河津七滝

 上原美術館の後、一路帰宅に向けて伊豆縦貫道に行く途中で寄った。

 道路に看板が出ていて、妻がここ前から行きたかったとこと言う。まあだいたいがテレビでタレントが来たとかそういうことなんだろは思う。

河津七滝のご案内

【河津七滝】火山が生み出した自然のアート!絶景温泉も見逃せない|IZU HACK

 国道414号で有料道路の縦貫道までの山道を通っていくと、ループ橋の少し手前で看板がありそのまま行くと滝の入り口付近に来る。まず町営の無料駐車場に車を停めてみたのだが、そこからどう行くと滝に出るのかがわからない。

 しかたなく妻を車に残して一人で少し歩くと土産物屋が数件あり、どうもそこが滝の入り口らしい。店の前に駐車場があるので、何か買えばしばらく駐車してもいいかと聞くと、まあウィークデイの昼下がり、「どうぞ、どうぞ」という返事。それでまた歩いて町営駐車場に戻ると、妻は車を出て歩くモードになっているので、車で少し移動するよと告げる。

 その土産物屋(出会茶屋)は食事もやっているので、3時近くになっていたけれどまだ昼飯食べていなかったのでそこの名物的なものを食べることにする。食べたのは自分が猪汁とワサビ丼、妻はとろろ蕎麦わさび付。とろろ蕎麦のほうは鮫皮おろしと生わさびがついている。妻は片麻痺なんで当然自分がすることになる。鮫皮おろしでわさびをするなんて何年ぶりのことだろう。多分、覚えていないくらい昔のことだ。

 自分の食べた猪汁はまあなんていうか、具沢山の豚汁の猪バージョン。夏向きの食べ物ではないがまあご当地ものだし、食べるとけっこう美味しかった。そしてわさび丼はというと、あたたかいご飯の上に山盛りのおかかが載っていて、真ん中にすりおろしたわさびがあるだけのシンプルなもの。まあワサビ載せねこまんまというやつだ。これもシンプルだけどけっこう美味い。というかねこまんまがマズイという人は多分世の中にはいないのではないかと思う。

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出合茶屋 - 河津町その他/定食・食堂 [食べログ]

 お店の人に滝のことを聞くと車椅子でも行ける遊歩道の先に一番有名な初景の滝と伊豆の踊子の像があり、観光バスで来る団体さんはだいたいはそこで記念撮影撮って帰るというパターンなんだとか。まあ車椅子で行けるというのは有難いが、途中緩やか下りが一か所、あとは登りが割と続く。緩やかな登りというのも車椅子押しているとジワジワくる。

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 そして着いたのが初景の滝。

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 しかしこの伊豆の踊り子像は誰がモデルなんだろうか。

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 これまでに『伊豆の踊り子』は6度映画化されている。踊り子役は田中絹代美空ひばり、鰐淵晴子、吉永小百合、内藤洋子、山口百恵が演じている。それぞれその時代を代表する美少女女優だった。そう美空ひばりも十代の頃は歌の上手いアイドルだったのである。

 どの女優の踊り子を想起するかは年代によるのではないかと思うが一般的には吉永小百合山口百恵ということになるのかもしれない。二人が昭和のある時期を代表する美少女女優=歌手、国民的アイドルだったからか。還暦過ぎの自分の年代だとさすがに吉永小百合の頃(1963年)だと小学生2年生くらいであまり印象にない。その4年後の内藤洋子はけっこう覚えている。

 そして山口百恵はというと高2か高3くらいなんだが、あんまり覚えていなかったりする。なんのことはない、自分が例の中三トリオだと桜田淳子が贔屓だったからということが一番の理由かもしれず、さらにいえば多分その頃だとテレビで放映された栗田ひろみ版(1973年)の方をよく覚えていたりとか。

 そしてこの像だけど、やっぱりなんとなく山口百恵似かなと思ったりもする。そして学生さんはやっぱり三浦友和か。

 初景の滝を見て遊歩道を折り返して滝の入り口に戻ると5時近くになっていた。ちょっと調べると七滝で一番大きな大滝は滝の入り口から少し戻ったところで脇道に入ると遊歩道があるらしいのだが、時間の関係もあり車に戻りループ橋をぐるりと登って帰ることにした。

上原美術館仏教館と達磨大師堂

 近代館の後で隣接する仏教館に入るといきなり入り口にあるのがこれ。

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 そして横長のスペースの壁面はすべて仏像に覆いつくされている。

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 これが永平寺76世貫首・泰慧王禅師から上原夫妻が引き取ったという約130体の仏像の全貌である。ちょっと凄いというか壮観でもある。近代館の名画にもひけをとらないというか、質量ともにそれを上回るものさえあるのではないかと思った。もっとも自分は仏像についてはまったくの門外漢なのでこれ以上のコメントはできない。

 しかし下田の山の中になぜかしらこうした美術館があり、そこではさしずめミニマムな西美とトーハクが並立しているような趣なのである。やはりというか、上原正吉・小枝夫妻と子の上原昭二及び大正製薬恐るべしという感がある。

 さすがに下田という土地だと箱根のポーラ美術館などのように日帰りで気軽に行くという訳にもいかないけれど、上原美術館は今後も足を運びたいと思っている。それだけの価値ある美術館だと思う。

 その後、美術館の入り口付近から坂を少し登ったところにある達磨大師堂にも足を運んだ。大師堂には小さな階段を登るのだが、そこからは上原美術館の全体も確認でき、改めてその敷地の広さなども目にすることができた。

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上原美術館『陰翳礼賛』

 上原美術館、ここも以前から行ってみたいところだった。

上原美術館 伊豆下田の近代絵画・仏像美術館

 ルノワール、モネ、ルドンらの作品を多数所蔵しているということで、単なる観光地のプチ美術館とは趣が異なる。なぜ下田の地にこのような美術館があるかというと、概要としてはこういうことらしい。

概要 | 上原美術館

 上原正吉、若い人にはまったく知らない名前だろうが、自分らの年代だとこの名前によく覚えている。大正製薬の社長・会長さんですね。毎年、高額納税者として発表される大金持ち、たしか国会議員、自民党参議院議員で当選を重ねられた人だ。でも、この人は埼玉が出身だったはず。でもって、もう少し調べるとこんな記事があった。

ミュージアムレポート | e-THEORiA.com

 

上原仏教美術館(現、上原美術館 仏教館)の創設は1983年5月にさかのぼる。大正製薬の当時の名誉会長・上原正吉と小枝夫人(のち名誉会長)が、永平寺の第76世貫首、秦慧玉禅師から約130体もの仏像を引き取って安置する施設を作ってくれないかと相談されたことがきっかけだった。現在、上原美術館 仏教館の仏像ギャラリーに展示されている仏像群である。

上原正吉名誉会長と小枝夫人はそれに応えて、当初、仏像を安置するためのお堂を建立したが、仏像を拝観した人の中から「これだけの仏像があるのだから公開してはどうか」との声が寄せられたこともあり、1983年5月、上原仏教美術館を開設したのである。

時代が進み、2000年3月、上原正吉・小枝の後を継いだ上原昭二名誉会長が長年にわたり収集、愛蔵してきた近代絵画のコレクションの寄付を受けて、上原仏教美術館の隣に上原近代美術館(現、上原美術館 近代館)が開設された。ここには、モネ、ルノワールマティスピカソなどの西洋絵画や、梅原龍三郎、須田国太郎、横山大観小林古径などの日本絵画が展示されている。

一方、上原仏教美術館はその後、十一面観世音菩薩立像や阿弥陀如来立像、さらには古写経など貴重な収蔵品が増えたことで、展示環境を改善することが大きな課題となった。企画展を行う際に、他館から国宝や重要文化財を借りて展示するためにも、保存・展示する厳しい基準をクリアすることが求められるようになった。

そのような折、開館30周年を記念して開催した「薬師如来展」は非常に多くの来館者があり、展示室が人であふれかえるような状況だった。そこで、展示環境の改善と美術館自体の増改築を併せた全面リニューアルが決断されたのである。また、この機会に、従来の上原仏教美術館上原近代美術館が統合されて上原美術館と改まり、それぞれが仏教館、近代館として位置づけられた。

こうして2017年11月3日、上原美術館 仏教館がリニューアルオープンされるに至った。現、上原美術館 近代館)が開設された。ここには、モネ、ルノワールマティスピカソなどの西洋絵画や、梅原龍三郎、須田国太郎、横山大観小林古径などの日本絵画が展示されている。

  もともと上原正吉とその妻小枝が永平寺から仏体を引き取り、これを安置し公開するための施設として1983年に仏教館を開設した。下田を選んだ理由は妻小枝の出身地だったからだ。さらにいえば現在の美術館がある場所には下田達磨大師が隣接しており、ここがおそらく上田小枝氏の菩提寺になっているのではないかと思われる。

 美術館の後でここにも立ち寄ったが、その寄進一覧には早々たる著名人の名があった。多分、これも上原正吉・小枝と息子である昭二氏の繋がりではないかなと適当に想像している。

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 さらに上原正吉の後を継いだ上原昭二が近代美術のコレクターであったため、その寄付を受けて近代美術館が開設され、それらが2017年に仏教館、近代館としてリニューアルされたということである。

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 そして現在開催されているのが『陰翳礼賛』展である。

いまの展覧会 | 上原美術館

 すこし長いが開催概要をそのまま引用する。

作家・谷崎潤一郎は1933 (昭和8)年、随筆『陰翳礼讃いんえいらいさん』を著しました。そこでは近代化の波に覆われつつある日本が直面する光と影についての葛藤と考察が綴られています。それから約九十年後の現在、日常を取り巻く光はさらに明るさを増し、影はその存在を潜めています。しかし、身の廻りを見渡すと至るところに影の存在があることに気づきます。身近なうつわやペン、そして自分の手を改めて見つめると光の傍に影があらわれます。そして、その影に気づけば、ものの存在が今までとは異なったかたちであらわれてきます。

「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に沿うように陰翳を利用するに至った」。谷崎は日本における美のあり方について、そう語っています。例えば、黄金が日本家屋の暗がりで放つ美しさを次のように述べています。「庭の明かりの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している」、「私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う」。金箔が施された仏像は、もともとお堂や厨子ずしの暗がりで拝まれていました。そうした仏像は陰翳の中でこそ本来の姿があらわれてくるのかもしれません。

絵画もまた、もともと明るい壁に飾るものではなく、薄暗い建物内で鑑賞されていました。特に日本家屋では床の間で鑑賞する掛軸が「陰翳に深みを添える」ものとして尊ばれてきました。そうした歴史的背景を持つ日本画には、暗い建築空間に広がるような繊細な余白の表現が殊のほか美しくあらわされています。

このような陰翳の感覚を持つ日本人にとって、西洋の油彩画を描くことはひとつの新たな挑戦でした。京都帝国大学で西洋の美学美術史を学んだ須田国太郎もそうした画家のひとりです。須田は1919 (大正8)年にスペインへ渡り、プラド美術館などで伝統絵画の陰影表現を学びました。帰国後、京都にある日本家屋の四畳半の居間で制作し続けた須田は、日本独特の深い陰翳をまとった油彩画を生み出していきます。

本展では上原コレクションの仏像や絵画から陰翳の中に潜む美の魅力に注目します。闇を柔らかく照り返すような十一面観世音菩薩像や阿弥陀如来像をはじめ、日本の物語に潜む闇を余白に描き出した小林古径日本画、油彩画の影に独特の深い存在感をあらわした須田国太郎らの絵画などをご紹介します。また、谷崎潤一郎が旧蔵した小林古径杪秋びょうしゅう》も展示します。現代の陰翳の中に浮かび上がるジャンルを越えた美の世界をお楽しみいただければ幸いです。

                                 (HPより)

  日本の近代化のなかで光と影の問題を取り上げ、光=明るさを増す社会において、影の部分の意義を改めて問うたのが谷崎の問題意識だったのかもしれない。そして日本家屋の薄暗さの中で鑑賞された仏教美術に本来の日本的な美があるという視点から、かっての薄暗い日本家屋の環境を再現し、その中での美の鑑賞を追体験するというのが企画コンセプトのようだ。

 そのため展示室は暗く、その中でロウソクや行灯をイメージしたかのような照明が施されている。本企画展には特に図録等は用意されていないが、30頁ほどの小冊子が無料で用意されている。その巻末に照明協力:株式会社灯工舎とある。ここは美術館のライティングを行っている会社のようだ。

株式会社 灯工舎 | 灯工舎は 光のたくみ(=マイスター)が集う会社です

 展示室の雰囲気はこんな感じである。

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 この薄暗がりの中で観る美術品というコンセプトは、あえて谷崎の『陰翳礼賛』にこだわる必要もなく、実は近代以前の美術品についていえば美術鑑賞の普遍的なテーマなのかもしれないと、漠然と思ったりもする。というのは近代以前、西洋にしろ東洋にしろ夜の生活は暗がりの中で生活していたのだ。照明といえば、ロウソクやランプ、行灯などが当たり前だったのである。

 そのため近代以前、例えばロマン主義や古典派、新古典派ロココバロック、さらに遡ってルネサンス期、人々は暗い室内でほのかな明かりによって美術品を見ることが普通だった訳だ。夜の画家といわれる17世紀の画家ラ=トゥールはロウソクの光に浮き上がる人物を描いた作品が多いが、まさに夜の室内とはあの世界だったのだろうと想像される。そのため壁に架けられた絵画を燭台を掲げて見たとしても、そこには光にぼんらりと映る影のような絵だったのではないかということだ。

 そういう意味ではこの企画展は、西洋絵画においてこそ相応しいのかもしれない。例えば西洋美術館の一室を今回の『陰翳礼賛』のような照明によって、15世紀から17世紀にかけての作品を展示するというのもありかもしれない。以前、山梨県立美術館で開かれた「夜の画家たち –蝋燭の光とテネブリスム-」も実はこうした照明が相応しかったのかもしれない。もっともこの薄暗がりの環境は、明るい照明に慣れた現代人には不向きかもしれないし、広い室内の照明すべてを絞った場合、ちょっとした事故が多発するかもしれない。

 かっての日本民家の薄暗がりの再現とその環境下での美術鑑賞という体験は、なかなかに興味深い部分もあり、そのためにでけでもこの地を訪れる価値はあるのかもしれない。

 ここの作品では、近代美術については上原昭二のコレクションが中心となるのだろうが、粒の揃った名品、小品が多数あり、ここのところ浮世絵版画や日本画の鑑賞が続いていたので、なんとなく嬉しいものがあった。

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 やはりシスレーである。テーマや画風が変わっていく画家たちの中で首尾一貫して風景画、光に移ろう風景画に取り組んだのがシスレーである。印象派を代表する画家というとモネ、ルノワール、後期のゴッホらをあげる場合が多いが、戸外制作、筆触分割による光に移ろう風景を描くという点でいえば、最も印象派らしい画家はシスレーじゃないかと思ったりもする。

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『秋風景』(シスレー

 

 ピエール・ボナールの1925年の作品。この作品ではどことなく印象派に回帰したような雰囲気が漂っている。

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『ノルマンディー風景』(ボナール)

 1882年、ポール・シニャック19歳の時の作品である。点描画法以前の若々しい作品だが、その色彩感覚はのちのシニャックを彷彿とさせるものがある。ここからあのやや大きめの点描による独特な絵が生まれたかと思うと、ちょっとワクワクさせられる。

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『洗濯船』(シニャック

 モネが1895年に義理の息子を訪ねてノルウェーに滞在した時の作品。コルサース岳はさほど高い山ではないようだが、この絵の描かれ方には浮世絵の富士のような趣があり、モネが浮世絵を意識していたという指摘もある。

 

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『雪中の家とコルサース岳』(モネ)

 

 ルノワールらしからぬというか、ルノワール印象派の画風で描いた風景画という感じで、多分これを初期のモネの作品と言われたら信じてしまいそうである。ルノワールは若い頃にモネと共同で制作を行っていた時期もあるという。1873年印象派の若き画家たちが活躍していた時代の作品。

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『アルジャントゥイユの橋』(ルノワール

 

 マティスの風景画というのも実はあまり観たことがない。彼は人物あるいは室内風景を描く人というイメージがある。エトルタはノルマンディーにあるアーチ上のアヴァルの門を含む断崖が有名な海岸である。この奇岩ともいうべき景色は当時から有名なようで、クールベブーダン、モネらも描いていることで有名だ。マティスも先人たちに倣っているのかもしれないが、断崖というよりも何か象を想起させてしまう。

 どうでもいいことだが、ノルマンディーの海岸ということでいえば、この地も連合軍が上陸して激しい戦闘が行われたノルマンディー上陸作戦、映画『史上最大の作戦ーロンゲスト・ディ』の舞台となったのだろうか。もしここでも激しい戦闘が行われていたら、連合軍艦船の砲撃等でこの奇観が損なわれなくて良かったねと思ったりもする。

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『エトルタの断崖』(マティス

 

下田観光

 今回の旅は基本美術館周遊目的なのだけど、1日くらいは普通に観光しないと妻のお出かけ欲求に応えられないということもあり、2泊の旅行中の1日を下田周遊にした。

 まず行ってみたのは寝姿山。

しもだ風魅 寝姿山(女性の寝ている姿に似てることからこの名前がついたそうです。) | 下田市

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                    「画像提供:下田市

 ここには下田駅から1~2分の下田ロープウェイに乗っていく。

下田ロープウェイ 寝姿山 ロープウェイ

 最初に案内されたのは山頂駅からの遊歩道は階段が続くので車椅子での利用は出来ないとのこと。また山頂駅には車椅子を置いておくスペースもないというので、売店の脇に車椅子を置いていくことが条件になるのだとか。ちなみにウィークデイで空いていたので売店脇に置くことが出来たけど、通常は車椅子やベビーカーは有料保管になるという。

 ロープウェイ上からの見下ろすと下田駅周辺はこんな感じ。

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 そんでもって山頂からの眺めはこう。

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 遊歩道は片側に手摺がある階段。妻にはちょっと難儀な感じであるか。

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 頂上付近には愛染堂というお堂がある。

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 天気もよく景色もきれいだった。見どころも限られているので、普通の人だとたぶん滞在時間は30分前後か。こっちは妻の身体のこともあり1時間ちょっといたように思う。

 その後はすぐロープウェイを下り、駅のとなりにあるモスバーガーで早目の昼食をとる。位置関係でいうとロープウェイ駅、回転寿司とモスバーガーうどん屋というファストフード系のお店が三店並んでいて、その隣に下田市駅近くで多分一番大きい店舗らしい東急ストアがある。帰りに東急ストアにもちょっと立ち寄ったけど、まあ普通のスーパーでした(当たり前か)。

 

 それから向かったのは海沿いにある道の駅「開国下田みなと」。

道の駅開国下田みなと

 海産物関係のお土産物屋があり、2階にはハーバーミュージアムとかじきミュージアムがある。実は前日の4時過ぎにここには立ち寄っているのだけど、いずれのミュージアムもとくにどうということのない観光地のそういうところでした。

 お土産物もまだ旅行はまだ1日あるのと、下田というと目玉は金目鯛の干物くらいということもありとくに物色もせず。すぐに道の駅のとなりにある下田港遊覧船乗り場へ行くことにする。

伊豆クルーズ(加森観光グループ) 黒船来航の地"下田"から、クルージング。

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 黒船を模した遊覧船で下田港を一周する。船の名前もペリーの乗っていた旗艦船サスケハナ号となっていて、乗船時間はだいたい20分くらい。空いていたので船尾にいたのだが、天気も良くて景色もそこそこ美しい。なのだが最初にカモメのエサ用カッパエビセンを買ってエサヤリばかりしていたので、実はあんまり景色らしい景色見てない。

 カモメはなかなか凛々しく、しかもすばやく放ったエビセンをキャッチする。こういうのって楽しいというか、つい歳を忘れてはしゃいでしまう。

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 スマホの望遠にしては割とよく撮れたように思う。昔々『カモメのジョナサン』という映画があったのを思い出した。あれってほぼカモメが飛んでいるだけの映画だったが割とヒットしたように思う。そもそも思弁的なカモメを主人公にした小説が原作だったか。確か五木寛之が翻訳してベストセラーになったのを覚えている。

 さらにカモメだけでなくなぜか鳶もエサに群がってくるのがちょっと珍しかった。

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 続いて行ったのは下田海中水族館

伊豆下田 下田海中水族館オフィシャルサイト

下田海中水族館 - Wikipedia

 入り口付近には屋外水槽があり、そこにはなぜかウミガメさんが元気に泳いでいる。至近で観るウミガメもなかなかオツである。手を入れると咬みつかれるとの注意書きもある大らかさが楽しい。何人かかまれて大泣きした子ども(大人)とかいるのではないかと想像する。

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 天然の入り江の中央に浮かぶのは浮遊円形水族館でアクアドームペリー号という船である。入り口から中央ドーム、さらにぺんぎん宿舎やアシカ館へは同じく浮きがついた浮遊回廊を通っていく。この回廊が潮の満ち干で高低ができる。行ったときはちょうど干潮だったようで入り口やドーム付近からはかなり急こう配になるので、車椅子を押しているとけっこうシンドかったりする。途中で何度かスタッフさんに手伝ってもらった。段差は前輪を上げないと超えられないのだけど、そこに急傾斜があると正直きつかった。

 イルカショーやペンギンショーはなかなか楽しい。

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 ウィークデイの昼下がりで、実は観客もまばら。密はまったくなく、逆にこの入場客で大丈夫かこの施設とちょっと心配になるような雰囲気。ショーもフレンドリーだが質は高く、最近行った鳥羽水族館あたりと比べても遜色ないくらいである。

 

 その他、お約束の水槽のクラゲたち。

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 帰り際、ドームから入り口に戻る途中の脇にあるイケスみたいなところでイルカがやる気なさげにお見送りをしてくれたが、時間も4時近くで完全にオフ状態にも見える。

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MOA美術館『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー

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 MOA美術館に来るのは4度目くらいだろうか。目玉ともいうべき尾形光琳の『紅白梅図』は最初に一度観たきりである。あれはたしか毎年春先に一度展示するとあとから聞いたことがある。とはいえここは国宝、重文作品を多数所蔵しているので来るのが楽しみなところでもある。

 今回は企画展『没後80年 竹内栖鳳ー躍動する生命ー』。

MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART » 没後80年 竹内栖鳳 -躍動する生命-

 東の大観、西の栖鳳と称される京都画壇総帥の回顧展ということで楽しみにしていたもの。出品リストをみるとMOA美術館、京都市京セラ美術館、湯河原町立美術館三館が所蔵している作品が中心のようだ。湯河原美術館というのがちょっと意外ではあったが、栖鳳は晩年湯河原の旅館天野屋に寄宿し、その敷地内にアトリエを建てたという。そういう縁もあり湯河原町は多数の栖鳳作品を所蔵しているということらしい。

竹内栖鳳についてのメモ

1864年京都の川魚料理屋に生まれる。後年魚の絵などにその出自も多少影響しているかもしれない。

 ・1877年四条派土田英林に絵を習い、1881年円山四条派の幸野楳嶺に師事し棲鳳の雅号を得る。

・23歳で結婚、当初は高島屋で着物の絵付、デザインの仕事で生活の糧を得ていた。

・1900年パリ万博を視察。西洋絵画、特にターナーやコローの影響を受ける。帰国後雅号を栖鳳に改める。

・弟子をとらなかった横山大観とは異なり、積極的に後進の指導にあたり、土田麦僊、小野竹喬、西村五雲、橋本関雪上村松園、伊藤小坡らを育てた。

・師匠幸野楳嶺の「画家にとっての写生帖は武士の帯刀である」という教えを勤行し、日々写生に勤めた。

・動物画を得意とし、自宅に猿、兎、家鴨を飼い写生に勤めた。「動物を描けば、その匂いまで表現できる」と評された。

竹内栖鳳 - Wikipedia

  まず最初に展示されるのは六曲一双の大作『夏鹿』。

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『夏鹿』(竹内栖鳳) MOA美術館所蔵

 左隻の飛び跳ねる一頭の鹿は動を、右隻の群れなす鹿たちは静を表しているのだそうな。よくみるとその毛並み、特に尾の描写などに栖鳳の筆致がよくでているように思う。これ一作だけでもこの企画展に来る価値がある。

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 その他の六曲一双の大作屏風絵では『喜雀』がある。

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『喜雀』(竹内栖鳳) 町立湯河原美術館所蔵

 竹内栖鳳は小動物や小禽を好み、特に雀を好んだという。栖鳳は、「雀を描くことはなかなか難しい。雀は他の鳥と違って『チュ!』と鳴く。画家はやはりその『チュ!』を描くことを心掛けねばならない。絵というものは矢張り単なる射実では到底満足できない」と語ったという。

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 どうだろう、その「チュ!」は伝わってくるだろうか。この絵を観ているとたしかに、「チュ!」「チュ!」という鳴き声が聞こえてくるような気がするが。

 

 

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『冬瓜』(竹内栖鳳) 町立湯河原美術館
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『老松蒼鷹』(竹内栖鳳) MOA美術館所蔵

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『山海珍賞』(竹内栖鳳) 町立湯河原美術館所蔵

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『海幸』(竹内栖鳳) MOA美術館所蔵

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『宇佐機』(竹内栖鳳) 町立湯河原美術館所蔵

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『熊』(竹内栖鳳) 京都市美術館所蔵

  会期は7月27日まで。熱海は土石流災害のため道路も分断されており、アクセスも容易ではない。被災された方々は美術どころではないというところだろう。とはいえMOA美術館は当初から被災された方を受け入れたり、救援のための消防車両のために駐車場を提供し、前線基地としての役割を担っている。現に美術館に向かう間でも第二だか第三駐車場に10数台の消防車両が停まっているのも目撃した。

 そんななか、MOA美術館では熱海市民には入場無料招待も実施しているという。

熱海市民無料招待のお知らせ | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART

 竹内栖鳳展にも多くの関係者の努力が払われていることを思うと、コロナ禍とはいえ県外からも興味のある方にはぜひ観に行って欲しい企画展だとは思った。箱根新道からの山越えで霧や雨などけっこうハードな道程だったが、行けて良かったと心から思っている。

箱根から熱海へ

 伊豆旅行に行くことにした。

 夏季にだけ契約施設として泊まることができる下田のホテルの部屋がとれたからだ。ここは現役時代は抽選で毎年申し込んでも一度も当たった試しがなかった。ウィークディで夏休みの前ということでたまたま空いていた。コロナ禍こういう小旅行にどこか心苦しい思いもあるが、移動はすべて車、ウィークデイのため美術館にしろ観光地にしろ人は少なく、家の近所で買い物をするよりもはるかに密を避けられると、適当に言い訳している。

 伊豆の美術館では熱海のMOA美術館、伊東の池田20世紀美術館などが有名である。今回は下田にあるという上原美術館に行くつもりだ。MOAについては先日の土石流災害のため、熱海の道路が分断されている。少なくとも湯河原から熱海への海岸線の道路は通行止めになっているので難しいと思っていた。MOA美術館のHPでは営業再開しているとのことだが、難しいかなと思ったが、ナビで検索すると山沿いの道を通って行けるようだったので、ままよと行ってみることにした。

 ナビの案内では圏央道、東名、厚木小田原道路を通ってから箱根新道に入り、山沿いから熱海に下るというもので到着時刻は9時半頃という。高速道路は平日ということもあり順調に流れていたが、箱根新道に入り箱根熱海峠線へと山道を進む頃になるといきなり霧に覆われる。それも前方視界10メートルあるかないかというかなり酷い状態で正直ビビる。ほとんど車は通らないのだが、たまに地元車とかが対向車線から来るとけっこうなスピードを出していたりする。

 さらに多分熱海梅ラインに入ったあたりからだろうか、物凄い雨が降ってくる。天気予報では確か曇りのはずだったのだが、山の天気はなんとかんとかというところだろうか。途中から道路には片側の山から流れてくる水で川みたいな状態になっている。こんな雨が一日中降ればそれは土石流も起きるだろうと思ったりもした。

 幸いだいぶ降りてきてじょじょに別荘だか旅館だか、建物が少しずつ増えてくると雨もだいぶ小ぶりになった。しかし坂道がきつい。熱海は町全体が崖に家が点在するようなイメージがあるがそれを実感する。

 以前、岩波茂雄の別荘だった惜礫荘を見に行ったことがある。今は佐伯泰英が買い取っているという。知人の案内で別荘の前のところで佐伯氏がちょうど出かけるところだとかで中に入ることはできなかったのだが。あの一帯の急坂にはえらく難儀した。2台の車で行ったのだが坂の途中にカーブが何箇所かあり、知人が運転する車は切り返してもうまく登ることができないで何度か切り返し、最後は同乗者が後ろから押して登るみたいなことになった。自分はなんとか登ることができたがタイヤが空回りして、道路に焦げ付いたようなタイヤ痕が残った。

 自分の中で熱海の市街地はヤバいというトラウマがある。とはいえMOA美術館には何度か行っているので、あの周囲はそれほどキツい坂はなかったという印象がある。美術館に近づくと消防車両が増えてくる。駐車場の一つには消防車や警察車両が10台近く止まっていた。そうなのだ、MOA美術館は当初、被災者が避難していたと報道があった。さらに消防等が駐車場を対策拠点として使用しているということも何かで見た記憶がある。

 実際に消防車両が止まっているのを見ながら進むと館内に一番近い場所に身障者用の駐車場があり係の人に案内されて止める。MOA美術館自体は9時から通常営業しており、普通に入場できた。

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町田市立国際版画美術館『浮世絵風景画』

 府中市美術館、太田記念美術館と浮世絵版画を続けて観て、その流れで昨日町田市立国際版画美術館に行って来た。

町田市立国際版画美術館

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 ここは名前は知っていたけれど行くのは初めて。埼玉からは車で1時間半くらい。ナビの案内の通りに関越自動車道で練馬にでて環八に入り用賀から東名という道筋。あとで考えると圏央道で相模原に出ても良かったのではないかと思ったもする。

 いざ着くと美術館に隣接した駐車場は満杯で待つ車も数台。美術館から200メートルくらい下ったところに舗装されていない第二駐車場というのがある。町田駅から美術館にシャトルバスが出ているのだが、その運転手に聞くとこの美術館には特に身障者用の駐車スペースは用意されていないという。ホームページにはあるみたいな記載があるのだけど。

 そこで第二駐車場に着くとそこも満車状態。少しすると1台出て来たのでようやく止めることが出来た。しかしいくら久々よく晴れた土曜日とはいえ、こんなに美術館混むのかと思ったのだが、その答えはすぐにわかった。やや登りの道を車椅子を押して美術館前まで行くと、その前には子どもたちが遊んでいるのが目に入って来た。

 美術館は市立芹が谷公園に隣接していて、その公園は親水公園と大きな広場があり、子どもを遊ばせるのにちょうど良いところなのだ。ようするに満杯の駐車場はみんな子どもを遊ばせるために来た子育て世代のパパさん、ママさんたちなのだ。よく見ると美術館に前にある親水スペースでは小さな子どもたちが楽しそうにジャブジャブさせている。こりゃしょうがないねと妙に納得した。

芹ヶ谷公園の基本情報/町田市ホームページ

 美術館の入り口にも水着での入場禁止とか、トイレでのお着換え禁止の張り紙があった。まあびしょびしょになった子どもの着替えをトイレでというのも、まあ気持ちわからないでもない。けっこういるんでしょうね、そういう親御さんたち。

 

 美術館のお目当ては11日から始まった企画展『浮世絵風景画展』である。

浮世絵風景画―広重・清親・巴水 三世代の眼― | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館

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開催概要

江戸の歌川広重(1797-1858)、明治の小林清親1847-1915)、そして大正から昭和の川瀬巴水(1883-1957)。各時代に優れた風景版画を制作した三人の絵師・画家を紹介します。

江戸後期の浮世絵界では、旅や名所に対する関心の高まりを背景に、「風景」が「美人」「役者」と並ぶ人気ジャンルとして大きく花開きました。その第一人者である広重は、四季豊かなにほんの風土を数多くの「名所絵」に描き、後世の絵師たちに影響を与えてゆきます。その約20年後の明治初期には、清親が「光線画」と呼ばれる風景版画を発表。文明開化後の東京を繊細な光と影で表し、名所絵に新たな表現をもたらしました。そして大正期、すでに浮世絵はその役目を終えますが、伝統木版画の技術をよみがえらせた「新版画」が登場します。巴水は、関東大震災前後の東京や旅先の風景を抒情的にとらえ、風景版画の系譜を継いでゆきました。

本展では、変わりゆく日本の風景を「三世代の眼」がどのようにみつめ表現してきたのか、その違いを対比しながら、時代を超えて響きあう風景観や抒情性に着目します。100年にわたる日本の風景を、旅するようにご堪能ください。

(図録より) 

  出品点数373点、前後期で全点展示替えを行うので約186点の展示となるようだ。そしてその見どころは以下の3点となっている。

① ありそうでなかった風景版画の巨匠3人のコラポーレーション

② 370点超の大ボリューム

③ 100年にわたる日本の原風景をタイムトラベル 

 一見して府中市美術館の『映えるNIPPON』とやや被る企画内容だが、もともとこの『浮世絵風景画』は2020年に企画されていたものが、コロナの影響に今年に変わったということで、時期が重なったのはコロナ禍の偶然なのかもしれない。またどちらにも広重、清親、巴水の同じ作品が出展されている。なんなら太田記念美術館にも同じ作品があったりもするが、これは版画という複製芸術だからこそということかもしれない。

 そして初日とはいえとにかく混んでいた。絵の前に列が並びなかなか進まない。こういう混んだ=賑わった美術館は久々である。これは町田市民にこの美術館が親しまれているためか、あるいは広重、清親、巴水の人気の高さなのか。ウィークデイと土曜日の違いとはいえ、府中市美術館は空いていて良かったなと思ったりもしたのだが、なんのことはない、初日は入場無料ということなのでその影響も大きかったのかもしれない。

 

 第1章は「江戸から東京へ-三世代の眼」となっている。ここでは同じ画題で広重、清親、巴水の作品を並列展示している。通常だとまず広重をバーン、続いて清親、そして巴水と画家=絵師ごとに作品を展開するのだが、そこを三人の作品を並列する。これがなかなか面白かった。

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『東都名所芝増上寺雪中ノ図』(歌川広重) 個人像

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『武蔵百景之内芝増上寺雪中』(小林清親) 株式会社渡邊目半美術画舗蔵

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東京二十景芝増上寺』(川瀬巴水) 町田市立国際美術館蔵

 ことこの雪中の芝増上寺に関しては川瀬巴水が素晴らしい。この作品は巴水の最も売れた絵でもあり、紅と白の取り合わせは「風景版画史のなかでも強いインパクトを放っている」と図録にもある。

 

 第2章「歌川広重-江戸の名所絵-」では広重の揃物『東海道五拾三次』、『東都名所』、『江都名所』、『江都勝景』、『名所江戸百景』などから主要な作品が展示されている。その中で興味深かったのが、2章3節で展開される「堅絵の新感覚」である。キャプションの解説をそのまま引用する。

江戸末期になると数十枚にも及ぶ錦絵揃物を、画帖や冊子にして売ることが流行する。保永堂版『東海道五拾参次之内』はその早い時期のものだが、嘉永年間(1848-54)以後その動きが加速する。本のように画帖・冊子化したときには堅判のほうが扱いやすいため、名所絵でも堅大判を採用するものが増えていった。嘉永6年(1853)から安政3年(1856)にかけて出版の広重の70枚揃の『六十余州名所図会』がその早いもので、『名所江戸百景』や『富士三十六景』でその流れは固まっていった。

水平方向の空間の広がりを表現するのには従来の横判が好都合だが、竪絵の採用にあわせて構図法にも新たな工夫が迫られることとなる。当初は名所図会風に風景を高い視点から見下ろして画面を埋めるものが多かったが、やがて近景の事物を画面一杯に拡大し、その向こうに水平視した風景を覗き見せる構図法へと移行していった。

視覚的にインパクトのあるこの構図法は、幕末から明治の名所絵にも積極的に取り入れられていくこととなった。

(図録83P)

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『名所江戸百景 深川万年橋』(歌川広重)  個人蔵

 なんのことはないこの特徴的な構図、手間にあるモチーフを極端にクローズアップさせる「近像型構図」は、画帖や冊子として出版したときに扱いやすい竪絵のために使われた技法だったというのだ。このへんは版画という複製芸術、しかも大量消費される出版物というメディアに依拠したものである。とはいえもともと絵、絵画は、買い手の要求に応じて発達してきたメディアでもあるのだから、浮世絵がその判型を活かすために進取の技法を取り入れていくというのは必然なのかもしれない。

 広重はより、消費者のニーズに沿って、より売れる作品を描くなかで、その売り方=判型にそって新たな技法を考案したということなのかもしれない。とはいえいったん普及化した技法は様々なアレンジが加えられる。「近像型構図」もその後は横判で取り入れられていき、遠近法のバリエーションの一つになっていったということなのだろう。

 

 3章では「小林清親-明治の光線画」として清親の多数の作品が展開される。清親は当初、江戸期の浮世絵に倣った作風の作品を描いていたが、じょじょに江戸から東京へと移りゆく街の気配を繊細な写実性と抒情性をあわせもつ「光線画」を発表していく。さらにキャリアの後半になると再び江戸浮世絵に回帰するような作品を描いていくという。その流れが展示される作品によって理解できる。

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『江戸ばしょり日本橋の景』-個人蔵   『両国花火』-渡邊木版美術画舗蔵

 そして4章は「川瀬巴水-大正・昭和の新版画」となる。川瀬巴水の作品はどれも美しく抒情性もあり興味深い作品ばかりである。ただし百数十点の広重、清親の作品を観てきていると、なんとなく「お腹一杯」というか食傷気味になってくる。そういう疲れた観客の目からすると、なんとなく通俗的とか、イラストっぽいねとか、そういうややネガティブな印象をもってしまう。

 180点強の展示ということでいえば、すでに広重、清親の二人で100点以上の作品を観てきているので、これはちょっと川瀬巴水には可哀そうだけど、少々ダレてしまう。一緒に観ていた妻も、「版画もいいんだけど、もうちょっと大きい絵みたいね」と言い出す始末だ。

 そうなのかもしれない、版画作品はどうしても小ぶりなものが多い。そして前述したように複製芸術品でもあり、かって大量に消費された愛好品でもあるのだ。なので多数観ているとどうしても同じような構図、絵柄、色合いのものが続くためじょじょに観る側の緊張は弛緩していく。暴論めいたことを言ってしまえば、ずっと絵葉書観続けていればそれは飽きるよなみたいな感じである。浮世絵好きな人には本当に申し訳ないのだけど、俄か美術愛好家は残念だけどこのへんが限界かもしれないなと、そんな感じにもなった。広重、清親、巴水には罪はない。たた観る側の緊張が続かないということ、あと同じ判型の風景画はせいぜい100点くらいの鑑賞がちょうどいいのかもしれないと思ったりもした。

 ここのところ八王子市夢美術館の北斎府中市美術館の広重、清親、巴水、太田記念美術館北斎、広重、清親と観てきて、ちょっとばかり浮世絵版画に食傷気味みたいなところもあるかなとは思ったりもする。こうなると大作の日本画、障壁画の類や洋画をすこしじっくりと観てみたいとか思ったりもする。

 少しの間、浮世絵版画はお休みするかな。とはいえ買ってきた図録を眺めているとそれはそれで心地よい時間が過ごすことは出来るのだけれど。