけて制作された映画としては、すでに名作とされる映画の一つでもある。実をいうと初めて観る。いつか観ようと思っていてそのまま30数年が経ってしまった。

 この映画では、主演のジェシカ・タンディアカデミー賞主演女優賞を受賞、共演のモーガン・フリーマンは男優賞にノミネートされた。ジェシカ・タンディは戦前から活躍する美人女優で、たしか80歳での受賞は主演女優賞としては最高齢となるはず。アカデミー賞の授賞式をまとめたビデオで受賞の様子を何度か観ていたが、観客がスタンディング・オベイションで迎えるなかで、ユーモラスにスピーチしていたのを覚えている。

ドライビング Miss デイジー - Wikipedia (閲覧:2023年3月22日)

ジェシカ・タンディ - Wikipedia (閲覧:2023年3月22日)

 映画の舞台は、1940年代から70年代にかけてのアメリカ南部。元教師である老齢の未亡人デイジーは活動的で自分で運転する車で町での買い物などをしている。あるとき運転を誤り事故を起こしてしまう。母親のことを心配する実業家の息子は、黒人の専属運転手ホークを雇い、彼女の家に向かわせる。最初は運転手自体を、そしてホークが黒人であることから抵抗していたデイジーは、じょじょに受け入れていき二人の間には密かな友情を芽生えていく。

 1940年代はまだ人種差別が合法だった時代。そこから公民権が施行される70年代までの歳月、運転席と後席での二人の会話を中心に繰り広げるドラマが起伏も少ない。たんたんとしたという表現がよく似合う。

 デイジーとホークの年齢は具体的に語られることはないが、おそらく物語の最初の頃デイジーは60代前半、ホークが50代半ばくらいだとして、それから40年の歳月というと、映画の最後はデイジーは90代超、ホークもゆうに80代ということになる。とはいえもともと最初から老人二人の物語だけにあまり年齢を重ねたというイメージはない。

 デイジーは元教師でありインテリである。開明的な部分と頑迷な部分が入り組んだとっつきにくいタイプだ。彼女はユダヤ人でもあり、そのへんが南部という土地柄のなかでも、アングロサクソン系の白人とはどこか違っている。いわば白人社会の中ではもっとも低くみられ差別される立場の者が、より低層の黒人に接するという複層的な構図がある。

 デイジーは自分は他の白人のような人種差別はしないという考えを持っている。家で長く使っている黒人家政婦に対しても、お互いの領域をあまり干渉しないような付き合い方をしている。しかしホークはフレンドリーにデイジーの領分に入ってくる。そのことがデイジーの気分を逆なでするし、デイジーは自身が黒人に対して無意識に抱いている差別意識を否応にも意識せざるを得ない。

 映画の後半、はお互い何も言わなくても心通じあうよう雰囲気の中で特にドラスティックな展開もなく終わる。

 ジェシカ・タンディは凛とした気品を感じさせる元教師の老婦人を熱演した。オスカーは当然だと思う。第62回(1990年)の他のノミネート女優は、ミシェル・ファイファージェシカ・ラングイザベル・アジャーニ、ポーリン・ジョーンズ。ジョーンズを除くとみんな美人女優でけっして演技派とは言いにくい。受賞は幸運だったかもしれない。とはいえ他の候補者たちは現在までノミネートも受賞もない。彼女たちにとっても恵まれた作品での唯一のチャンスだったかもしれない。星廻りみたいな部分だろうか。

 モーガン・フリーマンは当時52歳くらい。長いキャリアの中でもこの映画あたりから注目され始めた。今や名優的存在だがキャリアの成功は多分この映画からだろう。

 デイジーの息子役を演じているのは、ダン・エイクロイド。あの『ブルース・ブラザース』のエルウッドだ。才人で『サタデー・ナイト・ライブ』出身のコメディアンの彼も、この映画では母親を心配する太った中年男を好演した。コメディ俳優としてはすでに80年代『ゴーストバスター』などで一本立ちしていたが、この映画あたりから準主役クラスの性格俳優として活躍するようになった。

 この映画はある意味高齢者映画でもある。南部の田舎町で運転が出来なくなった老婆が生活に諸々支障をきたす。それまで自由に運転して町に買い物に行けたのに、それが出来なくなる。そこで息子が心配して運転手を手配する。他人に運転を委ねることへの不安、しかも相手は黒人である。しかしそんな生活に慣れて行く日々。

 ある意味では現代の超高齢化社会を先取りするようなテーマ性がある。日本のようなモターリゼーション社会では、特に地方では車がないと日々の生活が成り立たない。しかし高齢ドライバーの危険運転も日々社会問題となっている。

 この映画のような金持ちは個人的にドライバーを雇うことは可能だろう。でも日本のような社会でそれは一般的ではない。介護保険の導入で介護を家庭ではなく社会で行う仕組みは2000年より外形的に導入され、すでに20年を経過している。老健施設などの通所サービスから、ヘルパーによる訪問介護なども普通に実施されている。その質の部分や急速に進む高齢化での財政的な問題などはあるが、一応制度としては機能している。

 そうした仕組みの中に、こうしたドライバーの派遣事業などを組み込むことは可能だるか。今現在、そうした事業は通所サービスへの送迎などに限られているが、もっと日常的な生活補助として、一人のドライバーが幾つかの家庭を掛け持ちで運転を行う。サービスを受ける側は、ドライバーが来ることで町での買い物や医療機関への通院、場合によっては観光的なちょっとしたドライブなどを楽しむことができる。

 地方では車という足がないと、生活自体が成立しない。高齢者の運転免許返納が進まないのは、そうした地方の事情ということもあるのかもしれない。

 『ドライビング Miss デイジー』を観ていて、そんなことが感想として浮かんでくる。それもまた自身が高齢者でもあり、そして超がつく高齢化社会に日々生きているからかもしれない。