キーボックスと照明の交換

 月曜日にアマゾンでポチったキーボックスが届いた。 こういうやつだ。

  なるほどドアノブ等につけてキーを保管する。ナンバーは任意に変えられるそういうものだ。兄の家のドアがどういう形状のものだったかの記憶がなかったので、ホームセンターでドアに引っ掛けるチェーンを購入して兄のところに行くことにした。途中で兄から電話があり、蛍光灯のランプが切れたので買ってきて欲しいという。

 兄の家の蛍光灯ももちろん自分が揃えたものだが、その一つはもうカバーが割れて蛍光灯がむき出しになっている。いったん家に戻って予備がないかを確認すると、照明自体の予備があった。うちの方はもう何年か前に全室LEDに代えてしまっているので、蛍光灯のシーリングが物置に置いてあった。それを持ち出してから兄の家に向かう。

 兄は足の捻挫もだいぶよくなっているようで、割と元気そうだった。カバーの割れたシーリングは蛍光灯が一本切れているようだった。なので持ってきたシーリングと交換。それが終わってからドアにキーボックスを取り付けた。暗証番号は兄の誕生日にしてから兄に説明。ケアマネへの連絡は兄にさせることにした。

 作業が終了してから兄と少しだけ今後のことの話をする。老健施設のこと、県営住宅のことなど。兄の症状がこれ以上悪化しなければ今の家に住んでいられる。でも悪化すれば次のことを考えなければいけない。兄は黙って自分の話を聞いていた。

泌尿器科通院とか

 ほぼ一月ぶりの泌尿器科の通院。特に問題なしの定期的な通院。まあこちらも今のところ夜中に尿意で何度も目を覚ますといったこともないし、頻尿といった症状も出ていない。ただし前立腺は肥大したままなので、薬物治療はないのかと聞いてみると、医師は「いい質問だ」という。そのうえで以前までよく用いられていた肥大した前立腺を小さくさせる薬には血栓ができる副作用があるので、今は処方されていないという説明をいただいた。結局は打つ手なしというところか。まあこれ以上肥大しないよう抑止していくしかないということのようで、いつもの薬を処方してもらう。ちなみにこの薬にも調べていくとある種の副作用があり、射精障害があるのだとか。まあ還暦過ぎたくたびれたジイさんなので、そのへんのことは多分スルーなんだと思う。実際、意味ないし。

 待合室で今日は嫌な光景をみた。だいたいにおいて泌尿器科に通院する高齢者はほとんどが診察の前に尿の検査を行う。なので出来るだけ尿を溜めてきてくれと言われる。実際、自分も毎回そうしている。今日、受付で老人が立ったまま、窓口の女性と話しているうちに尿をもらしてしまった。「困ったよ、漏らしちゃったよ」とつぶやくように話す。みるみるうちに足元が濡れていく。窓口のの女性は「ちょっと待ってくださいね」という。しばらくするうちに看護師らしき女性が着て、「あっ、我慢できなかったの。ちょっと待っててね」といってまたどこかへ行ってしまう。

 老人はそのまま立ったまま待ち続ける。普通のスラックスにジャンパーを着ている。70代半ばくらいに見えるが実際のところはよくわからない。漏らした後自分で対処できないで立ちすくしているところをみると、少し認知とかも入っているのかもしれない。それからちょっとして看護師が戻ってきて老人を処置室に連れて行った。そのすぐ後に清掃の女性がやってきて、濡れた床を何度も拭いてから消毒を行っていた。これはもう機械的でてきぱきとした感じ。

 出来ればもう少し早くに老人を処置室かトイレにでも連れて行ってあげても良かったのではないかと思う。窓口の前には順番を待つ患者がたくさんいる。その前で尿を漏らした状態で立っている。認知が入っているとしてもそれなりに羞恥心もあるだろうと思う。そんな老人が少し不憫になったが、その場で自分が何かしてあげられることはないのだろうとは思う。「もっと早くに対応してあげなさい」と声を上げるとか、「おじいさん、大丈夫」と声をかけるとか。

 そこは医院内であり、当然専門家の処置にまかせるべきと理性的に考える部分もある。でも一方では関わりになりたくないという意識もある。そのお年寄りが不憫だとは思うが、見て見ぬふりをする。そうせざるを得ないような部分。

 泌尿器科医院にあっては、多分割と多い出来事なのかもしれない。なので対応もある種機械的なのかもしれない。でも、出来ればこういうのは出来るだけ早めに処置して本人を退避させてあげて欲しいとは思った。

 なにか大昔、小学校のクラスで尿を漏らした子のこととかを思い出してしまった。だいたい毎年、一人くらいそういう子がいて、真っ赤な顔をして泣きべそをかいて座っていた。椅子の足元には水賜りができて、周囲の子どももさすがに囃し立てるでもなくザワザワとしている。それから教師がその子を立たせてトイレに連れて行く。残った子の何人かがモップとかでふき取りの作業をさせられる。

 あのなんともいたたまれない光景。

 多分、老健施設とか、カミさんが行っているデイケアやデイサービスでは、そういうのって日常茶飯事なのかもしれない。でも自分がふだんいる世間にあっては、どうしても非日常的な光景となってしまう。

 医院を後にしてからは、またパチンコ店に寄った。なんか泌尿器科通院の後には必ずパチンコに行くみたいになっている。で、結果はというと30分ちょっとで9000円くらい買った。通院の後のパチンコはここのところでいうと、3勝1敗くらいになるだろうか。

兄の怪我と住宅

 昨日、朝一番で兄のケアマネから連絡がある。

 土曜日に足をひねったとかで、なにか歩けない状態だったようで訪問看護師が訪れてもなかなかドアを開けられなかったらしい。以前にも部屋で倒れていたことなどもあり、ケアマネや複数の訪問看護師が訪れるのでドアにキーボックスをつけて欲しいという依頼だった。

 キーボックスについてはちょっとイメージできなかったので検討するとだけ答えておいた。こちらから合鍵を渡すことではうまくないかと提案したが、一つの鍵を複数の看護師が受け渡すのが大変だというので、納得した。その後、アマゾンでわりと安いものがあったのでポチっとする。

 その後、兄に連絡とるもまったく連絡がないまま。午後になってだいぶ経ってから、仕方ないので行ってみようかと思っている頃、兄からようやく連絡がある。足は階段でひねったようで、捻挫らしいとのこと。今は訪問看護師に足を固定してもらっているので、どうにか歩けるという。キーボックスのことを話すと、合鍵を訪問看護師に渡してあるという。なんだか拍子抜けした感じだが、出来れば怪我をしたことなどはすぐに連絡して欲しいということを話しておいた。

 そして今日はというと、兄の次の住まいのことに少しずつあたりをつけておこうと思い、いくつか取り寄せた老健施設やサ高住のパンフレットをみたりしていた。だいたいこのてのもので割とチープなところは満室で順番待ちが多数という状態だ。入居一時金が数百万以上のところや月の料金が20~30万円のところはわりとすぐにでも入居可が多いという。

 兄の場合は蓄えがなく、年金収入だけなので月の料金が15万円以上のところは難しい。かといって特養についていえば、年齢が比較的若いことや介護度が1なのでこれも条件から外れる。とはいえ今の状態が悪化すれば、多分数年のうちには足の切断みたいなことになる可能性があるし、そうでなくてもエレベーターのない5階の住まいは今後住むのが難しい。

 今の家は古い公団の分譲住宅だ。兄が困窮しているときにやむなく購入したものだ。そのときに5階エレベーターなしを考慮に入れることはなかった。とにかく家探しの緊急性があったこと、兄はまだ定年したばかりだったことなどで特に問題はないだろうと考えていた。それから10年、兄は高血圧と糖尿、さらに腎疾患による人工透析を受ける身になった。さらに心臓疾患を抱え、事故で片目を失明している。もうとんでもない状態になっている。

 最初、その家に越させたときに、自分の健康に注意して、家の管理を頼んだが、いずれも果たされなかった。

 老健施設がすぐに入居できない場合、5階からもっと低層の住宅に住むという選択肢も考えなくてはいけなくなる。そこで今日は県営住宅について調べたりもした。やはり低収入独居老人の応募は多く、特に低層には集中しているとか。次の応募は1月で市役所で申込書が入手できるという。

 兄とも相談して、本腰を入れて1月からの募集に応募してみようかと考えている。

 

ポーラ美術館補遺②

 今回のポーラ美術館で観た絵について。

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『白い貝殻』(古賀春江

 たぶん古賀春江の絵で一番好きなのがこの作品。図録の解説ではこの女は空中に浮遊しているらしい。

この白い<貝殻>では、マネキン人形のような顔のない女性が空中を浮遊し、まわりには科学への興味をほのめかす幾何学的なモティーフ、そして貝などががフォト・モンタージュ風に配されている 

  グラフィック・アート的で無機質な科学への傾倒というアプローチで説明されているようだが、自分にはこの女性が海底の底浮遊しているように思える。そこには何かいいしれぬ孤独があるようにも。

 だいぶ前にこの絵を観たときに連想したのは実は西岸良平の『鎌倉物語』に出てくる魔物だった。それは湖水の奥底にいる孤独な魔物で、人間世界にあこがれている。あるとき投身自殺した若い女性に乗り移り、人間社会で生活をはじめ幸福な結婚生活をおくるが・・・・・・。そんな話だったか。絵はこんな感じである。まあ適当な思いつきではあるのだけど。

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のっぺらぼう-『鎌倉物語』(西岸良平

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『あやめの女』(岡田三郎助)

 岡田三郎助は日本の洋画において、美人画の第一人者かもしれない。多分、先輩筋の黒田清輝を凌ぐ画力がある。写実性と絵画表現がうまく融合している。黒田と同じくラファエル・コランに師事したというが、コランの画力に迫るものがある。半身をさらした背中のスベスベ感はアングルやブグローのそれに比するものがある。やっぱり絵描きは画力があってこそかもしれない。

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『樹下裸婦』(満谷国四郎)

 装飾的かつ平面的な写実と異なる絵画表現。ナビ派やシャヴァンヌらの影響にどことなく万葉的な雰囲気もある。油絵に描かれた土田麦僊みたいなと適当に思いつく。

 

 今回のポーラ美術館では展示の妙をつとに感じた。この美しくもそこそこに緊張感のある空間がよく活かされているように思った。

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美しいルノワール

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ルドン、シニャック、スーラ

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マティスデュフィ

 

ポーラ美術館補遺~並列展示とか

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 ポーラ美術館で思ったことを幾つか。まず山の斜面に作られている建物なんだが、内部は本当に美しく美術館の器としてもけっこう気に入っている。大塚国際美術館は確か山をくり抜いているようだったけど、山の斜面にある美術館って割と多いように思う。規模はうんと小さいけど大川美術館なんかもそうだった。

 今回の企画展「CONNCTION-海を越える憧れ、日本とフランスの150年」では、相関関係のある作品を並列展示していて、主に日本の画家がフランス絵画からどのように影響を受けているかがわかるようになっている。この展示はとてもわかりやすいが、ある種残酷な展示でもあることは、前回も少しだけ書いておいた。ようは本家の画力に圧倒されながら、必死にその模倣に努めた日本の若き画学生たちの習作というような趣が露骨に表れてしまうからでもある。まあ目玉のラファエル・コランと黒田清輝についても、並列してしまうとその画力が歴然としているということは、これも前回書いた。

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『野辺』(黒田清輝)  『眠り』(コラン)

 同じようなことがいえるのは例えばモーリス・ヴラマンクと里見勝蔵にもいえる。里見はヴラマンクに私淑し大きな影響を受けた。以前、サトエ記念21世紀美術館ヴラマンクと里見勝蔵の作品が並列展示してあったが、里見の模倣ぶりが師へのリスペクトを感じさせた。色彩、妙に斜めった建物など、なにからなにまでヴラマンクなのである。しかし、「よく模倣しました、〇」みたいな感想を抱いたものだが、今回同じようにヴラマンク、里見の絵を観比べると、その画力、才能は本当に歴然としていると改めて思った。

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『雪』(ヴラマンク) 『ポントワーズの雪景』(里見勝蔵)

 佐伯祐三の作品は単体で観ると画家の感性が投影されている。暗い色調で描かれた都市の様相には都市の孤独が描かれている。佐伯がユトリロに傾倒していたことは、様々な文献や解説にも多くある。実際、こうして並列されると建物の描き方はユトリロの模倣そのものかもしれない。

 ユトリロの白に対してより暗い色調は、佐伯がフランス留学中、里見勝蔵の紹介でヴラマンクに会っていることなど、もともとヴラマンクから学んだ部分が多いところがあるのかもしれない。ヴラマンクの影響下にあっても佐伯の画力は里見を上回るものがあると思う。模倣にとどまる里見に対して、佐伯はそこに自らのオリジナリティを投影しているようにも感じる。

 その後、佐伯はユトリロの絵を観ることで、この画家から決定的な影響を受ける。ヴラマンクの色調とユトリロの街風景の切り取り方などなど。単体では美しい佐伯の絵もこうして並列されると、明らかにユトリロの影響は大きい。

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『シャップ通り』(ユトリロ)  『パリ風景』(佐伯祐三

 キャリアの後半、二度目の渡仏以降は同じ都市の景色にもポスターの文字を配すなどで、ユトリロの影響化にありながらも独自の個性的な作品を描いている。自分などは近代美術館の『ガス灯と広告』や大原美術館『広告”ヴェルダン”』あたりから入っているので、佐伯祐三ヴラマンクかと改めて思ったりもした。もっとも里見とともにヴラマンクを訪れたときに持参した作品を「アカデミズム!」と一蹴されたというエピソードは何かで読んだ記憶はある。
 この企画展と関連もあるのだろうか、常設展示においても同様の並列展示が多くなされていて、名品、名画を多数所蔵するポーラ美術館ならではと思わせるものが多数あった。そのなかで興味深かったのが岡鹿之助アンリ・ルソー

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『掘割』(岡鹿之助)  『ムーラン・ダルフォール』(アンリ・ルソー

 岡鹿之助というと点描、ジョルジュ・スーラに影響されたことは有名だが、1920年代後半に渡欧して以来、アンリ・ルソーに興味を持っていたことを本人も認めている。こうやって並列してみると、その影響の後がみられる。表現や構図もそうなのだろうが、一番の類似性はその静的な雰囲気と抒情性かもしれない。

 この二点の対面には点描派の二大巨匠スーラとシニャックが同様に並列展示されている。「色彩と現象」という切り口なのだが思わずにやりとさせられる。

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『オーセールの橋』(シニャック) 『グランカンの干潮』(スーラ)

 

ポーラ美術館~「CONNECTIONS-海を越える憧れ、日本とフランスの150年」

 14日土曜日に始まったポーラ美術館の新しい企画展「CONNECTIONS-海を越える憧れ、日本とフランスの150年」を観てきた。

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 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本美術-浮世絵や工芸品がフランスの芸術家に与えた影響、明治以後の脱亜入欧のなかフランスに留学した日本人画学生たちがいかにして西洋絵画を学んだか、それらの相関を俯瞰するというかなり壮大な企画展。さらに目玉として黒田清輝が師事したラファエル・コランの『眠り』が120年ぶりに公開されるという。この作品はポーラ美術館でも人気の高い黒田清輝の『野辺』のモチーフとなった作品ともいわれている。

 『野辺』は好きな作品だし、コランの作品はやや通俗的ではあるけれど、これも割と好きな画家でもあるだけに、この企画展はぜひにもいかなければと思っていた。そしてこの企画展ではコランの代表作でもある『フロレアル』が、芸大所蔵のものとオルセー(アラス美術館寄託)のものと2点同時に展示してある。もともとこのオルセーの絵は大塚国際美術館の陶板複製画で観て気に入っていた。その後トーハクでの黒田清輝の回顧展に出品されていたのを観ているので、今回で二度目となる。

 コランはアカデミー派カバネルの弟子筋にあたり、『フロレアル』にはカバネルからの影響が大きいという。実際のところきわどい描写、表現ではあるが、描かれた美しい女性の肢体は理想形であり、微妙なところでリアルさ、肉感的イメージを逃れている。

 今回の企画展では師匠カバネルの『眠り』と黒田の『野辺』を並列して展示しており、黒田が『眠り』を消化し技法、作画における改変を意図したことがわかるようになっている。図録には多分この企画展を主導したであろう学芸員山塙菜未氏による論考「日本における裸婦像の展開-ラファエル・コラン<眠り>と黒田清輝<野辺>を中心に」が掲載されている。それによると、黒田の改変は以下のようなものとなっている。

 コランの『眠り』の裸婦が、眠っていることによって大胆なポーズをとっていること、それを覗きみるような視線で描かれているのに対して、黒田の『野辺』のモデルは覚醒している。女性の意識の状態を変えたことにより、女性は肢体を露わにしていることへの恥じらいを暗示させている。さらに『眠り』の裸婦の陶器ような白い肌とは対照的に『野辺』は日本人の身体を意識した茶色っぽい色調に変わったいると指摘している。

 しかしそうした黒田の改変は、それ以前に西洋絵画における裸婦画の絵画表現はリアルさではなく、美の理想形を描くというものに対して、より現実的な表現を目指したことではないかと、そんな気がする。コランの『眠り』はアングル、ブグロー、カバネルのように生身の女性ではなく、理想的な女性美を描いている。例のスベスベ、ツルツルだ。同様に神話的なモチーフを多用する。それらはこの絵は、生身の女性の裸を描いているのではありませんという言い訳でもあるが、一方で美の追求という芸術表現の原則に則ってもいる。

 彼らの画力、絵画表現の技であれば、いくらでもリアルに女性の裸婦を描くことができる。でも、それをすればたちまちそれは芸術ではない、ポルノであるという非難に晒される。芸術家はある種の便法として神話的題材や、より白く滑らかな肢体を描くことで、これは芸術である強調している。つまりはそれが西洋絵画の一種のコードでもあるのだと思う。

 もっともそのコードは19世紀後半にマネによって強烈なアンチテーゼを喰らうことになるのだろう。しかしリアルさやその奥にあるものを表現するのも芸術表現であるとしても、あえてリアルではない理想美を目指すというのも芸術のメインストリームでもある。裸婦がポルノかどうか、そのせめぎ合いの中でどうやって芸術性を保持していくのかということ。

 黒田の『野辺』にはいたいけな印象がある。女性を目を開いて手にした花を見ているが、多分に視点は定まっていないようにも見える。多分、肢体を露わにしたことによる極度の羞恥とともに、モデルとしての諦観、そうした意識からある種の放心状態にあるのではないのか。布に手をやり下半身を隠すような仕草に羞恥を暗示させると論考にはあるが、この絵には暗示などとはかけ離れたリアルとしての羞恥が表現されている。

 『野辺』の女性の耳は肌の表現とは異なる赤味をはっきりと示している。もう恥ずかしくて仕方がない状態が明確に示されている。おそらくモデルの女性は素人であり、乞われて肢体を画家の前に晒したと想像する。そして強烈な恥ずかしさと諦観、それらが絡み合ったまま放心状態にある。そういう女性の一瞬をのがさず画家は上から目線で描き切ったということなのでと思う。

 可憐な少女の羞恥と放心、そういうものがリアルに描かれることによって、この絵は芸術性とともにおそらくエロチックなイコンという付加価値をもってしまったかもしれない。しかもコランからの改変によるリアルさにより、この絵には理想美の追求とは異なるベクトルで評価されなくてはならないのだから。

 以前、この絵を観て思ったことだが、美しい絵ではあるが、この絵は時代的には別の形で受け止められた部分もあるのではないかと勝手に想像してしまう。裸婦をめぐるポルノ性、そのへんを史的に分析したものは多分数多あるのではと思うが、そうした視点からも論じられていいかもしれない。

 黒田は師匠コランとは別のアプローチから裸婦を制作し、少女の一瞬の美しさと恥じらいを画面に残すことはできたけれど、それとは別の副産物を抱合してしまったかもしれない。絵画における写実表現の追求、アカデミズムとは異なるものを、しかも日本的ななにかを模索することによって、ある種の通俗性を招きよせてしまった。ひらたくいえば、男の上から目線で幼気な少女の羞恥を漂わせる肢体を眺める、そういった部分だ。この絵を含め裸婦をフェミニズムの視点から論ずるとどんなことになるのだろう。あまり読みたくないようにも思うが。

 そうした点とは別にコランの『眠り』と黒田の『野辺』には大きな相違がある。それは今回のような並列展示をすることで明確化されるような気がする。それは何かって、画力が違い過ぎる。表現、作画、インパクト、すべてにおいて師匠コランの画力が勝っている。黒田は日本における西洋絵画の先駆者であったかもしれない。しかしこと画力という点ではラファエル・コランのそれには足元にも及ばない。なんなら後輩にあたる岡田三郎助の方が勝っている。

 ある画家とそのフォロワーたちの作品を並列することは場合によってはけっこう残酷な結果を示すことはあると、実は今回の企画展ではけっこう切実に思ったことだ。この企画展ではヴラマンクと里見勝蔵、ユトリロ佐伯祐三アンリ・ルソー岡鹿之助らの作品が並列展示されている。これってけっこう酷じゃないかと思ったりもしないでもない。梅原龍三郎がある時期から師匠のルノワールとは異なるような、ある種フォーヴィズムの意匠を展開したのもわからないでもない。同じ土俵じゃやってられんということだ。

 とはいえ今回の企画展、できらばもう一二度箱根に足を運びたい。それくらい楽しく、面白く、魅力的な企画展でもある。まあ基本的にはニワカの適当な思いつきなんだが、しばらく感想めいたことを綴るかもしれない。

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『眠り』(コラン)         『野辺』(黒田清輝

まあだだよ

まあだだよ

まあだだよ

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

  黒澤明の30作目の作品にして遺作である。これも観ていなかった作品。思えば黒澤の晩年の作品はほとんど観ていない。『乱』、『夢』、『八月の狂詩曲』なども。80年代半ばから90年代にかけては映画を驚くほど観ていない時期だ。仕事が忙しかった頃だし、あとは自宅で古い映画に没頭していてなかなか劇場に通えなかった。この映画もテレビCFなんかで知ってはいたが観に行く機会がなかった。そうしているうちに巨匠は亡くなってしまった。その後、子どもができたことやなんやで、映画は、黒澤明は自分にとってけっこう遠いものになっていった。

ストーリーはなんとなく聞いてはいた。内田百閒とその教え子の交流を描いた作品だという。所ジョージが使われていること、黒澤にしてはドラマチックな演出とは遠い作品であることなどなど。

 深夜にアマゾンプライムで観た。観終わったのは3時過ぎだったか。ゆるい演出のゆるいドラマであるが、不思議と眠くなることはなかった。しかしこの映画をどう評していいのか。とにかくドラマツルギー的なメリハリがほとんどない。浮世離れした老作家の日常と教え子との交流を淡々と描いている。かってはやや暑苦しいほどに劇的な映画作りをしていた黒澤が、なんとなく小津安二郎を意識しているような、あるいは山田洋次の人情劇の世界に踏み込んだようなそんな映画である。

 随所に凝ったカットもないではないが、こうも淡々となにごともないままに、エピソードを繋ぎ合わせただけの映画を、よくも黒澤明が撮ったと、まあそういう評価になるんじゃないだろうか。これをもって黒澤も老いたとか、枯れたとか、そういう風に断じることは容易いだろう。実際、その通りでもある。

 しかしこの映画には村上春樹的にいえば、二つの優れた点がある。

まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

 自分はこの村上春樹の言葉をよく、青春小説や青春映画を評するときに換用する。人の死とセックスは容易にカタルシスをもたらす。それを配してこそ秀逸なドラマは成立する、みたいな風にして。

 人生の晩期、老人を描いた場合にはセックスはどうかわからないが、死は日常的である。まさに背中合わせだ。老作家とその妻の二人の生活を描いていながら、この映画には実は死の影がない。教え子たちが「もういいかい」と問い、先生が「まあだだよ」と答える。そこには確実に死を揶揄する部分がありながら、この映画にはリアルな人の死を観る者にインパクトさせるものが皆無だ。

 そういう意味ではこの映画は師と教え子、老作家と妻の生活、そうした縦糸、横糸が織りなすお伽話なのかもしれない。この映画をリアルで観ていたとしたら、その頃自分は30代半ばなので、多分この映画の淡々とした描写に物足りなさを感じただろうと思う。巨匠老いたりとか、さすがに才能も枯渇したみたいな辛口の感想を口にしていたのではないかと思う。

 今、還暦を超えた自分はというと、この映画の淡々さをそのまま淡々と観て、それに面白みを感じる。もちろん人の死が描かれないからといって、この映画に人の死がまったくないかといえばそれは違うということになる。この映画にはいずれ死にゆく老境に入った者たちの淋しさみたいなものが通底に流れていることはまちがいない。人の死を具体的に描かずとも死を描くことがこの映画なのかもしれない。老人映画、老境映画というものが、こんなにもユーモラスに描くことができる、それが黒澤の晩年の妙なのかとも思う。

 出演者では先生を演じた松村達夫はもちろん好演しているが、それ以上にその妻を演じた香川京子の飄々とした雰囲気にしびれる。そして抜擢された所ジョージもまた独特のふらを感じる。なんとなく若い時の植木等のようだなと思った。

 黒澤明の後期の作品を少しまとめて観てみようかと、ちょっとそんなことを思ってもみた。『どですかでん』あたりから一つずつ拾ってみるか。