東近美「重要文化財の秘密」再訪 (4月21日)

 胃の検査の後、神保町の古本屋を冷かしてから向かったのは竹橋の東近美。

 このパターン、まったく去年と同じ。去年は4月19日に胃カメラのんで、その後東近美で「鏑木清方展」に行っている。当初は東京ステーションギャラリーの「大阪の日本画展」も考えたのだが、「重要文化財の秘密」も展示替えがあるので会期中に三度くらい足を運ぶ必要もあるかと考えた。

 前回訪れた後に展示リストにチェックを入れておいたのだが、まず2点展示されていた菱田春草は姿を消した。5月のGW明けに《黒き猫》が出品される予定。また鏑木清方の《築地明石町》、《新富町》、《浜町河岸》、《三遊亭円朝像》も4月16日で終了。今回の企画展で鏑木作品はお役目ごめんとなっている。そして前回、けっこう印象深く残った福田平八郎《漣》も終了している。

 そうした中で新たに出品されたものはこのへん。

《室君》
《室君》 松岡映丘 1916年 永青文庫熊本県立美術館寄託)

 鎌倉時代播州の室の津の遊女の憂愁を描いたもので、映丘は五月雨の降る物淋しい気な心持の中年増の遊女の悲哀を現わそうとしたという。中年増というと年齢的には25前後ということだろうか。

 色彩感覚、装飾性など申し分ないがなんとなく畳や庇、縁側の遠近感が微妙にずれているような気もする。これは当時でも「遠近感の調節の破れ」や「畳の透視画法の誤り」などを指摘する批評家の声があったという。図録によればこの描法は大和絵の伝統的な手法に則ったものであり、屏風をジグザグに折って展示した際には全体として自然な空間として見ることができると解説されている。

 とはいえなんとなくパースのゆがんだ相は確かに感じる。あえて意図した微妙に歪んだ空間表現ととるべきだろうか。

 また左側の女性の侘し気なたたずまいと妖艶さ。同じように縁側に寝そべる遊女を描いた土田麦僊の《湯女》を連想させる。もっとも《室君》は1916年、《湯女》1918年より早い。金鈴社の映丘と国画創作協会の麦僊は接点はあるのかどうか。でも麦僊は《室君》を多分見ているような気がする。

《洞窟の頼朝》

《洞窟の頼朝》 前田青邨 1929年 大倉集古館

 有名な絵だ。大倉集古館には行ったこともないのだが、この絵どこかで見た記憶があるのだが、どうにも思い出せない。とにかく印象深く残る作品。

 図録解説によれば、武具の描写は綿密な時代考証を重ねていること、頼朝の容貌は従来の神護寺所蔵の藤原隆信筆の肖像画ではなく、小堀靹音の《武者(もののふ)図》を参考にしているのだとか。

 たしかに一般的に源頼朝というと教科書に載っていた国宝、藤原隆信筆《伝源頼朝像》を思い浮かべる。最近ではこれを足利直義像とする説が一般的らしい。

《伝源頼朝像》 藤原隆信筆 神護寺

 これに対して前田青邨が参考にしたという小堀靹音の絵はこれ。大和絵風なのだというが、どうも現代的な意味あいからすると、どこかマンガチックな雰囲気もある。そしてどことなく武者人形の雰囲気のような感じもする。靹音の絵にしろ、青邨の絵にしろそのまま武者人形として制作されても良さげな気もしないでもない。

《武者図》 小堀靹音 東京藝術大学
《髪》

《髪》 小林古径 1931年 永青文庫熊本県立美術館寄託)

 今回、一番惹かれた作品はこれかもしれない。図録解説によれば、「厳格な鉄線描と無駄を配した画面構成のためか、発表当時の展評ではエロティシズムの欠如が多く指摘された」という。ただしエロティシズムを押さえた描写によりこの絵は裸体を描いていながら、ある種の普遍性を得たような気もする。単なる美人画、風俗画とは異なる部分、静謐さ感じさせる。

 もっとも個人的な趣味でいえば、古径といえば東近美所蔵の《極楽井》の方が好きでもある。重文指定がなぜ《極楽井》ではなくこちらなのか。同じような思いは、下村観山が《木の間の秋》ではなく《弱法師》だったり、平福百穂が《荒磯》でなく《豫譲》であったりとか、そのへんの恨みみたいな部分でもある。

 まあ結局のところ美的価値は趣味判断ということに収斂される。

《母子》

《母子》 上村松園 1934年 東京国立近代美術館

 《序の舞》とともに近代女流画家で唯一重文指定される上村松園の作品。実はこれも初めて観る。年に4~5回、東近美に通い続けていてもなぜか一度も目にすることもなく、京都で開かれた上村松園の回顧展に行ったときも展示替えの関係で観ることがなかった。芸術作品にはそうした巡り合わせというか、星廻りみたいなものがあったりもするものだ。そういう意味では、今回初めて目にすることができて嬉しく思う。

 ただし、個人的には最近は上村松園をどこか冷めた目で見るようになってきている。一時期みたいにとにかく寝ても覚めても松園、松園みたいな感じではなくなっている。マイブームが去ったというところか。

 眉をそり落とした青眉に鉄漿という江戸から明治初期の風俗、モデルは息子松篁の嫁たね、抱かれた幼子は松園にとっての孫淳之とされる。しかし描かれる母には、松園の母仲子の面影が投影されていて、母性の表現というよりも亡き母を追慕する感情が表されていると。さながら息子の嫁と孫をモデルにしながら、実は母によって抱かれた実子松篁というダブルイメージになっているという。

 とはいえこの絵に対して自分はというと、ありきたりな美しさ、いつもの上村松園の絵みたいなものしか感じない。それはまあ、子どもの頃に母と生き別れて以来、母という存在を知らずに育ってしまった自身の心性によるのかもしれない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

湖畔

《湖畔》 黒田清輝 1897年 東京国立博物館

 黒田清輝のある種代名詞のような作品。これは2016年にトーハクで開かれた黒田清輝の大回顧展以来だろうか。とにかく有名な絵である。1897年(明治30年)の夏、のちに妻となる照子をモデルにしている。静謐で純なるものとそれとは真逆な親密さ、男性目線からのエロティックな雰囲気もある。ある種のそそる感覚。

 黒田清輝の絵には、例えばこの絵の10年後に描かれた裸婦画《野辺》などにも共通するが、どこか男性目線的なエロい浪漫みたいなものを感じさせる。このへんは師匠のラファエル・コランと共通するような部分かもしれない。そのへんを風俗画と断じてもいいのかもしれないが、それよりもこの絵はなんていうのだろう、油彩画による美人画の制作と考えるとなんとなくしっくりくるような気もしないでもない。

 写実主義、外光派など西洋絵画の技法を導入するなかで、絵画が大衆に受容される手っ取り早いモチーフとして浮世絵や日本画の一ジャンルになっていた美人画を取り入れた。多分、そんなところではないかと。

 こういう淡い色彩、あえて油彩画の強い質感を避けた点などは、図録解説によれば日本的な油彩画の典型を完成せしめたものとされているという。まあこの薄い寒色系の淡い色彩などは日本的情緒そのもの。そこに清純な女性をモデルにして描く。照子は当時23歳で清輝は31歳。もろもろ俗っぽい想像もないではないが、まあどうでもいい話だ。

 油彩による日本的美人画の創造という点でいえば、実は藤島武二や岡田三郎助の方が、表現、技法などにも秀でているような気もしないでもない。当時の歴史的限界、洋画の受容期といってしまえばそれまでだろうけど。

 《湖畔》は教科書に掲載され切手にもなっている。多分、この絵をみんなが知っているのも切手の存在が大きいかもしれない。実は小学生の頃の一時期切手のコレクションにハマったことがある。というか当時は一大切手ブームがあって、当時の子どもたち、とくに男の子はみんな切手を集めていたような気もする。みんな記念切手の発売時には郵便局に行き、シート買いしたものだ。切手の下に大蔵省印刷局と表記されているものは価値が高いとかいろいろお約束もあった。

 試しに本棚を眺めていたら、当時切手を集めたときの小さなストックブックがまだ残っていた。開くとバラバラになりそうだ。60年近く前のものだからいたしかたない。その中にこの《湖畔》もありました。ああ、懐かしい。

 当時、浮世絵や日本画を題材にする切手は沢山あったようで、師宣の《見返り美人》や広重の《月に雁》なんかが有名だ。それらは当時でも高値で取引され、子どもにはとても手の出るものではなかった記憶がある。自分の切手コレクションの中には、《湖畔》以外にも土田麦僊の《舞妓林泉》、上村松園《序の舞》などがあった。自分が日本画に親和性があるのは、こうした切手コレクションが最初にあったからかもしれない。

 どうでもいい話ではあるけれど、同じ重文の萬鉄五郎の《裸体美人》は、当時東京美術学校の教授だった黒田清輝とその写実主義や外光主義への反発から、黒田の《野辺》へのアンチテーゼとして描かれたという。それは黒田のバックボーンでもある西欧絵画の新古典主義自然主義印象主義に対して、ゴッホマティスなどの強烈な色彩と表現主義による対峙というのが一般的だ。

 萬鉄五郎は《野辺》から《裸体美人》を描いたとすれば、この《湖畔》をネタにしてもっと強烈な夫人像を描いても面白かったかもしれない。まあ単なる妄想の類ではあるけれど。