群馬県立近代美術館-「理想の書物」 (10月8日)

 土曜日、群馬県立近代美術館に行って来た。例によって妻のお出かけ欲求に沿って。

 東京富士美術館の休館、サトエ記念21世紀美術館の閉館と、近くで気軽に行けるところが少なくなってきている。ここは車で1時間弱で行ける貴重な美術館、長期休館が明けの8月に一度行っている。

理想の書物

理想の書物とは

 開催していたのは、19世紀イギリスの美しいブックデザインの書物を紹介する「理想の書物-英国19世紀挿絵本のプライヴェート・プレスの世界へ」展。これは、ウィリアム・モリスを中心として、活字デザインやレイアウト、装飾デザインを新たにしたプライベートプレス運動とその作品的な書物を展示紹介する企画展。モリスたちが追い求めたのは、「用紙、活字、紙面デザイン、装丁などすべての面で美的な「理想の書物」だった。

 そうした書物作りでは、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイやダンテ・ゲイブリル・ロセッテイ、エドワード・バーン=ジョーンズといったラファエル前派の画家たちも挿絵で参加していて、そのへんも見もの。

 こうしつあ美しい書籍作りは、今でいう私家版に近い小規模な工房で手仕事で作られていた。そういう意味では好事家対象の特殊な書籍=芸術品というものだったようだ。そこでは選びぬかれた用紙、活字、紙面デザイン、装丁などにより美術品的な書物が作られた。となるとコンテンツ=中身はということになるが、そうした美術工芸品に相応しい評価の定まった古典作品が選ばれることが多かったようだ。

 またそうしたプライペート・プレスの前提にあっては、すでに美しい博覧的な図譜や絵本が作られていて、美しい活字、美しい挿絵などの様々な印刷技術の発展的な素地があったようだ。

英国のプライヴェート・プレス

 本展の展覧会ガイド「理想の書物」から主要なプライヴェート・プレスを紹介する。

プライヴェート・プレスとは>

自ら出版すべき内容を選び、手仕事による小規模の工房で、活字、紙面デザイン、装丁、製本すべてを特別に作り込んだ芸術性の高い本作りを行う私家版出版社

【ケルムスコット・プレス】

商業目的の大量生産による書物の質が堕落すると考えたウィリアム・モリスが、手作りによる「理想の書物」を目指して1891年に設立したプレス・19世紀イギリス三大プライヴェート・プレスのひとつ。

【ダヴズ・プレス】

モリスの協力者であったエメリー・ウォーカーと、製本に精通したコプデン=サンダースンによって設立されたケルムスコット・プレスの後継にあたるプレス。19世紀イギリス三大プライヴェート・プレスのひとつ。

【アシェンディーン・プレス】

大手出版社に勤めていたS.J.ホーンビーが余暇にはじめたプレス。イタリア・ルネサンスの本づくりに影響を受け『ダンテ著作集』など14、15世紀イタリア文学出版した。イギリス三大プライヴェート・プレスのひとつ。

【ヴェイル・プレス】

ケルムスコット・プレスに触発され、チャールズ・リケッツとチャールズ・シャノンが設立したプレス。イタリア・ルネサンスの書物や、同時代のアール・ヌーヴォーなどのデザインに影響を受けた本をつくった。

【ゴールデン・コッカレル・プレス】

H.M.テーラー1920年に設立し5年後にロバート・ギビングズが引き継いだプレス。20世紀の重要な活字を多くデザインしたエリック・ギルの活字が使われていることでも知られる。

木口木版技法

『四足獣概説』 原画・刻版 トマス・ビューイック

 この本は木口木版技法を確立し、18世紀後半以降の挿絵に変えたトマス・ビューイックの動物による博物誌。それまで不正確だった動物の描写を写実的な正確さで読者に伝えたものだという。

 木口木版とは木を輪切りにした硬質な面を版木にした技法。木を縦に切り出した板よりも硬質なため、銅版画のように細密な表現ができる。

木口木版 - こぐちもくはん | 武蔵野美術大学 造形ファイル (2022年10月10日閲覧)

 この木口木版画と活版を組み合わせることで、細密で写実的な図版を使った図鑑的な書籍が可能になったのだという。

 ビュイックに関してはこのHPが詳しい。

近代木版画の父トマス・ビュイック | アトリエ・ブランカ 新ART BLOG

(閲覧2022年10月10日)

イギリスの鳥類図譜作者 - akihitosuzuki's diary (閲覧2022年10月10日)

Bewick Society (閲覧2022年10月10日)

ウィリアム・モリス『チョーサー著作集』

『チョーサー著作集』(F.S.エリス編纂) 郡山市立美術館蔵

 ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスで出版され、バーン=ジョーンズが挿絵を、モリスが紙面デザインを担当した。その印刷の美しさは世界三大美書のひとつとされている。*1

 極端に装飾的なモリスのデザインしたこの手の美書は、読みやすさとかを度外視したベージごとの作品=アートそのものだとは思う。ただしどこか病的なものさえ感じてしまう部分がある。ある種の空間恐怖、モチーフで空間を埋め尽くさずにはいられないような病理性を感じる部分もある。

活字組みと主要活字

 この企画展で紹介される本は、ブックデザイナーにとってはある程度知られているものが多いかもしれない。自分のように長く出版業界で過ごしたとはいえ、営業畑、流通畑の者には新しく知るようなことも多かった。この企画展は基本、美術愛好家や本好きに向いているのだろうけど、本作りをしている編集者にもけっこう興味深い部分があるとは思った。

 展覧会ガイドに載っていた主要な活字組みや主要活字についても面白かった。そもそもゴシック体自体が、例の美術におけるゴシック様式と同様に「ゴシック’(野蛮な)」からきているのだとか。ゴシックは野蛮なんですね。

(『理想の書物展覧会ガイド』より)

現代のプライヴェート・プレス

 しかし出版業界は売上的には最盛期の半分以下に落ち込んでいて、ほとんど業界全が死滅寸前に来ている。情報媒体としてはネット情報に駆逐されつつあり、商品としてもコミックなどを中心に電子書籍に取って代わられつつある。大手出版社はすでに本や雑誌の売上よりも、これまでに培ってきたコンテンツや版権ビジネスにシフトしている。コミックは電子に代わられつつある。そうした潮流に取り残された中小出版社はじわじわと淘汰されつつある。

 さらにいえば、出版流通を担ってきた取次、書店もほとんど青息吐息。出版取次は出版以外に活路を見い出そうとしている。そして書店は中小を中心に廃業が相次ぐ状態だ。

 こうしたほぼ終焉を迎えつつある出版業界にあっても、紙の出版物を愛する読者家は少なからず存在する。また研究者にとっては紙の専門書は必需のものである。ただし大量印刷、大量販売によるビジネスモデルを形成してきた出版自体は成立しなくなっている。本はもはやニッチな商品、読者=書物愛好家という限られた受容者を相手にしたスモール・ビジネスなのだろう。

 そういう時代にあっては、19世紀末に書物の大量生産による粗製品に背を向け、書体、ペーjデザイン、挿絵、装丁などに意匠を凝らしたアート作品としての「理想の書」を追い求め、プライヴェート・プレス(=私家本)を作ったウィリアム・モリスらの取組を現代に活かす考え方も可能かもしれない。

 出版物がニッチなものになったのであれば、少部数の芸術性の高い本作りを行うプライヴェート・プレスでのビジネスモデルを模索することが出来るかもしれない。本は装丁やページデザインといった見た目の部分も重要だが、実はもっと重要なのはその内容=コンテンツである。新たな、新機軸のコンテンツを、特定の読者に提供するためのプライヴェート・プレス。大量印刷、大量発行に支えられたビジネスとは別の形を模索できないものか。

 さらにいえば、書体やページデザインは実は電子書籍においても有効かもしれない。現在の電子書籍はテキストベースではフォントの大きさや行間などはビューアーによって変えられる。コミックはページ送りなどに特化したビューアーが主流だ。しかし、ことテキストに限っていえば、読みやすい書体が選ばれているのかどうかというとやや微妙である。どちらかというとハードウェアやOSに依拠した部分が多いような気もしないでもない。

 さらにいえばページデザインもどちらかというと、雑誌やHPのデザインに依拠しそれを踏襲したものも多い。図版とテキストの組み合わせという点でいうと、かなり貧弱なものになっているような気がしてならない。

 紙の出版物で極められているページデザインが電子本ではあまり活かされていないように思えるし、テキストベースのためリンクも縦横にという風になっていない。

 「理想の書物」という今回の企画展を観て思ったのは、21世紀の新しい「理想の書物」、電子書籍における、フォント=書体、ページデザイン、装丁(カバーデザイン)、挿絵、それらを見やすく、また操作が簡単なビューアーの追求ということも可能なのではないかと。長く出版業界の末端にいて、その終焉が訪れようとした時期に自信のキャリアを終えた者としては、なんとなくだが新たな理想の書を追求するというアプローチは可能ではないかと、そんなことを漠然と思った。

*1:残りの二つは、ダブス・プレス版『欽定訳聖書』、アシェンデン・プレス版『ダンテ全集』