「シッコ」

もはや大国アメリカにあってもっとも強烈なアンチ・テーズをつきつけつつ、もっとも商業的に成功しているといえる男、マイケル・ムーアの最新作である。
http://sicko.gyao.jp/
シッコ - Wikipedia
レンタル開始されたのでとりあえず借りてきて観た。面白い、きわめて簡潔にしてダイレクト。ムーアの標的は先進諸国で唯一国民皆保険が存在しないアメリカの医療保険制度についてだ。ムーアの問題意識は単純だ、「なぜ生存のために必要な医療が超大国にして先進諸国のチャンピオンであるアメリカで受けることができないのか。よその国でできることがなぜできないのか」ということだ。
公的医療保険がないため民間医療保険がそれに代わる存在なのだが、利潤追求のため医療給付は様々な理由から拒否される。指を事故で二本落とした労働者は中指と薬指のそれぞれの接合手術で、中指は6万ドル、薬指は1万2000ドルを要求されて中指の縫合を断念する。常にふところ具合を考えながら医療を受けなくてはならない国、それがアメリカの姿なのだという。
今回の映画で、ムーアは様々な医療被害者をとりあげ、アメリカとの比較からカナダ、イギリス、フランスの医療制度を取り上げる。それぞれに問題はあるかもしれないが、それらの国々では国民皆保険制度があり、医療費は無料もしくはきわめて低額である。
最後にとりあげるのは、9.11でボランティアとして活躍しその後粉塵等による深刻な後遺症に見舞われた看護師や消防士たち。彼らは医療保険の給付も受けことなく、莫大な医療費のため満足な医療を受けられないでいる。ムーアは彼らをキューバに連れていく。それはなぜか。
キューバにはアメリカが一方的に租借権を主張して居座り基地を設けているグアンタナモ基地がある。そこにはテロリストなどを収容する刑務所がある。9.11関連で逮捕されたテロリストはこの刑務所に収容されている。ムーアは9.11で被害を受けた患者たちをグアンタナモに連れていき、収容されているテロリストと同じ医療を受けられるように求める。ものすごい強烈なアイロニーだ。
グアンタナモ基地はムーアの主張に対して徹底した沈黙、無視を続ける。一転してムーアは患者たちをキューバ、おそらくハバナ市内に連れて行き。そこでキューバの医療を受けさせる。キューバ人と同等の医療、無料で。
アメリカにとって悪の枢軸国の一つであるキューバを礼賛する内容である。強烈なアンチ・テーゼだ。9.11で献身的な救助作業に関わり、病魔に襲われた人々。彼らはヒーローであるべき人々だ。なのにアメリカ国内では満足な医療を受けることができない。その彼らに十分な医療を提供するのは仮想敵国キューバなのである。
この映画がアメリカ国内保守派やその同調者たちからキューバあるいはい社会主義のプロバガンダであると攻撃されているだろうことが簡単に想像できる。実際、アメリカ政府からの干渉や保守的なメディアからの非難も相当でている模様だ。
http://www.afpbb.com/article/1584238
マイケル・ムーア監督の映画「SiCKO」(シッコ)をメディアが批判─ キューバは本当に医療天国? | MediaSabor メディアサボール
しかしキューバの医療がムーアが描くほど天国ではないにしても、アメリカのそれに比していえばこと民生医療という点では格段に上なのではないかと思う。『ルポ貧困大国アメリカ』でもかの国の医療問題について一章がさかれているけれど、医療費の高騰化は果てしないものになりつつあるのだという。

 たとえば日本の医療費と比較すると、日本では盲腸の手術代の保険点数は2007年12月現在6420点(6万4200円)だ。平均入院日数×最高レベルのサービスを受けたとしても一日にかかる入院費は差額ベッド代を除いて1200点(1万2000円)であり、四、五日入院しても合計で30万を超えることはまずない。
  盲腸手術入院の都市別総費用ランキング(AIU Data 2000)
 順位 都市名           平均費用   平均入院日数
  一 ニューヨーク        243万円    一日
  二 ロサンゼルス        194万円    一日
  三 サンフランシスコ      193万円    一日
  四 ボストン          169万円    一日
  五 香港            152万円    四日
  六 ロンドン          114万円    五日
                         『ルポ貧困大国アメリカ』P66〜67

日本では30万の3割負担で9万程度。ニューヨークではもし一割負担でも24万である。民間保険で一割負担となるとけっこう掛け金高いだろうなどとも想像する。こうなると日本の医療制度はぜがひでも守らなくてはなるまいとも思う。今の国民皆保険制度を守るためだったら、消費税10%以上もやむなしということなのかもしれない。
それにしても恐るべしアメリカ医療制度なのである。ムーアのカメラはまったくのブレなく一直線にこの対象に切りつけていく。おそらくムーアの最高傑作ではないかと私なんかは思う。編集もムダがない。『ボーリング・フォー・コロンバイン』以上の力作だ。とにかくアメリカ医療制度の弊害をあますことなく伝えてくれている。キューバ礼賛についてもアメリカの現実との対比の問題なのである。実はキューバの医療に相当問題があったとしてもそれでアメリカの医療制度が相対的に評価されるか、ノーなのである。
ムーアの演出や編集に対してご都合主義だのなんだのという批判はある。前作『華氏911』が現ブッシュ政権批判をテーマとしたものだっただけにかなり賛否両論あったようだが、それからすると今回の『シッコ』のストレートな主張はもう批判しようがないだろうとさえ思う。これってものすごい映像作家としての力なのではないかと、まあ素直に感嘆する。
娯楽映画としてもきっちり退屈させることなく観せてくれる。それでいてムーアの主張が余すことなく伝わってくるのだから。まあしいていえばだ、この映画の成功は材料選びがかなりの部分を占めているのじゃないだろうかとは思う。確かにアメリカの医療制度の弊害は異常だと思う。そういう誰しもが思うような素材を取り上げたことが、成功だったんじゃないかとね。それと今回なんかつくづく思ったのだけど、ムーアもけっこう顔の表情とか年齢を感じさせてきたな〜と。1954年生まれ、私なんかとはほぼ同世代なんだけど。やっぱりいろいろ苦労してるんだろうね。