兄の葬儀

 兄の葬儀を家族葬で行った。ここのところは兄の状態が悪く、病院への通院の付き添いや人工透析の送り迎えなど頻繁に関わっていたけれど、それまではほとんど交流もない状態が続いていた。兄は困ったことがあると連絡してきたけれど、それ以外ではほとん連絡してこない。

 なので兄の知り合いや交友関係についてもほとんどわからない。そしてあまり交渉のない兄の葬儀について私自身の知人、友人に知らせることも、こういう時期なのでなんとなく控えたいということもあり、結果として参列者は自分の家族だけということになってしまった。

 葬祭場=葬儀屋はできれば家から一番近いところにしたいと考えて、病院でネット検索してかけてところ、繋がったのは葬儀紹介サイトだった。そこに自分のリクエストとして家から近い葬祭場を指定した。

 葬儀については、こじんまりとしたものでもっとも安く行えるのは、葬儀を行わず火葬場への搬送だけというもので、それでも20万くらいかかる。それでも僧侶を呼んでお経をあげてもらう場合は別途にお布施が必要になる。次のものは一応小さな祭壇等を設置してもらうもので、お通夜を行わず告別式だけというもの。僧侶は告別式と初七日のお経をあげてもらい、火葬場にも同行してお経をしてもらう。

 これまでの兄との関係性からすると、正直あまりに金をかけてもみたいな気持もどこかにあったし、参列者もいない、とはいえ葬儀なしというのもみたいなことを考えて、お通夜なしで告別式だけというものにした。葬儀費用と僧侶へのお布施、さらに位牌等などいれると参列者なしでもそこそこになる。とはいえ自分にとって唯一の肉親という気持ちもあった。

 寒い時期で亡くなる方も多いのかもしれないが、月曜に葬儀会社が連絡をとったところ、木曜の10時しか空いていず、そこを押さえないと翌週になるといわれた。出来れば早めに葬儀を終えたいということもあり、それでお願いしたのだが、そうなると葬儀は朝8時からということになる。そんなに早いのもなんだと思ったが、参列者もいない家族だけということなのでそれに決めた。

 当日は僧侶も自分たちも朝7時半に会場に着くようにした。といっても家から車で5分もかからないところなので、楽といえば楽だった。最初に僧侶に挨拶をしてお布施を渡す。僧侶からは位牌や49日法要の案内もいただく。きちんとした営業マンである。

 葬儀は家族葬向けの小さな小部屋的なものを想定していたのだが、その葬祭場では葬儀用のホールはメインホールだけで、70人まで収容できるという。そこで家族だけの淋しい葬儀が定刻どおり始まり、僧侶のお経は初七日法要をいれてだいたい40分くらい。それからお花入れして出棺。霊柩車、僧侶の車、自分たちの車、さらにもう一台後ろにという4台で川越の火葬場に向かった。

 川越市斎場は豪華できれいだった。葬儀屋に聞くとまだ出来て2年くらいだという。火葬にはだいたい1時間くらいということだったが、1時間半はゆうにかかっただろうか。それから骨上げを最初に自分と妻で行い、その後は子どもと一緒に行った。骨はずいぶんとしっかり残っていて、これまで自分が知っているものとはずいぶんと違っていた。とくに頭がい骨は自分の知っている限りだと部分部分だけみたいなのだが、兄のそれはきちんと頭がい骨の形になっていた。火夫は女性の方でとても手際よく、しっかりと作業をされていたが、彼女も「お骨がしっかりとされています」と何度も話していた。

 お骨を骨壺にすべていれ、すべての過程が終わったのは結局12時を少し回ったくらいだった。帰宅してから葬儀屋に連絡すると、30分くらいで係の女性が二人やってきて後飾り祭壇を設営してくれた。

 こじんまりとした、淋しい葬儀だった。兄は10年前まではずっと横浜に住んでいた。健康面、経済面、生活面すべてにおいて破綻したとんでもない状況のなかで連絡をもらい、とても離れた場所での独居は難しいと考えて埼玉に住む部屋を探し、半分強制的に引っ越させた。それからも様々な部分でサポートしてきた。どうして7つも下の自分がという思いもあったが、やっぱりたった一人の肉親であるということで放っておくわけにもいかなかった。

 その後も転倒事故などでの救急搬送が何度もあったし、その都度面倒をみてきたし、もちろん医療費は自分が負担した。去年の暮、大晦日に家族で食事をとろうとしているときに病院から電話があり、急遽病院に向かったのもよく覚えている。なんでも風に煽られて転倒し救急搬送されたということで、そのときは脳内に出血がみられたということだった。照明を落とした暗い高度治療室で看護師の説明を受けながら新年を迎えたことをよく覚えている。

 兄にはいろんな思いがある。それは少しずつ書いてみたいとも思う。しかし大人になってからは兄らしいふるまい、そういうのは一切なかったように記憶している。なので一人暮らしを始めてからの兄がどんな人生を送り、どんな人たちと交流をもったのかもまったくわからないままだ。

 兄には悪いけれど、葬儀については最低限みたいなことになってしまった。でも自分にもさほど余裕もないし、とにかく動ける人間が自分だけということだったので、致し方ないかとも思ったりもする。60を過ぎてからはだんだんと病に蝕まれていった兄である。糖尿病と足の閉塞性動脈硬化、その結果としての足指の壊疽、腎不全による人工透析、心臓疾患による貧血症などなど。

 入院した11月28日の時点では右足の血行は悪く、膝下への血流はきょくたんに少なくなっていた。さらに左足大腿部の火傷、骨粗鬆症による腰骨の圧迫骨折もあり、歩行も出来ない状態だった。その週の通院はほとんど自分が付き添い、妻用に車に載せている車椅子を使って兄を移動させた。たぶんそんな状態だったから、足にしろ腰にしろ相当な痛みを抱えていたのではないかと思う。痛み止めが効いているときはいいんだが、とよく兄は話してもいた。

 そういうことでいえば、兄はようやく病と苦痛から解放されたのかもしれない。前回も書いたが、30数年前に亡くなった父が兄を呼んだのかもしれないと思う。兄の痛苦から解き放つために。

 49日は1月後半になる。父と祖母がいる墓に兄も入ることになる。苦労多かった兄だが、やっと安息が訪れたのかもしれない、いやそう思いたい。