2005.11.15(火) 徹夜明け

 一睡もせず病室とロビーをいったりきたりして夜を明かした。
 妻の実家の長野に連絡をとったが未明のこと70過ぎの両親は寝入っていたのだろう連絡はとれず。大町に住む妻の弟にはなんとか連絡がつき事態を説明した。また都内に住む末の弟にもなんとか連絡を取った。彼も心配だったのだろう2時過ぎに病院にやってきて妻を見舞い朝ははずせない仕事があるとのことで、4時過ぎに帰っていった。
 娘はロビーのソファで、病院から借りた毛布に包まって寝ている。
 午前中に末の弟が奥さんを連れて再びやってくる。午後には大町の弟が妻の母を連れてやってきた。
 妻は会話はある程度普通にできるのだが、左腕、左足は本人にもまったく感覚がないという。微動だにしない。妻はあと何日ここにいるのかとさかんに聞く。木曜にはソフト屋がきて打ち合わせをするから会社に行かなければとか、来週は支払いの締めがあるから休めないとまくしたてる。これまで沢山仕事をしてきたのだから、今はとにかく休まなくてはといい含めるが納得していない様子だ。左半身に感覚がないという現実、脳梗塞で病院にいるという現実、その結果として今後闘病が続くという現実を認めたくない気持ちもまた伝わってくる。
 午後遅くに主治医からCT、MRIの写真を見ながらの詳しい説明がある。

  • これから数日、脳が腫れてくる(→脳ヘルニア)。これが一番危険な状態だ。老人の場合は脳の萎縮がはじまっているのだが、若い分腫れがひどいと脳圧を下げるため頭骸骨の一部を取り外し脳圧を下げるための減圧開頭術を行う場合がある。
  • 44歳と年齢が若いので回復力はある。リハビリがうまくいけばつえ等で歩くレベルにまでいく可能性がある。左手は機能レベルとしては、実用手としての健常者レベルには戻らないだろう。ただし押さえたり支えたりといった副助手としてレベル程度には回復する可能性はあるかもしれない。
  • 脳梗塞クモ膜下出血が同時に起きる症例は少なく、妻の場合現時点では原因は不明。今後詳しい内科的検査を行う予定。
  • 2〜3週間後にはリハビリ専門の病院に転院してもらう。希望する病院があれば優先する。もしあてがなければこちらで幾つかの病院を紹介してもよい。

 なにか目の前が真っ暗になる思いだ。良くても左半身が不随状態。回復しても相当の身障者レベルということだ。しかしそれでもとにかく一番危険な状態(脳の腫れ)をなんとかしのいでくれればいいと心の底から思う。
 この頃が私にとって心理的に一番ボロボロな状態だった。メロメロ状態で人から優しい言葉をかけられると途端に声を詰まらせ涙が出た。弟の嫁に「私に出来ることはなんでもやりますから、いろいろいいつけてください」とたんに涙で言葉がつまった。自分の会社に電話して上司と話しているときも声をつまらせた。子どもが通う学童の先生に妻の状態を説明し、「これからも、いつも以上にお世話になるかもしれません」とだけいって後は嗚咽ともつかない涙声になった。電話の向こうの先生も心配してくれているのだろう、一緒に泣いている。病院の前に設けられた喫煙スペースで気を落ち着かすつもりで煙草を何本か喫う。するととめどなく涙が出てきてとまらなくなった。人目も気にせず声を出して泣いた。
 四十の声を聞いてから涙腺がゆるくなってきたとは感じていた。映画とかでもジワリとくることもけっこうあった。でもこんなに涙したのは、それこそ声を出して泣いたのはおそらく子ども時代以来のことだろう。こんなに長い間生きてきて、そこそこ経験積んできたはずなのに、自分の中にこんなに涙する部分が残っていたとは、とつくづく思った。妻が倒れた衝撃、今後の生活設計、子どものこと、そんなもろもろを睡眠不足の頭で一気に考えていたのだからとも思う。
 泣きながら一番自問自答したのは、自分は妻にとって良き夫だったかということだった。
 睡眠不足でしんどかったが妻の状態、ここ2〜3日がヤマということもあり、このまま病院に居続けるべきかどうか迷った。しかし子どものこともあり、医者や看護師にも相談すると、急変することがあれば連絡するから家に帰っていたほうが良いといわれ帰宅した。