『Mank/マンク』を観る

f:id:tomzt:20210125110415j:plain

 Netflix(ネットフリックス)制作の映画である。ネットフリックスは言わずと知れた定額動画配信サービスの世界的運営会社である。最早規模的には世界でも有数の映画製作会社であり、こうした独自映画の制作と独占配信によってさらなるユーザーの獲得を行っている。

 さて『Mank/マンク』である。

MANK | Netflix Official Site

Mank/マンク - Wikipedia

 『ゾディアック』『ソーシャル・ネットワーク』『ドラゴン・タトゥーの女』などで知られるディヴィッド・フィンチャー監督作品。名画中の名画といわれるオーソン・ウェルズの『市民ケーン』の舞台裏を脚本を書いたハーマン・J・マンキーウィッツにスポットをあてて描いた作品である。全編モノクロ作品であり、マンキーウィッツの回想と執筆シーンが交互に描かれていく。

 回想と現在とが複層的に描かれる点、モノクロでドキュメンタリー的な手法であるところなどは、題材とされる『市民ケーン』の流れをそのまま踏襲している。『市民ケーン』は、当時メディアに絶大な勢力を誇っていた新聞王ウィリアム・ハーストをモデルにしていたことにより、スキャンダラスにとりあげられたのだが、それがこの映画のメインテーマとして取り上げられている。

 ハーストをモデルに据えた物語は、ハースト側から様々な妨害に晒される。さらにハーマン・J・マンキーウィッツがなぜハーストを取り上げたかを、フラッシュバックのように挿入される回想シーンによって明らかにしていく。もともとシカゴで新聞記者としてキャリアを出発させたハーマンは、ニューヨークで劇評家として名をなし、ハリウッドに招かれて既知に富む映画シナリオを書いて成功する。そしてハーストに目をかけられ取り巻きの一人となり、ハーストの愛人の若い女優とも友情を結ぶ。

 いわばハーマンにとってハーストは自らを加護する権力者でもあり、言いたいことをズケズケと言ってもそれを面白がってくれるタニマチでもある。一方で皮肉屋で反権力的志向をもつハーマンからすればハーストは批判や揶揄すべき対象、さらには強大な資本家として嘲笑すべき対象でもある。

 映画の後半の回想シーンで、仮想して集まるパーティに酔っぱらって現れたハーマンは、いつもの皮肉な言動が度が過ぎ、パーティーを中断させてしまう。ハーマンはパーティーの場で嘔吐し、出席者はみな席を外してしまう。その中でハーストはハーマンに寄り添い、猿回しの猿が度を越したことを戒めて彼を玄関まで誘い、あくまでソフトにハーマンをたたき出す。

 ハーマンにとってハーストは愛憎はんばする対象であり、それが『市民ケーン』の複層的な物語を構成した傑作シナリオとなっていく。それがこの映画の肝といえるのかもしれない。

 ハーマン・J・マンキーウィッツを演じるのは名優にして怪優ゲイリー・オールドマン。当時42~43歳のハーマンにしてはちょっと老け過ぎだろうというメイクアップなのだが、ラストにアカデミー賞受賞インタビューに答えるハーマンの実写が映されると、オールドマンが実際のハーマンによく似せているのがよくわかる。しかし昔の中年男性というのは、今でいうと優に20は上に見える。実写のハーマンも見かけはまるで60~70代みたいだ。

 その他ではハーストの愛人にして、ハーストが金の力でスター女優に仕立てようとしたマリオン・デイヴィス役をアマンダ・セーフライド、ハーマンの秘書役にリリー・コリンズなどが出演している。このリリー・コリンズは細身の美人だが、なんとフィル・コリンズの娘だとか。

 さてと映画の方だが、正直いうとこの映画を楽しむには相当な学習が必要だ。まずは『市民ケーン』という映画についての知識、当時24歳で神童といわれたオーソン・ウェルズについての知識、そして戦前のアメリカにおいて強大な勢力を保持していた新聞王ウィリアム・ハーストについての知識、そういう予備知識がないと正直物語がすっと入ってこない。そういう映画だと思う。

 しかも映画は『市民ケーン』に倣って現在の物語と過去とをフラッシュバックのように交錯させながら進めていく。ハーマンの現在のシナリオ執筆と自分よりも20近く若い監督にしてプロデューサーであるオーソン・ウェルズとの関係、回想されるハーマンとハーストやその愛人との関係などが、はっきりいってわかりずらい。自分のように『市民ケーン』を何度も観ている者でも、物語がしっくりと入ってこないのだ。

 これって失敗作じゃないのと、いい加減途中からそんな思いも少しだけよぎった。とはいえ役者の演技はオールドマンにしろ、女優陣、脇役陣もみんないい。それぞれのシーン、カットもしっかりとしている。モノクロの重厚な画面もいい。観終わったとたんに爽快感だけを残して中身を全部忘れてしまうような類の娯楽映画とは違う。

 映画は長い時間枠の物語を2時間程度に圧縮したものであり、どんなに卓越した編集力があったとしても、どこかでダイジェスト感は出てくる。特にエピソードを際立たせ、そのシーンを繋ぐことによって物語を動かしていくのである。あえてその繋ぎをスムーズにしないのも演出力、編集力である。観客の想像力を喚起させる、観客の頭の中でストーリーを補完させる、そういう作品は沢山あるし、むしろ名画と呼ばれる難解な作品に多い。

 そういう点でいえば、この「Mank/マンク」はよく出来たバックステージものといえるかもしれない。ハーマン・J・マンキーウィッツの名は『市民ケーン』を観るにあたって当然覚えていた。『市民ケーン』は公式的には、ハーマンとオーソン・ウェルズの共同執筆とされているが、ハーマンの単独執筆を主張する批評家もおり、この映画のその説にたって物語を進めている。これに対して、共同執筆を強く主張しているのは映画監督にして批評家としても名高いピーター・ボグダノヴィッチなどがいるという。まあ定説としてはハーマンが第一稿を書き、それをオーソン・ウェルズが加筆訂正したというのことらしい。

 ハーマン・J・マンキーウィッツという名でひょっとしたらと調べると、あの著名な映画監督ジョセフ・L・マンキーウィッツはハーマンの弟であるという。この映画の中でもハーマンのコネでジョセフが映画の仕事にありつくエピソードや、『市民ケーン』の執筆中にジョセフがハーストを取り上げることにやんわりとたしなめるエピソードなどが挿入されている。

 ジョセフは、『市民ケーン』制作当時はまだプロデューサーとしてのキャリアを積んでいる途中だったが、戦後は映画監督として活躍した。『幽霊と未亡人』『三人の妻への手紙』『イブの総て』『クレオパトラ』『三人の女性への招待状』などが有名。小品で小粋な心理劇が得意な監督だったと記憶している。特に『三人の女性への招待状』は中学生くらいの時にテレビで放映されたのを観て、えらく面白い映画と思ったことを覚えている。さらにいえば『幽霊と未亡人』では音楽をヒチコック映画の映画音楽で有名なバーナード・ハーマンが担当していて、あの仰々しく観客を驚かせる音楽が楽しめる。DVDで観ていて最後にクレジットを確認したことも覚えている。

 ジョセフ・L・マンキーウィッツは大作『クレオパトラ』での失敗のため監督としてのキャリアを終了させた。映画自体は絢爛豪華なまさに映画の中の映画ともいうべき作品だったが、映画製作での度重なる不運により製作費がうなぎ上りとなった。映画自体は当時スキャンダルな関係が報じられていたエリザベス・テイラーリチャード・バートンの共演ということもあり大ヒットしたが、興行収入は製作費の半分程度となり20世紀フォックスは経営危機に陥った。この映画の失敗はマンキーウィッツの責めに帰すところではなく、彼自身も被害者的側面も多いらしいが、当時巨匠監督的地位にあった彼のキャリアは失墜した。

 マンキーウィッツという名は、ハーマンではなくジョセフ、JではなくLというのがオールドな映画ファンにとっては普通かと、そんなことを思い返している。

 シナリオライターという地味な存在にスポットライトをあてた映画という意味では、赤狩りで終われながら覆面脚本家としてアカデミー賞を受賞したダルトン・トランボを扱った『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』がある。モノクロということもあり『Mask/マンク』のほうが映画的重厚さがあるように感じるが、個人的には『トランボ』の方が好きかもしれない。

 さらにいえばシナリオライター、劇作家をメインに据えた映画としては、ジェイン・フォンダがリリアン・ヘルマンを演じた『ジュリア』がある。あの映画ではリリアン・ヘルマンのパートナーだったダシール・ハメットをジェイソン・ロバーツが演じている。なんとなくだが、脚本家、小説家のある種のプロトタイプともいう人物像はあのダシール・ハメットじゃないかと適当におもっている。

 『Mask/マンク』はバックステージものであり、1930年代~40年代のハリウッドのある種の雰囲気をよく描いている。そのへんも含めて映画好き、古い映画ファンにとっては魅力的な要素が多い。たまに観ては新たな発見ができるのではないかとそんな風に思っている。