妻の父親のこと

まずは妻の実家にもいかなてはならないだろうし。妻の入院中の父親のことも心配だし。なんでも転院したとか。その転院先の病院での初見では、糖尿、高血圧なんぞという所謂成人病のオンパレードがあること、現在の意識障害(と私には見えた)が続いていること、年齢が年齢であること等等から、もしなにかあっても生命維持のための治療はしない方向で家族も了解するようにという話が出たとのことだった。
難しい部分ではあるな。思い出すのは私の祖母のこと。老人ホームに入っていたのだけど、風邪から肺炎になり病院に移送された。すでに意識はない状態に陥っていたので、医師からは年齢のこともあり(98歳だった)、生命維持のための治療はしないみたいなことを最初に言われた。もちろん年齢が年齢だから、こっちもそれを了承した。医師からは二〜三日が山と言われた。
でもね、明治女は強いね。祖母はそれから二週間くらい眠ったまま生き続けた。最初は会社帰りに毎日病院通いを続けたけれど、一週間くらいするとやっぱり緊張が緩むのだろうな、一日おきとか二日おきくらいになった。医師には「どうなっているのか」と聞いたりもした。まさか「なかなか死にませんね」と聞く訳にもいかないけれど、そんなようなニュアンスだったな。医師も首をかしげて「おばあさまは内臓とかが丈夫なんですね、基礎体力があるんでしょう」と答えにもならない感想を言った。
そんなやりとりを1〜2回しただろうか。こっちも医療費のこととかを冷静に考えるようになり始めていた。祖母の入院が日常の一部になりはじめた頃、久々に外で酒を飲む用事ができて遅くに帰宅すると、病院からの連絡が留守電に入っていた。「おばあさまが亡くなられました。○時○分です」情緒性のない事務的な女性看護師の声だった。こちらもそれを無感動に聞いた。「あっ、死んだんだ」それからとりあえず支度して車で深夜の病院へ向かった。これから数日間続くだろう事柄への事務的なだんどりとかを考えながら。
私は所謂おばあちゃん子だった。まして母親のいない家庭だったからまさしく祖母に育てられた。なかなかに波乱万丈な人生を生きてきた祖母だったから、気性の激しさとか気丈夫な部分もたくさんあった。彼女の最愛の人であった一人息子、つまり私の父が脳卒中で亡くなった時も涙ひとつ見せずたんたんとしていた。私にとっては愛憎半ばというか、いろいろな思いのある人だったが、とにかく母親代わりでもあり、育ての親ともいうべき、もっとも近しい肉親だった。その祖母が亡くなったというのに涙一つ出なかった。
妻の父の入院に際してなにを不吉なことを考えているのかとも思う。でも何を言いたいかというとだね、長年暮らしてきた家族、かけがえの無い家族であっても、高齢になり、入院とかとなると、ましてコミュニケーションすらとれない状態とかが続くとね、もちろん家族の負担とかの問題も様々にある。でもね、それ以上にだんだんと様々な緊張がじょじょに緩み出してくる。やっぱり自分たちの生活がまず第一だから。仕事のこと、家庭のこと、子どものことなどなど。入院した家族がもちろん中心的な存在にならざるを得ない側面もあるけれど、意識的には次第にランクダウンしていく部分がでてくるということ。それは愛情が薄れてとかそういうことじゃないんだよということだ。
もう一つ、国リハで知り合った方の話。Tさんという方で、奥様が1年近く前に脳出血を発症された。全身麻痺、嚥下障害、意識障害も一部ありでほぼ寝たきりの状態であった。以前いた病院での治療では改善されることなく、国リハに転院されてきた。国リハでは新しい治療方針のもと、みるみる回復された。それまでチューブで食事していたのが、最終的には自分で口から食事をとるところまでになった。三ヶ月の国リハでの治療のあと、さらに療養型の病院に転院されていかれた。
国リハではそういう治療例がいくらでもある。ここに来てから飛躍的に回復したとかという声を妻が入院していた六ヶ月の間に何回も聞いた。妻についても入院当初、自力歩行は難しいと言われたけれど、なんとか4点杖で数百メートルくらいであれば歩けるようになった。ようは転院して治療方法が変れば、ドラスティックに快癒する可能性もあるのだということだ。
年齢のことももちろんあるだろう。でも80代でねたきり状態のお年寄りがリハビリで普通の日常生活を取り戻すなんて例は例えば大川やよいの『新しいリハビリテーション』とかを読むといくらでも出てくる。妻の病気以来ずっと思っていることだけれど、病気は本当に個々なわけで、Aの例が必ずBに通用するなんてことはない。病気自体が個体によって様々に異なるうえに、患者の環境とかそういった因子によっても全然違ってくる。
でもね、妻の父親についても、転院したということで実は真っ先に考えたのはそのことだった。転院が契機になって飛躍的に改善されればいいと。それが現実性を帯びているのかどうかは別問題としてだ。