『ルポ貧困大国アメリカ』

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)

  • 作者:堤 未果
  • 発売日: 2008/01/22
  • メディア: 新書
日本の10年後を予測するには今のアメリカを見ておけばいい。そんなことがもっともらしく語られたのは、おおよそで20〜30年前のことだったか。USAフォロワーである日本社会の分析とか予測にはこの言葉、ある意味真理みたいな部分もあるにはあるのではないかと思う。実際そんな風にしてやってきたみたいな。
ただしこの10年後はどんどん短くなってきていて2000年前後には5年以下に縮まってきたのでないかと。そして今や今日のアメリカは明日の日本であり、あるいはほぼ同時代的な形でシンクロしつつあるのかもしれないなとも思う。アメリカの病はもはや日本にとっても同病相哀れむとでもいうべき様相になっている。あるいは先進諸国の病とでもいうべき。
てな前ふりをしてみる。この本読んだのは三ヶ月くらい前。貧困先進国、あるいは格差大国であるアメリカの実情をレポートした書である。売れている・・・らしい。最近の岩波新書としては異例の売れ行きだ。発売から5ヶ月経過してもアマゾンでベスト100位に入っている。帯のコピー「米国のあとを追う日本へ 海の向こうから警告する!」のとおり、日本でも格差問題が深刻化しつつある中で、格差先進国アメリカの実情から明日の日本の姿を知るためにと、たぶんそんな興味からこの本を手にとるということなのだろう。さらに同じ帯コピーにある「教育、医療、戦争まで・・・・極端な民営化の果ては?」から、小泉改革以降推し進められている様々な民営化の問題点を提起するために取り上げられるということなのだろう。
著者の堤未果氏は30代気鋭のジャーナリスト。米国野村證券に勤務中に9.11同時多発テロに遭遇し、これを契機にジャーナリズムの世界に転進したのだという。グランドゼロを体験して人生が変わってしまった多くの人々の一人なのである。たぶんなぜ自分は生き残ったのか、そもそも9.11はどういうことだったのかを問うことで、世界の見方が変わり、進行する複雑な世界の意味を読み解こうとしているのではないか。
さらにいえば堤氏は最近、薬害エイズ問題のヒーロー川田龍平参院議員と結婚したことでも話題になっている。まあどうでもいいことなのだけど、こういうことで彼女のことを「なんだプロ市民か〜」みたいにくくりたがる方もいると聞く。世の中にはレッテルを貼ることで、自分のよく知った世界=世界観にむりやり対象を当てはめるのが大好きな人もいるのだろう。
さて『貧困大国アメリカ』である。ネットでぐぐると様々な人がこの本を評している。アマゾンでも50件以上のカスタマー・レビューが登録されている。多くの方々がアメリカの貧困事情に驚いているようだ。「これほどまでに」みたいな感じだ。
内容については章立てに沿って書いていくと、だいたいこんな感じかな。こういうの実は苦手。
第1章 貧困が生み出す肥満国民
貧困層に肥満が多いというアイロニー。それは貧困層の毎日の食事は安価なジャンクフード、ファーストフード中心だ。その偏った高カロリー食品が肥満児を作り出しているという現実をレポートする。
第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
2005年8月にアメリカ・メキシコ湾岸を襲ったハリケーンカトリーナによる甚大な被害。この巨大な自然災害が実は米国連邦緊急事態管理局(FEMA)による災害予測の遅れ、災害時の対応の遅れ等による人災であること。さらにはこのFEMAブッシュ政権以降民営化の波にさらされ、様々な形で民間に業務委託された無責任状態にあったことなどを数々の証言から告発する。
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々
先進国で唯一国民皆保険制度がないアメリカの医療事情。世界一高い医療費で破産する中間層の実態、出産費、丹生貧費の高騰のため日帰り出産する妊婦たち、市場経済の効率主義に追い詰められる医師たち、などなどの米国の医療実態がショッキングに語られていく。
第4章 出口をふさがれる若者たち
貧困により進学できない高校生たち。彼らを大学進学の甘い言葉でリクルートしていく軍隊。就職難と学費高騰で借金漬けとなった大学生たちも同様に軍隊にリクルートされる。彼らの行く先は、そうイラクである。
第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」
アメリカだけでなく世界中の貧困層イラクに派遣されアメリカ軍駐留のサポートをしている実態をレポート。フィリッピン、中国、バングラデシュ、インド、ネパール、シェラ・レオネ、様々な国から少しでも高い賃金を求めて労働者が集められてトラックの運転手、補給廠でハードな重労働など。さらには米軍から委託された傭兵会社が戦争を請け負っている実態を日本人元傭兵からのインタビューなどでまとめる。
なるほどなるほど、けっこう深刻な実態が次から次へと並び立てられている。貧困と肥満、医療費高騰と中間層から貧困層に転落する人々、就職難等から貧困層に落ちていく若者、これらはまさに今の日本の実態ともシンクロしていく。
しかしなぜ世界の大国アメリカが、アメリカンドリームと喧伝されたかの国が、貧困大国になってしまったのか。その理由を著者は第1章の冒頭で「新自由主義登場によって失われたアメリカの中流階級」として描く。長いけど前文引用する。

1950〜60年代にかけて日本のテレビで流行ったアメリカの人気ホームドラマは、多くの日本人にとって憧れの家族像を植えつけるものだった。
郊外の庭つき一戸建てに、ネクタイを締めた白人のサラリーマンの夫、最新式の設備をそろえた広いキッチンで手作りのマフィンを焼く専業主婦の妻の周りには可愛らしい三人の子どもたちが走り回り、その足元には毛のふかふかの大型犬が眠り込んでいる。広いいまにはゆったりできる大型ソファが置かれ、窓の外に広がる緑色の芝生にはスプリンクラーの水しぶきがきらきらと光っている光景。
私たちにとってアメリカのイメージそのもであったこの幸せな中流家庭の図は、一体どこで変わってしまったのだろう?
アメリカのホームドラマの舞台は50年代には都市部の労働者階級の家庭がメインだったのが、60年代からほとんどがこのようなファミリーものに変わり、その七割以上は郊外に住む中流家庭を扱った内容になっという。すべての階級の国民がこの生活を手に入れられること、第三七代大統領であるリチャード・ニクソンはこれをアメリカの理想とし、また、冷戦時代において旧ソ連より優位に立つ象徴であると考えた。
だが、企業と高額所得者から税金を多く集め、その所得を教育や医療、福祉制度によって中間層に再分配するという政策はやがて不況におけるインフレを招き、それを打開するための新自由主義が登場したことで、アメリカの中流階級の基盤は大きく揺らぐことになる。
福祉重視政策だったニクソン大統領と対照的に、第四〇代ロナルド・レーガン大統領は効率重視の市場主義を基盤にした政策を次々に打ち出し、アメリカ社会を大きく変えていった。目的は、大企業の競争力を高めることで経済を上向かせること。そのために企業に対する規制を撤廃・緩和し、法人税を下げ、労働者側に厳しい政策を許し社会保障を削減する。
その結果、安価な海外諸国の労働力に負けた国内の製造業はみるみるうちに力を失い、労働者たちは続々と失業者となった。中間層が貧困層に転がり落ち、代わりに主流となったサービス業(金融、IT、コンサルティングなど)が一部のエリート層で事足りる性質であったことから、国内の所得格差が急激に広がっていった。

なるほどなるほど、である。ロナルド・レーガンが大統領になったのは、たぶん私が学生を終える頃だったか。就職のための勉強で柄にもなく近代経済学みたいなものをかじったり、現代用語の基礎知識で最新の経済用語をチェックしていたサプライサイド経済学とかを聞きかじったことがある。これまでの消費や雇用重視の経済から供給側重視の経済みたいなまあそんなものだったか。この学派とか所謂シカゴ派経済学、マネタリズムによ貨幣供給量管理派、この手の学者がレーガンの経済政策を支えていた。所謂レーガノミクスというやつだったか。これらの主流となったのは、基本小さな政府というやつだったと思う。同じ時代一番読まれた経済書はこの小さな政府派の巨匠ミルトン・フリードマンの『選択の自由』だったと思う。本屋に勤めていた頃、学生の間で飛ぶように売れたのを記憶している。
そのフリードマンが提唱したのは、あらゆる市場への規制は排除されるべきとという自由放任主義であり、政府の市場への干渉を忌避する徹底した市場重視、それが新自由主義の思想底流だったと思う。
あたかも時代はアメリカを中心とした西側諸国と対立していたソ連社会主義諸国が一気に崩壊した時代である。それまで資本主義は社会主義との対立過程において様々な福祉政策を取り入れてきた。ケインズ有効需要創出もそうだった。第二次世界大戦後にアメリカが作り上げた中流階級のバラ色の生活もその一つだった。
だいたいにおいてだ、アダム・スミスの「神の見えざる手」と称した市場の合理性が、一方で深刻な階級格差を生み出した。それに対する対抗軸として国民経済を徹底的に批判したのがカール・マルクスだったのではないのか。彼は、市場が優先するのは利益、求められるのは利潤追求のための非人間性、そこから徹底的に搾取され、貧困にあえぎ人間性を失っていく人々を労働者階級の疎外として提起したんだと思う。
資本、市場の暴走から社会主義共産主義が生まれ、カウンターアタックとして成長する。それが20世紀の潮流だったのだが、世紀の最後にあたって社会主義諸国は経済性とはある部分別の要因で様々に崩壊していった。民族主義、市場主義とは別の形での人間を疎外させる様々な圧制。その崩壊と時機を同じくしてまたまた市場主義が息を吹き返していき新自由主義という名で世界に蔓延していく。
いささか強引な引っ張り方だけど今のアメリカの貧困層の増大はまさしく新自由主義とその経済政策の蔓延があるからだろう。社会主義あるいは共産主義という対抗軸を失った資本主義の暴走、結局そういうことなんじゃないかと。そう思うと現在進行しつつあるアメリカの貧困層の増大、あるいは日本でも問題視されてきた格差社会の出現、これは新しいけど実は古くからある問題でしかないのではないかということだ。そう、階級問題ということ。なぜ21世紀になって新たに出現したアイテムのように語る必要があるのだろう。貧富の極端な開き、一部富裕層に徹底して富が集約され、貧困層の増大がしていく問題、これらはすべてカール・マルクスが国民経済批判として経済学批判を展開した19世紀後半とシンクロしていないだろうか。
今後アメリカや日本の貧困層の増大はある意味、北側先進諸国の病として蔓延化していくかもしれない。大病すればあっという間に貧困層に転落しかねない時代なのだから。しかし今世紀にはもう一つの病、南側途上国の強烈な貧困という問題がある。この二つの病が平行線上で語られている限りにおいては、市場の暴走は実は続いていくのではないかと私はふんでいるのだが。