子どもを守るのも自己責任か

 昼過ぎに娘と二人で電車に乗って病院へ。妻を車椅子に乗せて2時間近く病院の内外を散歩。妻は外泊がOKだから連れて帰ってを連発。最後には担当医を呼んで「回復状態が飛躍的に進んでいるが、外泊はもっと良くなってリハビリとかが進んでから。おうちの受け入れ状態も整えたりする必要あり」。どうもその説明も妻は今一つ納得していない様子。
 ここのところ、続けざまに小学一年生の女児の殺害事件が起きている。広島でペルー人が下校途中の女児を殺害。その二日後くらいにこんどは栃木でやはり下校途中の女児が行方不明に。一日あけて茨城で殺傷遺体が見つかった。
 小学二年生の娘をもつ身としてはマジで他人事ではない事件だ。通学への付き添いを親を中心とした保護者が行うのがだんだんと通例化していくのだろう。栃木の女児が通っていた小学校での緊急保護者会で、保護者から「下校に先生が付き添うことができないか」という質問に校長は「(教員の)定員は増やせない。全面的に保護者にお願いしたい」と応えた。各地でも保護者による登校の付き添い当番制がはじまっているとも聞く。娘の学区でも年に何回かそういう月間があるとPTAの広報で読んだことがある。
 でも専業主婦がいる家庭では可能だろうが、うちのような共働きの家庭では(現在は実質片親状態だけど)それもできない。保護者の地域ボランティアという形での通学路のパトロールも考えようによっては責任の所在が曖昧だ。もしボランティアがパトロールをしているところで何かあったらボランティアはどうするのだろう。たまたま用事とかでパトロールを端折ったその時に何かあったら、とか。
 子どもを外で遊ばせられない、一人でどこかに行かせられない、そんな不安な世の中が現出してしまった。それでいて耳の奥ではひたひたとこんな言葉が聞こえてくる。「自己責任、自己責任」と。小泉改革が進む社会、グローバリゼーションが進む社会では、公的な保護を求めるのは悪とされるようになりつつあるような気がする。戦争地に赴いたボランティアが現地で拉致されても世間からは「そんなところへ行く奴が悪い」「自己責任だ」。
 私は子育ては社会が行うものだとずっと考えてきている。親は社会に出て働き、子どもは地域社会の中で育てる。だから保育園の充実、学童保育の充実を成されていない現実にはずっと危機感を持っている。たまたま自分の娘は良い保育園、学童にめぐり合った。でも、一方では待機児童はいつまでも減らず、環境の悪い保育園も増えている。さらには就学までは保育園に入れることができても、小学生になるととたんに学校が終わってからの現実が厳しくなる。学童はせいぜい7時くらいまで。それさえも中々入れない現実だ。小学生になるといきなり鍵っ子になってしまったお子さんを何人も知っている。
 未就学児童は親がついている。小学生も高学年になるとある程度の抵抗力もある。狙われるのは小学1〜2年生だという記事を今回の事件のどこかで読んだような気もする。なにか小学1〜2年生の環境が、いまの子育て社会の中で矛盾的に存在しているような気がしてはならない。
 しかし公的な保護が求められないとなると、いったいどうすればいいのか。いずれ遠くない時期に警備会社は通学路の警備サービスをはじめるようになるのではないか。契約先は学校ではなく保護者だ。親同士が金を出してガードマンを雇う時代がくる。より金持ちは登校路の警備サービスが付いた私学の学校へ子どもをやるか、もしくは自分の子ども専用のシークレット・サービスでも頼むようになるのか。そう、すべて自己責任の範疇として。
 いつか、子どもが誘拐された殺されたりしたら、ひそひそとこんな陰口がされるようになるのかもしれない。「あそこはガードマン雇っていなかったみたいよ、それじゃしょうがないわね」「貧乏人の子どもが殺されてもしょうがないよ」
 自己責任を求める社会、公的から私的へ、小さな社会のしくみがそんな皮相な形で進んでいるような気がしてならない。もう一度大きな社会、税金をいっぱい払って、公的サービスを充実させる社会を考える必要もあるんじゃないかと漠然と考えてしまう。