最近観た映画②

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を観た

 これも劇場で一度観ている。

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を観る - トムジィの日常雑記

 政治的なスキャンダルを追求するアメリカジャーナリズムの戦いを描いたもの。こういうテーマがきちんとメジャーな映画として発表されるハリウッドの懐深さにまず驚く。そして第一級の娯楽映画に仕立て上げるところも。

 監督は巨匠スピルバーグ、主演はワシントン・ポストの社主を演じるメリル・ストリープと同じく編集主幹役のトム・ハンクス。ハリウッドの大監督、大スターが社会派ドラマに正面から取り組んだものだ。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 - Wikipedia

 映画を観る前からいちおうペンタゴン・ペーパーズについては、もちろん知ってはいたけど一応おさらい。

ペンタゴン・ペーパーズ - Wikipedia

1945年から1967年までの米国のベトナムへの政治的および軍事的関与を記した文書であり、国際安全保障問題担当国防次官補のジョン・セオドア・マクノートン(英語版)(海軍長官就任直前に死亡)が命じて、レスリー・ハワード・ゲルブ(英語版)(後に国務省軍政局長)が中心になってまとめ、ポール・C・ウォンキ(英語版)国防次官補に提出された極秘文書。

 この最高機密文書を内部告発したのがダニエル・エルズバーグ博士で、極秘に文書を持ち出し、ニューヨーク・タイムズワシントン・ポストに持ち込んだ。後にホワイトハウスの秘密工作班が、エルズバーグのかかっていた精神分析医から彼のカルテを非合法に盗み出そうとしたことも、ウォーターゲート事件の過程で明らかになったりもした。

 アメリカ政府のベトナムへの不当な関与や、情報の隠蔽などがこのペーパーズの中で明らかにされたが、そうした文書-政府にとって不都合な事実をきちんと記録したこと自体はアメリカ民主主義の証明といえるかもしれない。これが日本だったら、まずこういう不都合な事実を事実として、後世のために残すなどということはしないだろう。逆に過去にそういう文書が残されていたら、とっくに消却廃棄するか改竄してしまうだろう。

 こういう映画をみると、アメリカという国は様々な問題を抱えているが、それでも民主主義の理想をきちんと守ろうとする市民が各階層にあることがわかるような気がする。翻って日本はというと・・・・・・・・・・・・、悲しくなるような。

 とはいえこの映画で描かれるワシントン・ポストのトップである社主キャサリン・グラハムはというと、彼の父親で金融業者でありポスト紙を買収してオーナーとなったユージン・メイヤーの娘であり、上流階級のお嬢様でもあった。彼女はユージーンがポスト紙の発行者に指名したフィル・グラハムと結婚したが、後にフィルが自殺したためポスト紙のオーナーになった。金持ちの子女ということで、上流階級の中ではコネクションも多かった。そのへんのことが映画の中にもきちんと織り込まれている。

 ちなみにユージン・メイヤーは共和党支持者であったようで、ワシントン・ポスト紙がもともとリベラルかつ民主党支持ということでもなかったようだ。どうでもいいがユージーンはポール・マッカートニーと同じ誕生日だ。ただしキャサリン・グラハムや編集主幹のベン・ブラッドリーはJ・F・ケネディと親しかったので、70年代のポスト紙はリベラルかつ民主党に近いところもあったかもしれない。

 ただし、この映画の中ではペンタゴン・ペーパーズの報道を巡って、当時のニクソン政権とポスト紙が対峙する形になっている。しかしベトナム戦争への関与という点でいえば、ニクソン以前の民主党政権ケネディ、ジョンソン政権の方に大きな責めがあるので、この映画を共和党系保守的な政府対リベラルなマスコミとの闘いというような図式で語るのは性急かもしれない。ポスト紙の中にも民主党支持者もいれば共和党支持者もいる。政党支持についてそれぞれの立場を尊重し合っている。そのうえであえていえば、アメリカでは民主党支持者にしろ共和党支持者にしろ、報道の自由は最大限に守られるべきこと、報道は権力を監視することが使命であること、こうした点での共通認識ができている。

 このへんは70年代アメリカの共通認識だけに、トランプを経た現在でも有効かどうか。でもこの映画はトランプ政権が誕生した2017年であることに留意しておく必要があるかもしれない。

 この映画では、最終的に政権が求めたペンタゴン・ペーパーズ報道差し止めの訴えは大陪審で否決される。終始、後ろ姿で電話する姿で描かれるニクソン大統領らしき人物が、ワシントンポストに露骨な敵愾心を示すシーンが描かれる。そして民主党本部への何物かの侵入のシーンで暗示的にインサートされて映画は終わる。その後の展開は、歴史の知るところだ。

大統領の陰謀

 という訳で、「ペンタゴン・ペーパーズ」が最後に民主党本部への侵入事件を描いて終わったので、なんとなくその続編的な形でのこの映画を深夜観た。いや懐かしい。

 1976年制作、1978年日本公開。アラン・J・パクラ監督、ロバート・レッドフォードダスティン・ホフマン主演。いや二人とも若い。

 もちろんこの映画は公開当時も観ているし、それからも時々見直している。DVDも持っている。DVDで観るとけっこう映像が粗かったりもする。ネット配信の方が観やすいかもしれない。

大統領の陰謀 - Wikipedia

 本作はウォーター・ゲート時間を扱っている。そのへんの知識がないとちょっとしんどいかもしれない。自分らのような古い世代だと、ウォーターゲート事件はほぼほぼ同時代的に新聞やテレビでの報道で接している。1972年の発覚からニクソン大統領の辞任する1974年までのアメリカの一大政治的スキャンダルである。

ウォーターゲート事件 - Wikipedia

 ワシントンの民主党本部への盗聴侵入事件、それが実はニクソン大統領再選委員会の元で行なわれたことが明らかにされている。捜査や報道に対してのニクソン政権の妨害工作、そしれ再選委員会にとどまらず実はその盗聴侵入はニクソン大統領の側近による指示のものであることも判っていく。

 最終的にニクソン大統領は議会での弾劾を忌避するために、在任中に辞任した初めての大統領となる。そして後任となったフォード大統領はニクソンのすべての疑惑、事件への関与をうやむやにしたまま、彼への訴追のすべてを赦免する。その後の調査から、実は事件についてはニクソンは関与しており、直接指示をしているところもあったということが明らかになっているようだ。

 この事件については、映画でも描かれるとおりにワシントン・ポストの若手記者が丹念な取材を行っていく。そういう意味ではこの映画はけっこう地味な記者の日常的な取材活動を絵が描いている。それでいて面白く観ることができるのは、大統領とその側近による政治的スキャンダルという大きな事件と、当時すでに若手の大スターだったロバート・レッドフォードダスティン・ホフマンの好演技、さらに脇を固める重鎮的な俳優陣、ジェーソン・ロバーツ、ジャック・ウォーデンマーティン・バルサム等によるところが大きいだろう。

 ワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドリーをこの映画ではジェーソン・ロバーツが演じている。彼はこの映画でアカデミー助演男優賞を受賞している(翌年「ジュリア」でも受賞)。「ペンタゴン・ペーパーズ」ではこの役をトム・ハンクスが演じているので、どうしても比べてしまう。トム・ハンクスも当然のごとく名演技なのだが、どうしてもジェーソン・ロバーツと比べると弱い。

 会議や部下と話すとき、いつも長い脚を机の上にのせながら話をする姿や、部下に対して「お前たちを信頼する」と取材の続行を許可し、それから去っていくときに「信頼するのは苦手だが」と付け加え、背中で独特の表情を創り出す。リアルなベン・ブラッドリーもきっとこんな感じだっただろうと思わせる。

 「ジュリア」でけっして書かないのに作家の匂いを全面に漂わせながらダシール・ハメットを演じたのも見事だった。1976年、1977年のロバーツは役に恵まれたが、その役を見事に演じきったのだと思う。

 「大統領の陰謀」はもともと取材したボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインがまとめたノンフィクションの『大統領の陰謀 ニクソンを追いつめた300日』を脚色したものだ。この本はピューリッツァ賞を受賞したニュージャナーナリズムの傑作だ。今は文庫本で早川とかで読めるようだったが、かっては立風書房から単行本で出ていたと思う。翻訳は当時ニューヨーカー系の小粋な都市小説を日本に紹介していた常盤新平だったか。自分も発売されてすぐに読んだから、多分映画より先に本を読んでいたように記憶している。

 この本は一応共著となっているが、たしかボブ・ウッドワードがかなりの部分を執筆している。映画の中でレッドフォードのセリフで出てくるが、彼は共和党の支持者でもある。またカール・バーンスタインはというと、一時期ノーラ・エフロンと結婚していて、エフロンの監督作品「心みだれて」の中でその結婚生活が赤裸々に描かれている。

 エフロンによるとバーンスタインは、たしかセックス依存症で不倫を繰り返していたということらしい。そういえば映画「ペンタゴン・ペーパーズ」のラスト・クレジットには「ノーラ・エフロンに捧ぐ」という献辞があった。ノーラ・エフロンは2012年に白血病で亡くなっているのだが、スピルバーグメリル・ストリープトム・ハンクスはエフロンと親しかったことでこの献辞が送られたのかもしれない。さらにいえば女性映画監督としてパイオニア的存在だった彼女と映画の主人公でもある主要新聞紙で初めての女性社主でもあったワシントン・ポストのキャサリン・グラハムを重ね合わせるみたいな部分もあったかもしれない。

 アメリカでは政治的なテーマもきちんと娯楽作品として描き、それが興行的にも成功する。そのへんがアメリカの民主主義の定着度合みたいな部分でもあるように思う。一方日本はといえばどうか。森友問題を連想させる「新聞記者」のような作品もないではないが、あれもあくまで連想するだけだ。そしてそれら受容するだけの大衆の側の政治的成熟度が多分ない。だから一瞬話題になっても消えてしまう。

「森友事件、もう終わったことでしょ」

「政治とか難しいこと、興味ないし」

 そういうものだ。