フォードVSフェラーリ

 ここのとこちょくちょく映画を観ている。BSで放映されたのを録画したものとか。AmazonプライムNetflixの映画のリストをつらつら眺めていることも多いのだが、今ひとつ食指が動かず、リストを何度も見てそのまま終わったりという夜も多い。

 昨日はというと、Disney+の映画一覧見ていて選んだ。最初に観たのはこれ。

フォードVSフェラーリ

フォードvsフェラーリ | Disney+

  これは一度か二度観ている。最初に観たのは確かアメリカ行の機内だったか。字幕なしで微妙だったが雰囲気だけは判ったみたいな感じだったか。次は多分レンタルのDVDかなにかでだ。

 再見なのだが、これは文句なく面白い。モータースポーツに興味がなくてもけっこう楽しめる映画だと思う。時代は1960年代、すでに世界的大企業であるフォードがモーターレースに参戦し、無敵のフェラーリに勝負を挑むというもの。主演はかってアメリカ人として初めてル・マンを制したが、心臓に爆弾を抱えてしまったために引退しカーデザイナーをしているキャロル・シェルビーをマット・デイモンが、イギリスから移住した破天荒なドライバー、ケン・マイルズをクリスチャン・ベールが演じている。

 また当時フォード社で副社長を務めフォードのレース参戦を手動したリー・アイアコッカ役をジョン・バーンサルが演じている。リー・アイアコッカはその後フォードの社長を務めたが解任されたが、請われて破綻寸前だったクライスラーの社長・会長に就任して経営を再建した。フォード時代にはベストセラー車マスタングを開発し、クライスラーではアメリカ発のミニバン、ダッジ・キャラバンを発売し、それぞれ大成功を収めている。

 自分が書店に勤め始めた頃、アイアコッカはすでにアメリカでの経営の神様的存在でその自伝『アイアコッカ』も世界的ベストセラーになっていた。邦訳はたしかダイヤモンド社だったと思うが、大学内の書店でもけっこう売れたのを記憶している。アイアコッカはそのうちレーガンの後を受けて共和党から大統領選に出馬するのではないかなどという噂も流れていたのを覚えている。

 ということでシェルビー、マイルズ、アイアコッカと実在の人物が出てくる。フォードに対峙するフェラーリを率いていたのはエンツォ・フェラーリ、またフォードのドライバーでマイルズの同僚としてあのマクラーレンも出てくる。そのへんは60年代、70年代のモータースポーツの情報に接することもあった、自分のような古い世代にはどこか懐かしい映画でもある。

 映画の舞台となるル・マンのレースというと自らレース・マシンを運転したスティーブ・マックウィーンの映画を思い出す。そう、60年代のモーター・スポーツは若者にはけっこう身近だったし、子どもたちはみんな車が大好きだった。ということで、この映画はどこか懐古趣味的で、オールド・ファンには馴染みがあるのではないかと思う。

 映画は、大企業のため意思決定も遅く、様々な横やりが入るなかで、シェルビーとマイルズがただレースに勝つためだけにまい進していく。二人は純粋に車が、レースが大好きな男たちだ。そういう車命、レース命の男たちとあくまで車の販売台数を稼ぐための道具としてしかモーターレースをみていない背広組との闘い、そういう図式がフォードVSフェラーリという縦軸に対して横軸のようになっているそういうタイプの映画だ。

 主役ではケン・マイルズ役のクリスチャン・ベールが圧倒的に良い。幾分風変りで破天荒かつ純粋に車を愛し、レースを愛する男を見事に演じている。頬のこけたストイックなレーサー役を見ていると、クリスチャン・ベールってこんな役者だったっけ。もっとハンサムなタイプだったのに、いつのまに渋い顔になったんだと思う部分もある。まあ役作りのためにはとてつもなく体重を増やしたり、減量したりで有名な俳優である。今回も相当役作りに拘ったのかもしれない。

 ウィキペディアで彼の経歴をチェックすると、彼の映画デビューはスピルバーグの『太陽の帝国』であり、あの主役の少年だったという。これまでまったく知らなかったというか、クリスチャン・ベールのキャリアなどあまり意識したことがなかったのだが、これはビックリだった。

クリスチャン・ベール - Wikipedia (閲覧:2023年3月8日)

 もちろんシェルビー役のマット・デイモンもいい。車好き、レース好き、心臓の薬を飲みながらACコブラのハンドルを握り、公道でも荒っぽい運転をするところなども、いかにもという感じだ。

 そのほかでは、妙に艶っぽいフェロモンぷんぷんに振りまくようなケン・マイルズの妻役のカトリーナ・バルフもいい雰囲気だ。とにかく抜群のスタイルで、多分モデル上がりかと思ったがそのとおりのようで、最盛期には世界のトップモデル20の中に入っていたという。

カトリーナ・バルフ - Wikipedia (閲覧:2023年3月8日)

 『フォードVSフェラーリ』は個人的にはけっこう気に入っている映画だ。なぜかたまに観たくなる、そういう映画だ。また何年かしたらそういう気になるかもしれない。

伝通院散策 (3月6日)

 湯島から小石川へとぶらぶらし、たどり着いたのは伝通院だ。

 

 

 ここには一度、たしか2018年だったか子どもと来たことがある。徳川将軍家菩提寺ということで、家康の母(於大の方)や千姫の墓や徳川所縁の人々が多く埋葬されている。その他にも著名人の墓が多くあるということで、一度ゆっくり見て回りたいと思っていた。

 思えば昔から墓巡りとかは嫌いではなかった。子どもの頃、父親とよく散歩のような感じで墓巡りをすることがあった。祖父の埋葬されている横浜三ツ沢墓地や、港南区にある公園墓地などには何度も行ったことがある。ときおり著名人の墓を見つけると、父がひとくさりその人のことを語ってくれたりした。自分が小学生の頃だから50年以上も前のことだ。

 そういうこともあってか、一度京都に一人旅したときにわざわざ山の方を散策して、同志社新島襄の墓を見つけたことがあった。真夏の盛りの頃で、汗だくになって歩いている途中のことだったか。

 伝通院の墓地の入り口には著名人の墓のある場所などの案内もある。墓地自体はさほど広くはないので、すぐにたどり着けるかと思うのだが、ぐるぐると回っているとどこか方向感覚が狂ってきてなかなかお目当ての墓を見つけることができない。同じところを何度も通ったりするのに、行きたいところへ行けない。なんとも不思議な感覚にとらわれる。

 そして最初に見つけたのがこの墓。

清河八郎

清河八郎 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 幕末の志士、千葉周作北辰一刀流の免許皆伝、浪士組を組織し後の新選組の流れを作った人。策謀に長けていたが最後は暗殺されたんだったか。このへんの知識はみなもと太郎の歴史マンガ『風雲児たち』によるところが大きい。

佐藤春夫

 詩人、『田園の憂鬱』の佐藤春夫である。昔、多分高校生の頃だと思うが、詩にかぶれた時期があって、詩集や詩人の書いた小説の類を読み漁った時期がある。そのなかで『田園の憂鬱』も読んだはずなのだが、内容的にはまったく覚えていない。たしか舞台となったのはかっての横浜市港北区で今は青葉区となっているあたり。横浜に長く住んでいたのでなんとなく親近感があったかもしれない。

佐藤春夫 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

千姫

千姫 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 徳川家康の孫娘、秀忠の長女として生まれ政略結婚で豊臣秀頼の妻となる。大阪夏の陣の際に救出され、その後は本多家に嫁いだ。歴史に翻弄され数奇な人生を辿るということで、小説、ドラマなどに登場する悲劇の姫君である。

於大の方

於大の方 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 徳川家康の母君である。おりしも大河ドラマで徳川ものを『どうする家康』が放映中なのである。それを思うと伝通院はあまり商売っ気がないようである。普通ならドラマとコラボ的なのぼりとかポスターの類があってもよさ気なのだが、大河ドラマ的なものをまったくない。墓の手前にこういう解説プレートがあるのみである。

 

 

 その後はただただ墓の間をぐるぐると回る。人によっては徘徊と言われてしまうかもしれないが、これはまあ文化的徘徊だ。漠然と墓標を見て回る。なかには官位を与えられた方や軍人などもいる。その間でちょっと知っているような著名人を見つける。

堺屋太一

堺屋太一 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 経産官僚から作家に転じ、経済小説でベストセラー作家となった人だ。亡くなったのは2019年とつい最近のことである。伝通院に埋葬されていたとは当然初めて知る。

 

橋本明

橋本明治 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 ウィキペディアの略歴をみると、東京美術学校では東山魁夷が同期、松岡映丘に師事。東京美術学校を首席で卒業し、法隆寺金堂壁画の模写主任も務めた。戦後は日展を中心に活動し、文化勲章を受章している。そういう華々しいキャリアからはオーソドックスな日本画を連想するが、自分の知っている橋本明治はというとイラストのような現代的、モダンな美人画を描く人という印象がある。色彩も現代的で太い輪郭線も特徴的だ。

《舞》

《女優》

久野久

久野久 (ピアニスト) - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)

 日本最初にベートーベンの三大ソナタを演奏した女流ピアニスト。若くして東京音楽学校の教授を務めた、ある意味最初のピアニストでもある。しかし明治時代の初期、もともとは邦楽を習っていた女学生が、15歳から一流とはいえないお雇い外国人教師に倣って我流のまま上達したピアノは、ある意味基本ができていなかったが、日本では唯一無二のピアニストだった。

 30代の後半になってドイツ、ウィーンに留学した時には、本場での演奏会を開くこと期待されていたが、現地の一流ピアニストにその技術を酷評され、基本からやり直すようにいわれ、絶望のまま投身自殺を遂げた。

 もっと早くに留学をするか、あるいは欧州留学などせずに日本に留まっていれば、ピアノの第一人者としてキャリアを終えることができたかもしれない。でも欧米に追いつくことが急務であった日本では、音楽においても欧米に比肩しうることが要求された。それに応えることが出来ない者は絶望の淵に立たされる。

 久野久は、幼い頃に負った怪我のため片足に障害があった。当時にあって女性で職業を得ていくことの難しさ、おまけに障害を抱えている。さらに若くして演奏家、音楽教師をしながら、彼女は兄弟の面倒までみていたという。彼女の唯一のアイデンティティといっていい、日本では並ぶものがいないピアニストとしての技術、プライドが本場欧州ではまったく評価され得なかったことなど、彼女は近代日本における悲劇の音楽家として記憶されている。

 久野久については亡くなったピアニスト中村紘子が、その著書『ピアニストという蛮族がいる』で一章を割いて紹介していて、自分もそれで彼女の存在を知った。彼女の墓は本当に偶然見つけた。久野久・・・・・・、あの女流ピアニストの、みたいな感じだった。

 『ピアニストという蛮族がいる』は、出版された頃から話題になっていたので当然知ってはいたけど、実際に読んだのは2013年だったか。たしかkindleで最初に読んだ電子書籍だったと記憶している。久野久のことも興味深かったが、いわゆる巨匠といわれるホロヴィッツラフマニノフのエピソードなども楽しかった。

 

 伝通院を出た後、すぐに左にそれて淑徳の中等部・高等部前を通ると善行寺坂を下るようになる。坂の下り口に大きなムクノキが植わっている。その前にある家がどうも小石川蝸牛庵のようである。表札には幸田・青木とあったので多分そうなのでは。ということで、しばしムクノキを背にして露伴、文を偲んでみた。

 

 その後はまた254に出てそのまま池袋方面に向けて歩いてみた。茗荷谷のあたりで跡見学園からお茶の水女子大を通り過ぎ、そのまま新大塚へ。それからサンシャインへ。お茶の水から池袋まで歩いたのはこれで二回目だろうか。次回、機会があれば護国寺雑司ヶ谷の霊園あたりを歩いてみようか思ったりもする。護国寺には山形有朋や大隈重信の墓があるし、雑司ヶ谷には夏目漱石東条英機の墓がある。墓巡りも一興かもしれない。

 池袋でスマホのアプリで確認すると距離はこんな感じだった。

お茶の水定期通院~湯島聖堂 (3月6日)

 昨日は三か月ぶりの通院で都内お茶の水に出た。

 ここのところ少し長い距離を歩いたり、米を食べるのを控えたりしていたせいか、先週の初めに体重を計ると79キロ前後になっていた。少し前は82~83キロくらいあったのだから、3~4キロ落ちている。それもあって毎日計っている血圧に体重も書き加えたりした。それを主治医に見せると、数値もだいぶ良くなっているという。やっぱり肥満が一番問題のようだ。血糖値やHbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)、コレステロール値、血圧、みんな体重が落ちると良くなる。そういうものなんだろう。

 次回も数値が良ければ薬の量を減らすということを言われたが、今回はいつもの量を処方してもらう。さらに花粉症の薬もそれまでのものよりも強いものを、さらに目薬も処方してもらう。さらに毎年恒例の胃カメラの予約も入れる。

 会計の時、いつも支払いは7千円弱なのに、今回は9千円弱くらいになっていた。1割5分負担でこれである。三か月に一度とはいえ医療費半端ないなと思った。その後、3月と4月にそれぞれ予約をとった保養所の支払いを済ませて健保会館を出る。時間は昼少し前。少し歩くかと思いお茶の水橋を下って医科歯科大学を右手にそれて湯島聖堂に行って見ることにした。

 湯島聖堂では筑波大学の彫塑展が開かれていた。これは筑波大学芸術専門学群と大学院の彫塑領域の学生の作品発表の場ということらしい。聖堂の彫塑作品というのがなかなか面白いインスタレーションになっていた。

 

 作品も石膏像、一本木彫りから膠による塑像までなかなかの力作揃い。

 展示は3月12日までだという。

 

みさと公園~埼玉河津桜巡礼 (3月2日)

 火曜日に行った権現堂公園の河津桜が三分咲きくらいだったので、さらに埼玉県内で河津桜の見れるところをググってみたところヒットしたのがこのみさと公園

みさと公園 | 公益財団法人埼玉県公園緑地協会

 三郷までは自宅からだと、関越道から外環道と高速を走ってだいたい1時間くらいである。三郷はほとんど行ったことがない。イケヤがあるとか聞いたことがあるが、なんとなく埼玉の外れ、千葉や東京に隣接するところというイメージだ。

 公園はかなり広く、駐車場も大きい。ただここは子どもが遊ぶ遊具なども充実しているので、土日はかなりの混雑になるのだと思う。まあ行ったのが木曜日なので、駐車場もポツン、ポツンと車が止まっているだけ。園内も閑散としていて、人も疎ら。小さな子どもを連れた若いお母さんたちが、数人いる程度。駐車場から至近のところに子どもが乗るバッテリーカーのスペースがあるのだが、そこでは子どもがバッテリーカーにのってグルグルと回っている。それをお母さんたちが動画に撮っている。なんとも微笑ましい風景。

 河津桜は地図でいうと右側の展望台のすぐ左側、自由広場の一角にある。感覚的には
20~30本くらいだろうか、かなりこじんまりとした感じである。しかし開花状況はというとほぼ満開である。わずか数日違いとはいえ、同じ埼玉でも幸手の権現堂が三分咲きくらいだったのとはえらく違う。まあこんな感じでなかなか見応えはある。

 展望台の側には梅が植えてあり、こちらも満開。ということでこのへんは早咲きの春を満喫できる。

 

 そしてしばし公園を散策。この公園は小合溜井という池に隣接していて、対岸は東京都の水元公園になっている。地図でいうとこんな感じか。

 小合溜井(こあいためい)とは、利根川の支流古利根川をせき止めて作った調整池ということらしい。ここが東京都と埼玉の県境となっている。

 対岸の水元公園みさと公園に比べると倍以上広い。両方を散策できるのだけど、間に橋がないので、一番外れの方まで行かないと対岸の公園には行けない。このへんがちょっと微妙である。『翔んで埼玉』ではないが、埼玉との行き来を制限する東京の陰謀かと。一番端っこに二つの公園を行き来する小さな橋があるのだけど、ここに昔関所があって・・・・・・、といったホラ話をしてみたくなる。

 ウィキペディアの記述によれば、この小合溜井が東京と埼玉の県境となっているらしいのだが、境界線を巡っては葛飾区と三郷市が対立し、県境未確定区域が存在しているとうことだ。間に橋がないのはそういう影響もあるのかもしれない。

 池には沢山の水鳥がいる。まずは池の中央部に群れているスズガモ。

 そしてこっちはクイナ科のオオバン(多分)。

 池から上陸してエサを探しているのは多分カルガモだろうか。

 ここにはダイサギはほとんどいないようで、飛んでいるのはクロサギゴイサギ

 公園の一番はしっこの自然観察園にいたのはクチバシが黒いので多分コサギではないかと。

 飛んでいるところはこんな感じだったか。

 橋を渡って水元公園に入るとすぐのところに葛飾区金魚展示場がある。自分は知らなかったけれど、葛飾の金魚は江戸前金魚ということでけっこう有名らしい。入ってみるとキレイな金魚をしばし鑑賞できる。

 それから水元公園をしばし散策。水元大橋を渡ってすぐのところに涼亭というお食事処があったので、遅い昼食をとる。

 その後はというと、風が急に強くなり、それも北風だったので慌ててもと来た道を引き返した。このときも思ったけど、駐車場のあるみさと公園は池の対岸で目と鼻の先なのに、池をぐるりと回らなくてはいけない。早く葛飾区と三郷市和解して間に橋を作ってくれと思いつつ、車椅子押して速足で戻った。あとでアプリで確認したら歩いた距離は5キロ弱だったか。

 とりあえず河津桜はこれでおしまいか。まもなく桜の本番になるし、また桜巡礼をちょこちょこ近場でやりたいと思ったりして。

 

トーハクにも行く (2月28日)

 東京都美術館の後、ついでというかトーハクに流れた。このパターンはけっこう多く、去年も何回か東美の後に訪れている。ただし時間的には1時間半くらいだったので、本館2階、1階をさっと流した感じだ。

 以下気になった作品。

《異端(踏絵)》 小林古径 1914年

 キリシタン弾圧のために行われた「踏絵」を題材にしたもの。今まさに踏絵を迫られるキリシタン女性たちの緊張感を切り取った作品。同じ主題で鏑木清方の「ためさるゝ日」を観たことがある。清方の作品に比べると、あまり切迫感を感じない。

《湯治場》 前田青邨 1916年

 やや俯瞰から湯治場の景色を活写したもの。真ん中の絵などは、どこか覗き趣味的であり、そういう受容を意識しているのだろうか。まあこんな感じだし。

 
《春雨》 下村観山 1916年

 《木の間の秋》などともに下村観山の代表作とされる作品。トーハク所蔵とは聞いていたが、実作を観るのは初めて。美しい作品。
 文化遺産オンラインの解説を引用する。

画面を貫く橋の欄干を真横からみた大胆な構図に、蛇の目をさす婦人と、それを振り返る女性三人の一瞬のドラマが繊細な人物描写によって描きだされる。絹の裏から金箔をあてる手法(裏箔)と裏彩色により、雨を線ではなく光で表わして、この情景を演出する。 (2005/04/26_h18, 2007/03/27_h18)

春雨 文化遺産オンライン (閲覧:2023年3月3日)

 髷、着物、唯一顔が描かれる女性のお歯黒などから、三人の女性はいずれも年配の夫人のようだ。一瞬のドラマとは言い得て妙である。そして雨を光で表すという手法も、そういわれると感嘆せざるを得ない。

 しかしまだ観ぬ名画が沢山あるのだなと改めて思ったりもする。トーハク詣ではいつも新しい発見がある。

エゴン・シーレ展 (2月28日)

レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才<オフィシャルHP>

(閲覧:3月3日)

 東京都美術館で開かれているエゴン・シーレ展に行って来た。かなり盛況という話は聞いていたが、ウィークデイでもかなりの混んでいる。音声ガイドのある作品の前は人だかりが凄い。これは土日は相当な人出なんだろうなと想像する。

 しかしエゴン・シーレって、日本でそんなに人気あったっけという気がする。そもそもエゴン・シーレというと、表現主義ウィーン分離派クリムトと一緒に括られる28歳で早世した天才肌の画家という感じだろうか。

エゴン・シーレ - Wikipedia (閲覧:3月3日)

 今回の企画展はウィーンのレオポルド美術館所蔵のクリムト作品約50点に、さらにクリムトやココシュカ、ゲルストルなど同時代の作家の作品をあわせ約120点の展示するというもの。

 自分的にいえば、エゴン・シーレはやはりクリムトと同じ括りで認識している。実作はあまり観た記憶がないが、大塚国際美術館の陶板複製画でクリムトと一緒に展示してあったのが、今回の出品作品ではないが多分この手の作品だった。

《死と乙女》 1915年 オーストリア美術館

《家族》 1918年 ベルヴェデーレ・ギャラリー所蔵

 凄い絵なんだけど、どこか薄気味悪い。男はエゴン・シーレ本人がモデルなのだが、死神のような姿であり、強烈に死や性の匂いがぷんぷんとする。鑑賞者を惹きつける凄い作品ではあるが、ある種の人には同じように強烈な拒否反応を与えるようなそういう絵である。

 生よりも死を暗示させる、そして性的なものが醸し出されるこの雰囲気、これはナチスではないが頽廃芸術と烙印を押されるかもしれないし、猥褻感も半端ない。彼が描く女性は、特に素描のそれにはどこか情事に直結した雰囲気がある。情事に至る前、最中、事後を切り抜いたような雰囲気が露骨に描かれている。この人はどこか病的に女性、あるいはセックスに執着するようなタイプなのではないかと、そんなことを漠然と感じたりした。

 調べると案の定というか、かなり変態的な人物だったようだ。十代で絵の才能を認められ、ウィーン工芸学校に入学、さらにウィーン美術学校に進んだが、アカデミズムに飽き足らず、クリムトに師事し、クリムトのサポートもあってか18歳のときに最初の個展を開いている。その後はウィーン美術学校をやめて画家として独り立ちする。

 才能的には自他ともに認めらる天才なのだが、その性癖はというとかなり怪しい。まず4歳下の妹ゲルティに執着し、おそらく15~16歳の頃から妹のヌードを多数描いており、近親相姦関係にあったともいわれている。

 その後も、未成年の少女に執着し、多数の少女をモデルに誘い家に連れ込む。21歳の時に当時17歳だったモデルのヴァリ・ノイツェルと同棲。22歳のときには14歳の少女を家に連れ込み一夜を明かしたことで逮捕され、自宅からは多数の猥褻なヌード画が見つかったことで、24日間拘留されている。

 24歳のときには近所に住むハルムス家の姉妹アデーレ、エーディトと仲良くなり、妹のエーディトと結婚する。しかし別れたはずのヴァリにも執着し、結婚しながらも関係を保とうと持ち掛け拒絶される。そしてエーディトの姉アデーレとも関係を持ち続けたという。エゴン・シーレと妻のエーディトは1918年に相次いでスペイン風邪で亡くなったが、姉のアデーレは70代になるまで長生きし、死後はシーレとエーディトが眠る墓に埋葬されているという。けっこうこの愛憎関係も複雑かもしれない。

 こうした経歴をみていくと、エゴン・シーレは自らの画家としての天才性を強烈に意識する一方で、少女への性的執着に満ちたかなり危ない男だったのではないかと、そんな気がする。そしてその危なさが作品から滲み出ているような、そんな画家だ。

 画家の経歴、あるいは性癖から、なにか怪しいものを作品に感じるという点では、フランスの画家バルテュスを思い出す。彼もまた少女に執着し続けた変態性癖の画家だったような。

 ということで、ぶっちゃけていうとエゴン・シーレはあまり好きな画家ではないような気がする。彼の線の歪み、ねじれた人体は、彼の精神性の表れだったのだろうか。極論的にいえば、精神の歪みは線の歪みとなって現れることが多い。ファン・ゴッホもそうだし、ムンクもそうだ。彼らは間違いなく精神的に病んでいて、それが線に現れた。

 それに対してエゴン・シーレはどうか、彼の性癖を考えれば当然心病んでいたかもしれない。でもどこか違うような気がする。彼の線の歪み、人体のねじれは、どこか狙ってやったような部分もあるような。多分クリムトの影響による装飾的な表現に、新機軸的なねじれや歪み、それが多分受けたから続けたのではないかとそんな気がしないでもない。評判になったので、よりエグく捻じ曲げてみました、歪ませてみました、みたいなそういう意匠みたいなものを感じる。考えすぎだろうか。

 彼が描く素描はどこかロートレックのそれに似ているような気もする。でも、ロートレックが描く女性の素描には、どこかモデルである娼婦たちへの好意的な眼差しを感じる。でもエゴン・シーレのそれは明らかに性的対象としてのそれのような気がする。女を愛し、その延長上で愛情表現としてのセックスではなく、ただたんに自らの欲求を満足させるための欲情的な対象としての女。どうも自分はエゴン・シーレが好きではないらしい。

 人物を描かせると自己主張の強いポートレイトか性的対象としての女性ばかり。それに対して風景画はどうか。エゴン・シーレの才能をもっとも強く感じるのは風景画かもしれない。やや俯瞰から描く街並みは色目を押さえながらもカラフルで立体的でもある。この人はこういう絵を描いていく人であれば良かったのにと思ったりもする。

 エゴン・シーレは28歳で亡くなったが、もっと長生きしたらどうだろう。画風を変えて様々にチャレンジして巨匠と呼ばれる画家となったかもしれない。まあその前に悪癖、性癖から社会的に糾弾され、おりしもナチズムに支配されるオーストリアでは、抹殺されるか、アメリカに移住していたか。これは歴史のイフの部分だ。

 以下気になった作品。

《ほうずきの実のある自画像》 1912年 レオポルド美術館蔵

《縞模様のドレスを着て坐るデーディト・シーレ》 1915年 レオポルド美術館蔵

《カール・グリュンヴァルトの肖像》 1917年 豊田市美術館

 その他、タイトル名を失念した風景画をいくつか。

 

 

 

 

<参考>

3分でわかるエゴン・シーレ(1) ウィーン分離派の画家、エゴン・シーレのサイコパス的人生とその作品 : ノラの絵画の時間

3分でわかるエゴン・シーレ(2) 小児性愛者エゴン・シーレのヌード作品 : ノラの絵画の時間

3分でわかるエゴン・シーレ(3) エゴン・シーレの作品 最終回 : ノラの絵画の時間

(1-3とも閲覧:2023年3月3日)

【美術解説】エゴン・シーレ「オーストリア表現主義」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース (閲覧:2023年3月3日)

表現主義

狭義には、20世紀の初頭にドイツを中心に展開された、芸術家の内面の表出を重視する具象芸術の動向。絵画においては激しいタッチや原色の対比。彫刻においては彫りあとやねじれるような形態が多く見られる。社会批判的な主題も多く採り上げられ、ナチスからは頽廃芸術の中心的存在と見なされた。1905年のブリュッケ、1911年の青騎士などもこの運動の中に含まれ、フランスのフォーヴィスムなども、こした傾向の一つと考えることもできる。主な画家は、エルンスト・キルヒナー、フランス・マルク、エミール・ノルデなど。ヴァシリー・カンディンスキーはここから出発して、抽象芸術へと進んだ。広義には、強く激しい表現形式を持つ美術全般に対して、時代や地域を越えて用いられる。(岩波西洋美術用語辞典)

分離派

独:sezession,   英:secession

「分離するという」ラテン語secedoに由来。ドイツ語のまま「ゼツェッション」ともいう。19世紀末にドイツ各地で盛んになったアカデミズムからの分離運動によって形成された芸術家グループ。印象主義アール・ヌーヴォーの受容・普及に大きな役割を果たした。フランツ。フォン・シュトウックんどを中心としたミュンヘン分離派(1892年)、グルタフ・クリムトを中心とするウィーン分離派(1897年)、マックス・リバーマンーを中心とするベルリン分離派(1898年)などがよく知られている。(岩波西洋美術用語辞典)

 

権現堂公園~河津桜埼玉巡礼

 退院二日目、さっそく妻の「どこかへお出かけしたい」がでてきた。

 入院でずっと退屈してたせいもあるのだろう。退院した日は浅羽のビオトープ高麗川遊歩道を散歩。昨日はご近所を散歩。いずれも風が強くてけっこう寒かった。そして夜になると伊豆の河津桜が見たいと言い出す。ちょうど今が満開のようで、テレビとかでも盛んに紹介されるのを見たのだろうか。

 妻は3月からまたデイサービスに行く予定なので退院後のお休みも今日までである。しかし日帰りで伊豆まで行く根性は当然ない。なので近場で河津桜が見ることができるところはないかと検索してみる。

河津桜のおすすめスポット6選 埼玉の名所や穴場をご紹介 | 埼玉日和(さいたまびより) (閲覧:2月27日)

 車椅子で回るので出来れば整備された公園がいいし、駐車場も完備していた方がいいなどと思いながら紹介されている名所をチェック。そして決めたのがここ。

ホーム - 県営権現堂公園 (閲覧:2月27日)

 この公園は幸手市久喜市にまたがる広大なゾーンで、1号公園から4号公園までがある。調べると中川の川沿いで桜堤がある4号公園の一部に河津桜が70本ほど植えてあるのだとか。

 土日はそこそこ混むだろうけど、ウィークデイだから多分駐車場も問題ないはず。ナビに住所を入れると1時間足らずで着くということでとにかく行ってみることにする。道順は圏央道から東北道に入ってすぐの久喜ICで降りて、そこから下道を行く。土地勘とかはまったくないので、とにかくナビの案内するまま。
 4号公園の駐車場に入るとすぐに車椅子用の駐車場とトイレを見つけて停車。妻がトイレに行っている間に周囲を見回すと、桜堤に上るのは全部階段である。そこでもう一つの車椅子駐車場とトイレの方に歩いて行ってみると、トイレの裏側に「車椅子はこちら」の案内があり、スローブで堤まで上ることができる。次来ることがあるかどうか判らないけれど、車を止めるのは管理事務所近くのトイレの脇にある駐車場に。

 桜堤に上がりきると、そこに植えてあるのはソメイヨシノばかりで、まだ芽もちょっと出てきたかどうか。そして堤を下った細長い広場の一角(おもいで広場)にありました河内桜が。

 花はというと一番咲いている木でも、う~む、三分咲きというところでしょうか。

 多分、今週はけっこう暖かい日が続くので週末あたりは五部かもうちょっといくかもしれない。とはいえそこそこ良い雰囲気で、しばし早咲きの河内桜を堪能させていただきました。

 それからは外野橋を渡って3号公園の方に向かう。ここは中川と調整湖である行幸湖が連なっている。もともと行幸湖は一級河川だったのが利根川との間を堰き止めて湖になったのだとか。

権現堂川 - Wikipedia (閲覧:2月27日)

 外野橋から見る中川はこんな感じ。カモが沢山泳いでいるのと、遠くに一羽ダイサギらしきが川の中でエサを探していた。

 

 そして3号公園はというと、整備された遊歩道とちょっと小高い丘がある。あとこちらには梅がほぼ満開状態でした。

 

 時間にして1時間半くらい、園内を巡ってから帰ることにする。

 帰りは寝不足のせいか睡魔と闘いながらの運転。圏央道に入ってからはたまらず菖蒲PAで一休み。フードコートでは猿田彦珈琲なるものを飲んでみた。普通のブレンドと一緒に頼んで飲み比べたのだが、さすがに猿田彦珈琲は美味。まあ値段が倍近くする訳だし。

 とりあえず埼玉河津桜巡礼の第一弾は終了(第二弾があるのか)。