『マ・レイニーのブラックボトム』

 Netflixで『マ・レイニーのブラックボトム』を観た。

 Netflixの映画リストを見ていて気になる映画だったのだが、ちょっとどうかなと躊躇していた。たまたま今年のアカデミー賞のノミネート作品を調べていたら、この映画の主演二人が男優賞、女優賞にノミネートされていることを知り、観てみようかみたいなことになった。

 しかしNetflixのような配信サイトが制作した映画がアカデミー賞の常連になる時代がやってきているようで、この映画以外でも『Mank/マンク』が作品賞や主演男優賞にノミネートされている。

 この映画『マ・レイニーのブラックボトム』についてはウィキペディアや以下のサイトが詳しい。

マ・レイニーのブラックボトム (映画) - Wikipedia

間違いなしの神配信映画『マ・レイニーのブラックボトム』Netflix|シネマトゥデイ

 アカデミー賞主演男優賞、女優賞にノミネートされているのは、マ・レイニー役のヴィオラ・デイヴィスとレヴィー役のチャドウィック・ボーズマン。特にチャドウィック・ボーズマンは鬼気迫るような演技で、途中で自ら白人から受けた迫害を告白するシーンでは5分近い一人語りをしている。ちょっと冗長かとも思えたが、その迫真の演技には圧倒されたのだが、この映画は彼の遺作だという。

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 ポーズマンは昨年の8月に大腸がんで亡くなっている。この映画の撮影時には化学治療を受けながら演技を続けていたという。もし受賞となれば1976年の映画『ネットワーク』でアカデミー男優賞賞を受賞したピーター・フィンチ以来となるのかもしれない。

 実在のブルースシンガーであるマ・レイニー役を演じているのはヴィオラ・デイヴィス。彼女は演技派女優、性格俳優であり、すでにトニー賞、アカデミー助演女優賞などのキャリアがある。

 ストーリーは1920年代、南部でブルースシンガーとして人気を誇ったマ・レイニーがシカゴでレコーディングにのぞむ。そのバンドには自らバンドを作り大衆受けする音楽を作ろうとする野心的な若いトランペッター、レビーがいる。マ・レイニーはその人気から白人マネージャーにも我儘し放題で、レコーディングには遅れてくる、吃音のある甥をレコーディング参加させるよう無理強いをする。

 そのレコーディング風景を緊張感溢れる描写によって綴った映画なのだが、映画の後半でマ・レイニーは野心的で目立ちたがり屋のレビーを首にする。レビーは白人のレコードプロデューサーに取り入ろうとするが、けんもほろろに素気無くされ自暴自棄に陥れバンドのメンバーをナイフで殺傷する。

 典型的な黒人映画なのだが、その差別を受け迫害される姿は一元的ではなくきわめて複層化されている。マ・レイニーにはその人気から白人に対しても傲慢であるが、同時にバンド・メンバーの黒人に対して優越的な態度で常にマウントをとろうとする。才気あふれるトランペッターのレビーもまた、子どもの頃から白人に様々な迫害を受けているが、自らの野心のため白人に迎合し媚びへつらう。それを仲間の黒人に揶揄されると激高してナイフを振り回す。

 1982年に発表された舞台劇を元にした映画だということだが、それは一見してすぐにわかる。これってもろに舞台劇だなという感じだ。さらにいえば、映画的な工夫にいささか乏しい恨みがあり、これって別に映画じゃなくてもいいかもしれない思えてしまう部分がある。

 ストーリーは録音スタジオとバンドメンバーが待機する地下室の二つの空間だけで進行する一種の密室劇の様相にある。ただし役者の演技、とくにチャドウィック・ボーズマンの熱のある演技が他を圧倒しており、それに対して尊大な態度で周囲を圧倒するヴィオラ・デイヴィスの演技はある種の動と静みたいな対立関係をもたらしている。とはいえボーズマンの演技がいささか暑苦しさを感じさせるような気がしないでもにあ。

 全体として長丁場のモノローグが多用されるが、それって映画的にありかというと、自分などはやや否定的な印象もある。ほとんどワンカットで役者に長いモノローグを行わせる。演技力だけで引っ張ろうとしているのだろうが、実は映画としてはダレる要素もあるのではないか。映画は効果的なカットを繋ぐことで緩急を描き出すのが本筋のようにも思える。最近はステディカムを用いて長回しをする映画が増えているが、ワンシーンワンカットを成功させるのは動的なシーンを連続させるところにある。役者のアップやハーフショットで延々セリフを語らせるのを、ただカメラを据えてとるのは映画的じゃないとそんなことを思わせてしまう。

 自分的にはこの『マ・レイニーのブラックボトム』はあまり好きな映画ではないかもしれない。アカデミー賞受賞はチャドウィック・ボーズマンの死を悼む意味での受賞はあるかもしれない。逆に女優賞をヴィオラ・デイヴィスフランシス・マクドーマンドを押しのけて受賞するかどうか。いずれもちと微妙かもしれない。

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『ノマドランド』とリアリズム

 映画のリアリズムを支えるのは細部にわたる描写かもしれない。

 『ノマドランド』は過酷な車中での生活、移動生活のシビアさをさりげないカットで表現している。それは例えばトイレは、ノマドたちはどうやって排泄行為をしているのか。ちょっと考えればわかるが、観る側からすると当たり前のことなので簡単にスルーしている。しかしこの映画ではこうした点、あまり映画として見せることは適切ではないかもしれない事柄についてもきちんと説明する。

 ノマドたちが集まる場では、きちんとトイレについての説明が行われる。車中で排泄するためにはきちんと簡易トイレを設けること、そこにはバケツが用意され一人用だとこの大きさ、家族ではあればさらに容量の大きなものをという説明が、登場人物たちによって語られる。

 実際の排泄シーンもさりげなく挿入される。映画の冒頭から少ししたところで、フランシス・マクドーマンドが屋外で放尿しているシーンがややロングショットで映される。砂漠に近いような荒地で彼女は車を降りて放尿している。なるほど移動中、車中生活者たちはこのようにして生理現象を解消するわけだ。

 さらに車中での排泄シーンもある。フランシス・マクドーマンドは車の中でフルートを吹いている。あまり上手いとはいえないが、趣味の音楽に興じるノマドの優雅なひと時である。すると急に彼女のおなかが鳴り出し、彼女はもそもそとし始める。それから簡易トイレを用意していきなり脱糞する。多分、車中には強烈な臭いが充満するのだろう、彼女はトイレに座りながら天井の小窓を開けて換気を行う。

 アカデミー主演女優賞を二度受賞した大女優に、リアリズムを表すために排泄行為を行わせるクロエ・ジャオの演出への強い意思。そして躊躇なくそれを演じるマクドーマンド。観客はそれによりノマドたちの生活のシビアさを受容する。

 かっての映画の約束事的にいえば、映画の中でトイレのシーン、排泄シーンは多分NGだったと思う。さらにいえば主演女優は彼女たちの生理現象を想起させることもカットされていたのではないかと思う。それこそ冗談めかして、スターはトイレにいかないみたいなことも言われていた時代すらあった。映画にはそうしたリアリズムは不要だった。多分、それは映画史の中でじょじょに変容してきたのだろう。

 映画の中の人々も、実際の人々の生の営みとして、ものを食べ、排泄行為をし、セックスをする。それをさりげなく想起させたり、実際の態様として演じたりしてきた。しかし排泄行為をリアルに表出することはあまりなかったのではないか。しかしセックスにしろ排泄にしろ、それが必要なカットであれば、それこそ常套句ではないが「必然性があれば」、スクリーンに映し出される必要はあるということだろう。

 『ノマドランド』においては、車中での生活を余儀なくされたり、自ら選び取った高齢者たちの実像を描くためには、排泄行為自体を描くことも必要なのかもしれない。彼らの生活のいったんをリアルに描くためにはということだ。

 アカデミー主演女優賞を二度受賞し、この『ノマドランド』で三度目の受賞の可能性も高いフランシス・マクドマーンドは、この映画のリアリズムのために躊躇なくそうしたシーンを演じた。あるいは様々な葛藤、監督との対話がエージェントを交えて行われたのかもしれない。しかしそこまでする必然性と、そうしたシーンが挿入することで、この映画はリアルな車中生活者たちの実相に迫っていることは間違いないと思う。

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『ノマドランド』を観た

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ノマドランド|映画|サーチライト・ピクチャーズ

Nomadland (film) - Wikipedia

 Twitterなどで評判となっていた映画『ノマドランド』をシネマわかばで観てきた。1日2回の上映で昼間の回。昼間から映画館に行くなんていうのは学生時代以来からもしれないな。しかもシニア(60歳以上)で1200円。こういうことで無職年金生活者ということを実感する。ゴールデングローブ賞受賞など一部で話題になっている映画なんだが、ウィークデイの上映のためか、観客は自分を含めて4名という淋しさ。これは今週一杯で打ち切り必須かもしれない。まあアカデミー賞でも5部門くらいにノミネートされ、作品、監督、主演女優などで本命視されているので、受賞となると再上映みたいなことになるかもしれない。

 本作はキャンピングカーやミニバンで車上生活を送る高齢者たちを描いた作品。監督は本作が商業映画三作目となる中国人女性クロエ・ジャオ。主演は『ファーゴ』『スリー・ビルボード』でアカデミー主演女優賞を受賞しているフランシス・マクドーマンド。この映画ではマクドーマンドとあと数名の職業俳優を除いたすべての登場人物が実際の車上生活者たちである。

 ネバダ州の企業城下町エンパイアで暮らしていた60代の女性ファーンは、リーマンショックの影響で工場が閉鎖されたため、仕事と住む場所をなくしてしまう。夫は工場の労働者だったが工場が閉鎖される前に病気で亡くなっており、ファーンは思い出に残るものと家財道具をミニバンに積み車上医生活者となる。

 アマゾンなどでの過酷な季節労働に従事しながら転々していく多くの車上生活者たち。その中の一人となったファーンは他の車上生活者たちとのささやかな交流を持ちながらも、孤独な放浪生活を送る。ガソリン代と季節労働の情報を得るために必要な携帯、夜の駐車スペースを確保するための苦労。狭い車中でのハードな生活と、思い出の品々や写真によって良き日々に思いをはせる。

 リーマンショック後、仕事や家を失い車上生活を送る高齢者が増加した。これをルポしたのがこの映画の原作となったジェシカ・ブルーダーの『ノマド:漂流する高齢労働者たち』である。話題作ということもあり、アメリカで刊行された翌年(2018年)には邦訳が出ている。

ノマド: 漂流する高齢労働者たち

ノマド: 漂流する高齢労働者たち

 

  自由主義の王国アメリカは社会保障によるセーフティネットが脆弱だ。いったん仕事や生業を失うととたんにこの映画で描かれるような車上生活者季節労働を求めて移動する放浪の民となってしまう。これは多分、トランプ以後もさらに状況は悪化しているだろうし、さらに今はコロナ禍で困窮を極めている。貧富の差の拡大とともに、仕事を失った人々がこうした過酷な生活を強いられているだろうことは容易に想像できる。

 そして同じく新自由主義的な自助を求められる国日本でも、同じような状況が増加している。わずかな公的年金だけでは暮らしていけない現実、さらにその年金の支給もかっては60歳からだったのが65歳となり、さらに支給年齢が後へ後へという流れになっている。そもそも厚生年金の支給は正社員として勤め続けていればということだが、国民年金だけではまったく生活ができないほどの額しか支給されない。

 アメリカほどではないにせよセーフティネットが整っていない日本でも、高齢者の貧困は現実化している。さらにいえば、2000年前後から非正規労働が蔓延化しているだけに、今後は年金が無支給な高齢者も増加してくる。仕事を求めて移動を繰り返す車上生活者たちの姿は明日日本でも現実化するかもしれない。

 一方で、移動生活者たちには自由な民という面もあり、この映画でもかっての西部開拓時代の開拓者たちと自身を被らせるような言葉を語る人もいる。移動生活者として誇り、自由人としての誇り、ラストに語られる別れの挨拶は「グッドバイ」ではなく「また会おう」という言葉など、移動生活=ノマドに積極的な意味を持たせる部分もあるにはある。

 映像はどこまでも美しく、シビアな生活を移動生活者たちに強いさせるアメリカ北西部の厳しい自然も、美しく荘厳な情景として描かれてもいる。しかしどれほど移動生活者たちがその人生において気高く、誇りをもっていたとしても、彼らはアメリカの市民社会から脱落し経済的に困窮した人々でもある。アメリカの美しい自然は、彼らの生存を脅かす。

 この映画が我々観る者に語り掛けるのはただただハードな生活を送る人々の孤独な実像だ。過去の良き思い出だけを抱き、シビアな日々を送る孤独な高齢者たち。それを映画は彼らのアップを多用することで語る。

 主演のフランシス・マクドーマンはほとんどノーメイクで60代の孤独な女性を演じている。そのアップが過酷な生活、たった一人で過去の日々の思い出とともに生きる女性の根源的な孤独を表現している。

 かって女優はアップが総てと語られたことがあった。美人女優は画面にいっぱいに映しだされるアップによってその美しさや演技の良し悪しが評価された。そういう意味でいえば、この映画は徹底して演技者のアップによって構成されている。プロフェッショナルな女優フランシスマクドーマン以外はほとんどが実際の車上生活者たちなのだが、そうしたアマチュアの出演者たちもまたアップによって自らの生活を、人生を語り続ける。その誰もが、あえてそれを演技といってしまえば、それをアップでもきちんと演じている。

 この映画はフィクションとドキュメンタリーの融合である。監督のクロエ・ジャオはこうした非演技者、アマチュアの人々を映画に登場させ物語と融合させるのを得意としていて、すでに前作、前々作でも取り入れているという。演技の経験のない者を登場させ、彼らに実生活をリアルに語らせ、それを物語の中に違和感なく取り込むというのは恐るべき演出力だと思う。綿密な取材と計算された準備が必要だろうし、単なる偶然の産物で多数のアマチュアを無理なく撮り続けることは不可能だろう。これは想像になるが、おそらく物凄いリハーサルや準備、さらに幾つものテイクを行う必要があったのではないかとも思う。

 とはいえ長い時間をかけた繰り返しのテイクをアマチュアに強いる訳にもいかないだろう。この映画の制作ノートのようなものが書籍化されたら、ちょっと読んでみたい気がする。

 この映画が、車上生活を続ける高齢労働者の悲惨な現実を訴えるようなドキュメンタリーではなく、第一級の映画作品となっているのは、この映画のコピーとして使われるようなまさに「奇跡の映画」なのかもしれない。それを成功させたのはクロエ・ジャオの確かな演出力とフランシス・マクドーマンの傑出した演技力ということになるのだろう。

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なんちゃってガーデニングとか航空公園とか

 午前中はなぜかカレーを作る。その後、昨日買った花とかの植え替え。秋に植えたパンジー類を引っこ抜き、土を簡単に耕して肥料を加えそれから花を等間隔に植えていく。ペチュニアナデシコ、ミニバラ、ペゴニアなどなど。

 もう10年くらいのこんな感じでいい加減に年に2回くらい花を植え替える作業をしている。花によっては冬を越して翌年春にまた咲くみたいなものもあったが、あんまり手入れしないので冬超しするものは少ない。なので基本は植え替え、花に対する愛着とかもあまりなく、春になったらペチュニアナデシコ、ペゴニア、日日草なんかを植える。秋も終わりに近い11月くらいになるとそれを一気に引っこ抜いてパンジービオラなんかを植える。

 花以外の樹木については以前はコニファーを何本か植えていたが、ほとんどがある程度の背丈(170~200cm)になった後で枯れてしまい、今は一本だけ。その他では南天が一本、後は数年前に植えた桜と藤がある。藤は去年けっこう伸びてラティスに絡みついていい感じになったのだが、育つにつれてラティスが変形し始めたので全部切ってしまった。今年は切り落とした部分からまた芽が出てきているのでもう少ししたらラティスに絡みつかないような工夫をしようかと思っている。

 その他ではバラも何度か苗を買ってきたけど、1~2年でけっこういい感じに大きな花をつけてくれるのだけど、その後はだいたい病気になって枯れるみたいなことを繰り返している。その中で1本だけはなんとか生きながらえていて、毎度病気になるけど翌年にはまたそこそこ大きくなって花をつけてくれる。バラは手入れが難しいとはよく言われるが本当に実感している。

 本当は草木にはもっと丁寧に手をかけてやればいいのだけど、今まではそこまでの余裕はなかった。まあ今は無職なので手間暇かけようと思えばできないことはないのだろうけど、他にやりたいこともあるので基本はこれまで同様安い花を買ってきては年に2回植え替える。樹木は枯れない限りは基本スルーみたいな感じだ。という訳で一貫してなんちゃってガーデニングなのである。まあ時々咲いている花を見て小さな幸福みたいな気持ちになる、ごくごく個人的な心の問題みたいなものだ。

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 ガーデニングの後、午後や少しお出かけ。カミさんを連れて所沢の航空公園に行った。ここにはカミさんが病気になる前、子どもが小さかった頃に一度、あとカミさんが病気になってから一度来ているのだが、カミさんにはほとんど記憶がないようだ。

 カミさんがリハビリのために都合6ヶ月入院していた病院が近くにあるので、多分二回目に訪れたのはひょっとすると彼女が入院している時だったかもしれない。入院も後半になるとリハビリをかねて外出で病院から外へ連れ出すみたいなことを何度もしていたのでそのうちの一回だったかもしれない。まあそれでも15年近く前のことになる。

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ハードオフなど

 少しずつ家の整理という訳でもないのだが、不要なものを捨てるみたいなことを始めている。断捨離みたいな大掛かりなことではなく、まあもう使わないだろうみたいなものとかを少しずつ。

 去年初めてハードオフに古いレコードプレイヤーQL-Y44Fを持ち込んだところ2500円で買い取ってくれた。その後、多分整備とかしたのだろうが、同じ店で16000円くらいで売っていたのでちょっと笑ってしまった。まあメルカリとかヤフオクに出品すれば少なくとも5000円から10000円くらいにはなったのかもしれない。

 今回はというと、不要になったネットワークオーディオ、オンキョーのCR-N755を持ち込んだ。これは去年の10月くらいにヤフオクで買ったのだが、メインで使用したいフロントのUSBが使えないので結局Ipod classicをドックを通して使っている。このオーディオはUSBを通してハードディスク音源をけっこう良い音で聴くことができるの、その後ヤフオクを通じて2台購入。1台はメインで自室で使用、1台はリビングでBGM用に利用している。ということでフロントUSBが使えないのは不必要ということで廃棄ということになった。

 この他では多分20年近く前にパチコンの景品としてとったスーパーファミコン箱入りとかも持っていくことにした。これはもう取ったときからしてすでに時代遅れの産物だったのだが勢いで取ったもの。近所のソフト屋で中古ソフトを買って数回いじってそのままお蔵入りしていて、この前に本棚の一番上に載っていたダンボールを開けてみたら入っていた。まあこれは要らないはなということになった。

 さらにこれも大昔、人から譲ってもらったPC-98note、これはもう電源も入らない代物。さらにいつ買ったかわからないオンキョー製のミニコン、さらに貰い物で一度も使ったことのないスープメーカーなど。しめて5点だったのだが、壊れたPC-98noteとオンキョーミニコンはそれぞれ200円で、ようはガラクタを引き取ったという感じ。残りは全部2000円で都合6400円ということになった。

 おそらく自分でメルカリとかに出品すればCR-N755やスーパーファミコン、スープメーカーはもっと値がついたのだろうけど、そこまでする根性もない。まあ基本燃えないゴミの日に出すくらいならくらいの気持ちでいるので、これはこれで満足というか納得している。

 その後は手にした6400円もってホームセンターに行く。そこで庭の草花の植え替え用に肥料やらペチュニア、ペゴニア、ナデシコなんかを購入した。

 

川越運動公園

 木曜日はカミさんのデイサービスが休みなので毎週お出かけデーっぽくなっている。いつものようにどこかへ連れて行けモードになっているので、久々にMOMAS=埼玉近代美術館に行くことにしたのだが、北浦和公園近くまで来たとたん急に雨が降り出した。この美術館には駐車場がないので、近くの有料駐車場に止めてから車椅子押して行くことになるのだけど、雨はにわか雨とはいえかなり激しい降り方をしている。おまけに雷や強風もという荒れ模様。仕方なく断念することにした。

 しかし県立の美術館で駐車場を併設していないというのもちょっと困ったものだと思う。このへんが埼玉県の限界かと思ったりもするのだが、多分北浦和公園の利用者が多いということもあるのかもしれないけど、どうにかならないものだろうか。車がないと生活に困る郊外という土地柄で公園や美術館に駐車場が併設されていないというのは、どういうことなんだろう。これが都内であれば致し方ないとなるが、埼玉でこれはちょっとないと思う。

 隣県の栃木、群馬、茨城にはそれぞれきちんとした県立美術館、県立近代美術館があり、それぞれに駐車場が併設されている。それを思うとやはり埼玉県は文化的に不毛なのかなと思ったりもする。やっぱり埼玉県民は山田うどん食べてサッカーでもしていればいいのかとそんな自嘲めいたことを口走りたくもなってくる。

 行きは富士見から浦所道路に出て北浦和に向かったのだが、帰りは17号に出てから16号線に入って川越に行くことにした。その頃には雨も上がりそれこそ道路も乾くような状態で、やっぱり通り雨だったんだとは思ったのだが、来た道の方の空を見ると真っ黒な雲が広がっている。多分、浦和方面はまだ雨かと思い引き返したのは正解と勝手に判断する。

 途中で16号から外れ埼玉医大のあたりを目指していると川越運動公園が見えてきたので寄ることにする。とにかくカミさんのお出かけ欲求に応えなくてはいけないし、雨上がりで空気を澄み切った感じだったので、園内を少し散歩してみようかと思った。

川越運動公園(総合体育館・陸上競技場・テニスコート) | 公益財団法人川越市施設管理公社

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 園内を周回する歩道を車椅子を押して2周くらいしただろうか。途中でカミさんは短い距離を歩いたり車椅子で自走したりした。自分はというとまあ景色というか所々に咲く八重桜や菜の花とかを撮影したりとブラブラした。雨上がりで気持ちの良い午後のひとときみたいな感じだった。

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ピアノの調律

 ピアノの調律を頼むことにした。

 家にあるピアノは多分2004年くらいに子どものために買ったものだ。もっとも家にピアノがある生活というのは、プチプル的なある種の夢みたいなものあった。

 子どもが小学校に上がる頃から多分中学卒業くらいまではずっと続けていたし、ピアノの先生は家の近くの方だったので、週に一回通いで来てもらっていた。でも子どもはちっともピアノが上達しなかった。普通、10年も続けていればそれなりに弾けるようになるものっていうのは、自分のギターとかの経験則がすればそうなのだが、そういう部分でいうとちっとも進歩の後がみられなかった。最近もそのことを本人に言うと、白っと「全然、練習しなかったから」とのたまう。

 とはいえ、ピアノをやっていたおかげか音楽自体は好きになった。中学から吹奏楽を始め、高校でも続けた。大学でもインカレの吹奏楽サークルに入り4年間続けた。大学自体が芸術系で座学で音楽を専攻した。そういうのもピアノを始めたからかもしれない。

 ピアノは中学までだったが、子どもが続けている間はほぼ毎年調律をお願いしていた。それも子どもが高校に上がってから途絶えた。なのでもう7~8年はやっていないことになる。

 ピアノ自体、もう誰も弾く人間もいないので、例の「ピアノ売ってちょうだい」のCMでもないが、売ってしまうことも考えた。子ども的には「いつか自分が引き取るつもりだから売らないで」とは言っているが、それがいつになるのかは判らない。なのでこのまま埃が被った状態でもいいとは思ったのだが、リタイアした自分の心情としてはちょこっとピアノに触ってみたいという欲も出てきた。

 音楽的には中学から大学くらいまではギターを少し齧っていた。なのでコードはある程度判る。初見は利かないがある程度は譜面を見て音は拾える。なんなら高校くらいの時には10数曲くらいは実際に作曲とかの真似事をしたことがある。とはいえ社会人になってからはギターをいじることもなくなったし、持っていたものも手放した。

 40代をだいぶ過ぎてから一念発起して安いギターを買って少しいじったことがあったが、指はほとんど動かなくなっていたのがちょっとショックだった。ちょうど仕事も忙しかったし、子育てもあった。さらにいえばカミさんが病気になったこともあり、楽器をいじる暇など皆無でそのままなってしまった。

 そんなこんなで去年仕事を辞めたときに、出来れば楽器をもう一度始めたと思った。そしてせっかく家にピアノがあるのだからちょっと触ってみたいとも思った。

 先日、カミさんと散歩をしているときに、子どもが教わっていた先生と偶然会った。向こうが覚えていてカミさんに話しかけてくれたのだが、その時に立ち話の中で高齢者が初めてピアノを始めるのはありかと聞いてみると、けっこうそういう人が多いということ、生徒さんの中にも何人かご高齢の方もいるとのことで、レッスンを受けたいということであれば、いつでも連絡して下さいとのことだった。

 その先生に教わるかどうかは判らないが、なんとなくピアノをいじってみようかという気持ちもじょじょに大きくなってきた。そういうこともあってピアノの調律について連絡してみた。

 電話でのやりとりでは費用は基本的な調律費用と出張費だということだったが、放置されていた年数によって費用もかわるということで、とにかく見て貰うことになり、今日調律師がやってきた。

 まず調律を7~8年やっていないので、1回の調律で終わらないこと、今日合わせた後でもう一度来て調整する必要があるとのことで費用はだいたい3万~4万弱ということだったので、そのままお願いすることにした。ピアノの状態は放置されていた割には良い状態だとかで、弦、鍵盤、ハンマーなども良好だということだった。

 まあこのへんは言われるがままということなのだが、とりあえず来週もう一度来てもらい、それ以降は基本年に1回ということのようだ。まあこの年1回は自分がピアノを続けていたらということで、場合によってはこれが最後の調律になるかもしれない。とはいえこれでピアノをやることについて、まず形は整いつつあるということだ。何事にも形から入るは自分の基本パターン。そのうえで様々な挫折、放置を繰り返してきているので今回もその可能性は大だとは思う。まあそれでもちょっとした趣味というか、目標が出来るのはいいことかもしれない。

 願わくば、簡単な曲の1つか2つ、なんとなくそれっぽく弾けたらいいなとか思っている。そうしたらどこかに旅して駅ピアノデビューでもしたいとか、まあ訳のわからんことを考えている。

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