ポーラ美術館~「CONNECTIONS-海を越える憧れ、日本とフランスの150年」

 14日土曜日に始まったポーラ美術館の新しい企画展「CONNECTIONS-海を越える憧れ、日本とフランスの150年」を観てきた。

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 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本美術-浮世絵や工芸品がフランスの芸術家に与えた影響、明治以後の脱亜入欧のなかフランスに留学した日本人画学生たちがいかにして西洋絵画を学んだか、それらの相関を俯瞰するというかなり壮大な企画展。さらに目玉として黒田清輝が師事したラファエル・コランの『眠り』が120年ぶりに公開されるという。この作品はポーラ美術館でも人気の高い黒田清輝の『野辺』のモチーフとなった作品ともいわれている。

 『野辺』は好きな作品だし、コランの作品はやや通俗的ではあるけれど、これも割と好きな画家でもあるだけに、この企画展はぜひにもいかなければと思っていた。そしてこの企画展ではコランの代表作でもある『フロレアル』が、芸大所蔵のものとオルセー(アラス美術館寄託)のものと2点同時に展示してある。もともとこのオルセーの絵は大塚国際美術館の陶板複製画で観て気に入っていた。その後トーハクでの黒田清輝の回顧展に出品されていたのを観ているので、今回で二度目となる。

 コランはアカデミー派カバネルの弟子筋にあたり、『フロレアル』にはカバネルからの影響が大きいという。実際のところきわどい描写、表現ではあるが、描かれた美しい女性の肢体は理想形であり、微妙なところでリアルさ、肉感的イメージを逃れている。

 今回の企画展では師匠カバネルの『眠り』と黒田の『野辺』を並列して展示しており、黒田が『眠り』を消化し技法、作画における改変を意図したことがわかるようになっている。図録には多分この企画展を主導したであろう学芸員山塙菜未氏による論考「日本における裸婦像の展開-ラファエル・コラン<眠り>と黒田清輝<野辺>を中心に」が掲載されている。それによると、黒田の改変は以下のようなものとなっている。

 コランの『眠り』の裸婦が、眠っていることによって大胆なポーズをとっていること、それを覗きみるような視線で描かれているのに対して、黒田の『野辺』のモデルは覚醒している。女性の意識の状態を変えたことにより、女性は肢体を露わにしていることへの恥じらいを暗示させている。さらに『眠り』の裸婦の陶器ような白い肌とは対照的に『野辺』は日本人の身体を意識した茶色っぽい色調に変わったいると指摘している。

 しかしそうした黒田の改変は、それ以前に西洋絵画における裸婦画の絵画表現はリアルさではなく、美の理想形を描くというものに対して、より現実的な表現を目指したことではないかと、そんな気がする。コランの『眠り』はアングル、ブグロー、カバネルのように生身の女性ではなく、理想的な女性美を描いている。例のスベスベ、ツルツルだ。同様に神話的なモチーフを多用する。それらはこの絵は、生身の女性の裸を描いているのではありませんという言い訳でもあるが、一方で美の追求という芸術表現の原則に則ってもいる。

 彼らの画力、絵画表現の技であれば、いくらでもリアルに女性の裸婦を描くことができる。でも、それをすればたちまちそれは芸術ではない、ポルノであるという非難に晒される。芸術家はある種の便法として神話的題材や、より白く滑らかな肢体を描くことで、これは芸術である強調している。つまりはそれが西洋絵画の一種のコードでもあるのだと思う。

 もっともそのコードは19世紀後半にマネによって強烈なアンチテーゼを喰らうことになるのだろう。しかしリアルさやその奥にあるものを表現するのも芸術表現であるとしても、あえてリアルではない理想美を目指すというのも芸術のメインストリームでもある。裸婦がポルノかどうか、そのせめぎ合いの中でどうやって芸術性を保持していくのかということ。

 黒田の『野辺』にはいたいけな印象がある。女性を目を開いて手にした花を見ているが、多分に視点は定まっていないようにも見える。多分、肢体を露わにしたことによる極度の羞恥とともに、モデルとしての諦観、そうした意識からある種の放心状態にあるのではないのか。布に手をやり下半身を隠すような仕草に羞恥を暗示させると論考にはあるが、この絵には暗示などとはかけ離れたリアルとしての羞恥が表現されている。

 『野辺』の女性の耳は肌の表現とは異なる赤味をはっきりと示している。もう恥ずかしくて仕方がない状態が明確に示されている。おそらくモデルの女性は素人であり、乞われて肢体を画家の前に晒したと想像する。そして強烈な恥ずかしさと諦観、それらが絡み合ったまま放心状態にある。そういう女性の一瞬をのがさず画家は上から目線で描き切ったということなのでと思う。

 可憐な少女の羞恥と放心、そういうものがリアルに描かれることによって、この絵は芸術性とともにおそらくエロチックなイコンという付加価値をもってしまったかもしれない。しかもコランからの改変によるリアルさにより、この絵には理想美の追求とは異なるベクトルで評価されなくてはならないのだから。

 以前、この絵を観て思ったことだが、美しい絵ではあるが、この絵は時代的には別の形で受け止められた部分もあるのではないかと勝手に想像してしまう。裸婦をめぐるポルノ性、そのへんを史的に分析したものは多分数多あるのではと思うが、そうした視点からも論じられていいかもしれない。

 黒田は師匠コランとは別のアプローチから裸婦を制作し、少女の一瞬の美しさと恥じらいを画面に残すことはできたけれど、それとは別の副産物を抱合してしまったかもしれない。絵画における写実表現の追求、アカデミズムとは異なるものを、しかも日本的ななにかを模索することによって、ある種の通俗性を招きよせてしまった。ひらたくいえば、男の上から目線で幼気な少女の羞恥を漂わせる肢体を眺める、そういった部分だ。この絵を含め裸婦をフェミニズムの視点から論ずるとどんなことになるのだろう。あまり読みたくないようにも思うが。

 そうした点とは別にコランの『眠り』と黒田の『野辺』には大きな相違がある。それは今回のような並列展示をすることで明確化されるような気がする。それは何かって、画力が違い過ぎる。表現、作画、インパクト、すべてにおいて師匠コランの画力が勝っている。黒田は日本における西洋絵画の先駆者であったかもしれない。しかしこと画力という点ではラファエル・コランのそれには足元にも及ばない。なんなら後輩にあたる岡田三郎助の方が勝っている。

 ある画家とそのフォロワーたちの作品を並列することは場合によってはけっこう残酷な結果を示すことはあると、実は今回の企画展ではけっこう切実に思ったことだ。この企画展ではヴラマンクと里見勝蔵、ユトリロ佐伯祐三アンリ・ルソー岡鹿之助らの作品が並列展示されている。これってけっこう酷じゃないかと思ったりもしないでもない。梅原龍三郎がある時期から師匠のルノワールとは異なるような、ある種フォーヴィズムの意匠を展開したのもわからないでもない。同じ土俵じゃやってられんということだ。

 とはいえ今回の企画展、できらばもう一二度箱根に足を運びたい。それくらい楽しく、面白く、魅力的な企画展でもある。まあ基本的にはニワカの適当な思いつきなんだが、しばらく感想めいたことを綴るかもしれない。

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『眠り』(コラン)         『野辺』(黒田清輝