風の里保育園イメージコンサート

 娘が行っている学童の発表会にいってきた。娘はこの風の里保育園が運営している学童アフター・スクールに通っている。発表会は保育園の年小、年中、年長組と学童が歌や器楽演奏とか行うもの。そういえば去年のこんな感想を書いていたな。
http://d.hatena.ne.jp/tomzt/20050219/p1
 うちの娘たちは、歌は「戦争を知らない子どもたち」「さとうきび畑」「WAになっておどろう」「しあわせになろうよ」の4曲。器楽合奏宮崎駿映画の曲から「となりのトトロ」「君をのせて」「さんぽ」「いつも何度でも」の4曲をやった。1年生から6年生までの小学生たちが歌う「戦争を知らない子どたち」にはなにか言い知れぬ感慨があったな。まさしく同時代にこの歌を聞き歌った世代としては特にだな。「若すぎるからと 許されないなら」「髪の毛が長いと 許されないなら」この歌詞はある意味では時代の推移の中で風化してしまったような思いもある。
 気がつけば戦争を知らない大人たちばかりの世の中になってしまったわけだ。半世紀以上も戦争を経験することもなく過ごしてこれたことは歴史的にみても僥倖であることなんだろうとも思う。でも戦争を体験することはなくても、世界中に戦争は絶えることもなく、情報としては日常的にどこかで誰かと誰かが殺し合いをしているというのが今の世界の姿でもあるわけだ。その中で体験としての戦争を知らない世代によって形成されている今の日本社会のメイン・ストリームが、声高に憲法9条の改正や、パクス・アメリカーナにそった形での安全保障を成熟社会の必然として語ることでることに、ずっと違和感を覚え続けてきている。1970年代に「戦争を知らない子どもたち」を歌っていた我々は、そこからずいぶんと遠いところにきてしまったとつくづく思う。
 風の里が小学生の子どもたちにどんな思いでこの歌を歌わせたのだろうかとも思う。これはある意味、一つの投げかけなんだろうとも思う。たぶん小学生たちにこの歌の時代背景やより根本的な意味とかは分からないのだろうとは思う。だとすればそれを親たちがどこかで少しずつでも教えていく必要があるのだろうとも思うのだが。
 この発表会のもう一つの性格としては、年長〜かぜ組の卒園記念発表という意味合いもある。ずっとこの保育園で過ごしてきた子どもたちの成長の証が確認できるのだ。手話あり、歌あり、器楽演奏ありで親からすると本当に感慨深いものがある。その中でここ4年くらい、詩の集団での朗読が加わっているのだが、これまでずっと宮沢賢治の「雨ニモマケズ」だった。それが今回は河井酔茗の「ゆずり葉」になった。あんまり馴染みのある詩ではないのだが、子どもたちの朗読を聞いているととても味わいのある詩であるなとは思った。なんでも小学校の教科書にも載っているという話だ。

子供たちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わってふるいはが落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって 。

子供たちよ
お前達は何をほしがらないでも
すべてのものがお前達にゆずられるのです。
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前達がゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前達の手に受け取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど 。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子供たちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

 この詩の意味を多分朗読している年長の子どもたちには理解することは出来ないだろう。この詩の味わいは小学生にも難しいのではないかとも思う。それでも、いつかこの詩の意味を理解する日がくるのかもしれない。この詩にもあるのように「気がついて」くるのだと。その時に「もう一度ゆずり葉の木の下に立って ゆずり葉を見るときが来る」ように、朗読した子どもたちは、風の里保育園がどんな思いを込めてこの詩を自分たちに朗読させたのかをも知ることになるのだろうと思う。
 小さい時からこうした美しい詩に接することができる、それだけでもこの保育園の環境の良さがわかるのではないかとも感じた。