PCR検査

 訳あってPCR検査を受けることにした。

 まあなんのことはない、先週あった知り合いがコロナ陽性になったと連絡。日曜から鼻づまりと発熱。月曜には熱は下がったが鼻づまりは続いているといい、念のため市販されている抗原検査キットで調べると陽性だったと。熱は結局一度きりで、鼻づまり以外は特に問題はない。

 そうなると濃厚とはいえないが、いちおう接触があったのでと不安になる。すでに接触から5日近く経っているがこちらはピンピンしている。熱はいつも計っているけど、36.5度から上にいくことはほとんどない。

 とはいえ一応というか、念のためというか、無症状で感染ということも考えられるからと検査をしてみようと思った。しかし埼玉県ではどこで受けられるのかね。

 まず住んでいる自治体のサイトで検査のところをクリックすると埼玉県のサイトにいく。そこで住んでいる地域を選択すると、検査を受けられるドラッグストアが数件出てくる。近所のところもあれば、ちょっと離れたところでもある。そういえば、だいぶ前に無料PCRとかいう張り紙見たような気もする。

 そこで一番近くのドラッグストアを探してそのサイトに入る。しかしとにかく判りづらい。何度もやり直して、やり直してどうにか辿り着くという感じである。すると現在は検査行っていませんという表示。同様に埼玉県サイトで表示されたドラッグストアをかたっぱしからあたっていくが、どこも「現在はやっていない」という。

 だめじゃん、結局無料での検査はやっていないということか。多分、それぞれのドラッグストアにいけば抗原検査キットが有料で販売されているのだろう。抗原検査キットは家には確か一つくらいならあるかもしれない。ちょっと前に眼科に通院したときに処方箋の目薬をもらうため調剤薬局に行ったときに試しに買った。

 でも、できれば自分だけでなく妻も検査しなくては。抗原検査キットをもう一つ買うかとなる。でも抗原検査に今一つ信頼を寄せていない。やっぱり検査はPCRかなと思った。そうなると近くですぐに検査受けられるのはというと、テレビで院長さんの露出で有名なふじみ野救急病院ということになる。ここはオンラインで予約すれば割とすぐに受けることができた。過去にも二度ここで検査を受けている。

 どうでもいい話だが、この病院は昔は脳外科だか脳神経内科だかの専門医院だった。遠山脳外科とかそんな名前だったか。以前、ふじみ野に住んでいるときに妻のセカンドオピニオンというか、まあ地域のかかりつけ医もあった方がいいということで定期的に通っていた。妻は何度かMRIをとったし、自分も一度くらいとったかもしれない。

 テレビで露出の高い新しい院長になってからは、コロナであてたというか、積極経営で拡張、拡大を続けている。遠山先生は元気だろうか。

 ここでPCRの予約をするのは、CLINICSというアプリを通じて行う。当然自分のスマホにも入っている。それで予約を入れようとするのだが、このアプリも実はけっこう使いづらい。一般医療の予約とPCRの予約の区別はなかなかできない。ようやくPCRのほうにたどりつくのだが、そのへんのどこかでスマホ認証用のコードがショートメールで来るはずなのに何度やってもこない。

 仕方なく自分の方は後回しにする。病院のサイトによれば65歳以上は予約なしでもいいとなっている。それで妻のスマホにもCLINICSをDLLして予約を入れると意外と簡単にいける。ショートメールもきて無事承認され予約も入れられた。自分の方はダメなまま。

 当日朝に病院に電話してオンライン予約がうまくいかないので、直接行ってもいいかと告げる。年齢も65以上というとOKとのこと。それで妻の予約時間の少し前に車で行く。広い駐車場にはかなり車が止まっている。感染拡大を実感する。

 検査自体は流れ作業でスムーズでさほど待つことなく終わった。着いてから受付をすませて検査終了までの合計時間は30分と少しくらいだったか。それで午前中の検査については15時くらいから順次専用サイトで確認できるという。15時半くらいに渡された紙のQRコードを読み取って専用サイトに入り、患者番号、生年月日、氏名(カタカナ)を入力するも表示されない。16時過ぎにも何度かアクセスしてみるがダメ。17時過ぎに再度チャレンジして気がついたのだが、患者番号と受付番号の二種類が渡された紙にはあるようで、どうも受付番号を入力してたみたい。ダメじゃん、ただのつかえないオヤジだ。

 で、サイトに入って確認。自分のが終わってから、次に妻の分も行う。いずれも結果は、ハイ、「陰性」でした。めでたし、めでたしである。

 結局のところ、自分らが感染しなかったのは、偶然、運、4回のワクチン接種のいずれか、あるいはその組み合わせなのかわからない。ただし歳も歳だし、ここまできたら出来れば罹りたくないというのが本音。

 

ポーラ美術館「ピカソ 青の時代を超えて」 (11月25日)

 ポーラ美術館で開催されている「ピカソ 青の時代を超えて」を観てきた。

 この企画展は9月17日から2023年1月15日まで開催されている。ほぼ同時期に上野西洋美術館で「ピカソとその時代」展(10月8日から2023年1月22日)が開かれている。同時期に国内で大掛かりな回顧展が開かれるのもピカソの国内での人気と受容によるものかと思われる。

 今回の企画展は、ポーラ美術館とひろしま美術館のコラボ企画のようで、制作のプロセスに焦点をあてピカソの初期作品から捉え直そうとする共同企画展である。両館はピカソ作品の国内有数のコレクションを持っており。ポーラ美術館が絵画19点と版画(挿絵本)8点を収蔵、ひろしま美術館は初期から晩年までの9点を収蔵している。これに加えて国内の収蔵作品(アーティゾン美術館、大山崎山荘美術館東京ステーションギャラリー、吉野石膏コレクションなど)、さらにバルセロナピカソ美術館、カタルーニャ美術館などからも出品され、合計81点が展示される大掛かりなものだ。

 西洋美術館「ピカソとその時代」展がベルリン国立ベルク美術館所蔵品を中心にして、ピカソの他にパウル・クレーマティスらの作品を含めて97点出品となっていることからすると、国内所蔵品中心で81点は遜色ないものといえる。あえていえば、今回の企画展は企画展名にあるようにピカソの青の時代にスポットをあてたうえで、晩年の作品も多く出品されているのに対して、西洋美術館のそれはキュビスムにスポットをあてているようにも感じられた。さらにいえばいずれの企画展ともに「バラ色の時代」のものは少ない印象もあった。

 また今回の図録は図版以外のテキストも充実していて、読み込みにけっこう時間がかかりそうである。なのでいつものように気になった作品の印象のみ。

 

展覧会概要

(閲覧:2022年11月29日)

・期間:2022年9月17日ー2023年1月15日

・出品作品:81点

「本展の特徴は、ピカソにおける「青の時代」とそれ以外の画業との間に、ある種の対比関係を確立させ、作品の進化やピカソの関心を際立たせることにある」(アドゥアル・バジェス・カタルーニャ美術館主任学芸員

・展示構成

プロローグ

Ⅰ章 青の時代-はじまりの絵画、塗り重ねられた鬼籍

Ⅱ章 キュビスム-造形の探求へ

Ⅲ章 古典への回帰と身体の変容

Ⅳ章 南のアトリエ-超えゆく絵画

作風の変遷

 ピカソの作風については「青の時代」、「バラ色の時代」などと変化していくことは有名だが、実は今一つ理解していない。試しにえらく大雑把に作風の変遷をまとめてみた。驚くことに「青の時代」は20歳から23歳までという時期にあたる。恐るべき早熟な天才だということだ。「青の時代」の前後には初めてパリを訪れて、ロートレックのポスターなどに影響を得た作品(習作?)も描いている。

 まら「青の時代」4年、「バラ色の時代」3年、このへんは習作とはいわないがある種の助走期間だったのかもしれない。そして20世紀の現代美術の母体とも転換点ともなったというキュビスムへと到達するのが20代後半から30代前半にかけてということになるわけだ。

 

作風 年代 年齢 主要作 恋人・妻
青の時代 1901-1904 20-23 海辺の母子像、人生  
バラ色の時代 1904-1906 23-25 サルタンバンクの家族 フェルナンド・オリヴィエ
アフリカ彫刻の時代 1906-1908 25-27    
プロトキュビスムの時代 1907-1908 24-27 アヴィニョンの娘  
分析キュビスムの時代 1908-1912 27-31 マンドリンをひく女 エヴァ・グエル
総合的キュビスムの時代 1912-1921 31-40 籐椅子のある静物 オルガ・コクローヴァ
新古典主義の時代 1917-1925 36-44 母と子  
シュルレアリスムの時代 1925-1936 44-55 夢、鏡の前の少女、読書

マリー・テレーズ

ドラ・マール

戦争とゲルニカ 1937 56 ゲルニカ、泣く女  
ヴァロリス期(陶芸家の時代) 1947-1953 66-72 朝鮮虐殺

フランソワ・ジロー

ジャックリーン・ロック

晩年 1954-1973 73-91 画家とモデル  

青の時代の代表作

海辺の母子像

《海辺の母子像》 1902年 ポーラ美術館

 「青の時代」は1901年に親友のカサマジェスの自殺をきっかけにして、ピカソは酒場の人物像、母子像、物乞いの女、盲目の人物など、底辺にハードな生活を送る貧しき人々に目を向け、人間の悲惨さテーマにした作品群を青色を主調に描いていった。

 同時に自らも貧困にあえいでたピカソは、この時期画材、支持体を満足に買うことが出来ずに、一度描いたカンヴァスを再利用していたという。この絵も最下層に子どもの像があり、中間層に酒場の女性像と男性像からの《自画像》があり、その上にこの母子像が描かれている。それらが最新技術によるX線写真などによって明らかになっている。それを一室を使って、X線画像等を展示してみせる。これも今回の企画展の目玉であるようだ。

 さらにこの絵が青色を主調に平面的に描かれ、黒や暗い青色による輪郭線が用いられているが、

 またこの絵は、彫刻家の友人アミリ・フォンボナの兄で医師のジュゼップ・フォンボナに贈ったものだという。その理由はピカソが罹患した性病をフォンボナ医師が治したことの対価だったという。貧しき画家は自らの作品を様々なサービスの対価とすることがある。ある画家は飲み代の代わりに絵を描いてみせる。ピカソのこの絵が治療費代わりだったということだ。

酒場の二人の女

《酒場の二人の女》 1902年 ひろしま美術館

 たぶんこの作品がひろしま美術館所蔵のピカソの目玉的作品なのではないかと思う。と同時にポーラ美術館の《海辺の母子像》とともに国内にあるピカソ「青の時代」を代表する作品ではないかとも。

 この作品は明らかにゴーギャンの影響がある。最初にパリを訪れた際にロートレックだけでなくゴーギャンナビ派を学んだのだろうか。平面的な画面構成や輪郭線やナビ派そのものである。そうやってみると「青の時代」のピカソ象徴主義そのものだったのかもしれない。

 この二人の女は貧困と病気に苦しむ娼婦である。フランス語タイトルは《石切り場の女たち》と呼ばれていたとい。娼婦の中でも最下層にある、石切り場付近で作業員の男を客にとっていた娼婦たちなのだ。暗鬱な雰囲気の中で会話もなく俯く二人の女の間にはアブサンのグラスがある。ニガヨモギを原料とする強い酒で幻覚などを引き起こすため1990年代には販売中止となった危ない酒である。

 ランボーヴェルレーヌがこの酒を飲んで退廃に興じたという。学生時代にこの酒をしこたま飲んで吐きまくったことを覚えている。メチャクチャ強い酒だった。二人の娼婦はアブサンで一時現実逃避する以外にないのである。

新古典主義の時代

 ピカソの古典回帰、「新古典主義の時代」は1917年から1925年までとされている。その作例は1917-1918年頃には、ドミニク・アングルの影響が顕著な写実的、再現的な作例が制作される。この時期の代表作は最初の妻となったロシアのバレーダンサー、オルガを描いた《肘掛け椅子に座るオルガの肖像》など。

 その後1922-1923年頃には、古代ギリシア・ローマの彫刻から想起された、古代風の衣裳をまとい重量感のある、さらに手足が極端に誇張された女性像などが描かれる。さらに1923年あたりから息子パウロを線描を用いて写実的に描いた作品などが生み出される。

坐る女

《坐る女》 1921年 ポーラ美術館
母子像

《母子像》 1921年 ひろしま美術館
母子像

《母子像》 1921年 ポーラ美術館

 ギリシア・ローマ風の衣裳、彫刻のような造形とはいわれるが、この次第に巨大化していく手足はどういう影響なんだろうか。あたかもギリシアの神殿の列柱のように大地にそそりたつ巨大な足。モデルはオルガと生まれたばかりのパウロらしいのだが、そこには母性の強さみたいなものがあるとは何かで読んだことがある。

 この巨大な手足の表現は新古典主義の柔らかい表現から、じょじょにキュビスム的なカクカクとした形でデフォルメ化されていくようで、それは「ゲルニカ」などに昇華していくようだ。

仔羊を連れたパウロ、画家の息子、二歳

《仔羊を連れたパウロ、画家の息子、二歳》 1923年 ひろしま美術館
花束を持つピエロに扮したパウロ

《花束を持つピエロに扮したパウロ》 1929年 ポーラ美術館

 こ2点のうちポーラ美術館のものは、もう何度も観ている。ピカソらしくないというように感じていた。同じくひろしま美術館の作品も、多分何度か観ている気がする。制作年代とか意識していなかったので、なんとなく色味とかから「バラ色の時代」あたりと適当に思っていたのだが、これって「新古典主義の時代」だったのか。

 線描による輪郭線を強調した再現性、特に《仔羊を連れたパウロ》はなんとなくアーティゾン美術館の《腕を組んですわるサルタンバンク》と同じ雰囲気がある。制昨年はいずれも1923年だ。

シュルレアリスムとの接近

ギターとオレンジの果物

《ギターとオレンジの果物鉢》 1925年 新潟市美術館

 シュルレアリスムとの接近により、立体的な総合的キュビスムが平面的でベタっとした感じになってきている。そしてそれまでのカクカクとした直線的フォルムは柔らかい曲線に変わられるようになっている。

赤い枕で眠る女

《赤い枕で眠る女》 1932年 徳島県立近代美術館

 1925年頃からシュルレアリスムに接近したピカソはその表現を受容し、独自のキュビスム的表現との融合を図ったみたいな作品だろうか。モデルは1930年に知り合い愛人となったマリー=テレーズ。知り合った当時17歳の少女はスポーツが得意な健康的な肢体をもっていたという。若い女性の身体に魅了されるピカソの絵筆は柔らかい線描でこのデフォルメにはどこかマティスのそれを想起する部分もあるか。

ドラ・マールの肖像

《ドラ・マールの肖像》 1937年 徳島県立近代美術館
花売り

《花売り》 1937年 ポーラ美術館
黄色い背景の女

《黄色い背景の女》 1937年 東京ステーションギャラリー

 いずれも1937年、《ゲルニカ》制作と同じ年の肖像画作品。シュルレアリスムの受容とキュビスムの融合、さらに対象の外形的な形態面に着目して立体性の多視点的分割を総合するキュビスムから対象の内面性や画家の心象風景を投影した感覚の多面性を一つの画面に総合する内的キュビスムみたいな。まあ適当に思いついたのだが、この多面的な表現はモデルの内面、あるいはピカソ自身の内面の分裂した感覚を一つの画面に描き出しているようにも思える。まあニワカの適当な思いつき。

 当時、別居する妻オルガ、一児をもうけたマリー=テレーズ、さらに一緒に暮らすドラ・マールとの三角関係にあったピカソの内面性、分裂した思いみたいなものの心象風景があるかもしれない。離婚した場合に遺産の半分をとられるため離婚もできない妻オルガとの関係。優しき愛人マリー=テレーズと気性の激しいドラ・マールがアトリエで鉢合わせをし、ピカソの前で大げんかをするエピソードなど。

 同時期の《泣く女》はドラ・マールを描いた作品として有名のようだけど、実はあの泣く姿はピカソ自身の内面なのかもしれない。

 《黄色い背景の女》には立体感がなく、ベタっと平面的に描かれている。多視点キュビスムシュルレアリスムの受容。実は今回の企画展で一番気に入った作品がこれ。この絵はある意味では《ゲルニカ》と近似的で、「〇〇時代のピカソ」を抜け出した「普遍的なピカソ」が確立した作例ではないかと思う。この表現のバリエーションが戦後の所謂ピカソの絵となっていくみたいな。まあなんというか、これぞピカソみたいな作品だと思う。

シルヴェット・ダヴィット

 シルヴェット・ダヴィットは1954年に南仏で出会い翌年までモデルを務めた。当時ピカソは73、シルヴェットは20。ピカソはシルヴェットをたいへん気に入ったようで、わずか三か月で彼女をモデルとした40点もの制作を行っているという。ボニーテールが魅力のスラっとした肢体の魅力ある女性だったが、彼女はこの時すでに婚約者がいて、彼女がモデルをしているときにも片時もそばを離れなかったという。

 すでに生きる伝説ともいうべき芸術における巨匠に見初められモデルになったとはいえ、その女性遍歴もすでに知れ渡っており、若い娘からすれば物凄く偉い画家ではあるけれど隙をみせれば何されるかわからないエロジジイだったかもしれない。

「なんか凄い有名な画家からモデルになってくれって言われたんだけど、どうしよう。お金にはなるみたいだけど」

「けっこう危ないジイさんみたいだし、俺がつきそうよ」

 みたいなやりとりがあったかどうか。

シルヴェット

《シルヴェット》 1954年 DIC川村記念美術館

 この絵は以前、川村記念美術館で観ている。戦後のピカソにしてはみょうに写実的でそれがえらく新鮮味があった気に入った作品だ。今年、久々に川村美術館を訪れた時には残念ながら展示がなかったが、箱根で再開することができた。

 顔の表情、ボニーテールの表現が写実的であるのに、裸体の部分はどこか表現的、腕や手はデフォルメされている。恋人同伴でやってくるシルヴェットはピカソの前でヌードになることはなく、ピカソは彼女の姿態を空想で描いているということだ。巨匠の妄想というところか。

シルヴェット・ダヴィット

《シルヴェット・ダヴィット》 1954年 ポーラ美術館

 この絵も何度も観ている。川村美術館のそれを知っているだけに、随分と抽象化されデフォルメ化されている。しかもキュビスム的に処理された顔の表情には生気がなく、どこか非人間的な雰囲気がある。

 まあ適当な思いつきだが、モデルに愛情や性的な対象としての親和性のあるエロオヤジのピカソにとっては、恋人同伴でやってくる「モノにできないモデル」は次第に再現的な人間性を失い、無機質な対象化されていくのではと。まあこの二つの作品どっちが先に描かれたのか判らないけれど。巨匠の内面としては下心が叶わむものとなったら、心象風景はこんな感じになるのではと。

 実際のシルヴェットはというとやはり美人であることはいうまでもない。

《シルヴェット・ダヴィット》

戦後の作品

ラ・ガループの海水浴場

《ラ・ガループの海水浴場》 1955年 東京国立近代美術館

 この作品は、ジョルジュ・クルーゾー監督が制作した『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』に登場する絵の一つである。ピカソの制作過程を裏側から撮影した映像が有名な映画だが、この作品ではピカソの絵具の重ね合わせを見せたいという要望により、制作過程を細切れに撮影したものが採用されている。今回の企画展ではこの絵を展示する裏側に小さな小部屋が設けられていて、そこで映画のこの絵の制作過程、何度も描いては消したり重ねたりを早送りで映すシーンが上映されていた。

肘かけ椅子に坐る裸婦

《肘かけ椅子に坐る裸婦》 1964年 国立国際美術館
すいかを食べる男と山羊

《すいかを食べる男と山羊》 1967年 ポーラ美術館
女の半身像

《女の半身像》 1970年 ひろしま美術館

 巨匠の最晩年、84歳、86歳、89歳のときの作品。実際に見ている対象をモチーフに、次から次と心に浮かんだものを描く。この時期も旺盛な制作意欲をもち「子どものように描きたい」という境地になっていたという。

 ジャクソン・ポロックが「全部あいつがやってしまった」と呟いたというピカソ。後から来るものにとっては高い壁、けっして追いつくことが出来ない巨匠は最後までピカソであり続けたんだと思う。子どもの頃から早熟な天才であり、模写した写実的な作品をいくつも描いていたピカソがたどり着いたのはここだったんだな。彼の画歴をとくに「青の時代」以後を辿る本企画の最後に観るのが子どもが描いたような《女の半身像》なのである。

 

 出来ればこの企画展、もう一度来たいけど箱根はまあまあ遠い。本企画展を観たうえでもう一度西洋美術館のピカソを観るのもいいかもしれない。

伊豆旅行に行って来た

 24日から26日まで、伊豆伊東に小旅行してきた。いつものように伊東の健保の宿が取れたから。この宿は健保の宿の中でも一番最近にリニューアルしてあり、諸々バリアフリー化されているので人気が高く、ウィークデイでも予約がとれず、二ヶ月先の抽選でもなかなか取れない。今回が運よく抽選に当たったから。

 平日でも当然部屋は満席状態で、自分たちと同じように多分リタイア組みの老夫婦や友だち同士が多く。いつもは車椅子用の駐車場に車を止められるのだが、今回は先に一台車が止まっていた。中年の夫婦が両親を連れて来ていて、母親が車椅子ということのようだった。まあそういうものだ。

 高齢化社会である。車椅子の親を連れて来る、うちのように車椅子の配偶者を連れて来る、などなど。広くて乗降がしやすい車椅子用の駐車場は一台分では足りなくなる、もうそういう社会になってきているのかもしれない。なんならすべての駐車場を入り口に近くはできないにしろ、スペースを広く取ることが必要になるのかもしれない。

 

 初日はいつも宿まで行く途中に観光をいれるのだが、今回は前々日から子どもが久々家に帰っていて、ご馳走したりとかあった。土曜日に友人の結婚式に初めて出るとかで、それようのドレスを持ってきて見せてくれたのだが、ちょっと地味過ぎる感じがしたので、もう少し華やかなものをと一緒にお店巡りをした。24日も千葉まで送りついでに幕張のアウトレットに行ったりした。結局決まらずに仕舞。

 そこでもう一着買うかアクセサリー用にお小遣いを与えたりして、子どもは翌日さらに一人で店巡りをして新しいドレスを買ったとか。あとで試着したドレスの画像送ってきてくれたけど、明るいパステルっぽい紫でよく似あっていた。

 しかしいつまでたっても子どもは子どもだし、親バカは親バカである。なので旅行初日は全部潰れてしまい、宿に着いたのは夕食の開始時間を20分くらい過ぎてからだった。埼玉からわざわざ千葉まで行きそれから伊豆へ行くという。埼玉から千葉、東京、神奈川を経由して静岡で。五県を巡る小旅行である。

 

 翌日は本来、前日に途中で寄るつもりだった箱根に戻り、ポーラ美術館に行った。ピカソの比較的大掛かりな回顧展をやっているという。ポーラ美術館はこれまでも年に数回行っている、自分にとってはベースとなるところなのだが、今年はまだ一度だけ。たしか4月にリヒターの新しく購入した絵のお披露目という企画展に行ったのだったか。

 ピカソ展はなかなかに見応えがあり、その感想は別に記すことにする。今、国内では西洋美術館とポーラ美術館でそれぞれピカソの回顧展をやっていることになる。ピカソの人気の高さ、国内での受容のされ方、そういうことが背景にあるからかもしれない。

 

 26日、最終日はいつものように伊東から下田方面に足を延ばす。今回は妻の希望で、河津七滝(ナナダルと読む)のワサビ丼が食したいというリクエスト。ついでに七滝附近をちょっと散策。その後にさらに南下して上原美術館へ。

 最後に伊東に戻ってグランパル公園のイルミネーションを観た。いずれもどこかで感想とかを少し記してみたい。

 

 伊東から箱根に行き帰りする時には、伊豆スカイラインの有料道路を利用した。大昔、父親と旅行した時に中央分離帯に激突してタイヤがえぐれた記憶があるところだ。スペアに交換したら、スペアがパンクしていて結局えぐれたタイヤで恐る恐る熱海まで戻ってタイヤ交換したことを覚えている。父を連れてドライブした数少ないうちの一つである。

 天気は良くて、行きと帰りにそれぞれ一度ずつ展望スペースに車を止めて駿河湾や富士を眺めた。なかなかに美しい眺望だった。

 

<行きの富士>

 

芦ノ湖

 

<帰りの夕刻の景色>

2022年にビートルズについて思うこと

 旅行から帰ってきて溜まった三日分の新聞を読んでいる。

 朝日新聞の24日夕刊の2面、3面にビートルズにまつわる記事が載っていた。デジタル版ではいかのようになっている。

革新的、ビートルズの到達点 「リボルバー」新版 プロデューサー、ジャイルズ・マーティンに聞く:朝日新聞デジタル (閲覧:2022年11月27日)

 そうか「リボルバー」のリミックス版が再発売されたというのはなんとなく情報として流れてきていた。そしてこの間、ビートルズのリミックスされた新版はいくつか再発売されている。解散して50年以上たったグループのアルバム、音源がまだ商売になるというのも驚きではあるけれど、まだしばらくこういうのが続くのかもしれない。

 そしてこのリミックスを手掛けているプロデューサーが、もともとのビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティンの息子ジャイルズ・マーティンだという。ジャイズルはたしかビートルズの最初のリミックス・アルバム「ラブ」を父親ジョージと一緒に手掛けたのだったか。自分もそのとき彼の存在を知った。

LOVE (ビートルズのアルバム) - Wikipedia (閲覧:2022年11月27日)

ジャイルズ・マーティン - Wikipedia (閲覧:2022年11月27日)

 そんなジャイルズもすでに53歳である。なんかその事実にちょっとした戸惑いを覚えつつも感慨深くもある。ビートルズと一緒に仕事をしたプロデューサーでありビートルズの兄貴分でもあったジョージ・マーティンの息子がすでに53歳になっており、ビートルズサウンドを同時代に蘇らせるような仕事をしているということ。

 

 同じ紙面の2面にジョン・レノンの長男、ジュリアン・レノンが新譜を出したという記事がある。

父への葛藤、超えて ジュリアン・レノン:朝日新聞デジタル 

(閲覧:2022年11月27日)

 自分と母親シンディを捨てて日本人女性の元に走った父親ジョンに対する葛藤。それを越えて父親への思い新たにしたという。

昨年、ビートルズの解散間際を描いた映画「ゲット・バック」を観て「もう一度父を好きになった。彼がどんな父親だったかを思い出させてくれた。楽しくて、愉快で、頭がよくて、生意気で、皮肉屋で・・・・・・。でももの凄い才能がある人。彼がいなくなる前の良かった思い出を蘇らせてくれた」と語る。

 今年の春にはウクライナ支援のため、初めてジョン「イマジン」を公の場で歌ったという。そして9月にはバラードを中心にした新しアルバム「JUDE」を出した。両親の離婚を心配してポール・マッカートニーがジュリアンを励ますために作った名曲「Hey Jude」の「JUDE」だ。


www.youtube.com

 そのジュリアン・レノンも来年で60歳になるという。「父親への葛藤や比較される苦悩を振り去った」という。いささか遅すぎるような気もしないでもないが、42年前に凶弾に倒れ伝説と化した偉大なスーパー・スターを父にもち、同じアーティストの道を選んだ子としてはある意味必然かもしれない。何をしても比較される人生である。

 しかしあのジュリアンが来年には還暦となるという事実。彼が1984年に「トゥー・レイト・フォー・グッドバイ」で音楽シーンに出現したときには、世界中のビートルズファンがなんとも複雑な気持ちで、まるで自分の甥っ子かなにか身内のデビューを見守るような気持ちだったのではないか。少なくと自分はそんな感じがした。

 2022年という年は、例えばジョンが生きていれば82になるという。存命のポール・マッカートニーは80歳、リンゴ・スターは82歳に、そしてヨーコ・オノは89歳。「リボルバー」リミックスさせたジャイルズ・マーティンは53歳になり、ジョンの息子のジュリアン・レノンは来年還暦を迎える。自らの年齢とともに、我々はそういう時代に生きていることを実感させられる。

次なる危機は雇用と金利

 今日の朝日新聞の経済欄に「物価高同水準 40年前の社会は」という記事があった。

物価高同水準、40年前の社会は 第2次石油危機末期、授業料・入浴料も値上げ:朝日新聞デジタル (閲覧:2022年11月22日)

 その後半に今後の予測として森永卓郎へのインタビューが載っていた。その通りになるかは判らないが、なかなか興味深い内容だった。メモ代わりに引用する。

次なる危機は雇用と金利

森永卓郎独協大教授

幅広い品目が値上がりする中で、どのように生活を乗り切ればいいのか。経済アナリストの森永卓郎独協大教授は、物価高が続くのはあと半年で、その後の危機に備えるべきだと話す。別の危機とは何なのかを聞いた。

    ◇   ◇

 いまの物価上昇は資源高と円安による外的要因です。物価高騰が続くのは年内までで、来年中にはマイナスに逆戻りする可能性がある。つまり、歯を食いしばらないといけないのはあと半年くらいだと思います。

 日々の買い物の順序を変えて、安いモノを買って、何を作るか考えるようにすれば出費を抑えることができます。家電など家庭用耐久財もこれから下がり始めるので、無理していま買い替える必要はないでしょう。

 物価高の危機が去ったあとは、雇用の危機、生活全般の危機になります。日本銀行のトップが来春に代わって金融引き締めを始めれば、中小企業の倒産や個人の住宅ローン破産も出てきて、不動産価格が大きく下がる恐れがある。来年は大激動の経済になると見ています。

 デフレになってまず職を失うのは、非正規労働者フリーランスの人たちです。正社員は安易な転職をしないこと。非正規の人は、早めに安定雇用に移ることを考えて欲しい。米国株などへの投資も危ない。為替はいったん潮目が変わると一気に動くので、大きく円高に振れても不思議ではない。もう潮目は変わったと思います。

 住宅ローンも、リスクを避けるには早く固定金利に切り替えた方がいい。変動金利が上がり、返済に耐えられなくなって家を手放す人も出てくるでしょう。(聞き手・北川慧一)

 物価上昇は資源高と円安によるもので物価高騰は年内まで。来年にはマイナスになると。果たしてどうだろうか。ウクライナ情勢が泥沼状態にあり、資源高はまだまだ続くのではないか。とはいえいったん物価高騰が沈静化すると、森永氏のいうように雇用の危機、生活全般の危機が訪れるのかどうか。

 黒田東彦日銀総裁の任期は来年3月まで。次に誰がなってもすぐには今の異次元緩和に手をつけることはないかもしれない。市場は敏感に反応するはずだからだ。とはいえ今のゼロ金利をいつまで続けられるかというと、やはり日銀総裁の交代を節目に政策転換が図られるかもしれない。しかし相当に緩やかな形で行わないと、とんでもないことになるかもしれない。

 それこそ金融引き締めに転じれば、森永氏のいうように中小企業の倒産、個人の住宅ローン破産も出てくるかもしれない。さらに不動産価格の下落も。

 森永氏はここでは触れていないが、異次元緩和が終われば当然株価にも影響が出る。金融引き締めで市場にダブついた金が今は株式市場と不動産に流れている。この金の蛇口がすぼまれば当然のこと不動産価格の下落だけでなく、株式市場も暴落する可能性もある。ただでさえ日銀のETFと年金のGPIFによる大量の株式買い入れによって支えられてきた官製市場であり、実体経済と乖離し続けている。

 不動産と株式の暴落、もしそれが同時に、しかも一気に訪れることになれば、日本発の世界恐慌みたいなこともあるかもしれない。まあそうならないよう日本と各国の政策担当者による調整が図られるのだとは思うけど。

 しかし森永氏の予想するようなデフレ局面は避けられないかもしれない。低金利で金を借りて不動産や様々な投資を行っていた場合は、早目に対処する必要があるかもしれない。そして雇用である。現在の物価上昇局面でも賃金は上がらない。アベノミクスで雇用が増えたといっても、結局非正規雇用が増えただけであり、それは基本的に雇用の調整弁である。不景気、デフレとなれば最初に職を失うのは間違いなく非正規労働者だ。

 さらに雇用流動化を旗印に解雇規制の緩和も検討されている。デフレ局面での企業防衛のため、名目は雇用流動化を理由として解雇規制緩和が行われるかもしれない。そうなれば正規社員も簡単に首が切られるようになる。今、テレビCMでは盛んに転職サイトやヘッドハンティングが喧伝されている。でも、転職して賃金が上がるのはごく一部のキャリアや顧客を抱える人間だけだ。

 森永氏の語る労働者の防衛策は多分正しい。

正社員は安易な転職をしないこと。非正規の人は、早めに安定雇用に移ることを考えて欲しい

 円安局面で資産を円からドルに変える人が多いという。しかし森永氏はこうも警鐘を鳴らしている。

米国株などへの投資も危ない。為替はいったん潮目が変わると一気に動くので、大きく円高に振れても不思議ではない。もう潮目は変わったと思います。

 そしてだ、すでにリタイアしている自分のような年金生活の高齢者はどうするか。多分何もせずじっとおとなしくしていること、嵐が過ぎるのをただひたすら待つこと、それ以外にないのではないかと、なんとなく思っている。

ワールドカップ2022開幕

 なんとなく今回のワールドカップは個人的に盛り上がりに欠ける部分もある。これも年齢のせいかと思う部分もある。そもそもカタールってどこよと、つい最近も地図帳を引っ張り出したり、グーグルマップで確認したりしている。しかし小さい国だね。チームも一度も本大会に出たことがないアラブの小国がいきなり本大会を開催するという。オイルマネーといってしまえばそれまでだけど。

 あまり関心がないとはいっても、始まってしまえば試合を観てしまうのもまあ人情というか。いちおうサッカーファン、特に海外サッカーについていえばかれこれ50年くらいやっている。三菱ダイヤモンドサッカーで海外サッカーに親しんできた。

 リアルでワールドカップをテレビ観戦したのは、自分と同じ世代の者は割とみんなそうだと思うが、あの西ドイツ大会決勝、クライフ率いるオランダとベッケンバウアー率いる西ドイツ戦だと思う。いや~、あの試合はずっと記憶に残っている。開始早々のクライフのドリブル突破とフォクツの後ろからのタックルによるいきなりのPK。そして西ドイツのPKを決めたのは最年少のブライトナー。それからミュラーのあげた決勝点。

 後半、オランダはクライフを最前線に置きロングボールで攻める。クライフはドリブルや華麗なパスだけでなく、ヘッドでも競い負けない。押せ押せの展開の中でも西ドイツはかかんに逆襲などなど。

 1974年のあの大会のあと、三菱ダイヤモンドサッカーでは一試合前後半を二週に分けて延々と放送した。あれもけっこうよく観てた。さらに78年はオランダやブラジルのロングシュートによるスーパーゴールがあったりして、あれもけっこうよく覚えている。

 ワールドカップの試合をビデオで録画を始めたのは多分、一番古いところでは82年大会あたりか。さらに86年のマラドーナの神の手ゴールもしっかりビデオで持っていた。90年の大会も何試合かビデオで持っていたし、次の94年アメリカ大会は多分6割くらいの試合はビデオ録画した。さらにいえばそれらのビデオはDVDに焼き直した。

 その後も98年フランス、2002年日韓、2006年ドイツ、2010年南アフリカ、2014年ブラジル、2018年ロシアと主要な試合はDVDやHDDに残してある。もっとも2010年くらいから録画したはいいがそのまま未視聴のままな試合がほとんどだったりもする。

 ということでいったん始まればけっこう夢中になっている。虎の皮は洗っても落ちないということだ。

 開幕戦のカタールVSエクアドルは凡戦といってしまえばそれまで。とにかくエクアドルの強さと同時に開催国カタールがあまりにも弱い。やっぱりこのチームは開催国に価しないとは思った。幻の1点はVAR(ビデオ・アシスタント・レフリー)判定でオフサイドになったけど、片足が出ていただけで、あれでオフサイドになったら今までのサッカーはどうなってしまうのだろうと思うくらいだ。

 それにしてもあのVAR、あれトライしたらたいていの場合はオフサイドになるし、PKになる。それは人間の目でレフリーするこれまでのサッカーの否定につながるような気もしないでもないな。マラドーナの神の手ゴールも多分、得点どころか一発退場じゃないかと。

 とりあえず開幕戦は実質3-0とエクアドルの圧勝だったということ。

 

 そして本日のイングランドVSイラン戦。実は自分は、根っからのイングランドファン。いつ頃から好きかというと、多分、多分だが74年、78年と二大会出場を逃したあたりからじゃないかと思ったりもする。ケビン・キーガンとか好きだったのよね。その後もガスコイン、プラット、ワドル、オーウェンとか贔屓にしてた。ベスト・マッチは90年大会の準決勝ドイツ戦だったか。最終的にPKで負けたけどあの試合は最終的に優勝したドイツと互角に戦ったと記憶している。

 まあそんなこんなのイングランドファンとしては今回の初戦の感想。とにかく強い、前からプレッシャーをかけてくるイランをものともしないでほぼ一方的にポールポゼッション。さらに左右のMF、サカとスターリングの動きだしの良さ。セントラルミッドフィルダーの19歳ジュード・ベリンガムの動きだしの良さ。とにかく攻撃が多彩。さらにゲームを前線でコントロールするハリー・ケインの存在感。

 得点もトントンと入る。こんなに強いイングランドを観るのは久々かもしれない。まあぶっちゃけのところイランの守備がザルなところもあるのだが。

 個人的にはマンチェスター・シティで10番背負うジャック・グリーリッシュに注目していたのだが、後半になって交代出場。左サイドではあまりボール回ってこず、中盤から後方に下がってボール受けに来たりと、ちょっとこのチームではフィットしてないのかなと思うところがある。交代したスターリングの出来が良かっただけにちょっと期待外れな部分も。まあそれでもきちんと決めるところでは決めるのだから、タレントであることは間違いないと思った。

 得点はベリンガム1点、サカ2点、スターリングはスーパーゴールで1点、交代してほぼファーストタッチでゴールしたラシュフォードf1点、さらにグリーリッシュ1点と合計6点はちょっと出来すぎかもしれない。

 それに対して守備はというと前半は破綻なくと思っていたら、簡単にパス通されて1点謙譲。大量得点でちょっと緊張感なくなったのかと思うもこの1点で終わっていればよかったのだが、最終盤でやらずもがなのPKを与える詰めの甘さ。若干、守備には不安が残ったかな。

 今後はアメリカとウェールズの二試合が待っているが、多分グループBは間違いなく突破するだろう。しかし決勝トーナメントに入ってから強豪国と闘うとなると、今の勢いのままでいけるかどうか。比較的若いチームなので、老獪な南米のチームあたりにやられる可能性もあるかもしれない。

 まずはともあれワールドカップは始まったばかり。しばらくは寝不足になること必須かもしれない。

キーボード入力の矯正

 通信教育のノートをとったり、レポートを書いたりしていてふと思ったのだが、自分のキーボード入力は右手がかなり自己流のようで、Pのキーを薬指で押している。さらにエンターキーも薬指だで右手の小指はほとんど使っていない。一般的にはどうなのかと調べるとPもエンターキーも小指を使うことになっている。

 左手はというときちんとQのキーもAのキーも小指を使っているのに、なんで右手は小指がダメなのか。これはだいぶ以前からずっとそんな気がする。

 もともと自分は高校時代に英文タイプをやっていて、いちおう英文タイプ検定も2級くらいは持っていた。なので世の中でワープロが出回り始めた頃でもすぐにブラインドタッチが出来るようになっていたと思う。

 最初にワープロを手に入れたのが多分26~7くらいの頃だから、かれこれ40年前のことか。なのでその後のワープロからパソコンへの以降にも対応しているし、どの職場でもブラインドタッチでガンガン叩いていたように思うのだが、ひょっとしたらその頃からPのキーやエンターキーは薬指を使っていたかもしれない。

 というのはPはともかくとして、エンターキーは使用頻度が高い。そういうキーはある程度力を入れて打刻するほうがスピード的にも理にかなっていたのではないかと、勝手に思っていたりもする。

 もともと英文タイプライターのキーボード配列はある種使用頻度順になっている。英文的には、多分人差し指で打刻する左のRTFGVB、右のYUHJNMが一番使用頻度が高い。改行はキャリッジリターレバーを右手で払うようにする。

 なので日本ローマ字入力の場合で使用頻度が高いAが小指というのは、機能的にはあり得ないし、同じようにエンターキーも小指というの実はおかしいのではないかと思ったりもするのだ。

 それでも英文タイプである程度ホームポジションとかを身体で覚えた部分もあるので、左手はほぼマニュアル通りにキーを打刻できる。でも右手はというと、スピードを優先するうちに小指ではなく薬指を使うようになって今に至るみたいなことなんだと思う。

 とはいえ小指を使わないのも微妙だし、なんとなくブラインドでの入力でミスが出ることが多い。昔からスピードは早いがミスタイプも多い方だったのだが、最近は歳のせいかミスタッチも増えている。

 タイプについていろいろ検索していると、ブラインドタッチの基本はホームポジションと正しい指使いというのは、どのサイトでも出てくる。さらにはエンターキーを小指で使う人間と薬指で使う人間では、長いキャリアの中で大きな差が出るとか、薬指をを使う人間は打刻音が煩くて、外でパソコン使用の場合迷惑だのというのまである。

 そこまで言うならちょっと試しに矯正してみようかと、最近は出来るだけ小指でエンターキーを試している。もちろんPのキーもだ。するとどうだ、少なくともスピードはえらく落ちる。さらにミスタッチも増えている。右手小指の腱がつりそうになる。いいことはなにもない。

 やっぱり還暦を遠に過ぎてのキー入力の矯正はかなり無理があるみたいだ。それでも出来るだけ、出来るだけ意識してエンターキーの小指押しを続けている。でも文章を考えながら打っていると、小指を使うことに意識を集中させると、思考の整理がとまりリズムも狂ってくる。なのでいつのまにか薬指に戻ってしまう。

 なので教科書などの文章を丸写しするときなどは出来るだけ小指でエンタキーを意識づけているけど、それ以外は薬指みたいな感じでいる。それでもちょっとずつだが、しばらくは小指エンターキー、Pも小指でというのを続けてみるつもりだ。