64歳になった

 ついにというか、いつのまにかというか、なんともまあというか、64歳になった。

ついでにいえばポール・マッカートニーは78になった。そういう日でもある。

 やや疲れ気味でもあったので仕事は休むことにした。誕生日に仕事休むというのも多分生まれて初めてのことかもしれない。

 しかし自分が64歳になるなんて。


When I'm Sixty Four (Remastered 2009)

 このアルバム、サージェント・ペッパーズを最初に聴いたのは多分15か16くらいだっただろうか。友達に借りたレコードを電車の中で袋に入れて立てかけておいたら、曲がってしまい、慌てて購入して返した。なので自分はいつもその曲がったレコードを聴いていた。赤版だったようにも記憶している。曲がっても一応聴けるには聴けたが、『ルーシ・イン・ザ・スカイ』でいつもひっかかっていたっけ。

 そして『When I'm sixty four』を聴いた時に、ずいぶんと古めかしいサウンドだなと思ったものだし、よもや自分がいつか64という年齢になるなんてことは思いもよらなかった。

 64という年齢についての思い入れはというと実はなにもない。しいていえば自分の父親も祖父も63で亡くなっている。母親は5歳の時に離別していてその後一度も会った記憶がない。いまどうされているのかも判らない。まあ存命なら遠に90を超えているので多分亡くなられているのだろうと思う。父の母、祖母はというと98まで生きた。ある意味大往生である。

 なので自分の家系でいえば、男性に限っていうと63という年齢はややもすると鬼門ということになる。もっとも兄は人工透析を受けており、糖尿病や高血圧とほぼ満身創痍な状態でも70歳で生きながらえている。なので父と祖父の63歳で亡くなったのは単純にそういう時代だったからということなんだろうとは思う。祖父は60年以上前、父も30数年前に亡くなっているのだから。

 でも心理的な部分では63歳になった時、いよいよ自分もその年齢になったと、ややもすれば脅迫神経的に強く意識したことを覚えている。さらにいえば、自分の人生は多分63までみたいな気持ちをどこかで持ち続けてきたようにも思う。なのでその歳を、父親の死んだ年齢を超えてしまったという感慨めいたものがない訳でもない。

 世間的には64歳という年齢はどういう風なんだろう。自分らは多分65になると年金が満額支給となる。超高齢化社会で定年や定年延長もどんどん伸びていくことが予想されるとはいえ、60歳定年、65歳まで雇用延長というのが一般的なところだろう。60歳になると定年嘱託みたいなことで給与はだいたい20万くらいになる。会社によってはもっと低い時給制のアルバイト扱いになるところもあるようだ。

 でもまだまだ十分に働ける年齢というのが一般的なのかもしれない。実際のところ今の60代というのは自分たちが子どもの頃に比べるとだいぶん若いという印象はある。平均寿命の伸び、これは一つには医学の進歩によるところなんだろうが、昔に比べてだいたい10~15くらい若くなっているんじゃないかという気もしないでもない。

 昭和40年頃の平均寿命は67~70くらいだったと記憶している。それが最近でいえば男でも81くらい、女性は87くらいまできているという。超高齢化社会というのがこういう数字からでも実感できる。

 自分が子どもの頃の64歳というと、もうたいがいお爺さん、お婆さんという印象がある。それからすると自分の今の年齢とか見た目とかというとそこまで爺さんかというとちょっと違うような気もしないでもない。まあ髪の毛は真っ白だけど剥げてもいないし、腰も曲がってはいない。目はかなり悪くなっているし歯もだいぶガタが来てはいるけど、いわゆる総入れ歯みたいなのとは違う。

 いや、自分がまだまだ若いとかそういうことをいっているのではない。ただなんとなく昔自分が思っていた高齢者というイメージとはだいぶずれた感じというか、違和感というかそういうものを思っている。

 仕事は、いちおう現役である。まあ経営者みたいなことをやっているので、続けようと思えばまだ4~5年は出来るのではと思う。眼前の課題は山積みで、一つオペレーション間違えればとんでもないことにもなりかねないような状況でもある。小さな会社なのだが正直なところ下が育っていない。もうそろそろ老いぼれは引退してくれ、これからは自分らが切り盛りするから的な感じの下がいない。まあ自分らがいなければそれなりにやってくれるだろうと思いたいところではあるのだが。

 さらに思う。仕事への拘りとか、いつまで続けたいかとか、そのへんのことでいえば、実はもうそんなに気力とかモチベーションがある訳ではない。出来れば、体が動くうちに好きなことをしたいとか夢想することもある。これで仕事を数年続けて、本当にリタイアした時には体も心もガタガタみたいなことだけは避けたいとか思ったりもする。

 定年したとたんに病魔に侵されあっさり亡くなった、そんな先輩を何人か知っている。それこそ馬車馬のように働いてきてようやく悠々自適かと思ったらとたんに入院、手術、そして再発、死去みたいな。

 本当をいうと9月に任期を1年残して仕事からさっぱり足を洗うみたいなイメージを持っている部分もある。出来ればそうしたい。カミさんの面倒をみつつ後は好きなことに時間を使いたいとか。ただし65までの9ヶ月くらいは年金も雀の涙である。あとはわずかな蓄えだけか。そうなると本当に体が動かなくなる頃には金もほとんどない状態みたいなことになっているかもしれない。

 なんだかんだとグダグダである。ウィークデイに絵を観て回りたい。出来ればゆっくり読書をしたい。まだ読んだことがないけど取り合えず積読状態の本が山ほどある。そして一日中音楽を聴いていたい。ジャズもクラシックもまだまだきちんと聴いたことがない曲が、演奏が沢山あるんだ。さらにいえば映画ももっと観ていたい。

 和田誠は晩年、部屋から一歩も出ずに映画を観続けていたと。たまに友人と映画の話だけをする。その相手は多分山田宏一あたりかと適当に想像している。そういう最後を送りたいとか自分も思う。来る日も来る日も、古い映画繰り返し繰り返し観続ける。そんな最後が幸福かもしれない。最後は映画の中に入っていく、そんな夢を見ながらあの世にいくとか。

 とりあえず64歳になった。孫はまだいない。勤め始めたばかりの子ども1人と、身体が不自由なカミさん。狭小だが一応持ち家がある。借金らしい借金はない。出来れば人の迷惑にならないように日々を送っていきたい。そしてここまで生きてきたのだから、ちっとは人のためになるようなことをしてみたいとか、そんなことを少しだけ思ってもいる。

 

 

 

ヤオコー川越美術館

 免許更新の後、カミさんの何処かへ連れて行け要求をかわしつつ昼食をどこで取るかみたいなことで、結局川越まで戻ってきた。予定ではこの後、都内まで行って子どもの晴れ着を預けてある呉服屋まで取りに行くことになっている。

 卒業式ーといっても新型コロナの影響でいわゆる卒業式は中止になり、学位授与式だけをこじんまりと行うことになったのだが、そのために自前の着物とレンタルの袴を着て行った。その着付けに訪れて帰りに寄って着物をクリーニングに出した。たしか三週間くらい前に連絡をもらっていたのだけど、コロナのことがあったので落ち着いたら伺うということにしていた。さすがに三週間も経っているし、自粛解除もされているのでいい加減引き取らないといけないみたいに思っていた。

 免許センターの後にすぐに呉服店に行ってもよかったのだが、まずは昼食と思った。でとにかく川越まで来たときにナビに美術館のマーク、よく見るとヤオコー川越美術館とある。場所的には氷川神社のすぐ裏くらいのところ。このへんは川越市立美術館や博物館があり、いずれもまだ行ったことがない。ヤオコー美術館もその存在は知ってはいた。確かどこかの店舗にポスターが貼ってあったのを見たとかそういう記憶だ。

 それでナビを頼りに行ってみる。川っぷちの狭い道を行き、途中でこれも狭い橋を渡ると目の前にある。ちょっとオシャレば建物だが規模は小さい。館内に入ってからわかったのだが、著名な建築家伊東豊雄の設計だとか。

 スーパーヤオコーのいわゆるメセナの一環で創業120年を記念して造られたという。 館内は落ち着いた感じで2つの陳列室のカフェの3室である。そして陳列してあるのは埼玉に縁の画家三栖右嗣のもの。なんでもヤオコーの創業者がこの画家の作品を収集していて付き合いもあったということらしい。

 三栖右嗣という画家のことを自分は知らない。なのでまったく予備知識なく作品を観ることになる。

三栖右嗣 :: 東文研アーカイブデータベース

 安井曽太郎の弟子筋で写実表現を追求した画家、ふむふむ。1927年生で2012年没、割と最近まで活躍した画家、活動期間は1950年代からということで、現代画家ということになる。しかし表現的にはモダニズムというよりはまったくの近代絵画的。ミレーらの自然主義印象派の筆致に近い、そして何よりも構図がきわめて安定的で、黄金律を律儀に守っている。かといって古臭い絵かというとそういうこともなく、古典的な手法、枠の中で斬新な表現や感性をきちんと表現し得ているようにも思った。そして詩情に溢れた絵が多いとも感じた。

 展示してある画家の説明の中に、アメリカ旅行中にワイエスを訪ね、その影響から自然を切り取るリアリズムの手法を学んだということが解説されている。確かにワイエス的な自然の切り取り、その影響下にあるような絵もいくつかあるにはある。しかしワイエスのような冷徹なリアリズムとは異種なものがこの画家にはある。なんていうんだろう、この画家の対象への眼差しは生暖かい、もとい暖かい。どことなく優しさや慈愛に満ちたものがある、月並みにいえば優しさみたいな部分か。

 そうこの画家は写実的であっても対象への眼差しには冷たい、対象を突き放したような部分がないのだ。ハードボイルドとは真逆な心性というか。まあそのへんを甘っちょろいと感じるかどうかでこの画家への評価は別れるかもしれない。まあまったく予備知識なしで適当に思っただけなのでかなり突拍子もないこと言ってるようにも思うけど。

 でも、自分はこの画家の作品、嫌いじゃない。いやむしろけっこう気に入ったかもしれない。例えばこの子どもたちを描いた作品には、優しい眼差しを感じる部分がある。

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 そして初期の作品らしいが、この作品なんかは安井曽太郎というよりも、どことなく小磯良平の雰囲気を感じたりもする。構図といい、椅子に座った女性の雰囲気を際立たせた表現とかけっこう気に入っている。

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室内

 そして多分、この美術館でのこの画家の多分一番人気のある大作がこれ。素晴らしい作品だとは思う。

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爛漫

 こじんまりとして落ち着いた小さな美術館である。滞在時間は1時間か多分それ以下か。とはいえゆっくりと、じっくりと絵に向き合える場所だ。家から多分一番近い美術館でもあるので、これからも何度も訪れることになると思う。こういう場所が比較的近くにあるのは嬉しいことだと思う。

免許更新

 5月に免許更新の手紙が来ていた。とはいえコロナの影響で免許センターも休んでいたので、近くの警察署で手続きするかと思っていたのだが、6月に入って自粛解除で免許センターも再開したということなので誕生日前に行くことにした。

 更新手続きなんで一人で行けばいいのだが、お出かけ好きのカミさんが当然のごとく「自分もついて行く」というので連れて行くことにする。多分、ここ何回かの更新ではほぼ毎回もれなくついてきて、その後で昼食か、あるいはどこかで買い物とかその手に連れて行くことになる。まあそういうものだ。

 鴻巣の免許センターに来るようになってどのくらいになるんだろう。そうやって思い返すと埼玉に越してきてから、かれこれ25年くらいの月日が流れている。ゴールド免許が5年になったのは確か2002年くらいだから、ほぼほぼ埼玉に越してきてすぐくらいということになる。そうすると鴻巣での免許の書換えは最低でも5回くらいしている。さらにいえばカミさんの更新のために付き合っているし、なんらな子どもの更新とかもある。それからすると片手以上両手未満くらいになる。なので行き方もだいたいわかるし17号線の周囲の景色も当然のごとく見覚えのあることばかりだ。こういうのが歳をとるということなんだろうなと思う。

 免許センターの風景はというと、密を避けるという名目で外で5人ずつだかに並ばせられて、6列ごとに入場することになる。最初にカミさんがトイレに行きたいというので、車椅子を押して館内に入り、カミさんをトイレまで連れて行った。そこで手続きが終わるまで待っててと言ってからまた外に出て並ぶことにする。

 30分近く外で順番を待ってから館内に入り、それからはいつもの手続きだけど前後にスペースを作りながら順番で並ぶ。最後の講習も机の片側は空席にしたまま。前回は居眠りして教官に肩をトントンされたけど今回はどうにかそういうこともなく終了。

 新しく発行された免許証をみると元号の前に西暦表示がある。これは小さな一歩かなと思う。次の更新は2025年、自分は69歳になる。そしてその次となると74歳、辛うじて後期高齢者の手前ということになるわけだ。その頃に運転をしてるのかどうか、それ以前に自分がこの世界い存在しているかどうかすら疑わしい。とはいえもし生きていれば、カミさんの面倒を観続けなくてはいけない。そうなると軽自動車とかでも使ってカミさんを連れて病院通いとかそういうことはあるのかもしれない。

 それにしても歳とったなあ〜という、ただただそれだけの実感。

兄のケアマネが変わる

 少し前に兄のケアマネをしている方から急に電話があり、居宅介護支援事業所を閉めることになったのでケアマネを続けることが出来なくなったという。なんでも事業所の所長さんが高齢で事業の継承者を探していたのだが見つからず、事業所を閉じることになったというのだ。そのうえで兄の新しいケアマネは責任をもって探すという話をしてくれた。う~む、そういうこともあるんだなというのがその時の素直な感想。まあ新しいケアマネさんを見つけてくれるならそれでいいとは思った。

 昔、ケアマネ探しというと、カミさんの最初のケアマネを探すのでけっこう苦労したという記憶がある。もうかれこれ15年近く前になるが、あの頃は役所に行っても事業所のリストを渡されるだけで、自分で当たってみて下さいと言われるだけだった。カミさんはまだ当時45歳くらい、特定疾病により若くして介護保険サービスを受けるということになったのは、まったくもって国の制度上の問題なのに、なぜ介護なんだと憤る部分もあった。

 それでも仕方なく、リストから片っ端から電話をかけてみるのだけど、どこもいっぱいですみたいに断られることが多くて難儀した記憶がある。それからすると、今回ケアマネさん同士のネットワークで次の人を探してくれるというのは、利用者側からするとたいへん楽ということになる。

 しかし今のケアマネさんに決まったのは多分2月か3月のことだ。1月に再認定をしてもらい、それまで要支援だったのが、介護度1がついた。それにより地域包括支援センターでケアマネさんがついてくれたのが、支援事業所で頼まなくてはならなくなった。このへんの仕組みは今一つわからない。まあ、介護保険を巡る諸々も随分と変わったし、超高齢化社会の中で介護度認定のハードルも上がっているというところもあるとは思う。

 思えば15年前にサービスを受けたというのはある意味草創期だったのかなと思う部分もあるにはある。

 それで新しいケアマネさんとの契約を今日するというので、自分も一応立ち会うことにした。なんだかんだいってもそういう節目では関わらざるを得ない。少し前に一応今日のことを兄と確認するため電話をすると、兄は相当経済的にピンチのようで、預金残高ゼロ、手持ち現金1000円くらいという状態だった。本人曰く、あと二日で年金降りるからというが、そういう問題じゃないと、電話口で少しだけ怒ってしまった。

 今の古い分譲団地だけど、そこに住まわせることになったのも、兄が仕事を定年で辞めた後にほとんど困窮状態で、おまけに緑内障の手術もしなければいけないという状態、さらに住んでいたアパートはゴミ屋敷というとんでもない状況にあったから。住んでいたのは横浜で、ほとんど音沙汰なしという状態だったので、自分の近くに住まわせた方がいい、無収入で年金だけが頼りという状態なので、賃貸より分譲で家賃なしのほうがいいということで自分が購入したんだった。

 そこに住む時に兄とは健康管理、金銭管理、住居の管理を仕事だと思ってやってくれと頼んだ。でもどれもまったく守られることはなく、健康面では透析を受けるはめになってしまったし、住居も荒れ放題、金銭感覚は預金残高が底をつくという状態だ。

 兄は16から60までは途切れることなく仕事をしていたから、年金はほぼ満額でている。月に均せば16万以上だ。それで家賃なし、1人暮らしの老人ということでいえば、普通に生活できるはずだと思うのだが、金銭感覚ゼロで浪費癖があるのでこれも致し方ない。

 ケアマネがくる少し前に兄の家に行き、掃除機をかけて部屋をきれいにする。兄は透析が終わって帰ってきたばかりで簡単な食事をしていた。そこでちょっとだけ経済面の話をして、当座必要な現金を渡す。

 ケアマネがやってきて、契約自体は30分かそこらで終わった。今度のケアマネさんは、やや太めの元気ある女性で、年齢は40~50くらいというところか。最後に、何かあったらいつでも電話してくださいとだけ話した。先方はよろしくお願いしますと言って帰っていった。

 その後、兄とは少しだけ話をして何か必要なものがあるかと聞くと、この間部屋にダニが湧いて困っているので殺虫剤の類が欲しいという。今回金がなくなったのも、そうした殺虫剤やダニシートとかを買うのに金がかかったとも弁解していた。ついでに特別定額給付金の手続きをしていないというので、通帳と障碍者手帳を借りていったん自分の家に帰りコピーをとった。その後でホームセンターにより、ダニアースとかダニシート、新しいタオルケットなどを買った。それからスーパーで米や食料品を少しだけ買って兄の元に戻り、それらを置いてから帰ることにした。

 帰りがけに、とにかく無駄遣いをしないこと、なにか必要なものが出来たらまず連絡して欲しいとだけ話して帰ることにした。

 とにかく、とにかく疲れた、ただ疲れた一日だった。

休日出勤とか社員の通院とか

 社員2名が心系の病気という緊急事態。別に月100時間とかの残業もないし、どちらかといえば年間で10時間もあるかないかのホワイトというかなんというか、そういう会社なんだけど。それで1名はすでに休職に入ったんだけど、1名は休職はしたくない、職場は変わりたい、少し面談等で話をすると具合が悪くなって何日も休んでしまう。

 そういうことなので医師と会社の三者面談を行うことを本人に提案した。会社としては医師の意見を聞きながらできれば良くなるまで休ませたいということにした。もっとも自分は立ち合わず、別の人間2名を行かせることにした。それでこの間の経緯をA4二枚くらいにまとめて医師に説明するようにと渡した。

 とはいえ自分は立ち合わないとしても一応念のため病院には向かって待機。医師と面談終了後は立ちあった人1名と会社で会うことにして早々に病院を後にした。正直にいうとそういう病院は苦手。なんか自分まで具合が悪くなってくるという。

 長生きしているせいか、こういう病気の社員や同僚を何人か知っているし、休職させるため、あるいはその復帰のために医師との三者面談とかも何度か経験している。いろいろな考え方があるとは思うけど、必要なのはもう粛々と業務として行うということ。悪いけどへんに感情移入してもあまりいいことない。

 もう10数年前だけど、やはり心の病で社内で過呼吸の発作とかを起こして救急搬送を繰り返した方がいた。1年くらい休んでもらったけど、本人は元気です、仕事したいですと言い続けた。そして、医師の意見を聞きながら慣らし出社をさせてもまた発作を繰り返すとか。

 自分から病気です、医師と会ってください言ってきた人もいる。三者面談の後で3ヶ月休養とって快癒された。職場復帰後、請われて他社に移った定年まで勤められたという話を聞いた。人生いろいろ、病気も個々としかいいようがない。

 会社に先に着いたので、いろいろ抱えている仕事をやろうかと思ったのだが、ちょっと考え方を変えて現場仕事をした。ちょうど大口の注文が来ていたので、本を2000冊弱出庫した。慣れないうえに老骨の身だから多分、人よりはかなり遅い。途中、病院から戻った人に報告をもらい今後の対応について一郎指示してからまた本の出庫に戻る。なんだかんだで3時間ちょっとくらいやってただろうか。まあ体力面でいえばヘロヘロにはなったが、こういう無心でできる作業も必要だとは思ったりもした。

 もともと体力勝負の本屋あがりである。朝に荷物が多いときに、店長から午前中にこれ店出ししとけとか厳命されると、「お〜、いっちょやったろうじゃないか」みたいに変にテンション上がるほうだった。まあとにかく本に触る仕事している分にはなんも文句はない。

久々の通院

 月初、ましてコロナ禍の様々な自粛が解除模様になりつつあるなかでの月初であるから、忙しいことは忙しいのだけれど、久しく医者に行ってなかったので急遽午前中都内の診療所まで行くことにする。いやもう本当に薬が尽きかけてるからこれは致し方ないかと。

 前回行ったのは2月の上旬である。少し早かったのだが、その時は月末に海外旅行を予定していてなかなか通院できそうにないと思った。そしてその後の新型コロナウイルスである。薬をもらうのといつもの糖尿、高血圧等の検査だけのために医者にかかるのはちょっと危険かなとか、まして電車で都内に向かうというのもちょっとリスキーということで4ヶ月も経ってしまった。

 数値的にはやや高め。やっぱり自粛とかで家呑みが増えたこととかも影響しているかもしれない。でも血圧は思ったほど高くなくまあまあ安定している感じ。これはこれでほっとしている。ここ数ヶ月はけっこう忙しい日々を過ごしていたし、多分それはまだしばらく続きそうな気配だ。なので7月のいつもの健康診断でもあまり良い結果は出ないと思う。多分また再検査のラッシュかなとか思う。とはいえ、そうやって再検査で一つずつつぶしていくことで、最悪の状態は避けられていそうな気もする。

 思えば2年前に前立腺の数値が上がり、がんの疑いありで検査。きっちり針差して組織とって調べてもらって無実。去年は循環器系で異常があり、心臓のCTをとってこれも無実。とりあえず循環器系に限ってはしばらくは安心とか言われている。

 20代の頃からすれば、こんな年の自分はあまり想像できなかった部分もある。でもまあこれまでは病気らしい病気もしてない。実際、生まれてからこのかた入院したこともないのだから、まあ良しとしなければいけないとは思う。

 電車に乗ってみて思ったが、自粛解除とかいわれても電車はまだまだ空いていて、最寄り駅からでも座れている。もっとも4月だか5,月だかに朝乗ったときは本当にガラガラだった。それを思うと確実に乗客は増えてはいると思う。そして電車の中でも、都内のターミナル駅に着いても、ほとんどすべての人がきちんとマスクをしている。こういうのが行動変容ということなのかもしれない。日本で新型コロナの感染者数が少ないのは、確実にこういう部分に起因するということはあるのかもしれないとは実感するところ。

深夜の告白

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  • 発売日: 2011/02/15
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  フィルムノワールの傑作として評判の映画。BSプレミアムで放映されていたのを録画したものを昨晩遅く、というか未明に観た。監督はビリー・ワイルダー、脚本はワイルダーレイモンド・チャンドラーの共作。保険金殺人という当時としては物珍しい題材を一級のサスペンス映画にしたのはワイルダーの凄腕といっていいかも。

 タイトルクレジットの雰囲気はどことなくヒチコック調、そうこの映画は全体としてヒチコックタッチな感じがある。チャンドラーが脚本に参加しているということでヒチコックの『見知らぬ乗客』を連想する部分もあるが、この映画の制作は1951年。『深夜の告白』は1944年作品で、ヒチコックがワイルダーの出自でもあるドイツ風の暗い雰囲気に影響を受けたともいえるのかも。

 主演のフレッド・マクマレイは飄々とした感じの役者で、この映画の中ではちょっと浮いた感じがある。ミス・キャストとはいえないが、もう少し浮ついた2枚目をもってきてもよかったか。

 共演のバーバラ・スタンウィックは自分たちが知っているのはテレビドラマ『バークレイ牧場』の女牧場主。やや中年のイメージなのだが、さすがハリウッドで活躍した女優だけに本当に美人。この映画では魔性の女を演じている。こういう男を狂わせる女性をファム・ファタールというのだとか。

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ファム・ファタール - Wikipedia

 その他では保険会社の調査員役おエドワード・G・ロビンソンが好演。この人は独特な変顔でギャング映画で最後に殺される悪党のボスというイメージが強いが、この映画ではある種の狂言回しとなっている。

 本当によくできた映画で、ビリー・ワイルダーの映画の中でも五本の指に入るのではないかと思う。これまでいろいろと情報は入ってきていたし、いつか観たいと思いつつ果たせなかったけど、こういうタイミングで観ることができてよかったと思う。全体としていささか古い古典的な映画といってしまえばそれまでだが、ストーリーの引っ張りかた、引き締めかた、すべてにおいて隙のない作りだ。ミステリー映画はこのように作るというお手本、教科書のような映画といえるかもしれない。

 保険の営業マンと人妻の逢瀬にいたる過程がややもすれば短絡的といえるかもしれないが、人妻の蠱惑的で意図的に誰かを利用しようとする思惑を匂わせることで、安易な設定が安易ではなくなるような仕掛けもある。

 もともと実際にあった保険金殺人事件を元にした小説の映画化だというが、そうしたリアルな事件をうまく映画化してみせるのはまさにハリウッドの職人芸。ビリー・ワイルダーという職人監督の為せる技かもしれない。

 余談だがこの映画で、アンクレットというちょっとエロチックなアクセサリーを知った男って多分多いと思う。

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