まあだだよ

まあだだよ

まあだだよ

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

  黒澤明の30作目の作品にして遺作である。これも観ていなかった作品。思えば黒澤の晩年の作品はほとんど観ていない。『乱』、『夢』、『八月の狂詩曲』なども。80年代半ばから90年代にかけては映画を驚くほど観ていない時期だ。仕事が忙しかった頃だし、あとは自宅で古い映画に没頭していてなかなか劇場に通えなかった。この映画もテレビCFなんかで知ってはいたが観に行く機会がなかった。そうしているうちに巨匠は亡くなってしまった。その後、子どもができたことやなんやで、映画は、黒澤明は自分にとってけっこう遠いものになっていった。

ストーリーはなんとなく聞いてはいた。内田百閒とその教え子の交流を描いた作品だという。所ジョージが使われていること、黒澤にしてはドラマチックな演出とは遠い作品であることなどなど。

 深夜にアマゾンプライムで観た。観終わったのは3時過ぎだったか。ゆるい演出のゆるいドラマであるが、不思議と眠くなることはなかった。しかしこの映画をどう評していいのか。とにかくドラマツルギー的なメリハリがほとんどない。浮世離れした老作家の日常と教え子との交流を淡々と描いている。かってはやや暑苦しいほどに劇的な映画作りをしていた黒澤が、なんとなく小津安二郎を意識しているような、あるいは山田洋次の人情劇の世界に踏み込んだようなそんな映画である。

 随所に凝ったカットもないではないが、こうも淡々となにごともないままに、エピソードを繋ぎ合わせただけの映画を、よくも黒澤明が撮ったと、まあそういう評価になるんじゃないだろうか。これをもって黒澤も老いたとか、枯れたとか、そういう風に断じることは容易いだろう。実際、その通りでもある。

 しかしこの映画には村上春樹的にいえば、二つの優れた点がある。

まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

 自分はこの村上春樹の言葉をよく、青春小説や青春映画を評するときに換用する。人の死とセックスは容易にカタルシスをもたらす。それを配してこそ秀逸なドラマは成立する、みたいな風にして。

 人生の晩期、老人を描いた場合にはセックスはどうかわからないが、死は日常的である。まさに背中合わせだ。老作家とその妻の二人の生活を描いていながら、この映画には実は死の影がない。教え子たちが「もういいかい」と問い、先生が「まあだだよ」と答える。そこには確実に死を揶揄する部分がありながら、この映画にはリアルな人の死を観る者にインパクトさせるものが皆無だ。

 そういう意味ではこの映画は師と教え子、老作家と妻の生活、そうした縦糸、横糸が織りなすお伽話なのかもしれない。この映画をリアルで観ていたとしたら、その頃自分は30代半ばなので、多分この映画の淡々とした描写に物足りなさを感じただろうと思う。巨匠老いたりとか、さすがに才能も枯渇したみたいな辛口の感想を口にしていたのではないかと思う。

 今、還暦を超えた自分はというと、この映画の淡々さをそのまま淡々と観て、それに面白みを感じる。もちろん人の死が描かれないからといって、この映画に人の死がまったくないかといえばそれは違うということになる。この映画にはいずれ死にゆく老境に入った者たちの淋しさみたいなものが通底に流れていることはまちがいない。人の死を具体的に描かずとも死を描くことがこの映画なのかもしれない。老人映画、老境映画というものが、こんなにもユーモラスに描くことができる、それが黒澤の晩年の妙なのかとも思う。

 出演者では先生を演じた松村達夫はもちろん好演しているが、それ以上にその妻を演じた香川京子の飄々とした雰囲気にしびれる。そして抜擢された所ジョージもまた独特のふらを感じる。なんとなく若い時の植木等のようだなと思った。

 黒澤明の後期の作品を少しまとめて観てみようかと、ちょっとそんなことを思ってもみた。『どですかでん』あたりから一つずつ拾ってみるか。