アントニオ猪木とプロレス少年だった頃

 もはや旧聞に属するようなことだが、アントニオ猪木が亡くなった。旅行中に流れてきた情報だったが79歳だったという。大病を患っていて、近況的で出てくる本人の映像を見るとあまりにも老いさばらえていて、これはもう長くないんだろうなとは思っていた。かってのリングのヒーローは肉体的にあまりのも零落した感じがしていた。

アントニオ猪木さん死去 元プロレスラー 国会議員活動も 79歳 | NHK | 訃報

 猪木の死で最初に思ったのは、永遠のライバルであり、親日と全日という二大プロレス団体で凌ぎを競ってきたジャイアント馬場のことだった。馬場はいつ死んだのだろうと検索すれば、たちまち情報が目の前に現れる。馬場は1999年に61歳で亡くなっている。23年前、世紀が変わる前のことだ。しかも61歳という若さは高齢化社会が進む現在にあってはあまりにも早い。肉体を酷使したツケなのだろうが、それを思うと猪木はボロボロの肉体になりながらも、馬場よりも18年も長く生きたということになる。

 猪木は少年時代に自分にとってはヒーローだった。1970年前代にプロレスに魅了された少年はたいていそうだったのではないか。馬場のファンはもっと上の年齢、大人、おじさんたちだったような気がする。古くからのプロレスファン、力道山に熱中した人たちだ。それに対して猪木は、ストロングスタイルの新しいアイドルだったような気がする。

 自分がプロレスに熱中したのはいつ頃だろう。多分、小学高学年から中学生になった頃、1969年前後のあたりではなかったか。どういうきっかけだったか判らないが、テレビ放送も従来の日テレの日本プロレス、TBSの国際プロレス、そしてアメリカのプロレスを放映したテレ東の「ワールドプロレス」などを見ていた。さらに月刊誌の『プロレス&ボクシング』や『ゴング』を購読し始めた。

 特に海外プロレス、アメリカのプロレスに夢中になり、海外のプロレス情報を知るために、週に何回かわざわざバスに乗って最寄り駅まで行き東スポを買うようにもなった。当時、東スポは定期的にアメリカのプロレスに紙面を割いていて、特にアメリカ西海岸のロスアンゼルス地区のプロレス情報を紹介していた。

 当時のアメリカではNWA、AWAWWWFというメインのプロレス団体があり、その傘下で各地区で興行が行われ、それぞれの地区にチャンピオンがいた。ロスアンゼルスWWAというプロレス団体があり世界チャンピオン(US王座)を公認していたが、66~67年頃にNWAに吸収されていた。そのためロスのチャンピンオンはUS王座ということになっていた。記憶でいうと同じ西海岸のサンフランシスコでのプロレス興行はNWAではなくAWA傘下にあり、たしかプロモーター兼エース格はレイ・スティーブンスだったように覚えている。

 当時の東スポではロスのプロレス情報が頻繁に載っていて、US王者の変遷もペドロ・モラレス、ベア・キャット・ライトなどプエルトリカンや黒人の活躍、ブラッシーの復活、メキシコ系レスラーの活躍、ミル・マスカラスの登場と熱狂などを覚えている。

 1968年頃には国際プロレスのテレビ放映され、それまでテレ東の「ワールドプロレス」でしか見ることができなかったレスラー、日本プロレスがNWA系だったためか、AWA系のレスラーはあまり来日することがなかっただけに、国際プロレスAWA系のレスラーを初めてリアルっぽく見ることができた。エドワード・カーペンティアやバーン・ガニアなどなど。

 そうした頃に東スポの一面にNWA王座が交代した記事が載った。海外プロレスのチャンピンオン交代が一面に載る時代だ。ル・テーズを破り長く王座に君臨した荒法師ジーン・キニスキーを若きテキサン、ドリー・ファンク・ジュニアが破りNWAチャンピンオンになった。しかも決め技はスピニング・トゥーフォールド。なんだかよくわからないが、子どもの自分は興奮し、紙情報を基にドリー・ファンクの情報を集めた。

 そしてそのドリーが初来日して馬場と猪木とNWAのタイトル選を行う。いずれも引き分けで、特に猪木とは0-0で60分フルマッチを行った。確かこの試合は、紅白の裏番組として再放送されたような気がする。

 だいぶ話はそれたが、ストロング・スタイルの若きNWA世界チャンピオン、ドリー・ファンクと対等に技を掛け合い熱く戦った猪木は、それまでの時代がかったショー・アップされたレスリングの様式とは違っていた。そして立ち技での締め技、コブラツイスト卍固め、ドロップキックの高さ、スピード。相手の腹のあたりまでしか跳ばない馬場の32文ドロップキックとは大きな違いだった。

 1968年から72年くらいまでの猪木は明らかに当時のレスラーとは異次元の動きだったように、子ども心には感じられた。同じような動きをするのは、ストロングスタイルのドリーであり、ビル・ロビンソンであり、ダニー・ホッジなどなど。それらと同様、あるいはそれを上回るパフォーマンスを猪木は見せた。今考えると、猪木の体格は間違いなくジュニア・ヘビーのそれだったのかもしれない。後に見ることになる藤波や初代タイガー・マスク、ダイナマイト・キッドの動きと同じような。

 猪木は日本プロレスを離れ新日本プロレスを立ち上げる。そして日本プロレスの馬場と新日の猪木は二大ヒーローとして君臨する。あくまでもアメリカナイズされたショーップなプロレスを追求する馬場と、セメント的要素を盛り込み異種格闘技という新しいジャンルを作った猪木。

 もちろん猪木のプロレスはあくまでセメント的要素を盛り込んだショーである。それは彼の配下にいて後に離れていったUWF系のレスラーによって証明される。

 プロレスがあくまでショーであり、試合はプロモーターやマッチメイカーによって演出されていることは子ども心に薄々とはわかっていた。毎日のように試合をこなし、それを真剣勝負で行うことなど無理である。また真剣勝負の試合が概して見る側にはちっとも面白くないことは、猪木がモハメッド・アリと行った世紀の異種格闘技戦でも証明されている。アリのパンチをまともに受けたらどんなレスラーもKOである。だから猪木は寝ながら試合を行ったのだ。

 猪木の新日本プロレスが活況を示し、猪木が異種格闘技戦を行う頃には自分は猪木への興味もプロレス自体への興味も失っていった。あれはショーだ、鍛え上げられた肉体で、技の掛け合いの応酬、時にはセメントっぽいケンカの様相を示すショーだ。それを受容できるかどうかは見る側の問題だ。

 しかし猪木のいかにもセメントっぽく見せるショー、そのための演出としての例えばストリート・ファイトなど。確かショッピング中の猪木をタイガー・ジェット・シンが襲うなんてパフォーマンスもあったか。確か猪木とマサ・サイトウが巌流島で決闘を行うなんていうショーもあった。もう自分はお腹いっぱいだった。

 とはいえプロレスへの興味はずっともっていたし、プロレス雑誌が月刊から週刊になっても購読していた。でも猪木はどうでもよくなっていった。彼の実業家としての失敗、アントンハイセルって何だったんだ。新日本プロレスの分裂などなど。さらには政治家への転身など。ぶっちゃっけまるっと纏めちゃえば、ある時期以降の猪木のそうしたパフォーマンスは全部金からみだったのではないかと思っている。

 いつ頃だったか忘れたが、猪木が都知事選に出馬を表明し、直前になって取りやめたことがあった。その時にも出馬取りやめには金が動いたと噂された。政治家としての猪木は前時代的な右翼政治家のパターンを踏襲しているような感じだった。

 功罪様々にありつつも死はすべてを美化していく。テレビでは特番的に扱いで彼の死は大きく取り上げられ、昔の試合やパフォーマンスの映像が流されている。確かに彼はプロレス、ショーアップされたスポーツ界にあっては希代のスターだった。多分そうなのだろう。しかしショービジネスの常でその裏には小さくない金が動き、その多くは表には出せないような類のものだった。よく普通に人生を全うできたものだと思う部分もある。

 猪木は政治家になることで起死回生、うまいこと金のやばい部分をうまく凌ぐことができたのかもしれない。

 アントニオ猪木が亡くなって、彼の若い頃、全盛期の活躍を思い描く。しかしそれを最晩年のやせ細り、かっての面影をなくした病んだ老人の姿が上書きしていく。もう彼のような人物、レスラーから格闘技のスターとなり政治家に転身し、希代のパフォーマーとして人生を全うした人物、そんなスターはもう出てこないだろう。いやスターの裏面性も簡単に可視化される現在にあってはもう出てくることは不可能だし、途中でつぶれるのだろう。

 プロレス団体のトップに君臨し、権力の頂点にあって死んだ馬場と病身でやせ細って死んでいった猪木。全盛期のイメージを保持した馬場の方がレスラー、スターとしては良かったのかもしれない。

 とりあえず希代のプロレスラー、格闘家、パフォーマーの死を、自分の子どもの頃の熱中の記憶とともに悼む。