ノラ・ジョーンズ・ライブ (10月18日)

 武道館で開かれたノラ・ジョーンズのライブに行って来た。

NORAH JONES - ノラ・ジョーンズ日本公式サイト (閲覧2022年10月19日)

 5年ぶりのライブツアーで6公演、武道館では3回の公演が組まれている。

10月11日 札幌文化芸術劇場

10月13日 ゼビオアリーナ先代

10月14日 日本武道館

10月16日 日本武道館

10月17日 大阪城ホール

10月18日 日本武道館

 武道館で3回、大阪城ホール1回、これだけのキャパで集客できるというのは、ノラ・ジョーンズ人気あるんだね。自分はというと、それほど良く知っている訳ではないか。CD棚あさってみたら、案の定デビュー盤しかなかった。なぜか2枚あったのはご愛敬。

 確かこのデビュー盤出た時に、ブルーノートから凄い新人が出たきたとかって騒がれたんだったか。おまけにラビ・シャンカールの娘だとかその辺の情報もあったりして。

 どうでもいいことだけど、誰かのブログか何かに出ていたのだが、子どもにノラ・ジョーンズを説明するのに、ラビ・シャンカールの娘だってことから始めたら、ラビ・シャンカールって誰だって話になって、ビートルズに影響を与えたとか、ジョージ・ハリソンシタール教えたとか、バングラデッシュ・コンサートに出てたとかなんとか、どんどん泥沼にハマルっていう話があって、けっこう面白かった。まあ若い子にラビ・シャンカールなんて言っても誰も知らんわという話だ

 ちなみにCDをiTunesに取り込むときにジャンルを確認すると、ノラ・ジョーンズはジャズではなくPOPジャンルがデフォルトみたい。改めて聴いてみると彼女の曲で厳密な意味で4ビートって少ない。そういう意味ではポップスやオルタナ系が正しいのかもしれないし、ジャンルレスとしてもいいのかも。

 彼女の経歴とかを見ると、父親ラビ・シャンカールといっても、3歳のときに離婚していて、母親が故郷のテキサスで彼女を育てたという。彼女の音楽趣向はジャズというよりもカントリーやソウルみたいなところで形成されたのだとか。いわれてみればけっこうカントリーぽい曲調あるなとは思ったりもする。ペダルスチールが割と頻度高く取り入れられていたりとかも。

 あとノラ・ジョーンズというと、なぜか映画「TED」に本人役でカメオ出演していて、確かTEDの元カノっていうとんでもない役柄演じていた。確かライブで曲も披露していたような。まあこのへんもどうでもいい話だ。

 今回のライブは、数ヶ月前に友人が「ノラ・ジョーンズ行きますか」ってメールして来たので、「いいよ」と返してみたいな感じです。友人はデビュー以来、けっこうきちんと追っかけているようだけど、自分はデビューアルバムで基本止まっている感じ。

 なのでライブ前日にあわてて情報を集めると、なんと今回のツアーは彼女のデビュー20周年記念みたいな色合いもあるのだとか。ノラ・ジョーンズは43歳だから23歳でデビュー、自分はというと40代半ばみたいな頃。なんか遠い目をしてしまうな。

 自分の中ではなんとなくダイアン・リーブスとかカサンドラ・ウィルソンとかそのへんが新生ブルーノートから出てきて、なんか若い子出て来たなみたいに思ったりしたのが80年代。もっともこの二人はほぼ自分と同じ世代なんだけど。なのでノラ・ジョーンズは2000年になって出てきたという点でいえば、なんかこう自分の娘みたいな感覚があったりもする。まあ20代すぐに結婚でもしていたら、そういう年齢の子どもがいてもけっしておかしくないのだと思うと、微妙な気分ではある。そういうものだ。

 なかなかライブにたどりつかないな。もう一つ事前情報的に見たのがこのウドーのサイトにあるライブ・レポート。デビュー20周年ということでデビュー・アルバムから4曲も選曲されているのだとか。

NORAH JONES - ウドー音楽事務所 (閲覧2022年10月19日)

 だいたいこのレポートでライブの雰囲気はつかめた。

 6時に九段下駅に着き武道館に入ったのは15分くらいか。少しすると仕事終わりの友人と落ち合う。そして30分になると会場明るい中でオープニング・アクトとしてロドリゴ・アマランテが登場。ギター弾き語り(1曲だけピアノ)で7~8曲歌った。ボサノバ系の人でなんとなく遠目から聴いていると、そうだな昔のピエール・バルーみたいな雰囲気がある。

 もともとはロックをやっていた人で1976年46歳。もうベテランなんだな。Youtubeで検索すると、彼がやっていたロス・エルマノス(LOS HERMANOSの演奏もけっこうヒットする。たまたま今年の6月のノラ・ジョーンズのライブのオープニング・アクトの映像があった。曲順もだいたいこんな感じだったか。

 7時10分くらいにロドリゴ・アマランテのアクトが終了。20分の休憩を挟んで7時30分ジャストからいよいよノラ・ジョーンズが登場。まずはバンドの三人が出てきて演奏を始めそこにノラが登場する。事前に調べたセットリストと同じで「Just a Little Bit」から。最初、ステージ中央で歌う。基本カルテットで彼女はピアノかギターを弾きながら歌うのだが、立って身体を揺らしながら歌うのは珍しいらしい。もっともワンコーラス終わると彼女は定位置のピアノに戻って演奏を続ける。

 オープニングのこの1曲で一気に惹きこむようだ。メンバーはドラムがブライアン・ブレイド、ベースはクリス・モリッシー、ギターがダン・アイード。ベースのモリッシーウッドベースとエレクトリック・ベースを持ち替え、ギターのアイードは何曲かペダル・スティール・ギターを弾く。

 しかし武道館という大きな器でカルテットだけで観客を魅了する演奏、ノラ・ジョーンズのヴォーカルとピアノはもちろん、バンドメンバーの技量も秀逸だ。ドラムのブライアン・ブレイドは52歳、2000年代からウェイン・ショーターチック・コリアらとも共演している人で有名らしい。的確なドラミングは秀逸だが、それ以外のメンバーも負けず劣らず。個人的にはベースとバック・ヴォーカルもこなすクリス・モリッシーのベースはけっこう好感もてた。

 4人だけでの演奏でも心地よさと程よい緊張感もあって、曲調の似た曲が続いてもダレることがない。友人とはこのキャパで4人だけでもたせるのは、やっぱり半端ない技量だねと話す。友人曰く、技術も進歩しているねとも。席から見下ろすと左下のところにあるPAセットを指さしてみる。

 曲は16日の武道館、17日の大阪城ホールとも微妙に違っている。ラストに持ってきたのは「Come away with me」、「Nightingale」の2曲。そしてアンコールは「Don't know why」。このへんはデビュー20周年を意識しつつデビューアルバムからの選曲。ある意味彼女の代名詞のような曲。

<セットリスト>

Just a little bit
I'm alive
What am I to You?
Sunrise
Something is calling You
It was You
Little Broken Hearts
Rosie's Lullaby
Say no more
Tragedy
Happy Pills
Carry on
Falling
Say goodbye
Come away with me
Nightingale

(アンコール)
Don't know why

ノラジョーンズ 来日 ライブ 2022 全公演 セトリ【JAPAN TOUR】 | ライブ&コンサート (閲覧2022年10月19日)

 ライブは定刻の9時で終了。ツアー最後なのでアンコール2曲いくかと思ったけど、「Don't know why」だけで終了。考えてみれば16日武道館、17日大阪城ホールとこなしての三日目だけに、まあそういうものかと思った。

 ライブ後は飯田橋方面に流れて、九段の沖縄料理屋で軽く飲んだ。店も10時半オーダーストップ、11時閉店。友人も翌日仕事だというので泡盛1杯だけにする。頼む時に、飲み方はと聞かれたので当然コップにストレートでと。「昔は、ソーダ割を頼むと怒られた」と昔話を披露。ママさんも「昔は35度と43度しかなかったね」と答える。この店は60年、還暦を迎えたとか。自分らが通ったのも40数年前のこと。時は流れる。

 いい音楽といい酒でほろ酔い気分で帰ることに。

 そういえば、地下鉄飯田橋の駅内でライブ中に飲むように買った酒やナッツがカバンの中に入っていた。とても飲みながらライブ聴くっていう雰囲気ではなかったので、そのままになっていた。

吹上コスモス畑2022 

 遅めの昼食の後、市役所に寄ってから時計を見ると3時過ぎに。天気は小雨が降ったり止んだり。さすがにこの時間からだとどこへ行くのも遅すぎるかと思ったが、ちょっと吹上のコスモスの話をする。巣市のサイトによるとだいたい20日頃が一番見頃だとかそんな話だ。すると妻はすぐに反応する。もう遅いからと言っても、近くだしちょっと寄ってみてはと。それで車だと40分くらいで行けるので、試しに行ってみることにした。

 コスモスアリーナ前の荒川河川敷に着いたのは4時頃。天気はかろうじてもっている感じで雨は降っていない。ウィークデイの夕刻なので駐車場もガラガラ。それでも何組か花を見に来た家族連れ、中高年夫婦などなど。花をバックにペットの子犬の写真を撮りに来ている女性二人組み。さらに撮影ツアーみたいなグループもいて、ちょっと本格的な機材や望遠レンズ付きのカメラ下げた老人グループなど。

 

 雨は降っていないので、土手を降りて河川敷に行く。コスモス畑のあたりは車椅子で行けないので、妻の手を引いてゆっくりと見て回る。ピンクと白のコスモスはだいたい8分咲き。黄コスモスは満開。

 そういえば去年訪れたのはいつだったか。たしか9月と10月と二度訪れているが、10月は16日だったから、ちょうど1年ぶりになる。これからあと何回、こうやって毎年10月にコスモスを見に来れるかどうか。
 途中で、自分も妻も写真を撮るのだが、妻が撮るとなるとスマホを取り出して彼女に画面が見えるように顔の前に持って行って、彼女がシャッターを押す。地面は畑でちょっともこもことしていて、午前中に降った小雨で湿っている。こういう地面だと杖をついて歩くのは難しいし、不安定なので短時間立つのもしんどい。もっとも、もともとが河川敷の畑を利用したところだが、車椅子で動くような遊歩道を整備するのも難しい。まあこのへんは折り合いをつけるしかないんでしょう。
 それでも短い距離を歩きながら、時々立ち止まって写真を撮る。

 


 

 


 30分くらい花畑を歩いて土手に上がり、遊歩道をしばらく歩く。妻は車椅子を自走させ、自分はその後を追う。花畑を遠目に見ると、きちんと色ごとに棲み分けがされている。

 

 その後は真向いのコスモスアリーナでトイレを借りる。ここは体育施設で土足厳禁である。一応、受付の人が出てきて車椅子のタイヤを拭いてくれれば、そのまま入ってもいいと声をかけてくれる。

 その後、駐車場に戻るともうあたりは薄暗くなってきていて、止まっている車も数台。最後にもう一度土手まで行って花畑を見るが、もう誰も人はいない。「クエ、ケケ」と奇妙な声が小さく聞こえるが、多分鳥の類だろうか。

 なんだかんだで小1時間滞在して、今年のコスモス鑑賞は終了した。

妻の通院

 朝寝坊、妻からあと30分で医者だからとの声で起きる。妻曰く、自身も寝過ごしたとか。いつもならデイサービスがあるので6時過ぎには起きているのに。

 あわてて支度してから車で出発。予定の10時ちょい過ぎに病院へ。これは神経内科への定期通院。何度も書いてるような気がするが、医師の診察は実質2~3分くらい。

「お変わりありませんか?」

「特にありません」

「では、次は12月の2週くらいで」

以上である。

 今回はしばらく受けていなかったMRIを撮ることに。前回いつ撮ったのか聞くと3年くらい前とのこと。多分何もないのだろうが、脳梗塞で大きな梗塞巣があるので再発とかあると致命傷にもなりかねないので、定期的に検査は必要。それを思うとちょっと間が空きすぎているかも。

 医師の診察を終えてから放射線科でMRIの予約を入れる。12月1週に入れたので、神経内科の次の診察までには結果が判るとか。その後はいつもの処方薬を近くの薬局に鳥に行き、通院の第一部終了。

 その次は、妻が月一回行っている内科の糖尿外来に。ここはいつ行っても混んでいる。町中の糖尿病患者が来ているような感じである。自分は都内の医院に三か月に一度かかっていて薬も90日分出してもらえるのだが、妻の通っているところは一ヶ月分しか出してくれない。なので混んでいても必ず行かなくてはならない。

 車を駐車場に止めてから妻の受付をすます。それから自分は近くのマクドナルドまで歩いていき美術史のお勉強を。表現主義キュビスムについてノートをとったりして過ごす。1時を少し回ったくらいにそろそろいいかと思う医院に戻ると、妻は併設された薬局で処方をもらって出てきたところでいいタイミングだった。結局のところ、2時間と少しかかったことになる。待場の糖尿病外来はこんな感じなんだろうか。

 その後は、車で狭山まで行き昼食。数日来、夫婦して武蔵野うどんがどうのと行っていたので、ナビでチェックした16号線沿いの店に。その店はなぜか入り口付近がちょっとした料亭みたいな雰囲気があって、あちこちにあるワイルドというか、庶民風の店とか雰囲気が違っていたけど、出てきたうどんは変わりはなかった。

 しかし、午前中から動いて医者二軒はしごして昼食をとると、なにかもうそれだけで一日が終わってしまうかのようだ。人生も一日も短い。

西洋美術館常設展 (10月13日)

 常設展は9月13日に来ているのでほぼ一ヶ月ぶりである。

 その間に確か一週間程度休館があったと記憶しているのだが、そこでかなりの展示替えが行われていた。

 2Fの②~⑥まで、ルネサンスから近世までのところはほとんど変わりはないが、新館の側の⑦~⑨、さらに1階に戻った⑪、⑫も大幅に変更となっていた。特に⑨についてはずっとモネの部屋だったのが、他の印象派作品が侵食しモネの絵も分散されている。

 これまで現代絵画の間であった⑫は、つい最近まで大成建設のコレクションを中心にコルビジェの作品が多数展示してあったが、ここに新収蔵品、寄託品の新展示をからめた企画展示になっていた。

 特に前回の企画展で初お目見えとなっていたカッレラの《ケイテレ湖》との関連で水にまつわる作品が集められていて、そこに西洋美術館の目玉でもあるモネの《睡蓮》も展示してあった。こういう企画にあわせて所蔵品の展示場所を変えるというのは、当然ありなんだけど、展示場所が定着している名画についてはそれを変えるのはどうなんだろう。ツィッターでも、《睡蓮》の場所を監視員に聞くお客さんが数人見られたみたいなツィートがあったけど、なんとなく首肯できる。

 ちょっと極端な例かもしれないが、例えばルーブルで《ニケ》や《モナリザ》の場所は多分永遠に変わらないはずだ。それは歴史的にも展示場所が定着している。西洋美術館においてもモネの展示場所はすでに定着しているのではと思ったりもした。

《春(ダフニスとクロエ)》 ミレー 1865年

ナポリの浜の思い出》 コロー 1870-72年

 この2点、特にコローはなにか久しぶりのような気がした。縦長の2作品が並列して展示してあったのがちょっと印象的だった。

 

《トルーヴィルの浜》 ブーダン 1867年

 これも好きな作品の一つだ。今回ちょっとじっくりと観ていると、ちょっと面白い発見というか細部の描写が楽しめた。この手の集団が描写されている絵は意外と細部が面白いかもしれない。

 

 

《池のほとり》 ブーグロー

 初展示の寄託品らしい。画像はネットで拾ったが複製品かもしれない。これは美しい見事な作品。⑫室に初展示というキャプションで同じブーグローの《音楽》と並列して展示してあったが、出来れば《少女》と一緒の方が良かったかもしれない。観る者を引き込むような眼差し。ブーグローの神髄のようなものを感じる。

ピカソとその時代-西洋美術館 (10月13日)

企画展概要

 上野の西洋美術館で始まった「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」に行って来た。

ピカソとその時代─ベルリン国立ベルクグリューン美術館展 (2022年10月13日閲覧)

 ベルクグリューンはドイツ生まれの美術商で、1948年からパリで画廊を経営しながら、世界有数の個人コレクションを築きあげた人物。そのコレクションは生まれ故郷のベルリンで一般公開されていたが、2007年にドイツ政府によって購入され、国立ベルクグリューン美術館と改称されて今日にいたっている。そのコレクションは購入と放出を繰り返しながら充実していったが、特にピカソ、クレー、マティスジャコメッティという20世紀を代表する芸術家の作品の優れたコレクションとなっている。

 ベルクグリューンが画廊を始めた1948年頃には、すでにピカソマティスの評価は定まっており、作品の価格は高騰し始めていた。その中で売買を繰り返しながら、コレクションを充実させていったのは、相当な目利き、商売の才覚があったのだと思う。

 日本でも最近、企画展が巡回したスイスプチパレ美術館は、蒐集家オスカー・ゲーズが自身のコレクションを展示するために開かれた美術館だが、ゲーズは価格の高騰しているピカソマティスを避けて、ナビ派キュビズムでもピカソやブラック以外の画家の作品を蒐集したと聞く。1940年~50年代にピカソマティスを蒐集するのは、相当な財力が必要だったはずで、それはそのままベルクグリューンの画商としての才覚を証明することになるのかもしれない。

 今回の企画展はベルクグリューン美術館の改修による実現したもので、そのコレクションのなかから、ピカソ、クレー、マティスジャコメッティなどの作品97点が出品され、さらに国内の国立美術館所蔵・寄託作品11点も加わり合計108点という規模で構成されている。

 なお今回の企画展は一部の寄託作品を除いてほとんどの作品が撮影可能となっている。

キュビスム

 まずピカソ作品を理解するうえでの前提として、キュビズムについて簡単におさらいをしておく。

方法としてのキュビスム

 キュビスムとは、ある対象やその周囲の空間を様態をさまざまな角度から見て、そこから得ることができる対象の断片化された形態を、一つの画面にまとめて描くこと。それがキュビスムの方法。

 フランス語のキュビスム(cubisme)という名称は、この方法で描かれた作品が対象を多角的に分析して描かれていたため、立方体=キューブ(cube)を描いたような形態が現れることに由来している。具体的にはジョルジュ・ブラックが南仏エスタックで描いた一連の風景画をパリのカーンワイラーの画廊で展示したところ、批評家のルイ・ヴォークセルが展覧会評として、「風景や家をキューブ(立方体)にしてしまっている」と批判したことがきっかけとされている。

分析的キュビスム

 ピカソやブラックは、対象を多角的に観察し、その形態に徹底的な分析を加えたうえで、一度対称を解体し再構成をすることにした。そのうえで現実的なイリュージョンや質感を排除し、画面にほぼ均等に並べて描くこと、さらに画面を褐色系の色彩に統一して、単色の結晶の集合体のとして構成した。これを分析的キュビスムと呼ぶ。

総合的キュヴィスム

 徹底した「分析」によって得られた画面は、小さな形態が集合するだけで、現実の対象とのつながりや統一性が失われていった。そこで、ピカソやブラックは現実と作品のつながりを取り戻すために、画面内に具体的形象を復活させる。その手段として新聞や壁紙などを貼り付けたり(コラージュ、パピエ・コレ、コンストリュックシオン)、色彩を復活させるようにした。

ピカソの作品

《眠る男》 バブロ・ピカソ 1942年

 ベルクグリューンが最初に自分のために購入したピカソの作品。詩人のポール・エリュアールからクレーの水彩画とセットで当時の金額で1500ドルで購入した。眠る男はおそらくピカソ自身、それを見つめているのはドラ・マールだろうか。

ピカソの画風

ピカソキュビスム抽象絵画に移行する以前あるいは以後、短い間に画風を変化させたことでも有名だ。悲哀に満ちた人間の姿を青を基調とした色彩で描く「青の時代」、悲哀のやわらいだ人間たちを穏やかな色調で描いた「ばら色の時代」、ギリシア彫刻のような造形により主に女性を描いた「新古典主義の時代」など。この企画展でもそれぞれを代表するような作品が1点ずつ公開されている。

《ジャウメ・サバルテスの肖像》 パブロ・ピカソ 1904年

《座るアルルカン》 パブロ・ピカソ 1905年

《座って足を拭く裸婦》 パブロ・ピカソ 1921年
キュビスムキュビスムキュビスム

《丘の上の集落》 パブロ・ピカソ 1909年

《帽子の男/ジョルジュ・ブラックの肖像(通称)》 パブロ・ピカソ 1909-10年

《ギターと新聞》 パブロ・ピカソ 1916年

《青いギターのある静物》 パブロ・ピカソ 1924年

《窓辺の静物・サン=ラファエル》 パブロ・ピカソ 1919年

 グアッシュ、鉛筆、紙による作品。風景画と再構成された静物画=キュビスムの融合的な作品。色調のやや明るい青やピンクなど、ちょっとピカソの画風とは異なるオシャレ系キュビスム。ピンク色の床面に映る手すりの影などに装飾的な趣もある。どこかピカソらしからぬ感じがするとともにキュビスムの発展形を思わせる、ちょっと意外な作品。

ドラ・マール百面相

 本企画展では、ポスターに使用されたものを含めドラ・マールをモデルとした作品が多い。彼女はピカソの5番目の恋人で、第二次世界大戦前後に交際し、《ゲルニカ》の制作に立ち会ったことでも有名。自身もカメラマン、画家として、シュール・リアリズム的な作品を残している。

 これもおさらいになるがピカソの恋人についてもざっとメモしておく。

1.フェルマンド・オリヴィエ(1881-1966)

2.エヴァ・グエル(1885-1915)

3.オルガ・コクローヴァ(1891-1955) 最初の妻

4.マリー・テレーズ(1909-1977)

5.ドラ・マール(1907-1997)

6.フランソワーズ・ジロー(1921-)

7.ジャクリーヌ・ロック(1927-1986) 二番目の妻

 

 ドラ・マールは気性の激しい女性でもあり喜怒哀楽を表に出す女性だったようで、有名な《泣く女》のモデルでもある。前述したように本企画展では彼女をモデルにした作品が数点出品されているが、もともとミューズでもある美貌の彼女が、その内面性やピカソの視点、洞察からどのように描かれていくかの過程が浮き彫りにされていて興味深い。本企画展のドラをモデルにした作品は、さながらドラ・マール百面相のようだ。

《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》 パブロ・ピカソ 1936年

《花の冠をつけたドラ・マール》 パブロ・ピカソ 1937年

《黄色のセーター》 パブロ・ピカソ 1939年

《女の肖像》 パブロ・ピカソ 1940年

《大きな横たわる裸婦》 パブロ・ピカソ 1942年

マティスの作品

 ベルクグリューンはマティスの名品を多数コレクションしている。今回出展されたものでも印象深いものが多数ある。

《室内、エトルタ》 アンリ・マティス 1920年

《ニースのアトリエ》 アンリ・マティス 1929年

《青いポート・フォリオ》 アンリ・マティス 1945年

シルフィード》 アンリ・マティス 1926年

 これは国内所蔵作品で個人蔵、京都国立近代美術館寄託品のようだ。写真撮影は不可のためネット検索した画像。実は今回の企画展の中で一番印象に残ったのはこの作品。構図や配置、人物のほどよいデフォルメされた態様、押さえた色調の中で白を際立たせるバランスなど、マティスの優れた画風が最良の形で展開されている。モデルを務めたのはアンリエット・ダリカレール。

 こういう絵を観ると、結局理詰めで現代芸術を牽引したピカソに対峙できるのは、軽やかに色彩を操り、感覚的に凌駕していくマティスなのかなと漠然と思ったりもする。少なくとも理知による解釈を必要とするピカソの作品群に比べ、マティスは観る者の美意識に訴える。

 ピカソの絵に感覚的に美しさを感じるかどうか。まあ人さまざまかもしれないが、あの作品群に美を見出すには、分析的な鑑賞が必要になる。マティスはどうか。もちろん彼も様々な試行錯誤の上であのフォルムを完成させているのだろうけど、鑑賞者は感覚的に受容できる。もっとも受容後には、様々な分析的な掘り下げや、その効果について思い巡らせることになるのかもしれないけれど。

その他の作品

 ベルクグリューンのコレクションではピカソに次ぐのはパウル・クレーの作品群で、本企画展でも34点の作品が出品されている。なのだが、実はクレーの作品は自分には理解できない部分も多い。不勉強といってしまえばそれまでだが、抽象絵画を受容するにはその前提としての素養に欠けるのかもしれない。なのでパウル・クレーについては判断や評価は保留。

 そのうえで気になった作品を。

セザンヌ夫人の肖像》 ポール・セザンヌ 1885-1886年

 セザンヌ夫人、マリー=オルタンス・フィケ。セザンヌは夫人の肖像を多数描いている。忍耐強く、長時間身じろぎひとつしないで静止していられたことが第一の理由とも。多分、父親の援助で暮らしていたセザンヌにとっては無給でセザンヌの欲求にこたえられるモデルとして重用されていたのかもしれない。

 原田マハが小説にも書いているが、デトロイト美術館蔵の夫人の肖像も有名だが、本作の青を基調とした雰囲気、セザンヌ夫人は美人だったんだなと実感する作品。

 

《ヤナイハラⅠ》 アルベルト・ジャコメティ 1960-61年

 ジャコメティの作品は4点展示されていた。図録によると矢内原伊作をモデルにした油彩は20点以上現存するが、ブロンズ彫刻は2点のみという。そのうちの1点がこれである。

 

 「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」の開催期間は2022年10月8日から2023年1月22日までとロングランだ。充実した企画展なので、機会があればもう1~2回足を運びたいと思っている。ピカソマティスの受容とともに、もう少しパウル・クレーについて理解を深めたい、そんな気分もある。

アントニオ猪木とプロレス少年だった頃

 もはや旧聞に属するようなことだが、アントニオ猪木が亡くなった。旅行中に流れてきた情報だったが79歳だったという。大病を患っていて、近況的で出てくる本人の映像を見るとあまりにも老いさばらえていて、これはもう長くないんだろうなとは思っていた。かってのリングのヒーローは肉体的にあまりのも零落した感じがしていた。

アントニオ猪木さん死去 元プロレスラー 国会議員活動も 79歳 | NHK | 訃報

 猪木の死で最初に思ったのは、永遠のライバルであり、親日と全日という二大プロレス団体で凌ぎを競ってきたジャイアント馬場のことだった。馬場はいつ死んだのだろうと検索すれば、たちまち情報が目の前に現れる。馬場は1999年に61歳で亡くなっている。23年前、世紀が変わる前のことだ。しかも61歳という若さは高齢化社会が進む現在にあってはあまりにも早い。肉体を酷使したツケなのだろうが、それを思うと猪木はボロボロの肉体になりながらも、馬場よりも18年も長く生きたということになる。

 猪木は少年時代に自分にとってはヒーローだった。1970年前代にプロレスに魅了された少年はたいていそうだったのではないか。馬場のファンはもっと上の年齢、大人、おじさんたちだったような気がする。古くからのプロレスファン、力道山に熱中した人たちだ。それに対して猪木は、ストロングスタイルの新しいアイドルだったような気がする。

 自分がプロレスに熱中したのはいつ頃だろう。多分、小学高学年から中学生になった頃、1969年前後のあたりではなかったか。どういうきっかけだったか判らないが、テレビ放送も従来の日テレの日本プロレス、TBSの国際プロレス、そしてアメリカのプロレスを放映したテレ東の「ワールドプロレス」などを見ていた。さらに月刊誌の『プロレス&ボクシング』や『ゴング』を購読し始めた。

 特に海外プロレス、アメリカのプロレスに夢中になり、海外のプロレス情報を知るために、週に何回かわざわざバスに乗って最寄り駅まで行き東スポを買うようにもなった。当時、東スポは定期的にアメリカのプロレスに紙面を割いていて、特にアメリカ西海岸のロスアンゼルス地区のプロレス情報を紹介していた。

 当時のアメリカではNWA、AWAWWWFというメインのプロレス団体があり、その傘下で各地区で興行が行われ、それぞれの地区にチャンピオンがいた。ロスアンゼルスWWAというプロレス団体があり世界チャンピオン(US王座)を公認していたが、66~67年頃にNWAに吸収されていた。そのためロスのチャンピンオンはUS王座ということになっていた。記憶でいうと同じ西海岸のサンフランシスコでのプロレス興行はNWAではなくAWA傘下にあり、たしかプロモーター兼エース格はレイ・スティーブンスだったように覚えている。

 当時の東スポではロスのプロレス情報が頻繁に載っていて、US王者の変遷もペドロ・モラレス、ベア・キャット・ライトなどプエルトリカンや黒人の活躍、ブラッシーの復活、メキシコ系レスラーの活躍、ミル・マスカラスの登場と熱狂などを覚えている。

 1968年頃には国際プロレスのテレビ放映され、それまでテレ東の「ワールドプロレス」でしか見ることができなかったレスラー、日本プロレスがNWA系だったためか、AWA系のレスラーはあまり来日することがなかっただけに、国際プロレスAWA系のレスラーを初めてリアルっぽく見ることができた。エドワード・カーペンティアやバーン・ガニアなどなど。

 そうした頃に東スポの一面にNWA王座が交代した記事が載った。海外プロレスのチャンピンオン交代が一面に載る時代だ。ル・テーズを破り長く王座に君臨した荒法師ジーン・キニスキーを若きテキサン、ドリー・ファンク・ジュニアが破りNWAチャンピンオンになった。しかも決め技はスピニング・トゥーフォールド。なんだかよくわからないが、子どもの自分は興奮し、紙情報を基にドリー・ファンクの情報を集めた。

 そしてそのドリーが初来日して馬場と猪木とNWAのタイトル選を行う。いずれも引き分けで、特に猪木とは0-0で60分フルマッチを行った。確かこの試合は、紅白の裏番組として再放送されたような気がする。

 だいぶ話はそれたが、ストロング・スタイルの若きNWA世界チャンピオン、ドリー・ファンクと対等に技を掛け合い熱く戦った猪木は、それまでの時代がかったショー・アップされたレスリングの様式とは違っていた。そして立ち技での締め技、コブラツイスト卍固め、ドロップキックの高さ、スピード。相手の腹のあたりまでしか跳ばない馬場の32文ドロップキックとは大きな違いだった。

 1968年から72年くらいまでの猪木は明らかに当時のレスラーとは異次元の動きだったように、子ども心には感じられた。同じような動きをするのは、ストロングスタイルのドリーであり、ビル・ロビンソンであり、ダニー・ホッジなどなど。それらと同様、あるいはそれを上回るパフォーマンスを猪木は見せた。今考えると、猪木の体格は間違いなくジュニア・ヘビーのそれだったのかもしれない。後に見ることになる藤波や初代タイガー・マスク、ダイナマイト・キッドの動きと同じような。

 猪木は日本プロレスを離れ新日本プロレスを立ち上げる。そして日本プロレスの馬場と新日の猪木は二大ヒーローとして君臨する。あくまでもアメリカナイズされたショーップなプロレスを追求する馬場と、セメント的要素を盛り込み異種格闘技という新しいジャンルを作った猪木。

 もちろん猪木のプロレスはあくまでセメント的要素を盛り込んだショーである。それは彼の配下にいて後に離れていったUWF系のレスラーによって証明される。

 プロレスがあくまでショーであり、試合はプロモーターやマッチメイカーによって演出されていることは子ども心に薄々とはわかっていた。毎日のように試合をこなし、それを真剣勝負で行うことなど無理である。また真剣勝負の試合が概して見る側にはちっとも面白くないことは、猪木がモハメッド・アリと行った世紀の異種格闘技戦でも証明されている。アリのパンチをまともに受けたらどんなレスラーもKOである。だから猪木は寝ながら試合を行ったのだ。

 猪木の新日本プロレスが活況を示し、猪木が異種格闘技戦を行う頃には自分は猪木への興味もプロレス自体への興味も失っていった。あれはショーだ、鍛え上げられた肉体で、技の掛け合いの応酬、時にはセメントっぽいケンカの様相を示すショーだ。それを受容できるかどうかは見る側の問題だ。

 しかし猪木のいかにもセメントっぽく見せるショー、そのための演出としての例えばストリート・ファイトなど。確かショッピング中の猪木をタイガー・ジェット・シンが襲うなんてパフォーマンスもあったか。確か猪木とマサ・サイトウが巌流島で決闘を行うなんていうショーもあった。もう自分はお腹いっぱいだった。

 とはいえプロレスへの興味はずっともっていたし、プロレス雑誌が月刊から週刊になっても購読していた。でも猪木はどうでもよくなっていった。彼の実業家としての失敗、アントンハイセルって何だったんだ。新日本プロレスの分裂などなど。さらには政治家への転身など。ぶっちゃっけまるっと纏めちゃえば、ある時期以降の猪木のそうしたパフォーマンスは全部金からみだったのではないかと思っている。

 いつ頃だったか忘れたが、猪木が都知事選に出馬を表明し、直前になって取りやめたことがあった。その時にも出馬取りやめには金が動いたと噂された。政治家としての猪木は前時代的な右翼政治家のパターンを踏襲しているような感じだった。

 功罪様々にありつつも死はすべてを美化していく。テレビでは特番的に扱いで彼の死は大きく取り上げられ、昔の試合やパフォーマンスの映像が流されている。確かに彼はプロレス、ショーアップされたスポーツ界にあっては希代のスターだった。多分そうなのだろう。しかしショービジネスの常でその裏には小さくない金が動き、その多くは表には出せないような類のものだった。よく普通に人生を全うできたものだと思う部分もある。

 猪木は政治家になることで起死回生、うまいこと金のやばい部分をうまく凌ぐことができたのかもしれない。

 アントニオ猪木が亡くなって、彼の若い頃、全盛期の活躍を思い描く。しかしそれを最晩年のやせ細り、かっての面影をなくした病んだ老人の姿が上書きしていく。もう彼のような人物、レスラーから格闘技のスターとなり政治家に転身し、希代のパフォーマーとして人生を全うした人物、そんなスターはもう出てこないだろう。いやスターの裏面性も簡単に可視化される現在にあってはもう出てくることは不可能だし、途中でつぶれるのだろう。

 プロレス団体のトップに君臨し、権力の頂点にあって死んだ馬場と病身でやせ細って死んでいった猪木。全盛期のイメージを保持した馬場の方がレスラー、スターとしては良かったのかもしれない。

 とりあえず希代のプロレスラー、格闘家、パフォーマーの死を、自分の子どもの頃の熱中の記憶とともに悼む。

 

秋を実感する (10月8日)

 群馬県立近代美術館があるのは群馬の森という公園の中。美術館と博物館が隣り合わせなっている。

園内マップ – 群馬の森 (2022年10月11日閲覧)

 いつも美術館を閉館と同時に出た後は、この公園内を散策する。妻の車椅子を押して園内を一周することもあるし、妻が一人で車椅子自走して、自分はしばしベンチで休憩なんてこともある。

 この日も5時の美術館閉館と同時に公園内を回ろうとすると、駐車場の締め切りは5時半というアナウンスが流れる。秋の日はつるべ落としではないが、時期に暗くなる。夏場は公園の駐車場は確か6時半まで開いていたはずだが、もう冬仕様になっているということか。

 「早いな、ぶらぶらするのも30分しか時間がない」と妻に告げると、ちょっとだけと言って車椅子で自走し始める。仕方なくすぐに後を追うつもりでいたのだが、妻はどんどんと遠くに移動していく。

 ふと空を見上げると夕日はもうほとんど沈んでいる。

 「秋だなあ」と小さく呟く。

 少し離れたところで女の子の泣く声がする。振り返ると、今しがた父親と二人で補助輪付き自転車をこいで通り過ぎた女の子のようだ。遠目に見ていると、どうも自転車で転倒した様子。

 近くに寄っていくと、4~5歳くらいの女の子は起き上がっているがまだベソかいている。それでも父親に促されてもう一度自転車に乗ろうとしている。女の子の横を通り過ぎてから振り向いてみる。女の子は懸命に自転車を漕ごうとしている。

 ちょっと健気に感じて、「ファイト」と声かけるがきょとんとしている。父親が「騒がせてすみません」と頭を下げる。こちらは「い~え」と返事を返して、もう一度今度は「頑張れ」と声をかけると、女の子はこくんとうなずく。父親が「ありがとうございます」と答える。女の子と父親に手を振ってその場を離れた。

 そのまま妻が向かったのとは反対側から歩いて行く。多分、途中で落ち合えるはずと考えた。途中、園内の遊歩道にはけっこうどんぐりが落ちている。3~4個拾ってみる。幾つになっても子どもじみたことしている。拾ったどんぐりをベンチに置いてみる。秋の感興。さして面白くもない。後で妻に見せるつもりでポケットに入れる。

 園内を半周しても妻が見つからない。少し速足で戻り、少し行くと妻がやや登りの遊歩道を一生懸命に車椅子をこいでいる。すぐに追いついて押しながら駐車場に戻るようにする。時計をみると5時25分くらいでまもなく閉園の時刻だ。

 妻は公園の一番奥の方にある池まで行って戻るつもりだったようだが、途中で引き返してきたみたいで「池まで行けなかった」と言った。速足で車椅子を押しながら、ポケットに入っていたどんぐりを妻に渡す。妻はちょっとだけどんぐりを見ていたが、「どうする」と聞いてきたので、「捨てていいよ」と答える。それから車椅子を大きな木の近くに寄せ、妻がパッっと木の近くにどんぐりを放った。

 駐車場に着くとほぼ5時半になっていた。止まっている車は自分のを含めて5~6台。みな帰り支度である。車のエンジンをかけるとオートライトでヘッドライトが点灯する。秋を実感する夕暮れ時だ。