東京富士美術館再訪「上村松園・松篁・淳之 三代展」

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 閉幕直前の富士美「上村松園・松篁・淳之 三代展」に行って来た。開幕日に行っているけれど、もう一度来たいと思っていた。

東京富士美術館「上村松園・松篁・淳之 三代展」 (2月11日) - トムジィの日常雑記

 ネットで会期を調べたら日曜までということで慌てて出かけることにした。大型企画なのでもう少し会期長くてもいいのではと思うけど、おそらく多くの貸し出し出展されている松伯美術館の都合とかもあるのかもしれない。

 1時間と少し駆け足で、やはり松園作品を中心に観たのだが、ある種の緊張感を感じる画面をじっくり観ているとけっこう疲れてくる。自分的には松園作品というのはどこか襟を正して観るみたいなところがあり、リラックスして楽しむということができない。松園が美人画を通して理想の美を描こうとしていたということを受け止めると、なにか姿勢を正して鑑賞しなくてはと思ってしまう。ましては上村松園の絵に対する意気込みはこんなにも重たいのだから。

真・善・美の境地に達した本格的な美人画を描きたい。私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描きだした-という気持ちから、それを描いてきたのである。

上村松園『棲霞軒雑記』(上村松園) P88

 今回の企画展では、絵と絵の間に上村松園の著作からの引用文がパネルとして展示してあった。その中に載っていたものだが、美人画に対する思いというか重い熱量を感じさせる言葉だ。しかし一方でもっと卑俗な形での反撥というか揶揄したくなる気持ちにもさせられる部分もなきにしもだ。

 それは同じく帝展に出品された作品に対する松園の感想の言葉についてもだ。

品のない、薄っぺらなけばけばした絵ばかり目につきます。

それがモダンというものでしょうかしら?

そうしなければ、モダンな味というものは出せないものでしょうかしら?

モダンにするために、何もそうわざに品を落として薄っぺらな絵にしなくても、いいように私は思います。

「帝展の美人画」(上村松園) P214-215

 これは第10回帝展を観に行った時の感想のようだ。ネットでググる青空文庫に全文がアップされていた。

上村松園 帝展の美人画

 いやはやなんともダイレクトな物言いである。ここからは松園の保守的が画観のようなものが感じられる。モダンな風潮に置いてけぼれをくっても、自分は自分の道を行くというベテラン作家の意地のようなものも感じられる。

 多分、モダンということでいえばおそらくこの時の帝展で話題となり特選首席となった伊藤深水『秋晴』あたりがやり玉にあがっているのかもしれない。

今年は伊東深水さんの「秋晴」がえろう評判でしたが、あけすけにいえば、私は一向感心しませなんだ、どうもまだ奥の方から出ているものが足りないと思います。

(同)

 さらにいえば向こう受けするような大作に対しても辛辣な物言いである。「どぎつい岩ものをゴテゴテと盛り上げて、それで厚みがあるとかいう風な」近頃の大会場芸術などとはまさに会場芸術を否定するような風である。

 こんな文言を例えば川端龍子はどう受け止めたのだろうと思ったりもするが、もともと院展を中心に活躍し1929年には日本美術院を脱退して青龍社を結成しているので帝展とは無関係かもしれない。しかし松園のこの文が龍子の目にとまれば、苦々しく思うか、あるいは苦笑でもされたのかどうか。

 上村松園の作品を観ていると、女性の微細な表情や細面、どこかふっくらした部分とか、目尻の描き分けなどで本当に細かい部分での相違はあるにせよ、基本的には同じようなの容貌、同じような面相である。これは肉筆浮世絵の美人画の踏襲であり、ある種のスタイルなのかもしれない。そういうスタイル、フォーマット(美人画)の中での理想形の追求というところが、凡人には理解しがたい部分かもしれない。

 松園の美人画を理解し鑑賞するためには、当時の風俗への理解、女性の髷や着物などへの知識、さらには松園が画題として多くとりあげた能謡曲への知識なども必要なのかもしれないが、そのへんはニワカのヘボ鑑賞者としては理解の外のことになるかもしれない。ただ出来れば浮世絵美人画のフォーマットについては、すこし調べたり考えたりしてみたいと思ったりもしている。