湯島から小石川へとぶらぶらし、たどり着いたのは伝通院だ。
ここには一度、たしか2018年だったか子どもと来たことがある。徳川将軍家の菩提寺ということで、家康の母(於大の方)や千姫の墓や徳川所縁の人々が多く埋葬されている。その他にも著名人の墓が多くあるということで、一度ゆっくり見て回りたいと思っていた。
思えば昔から墓巡りとかは嫌いではなかった。子どもの頃、父親とよく散歩のような感じで墓巡りをすることがあった。祖父の埋葬されている横浜三ツ沢墓地や、港南区にある公園墓地などには何度も行ったことがある。ときおり著名人の墓を見つけると、父がひとくさりその人のことを語ってくれたりした。自分が小学生の頃だから50年以上も前のことだ。
そういうこともあってか、一度京都に一人旅したときにわざわざ山の方を散策して、同志社の新島襄の墓を見つけたことがあった。真夏の盛りの頃で、汗だくになって歩いている途中のことだったか。
伝通院の墓地の入り口には著名人の墓のある場所などの案内もある。墓地自体はさほど広くはないので、すぐにたどり着けるかと思うのだが、ぐるぐると回っているとどこか方向感覚が狂ってきてなかなかお目当ての墓を見つけることができない。同じところを何度も通ったりするのに、行きたいところへ行けない。なんとも不思議な感覚にとらわれる。
そして最初に見つけたのがこの墓。
清河八郎
清河八郎 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
幕末の志士、千葉周作の北辰一刀流の免許皆伝、浪士組を組織し後の新選組の流れを作った人。策謀に長けていたが最後は暗殺されたんだったか。このへんの知識はみなもと太郎の歴史マンガ『風雲児たち』によるところが大きい。
佐藤春夫
詩人、『田園の憂鬱』の佐藤春夫である。昔、多分高校生の頃だと思うが、詩にかぶれた時期があって、詩集や詩人の書いた小説の類を読み漁った時期がある。そのなかで『田園の憂鬱』も読んだはずなのだが、内容的にはまったく覚えていない。たしか舞台となったのはかっての横浜市港北区で今は青葉区となっているあたり。横浜に長く住んでいたのでなんとなく親近感があったかもしれない。
佐藤春夫 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
千姫
千姫 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
徳川家康の孫娘、秀忠の長女として生まれ政略結婚で豊臣秀頼の妻となる。大阪夏の陣の際に救出され、その後は本多家に嫁いだ。歴史に翻弄され数奇な人生を辿るということで、小説、ドラマなどに登場する悲劇の姫君である。
於大の方
於大の方 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
徳川家康の母君である。おりしも大河ドラマで徳川ものを『どうする家康』が放映中なのである。それを思うと伝通院はあまり商売っ気がないようである。普通ならドラマとコラボ的なのぼりとかポスターの類があってもよさ気なのだが、大河ドラマ的なものをまったくない。墓の手前にこういう解説プレートがあるのみである。
その後はただただ墓の間をぐるぐると回る。人によっては徘徊と言われてしまうかもしれないが、これはまあ文化的徘徊だ。漠然と墓標を見て回る。なかには官位を与えられた方や軍人などもいる。その間でちょっと知っているような著名人を見つける。
堺屋太一
堺屋太一 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
経産官僚から作家に転じ、経済小説でベストセラー作家となった人だ。亡くなったのは2019年とつい最近のことである。伝通院に埋葬されていたとは当然初めて知る。
橋本明治
橋本明治 - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
ウィキペディアの略歴をみると、東京美術学校では東山魁夷が同期、松岡映丘に師事。東京美術学校を首席で卒業し、法隆寺金堂壁画の模写主任も務めた。戦後は日展を中心に活動し、文化勲章を受章している。そういう華々しいキャリアからはオーソドックスな日本画を連想するが、自分の知っている橋本明治はというとイラストのような現代的、モダンな美人画を描く人という印象がある。色彩も現代的で太い輪郭線も特徴的だ。
久野久
久野久 (ピアニスト) - Wikipedia (閲覧:2023年3月7日)
日本最初にベートーベンの三大ソナタを演奏した女流ピアニスト。若くして東京音楽学校の教授を務めた、ある意味最初のピアニストでもある。しかし明治時代の初期、もともとは邦楽を習っていた女学生が、15歳から一流とはいえないお雇い外国人教師に倣って我流のまま上達したピアノは、ある意味基本ができていなかったが、日本では唯一無二のピアニストだった。
30代の後半になってドイツ、ウィーンに留学した時には、本場での演奏会を開くこと期待されていたが、現地の一流ピアニストにその技術を酷評され、基本からやり直すようにいわれ、絶望のまま投身自殺を遂げた。
もっと早くに留学をするか、あるいは欧州留学などせずに日本に留まっていれば、ピアノの第一人者としてキャリアを終えることができたかもしれない。でも欧米に追いつくことが急務であった日本では、音楽においても欧米に比肩しうることが要求された。それに応えることが出来ない者は絶望の淵に立たされる。
久野久は、幼い頃に負った怪我のため片足に障害があった。当時にあって女性で職業を得ていくことの難しさ、おまけに障害を抱えている。さらに若くして演奏家、音楽教師をしながら、彼女は兄弟の面倒までみていたという。彼女の唯一のアイデンティティといっていい、日本では並ぶものがいないピアニストとしての技術、プライドが本場欧州ではまったく評価され得なかったことなど、彼女は近代日本における悲劇の音楽家として記憶されている。
久野久については亡くなったピアニスト中村紘子が、その著書『ピアニストという蛮族がいる』で一章を割いて紹介していて、自分もそれで彼女の存在を知った。彼女の墓は本当に偶然見つけた。久野久・・・・・・、あの女流ピアニストの、みたいな感じだった。
『ピアニストという蛮族がいる』は、出版された頃から話題になっていたので当然知ってはいたけど、実際に読んだのは2013年だったか。たしかkindleで最初に読んだ電子書籍だったと記憶している。久野久のことも興味深かったが、いわゆる巨匠といわれるホロヴィッツやラフマニノフのエピソードなども楽しかった。
伝通院を出た後、すぐに左にそれて淑徳の中等部・高等部前を通ると善行寺坂を下るようになる。坂の下り口に大きなムクノキが植わっている。その前にある家がどうも小石川蝸牛庵のようである。表札には幸田・青木とあったので多分そうなのでは。ということで、しばしムクノキを背にして露伴、文を偲んでみた。
その後はまた254に出てそのまま池袋方面に向けて歩いてみた。茗荷谷のあたりで跡見学園からお茶の水女子大を通り過ぎ、そのまま新大塚へ。それからサンシャインへ。お茶の水から池袋まで歩いたのはこれで二回目だろうか。次回、機会があれば護国寺か雑司ヶ谷の霊園あたりを歩いてみようか思ったりもする。護国寺には山形有朋や大隈重信の墓があるし、雑司ヶ谷には夏目漱石や東条英機の墓がある。墓巡りも一興かもしれない。
池袋でスマホのアプリで確認すると距離はこんな感じだった。