0歳児選挙権の詭弁

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 今朝の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム 耕論」に掲載されていた記事だ。三人の識者とされる人物が「0歳児選挙権」について意見を述べているのだが、驚くことに二人の人物、NPO法人フローレンス会長駒崎弘樹法哲学瀧川裕英が「0歳児選挙権」に肯定的な意見を述べ、政治学者吉田徹は直接「0歳児選挙権」については論じず、シルバー民主主義についての意見を述べている。これは明らかに朝日新聞が、「0歳児選挙権」を推進するようにリードしているということだ。

 そもそも「0歳児選挙権」は日本維新の会の代表でもある大阪府知事吉村洋文が唐突にぶち上げたもので、多くの者がまたいつもの妄言といった反応を示した。でも一方で、少子高齢化社会で若い世代の声が政治に反映されていないとする言説、一方で人口動態の逆ピラミッド化で高齢者向けの政策に傾きがちという、いわゆるシルバーデモクラシー問題を理由に、子どもにも選挙権を与えるべきというこの「0歳児選挙権」がまことしやかに喧伝されるようになった。

 しかしそれを主張しているのが、日本維新の会の吉村洋文であったり、フローレンスの駒崎であたったり、例えば若者の政治参加を体制に寄り添う形で主張するたかまつみななどであったりと、どこか新自由主義系流れ、ことさらにシルバーデモクラシーをいいつのり、世代の分断を主張するそういう連中であるような気がする。そして今や体制に寄り添う、特に新自由主義に傾き、維新よりを鮮明にしつつある朝日がその先鋒を担っていることは、今回の記事でも明らかになっているようにも思える。

 そもそも選挙権が一人一票が原則ではないか。しかもきちんと租税の義務を負い、公民権を果たすべき社会的人格を担うべきものに課せられた権利ではないだろうか。そうした社会的人格には、当然政治や社会に参加しうるべき社会教育を受け、選挙において自ら妥当な政治的判断を下すことができると見做された者という前提がある。

 0歳児選挙権を主導する者は、それが一人一票の原則に反していないと主張する。

駒崎弘樹は言う。

でも私の言う子ども投票は親が票をもつのではなく、あくまで子どもが票を持っていて、それを親が代行するのです。

 同様のことを瀧川裕英も言う。

厳密に考えるならば、子ども投票権は親に投票権を複数与えるものではありません。一見、親が2票を投じているように見えても、そのうち1票はあくまで子どもの投票権です。親はそれを代理で行使しているにすぎず、親が2票持つわけではない。

 この投票権はあくまで子どもにあり、親は投票を代行、代理するという言い方は聞こえがいいが、ほとんど詭弁である。その「代行・代理」の投票によって選挙が成立してしまう。さらにその「代行・代理」を行うのは父親なのか母親なのかも不鮮明である。どこか例の日本の伝統的家族観と称される家父長制が透けてみえないだろうか。

 そもそも「代理・代行」と称しても、子どもが三人にいる父親に「代理・代行」権があれば、自ら含め4票をもつことになる。親が例えば自民党を支持していれば、公明党を支持していれば、立憲民主党共産党を支持していれば、それぞれに4票がいくのである。そして今、積極的に選挙に行くのは政権与党が過半数に近い議席を有している状況であれば、それは政権与党に与することが必然ではないだろうか。

 「0歳児選挙権」論者がこの制度を主張するために使う便法の一つに女性参政権がある。かっては女性の選挙権も認められていなかった。今、子どもに選挙権を認めないのは同じではないかと。でもそれは明らかに間違っている。女性の参政権が認められない時代、男性だけに選挙権が認められていた時代、女性は労働力となっていても政治参加の権利が認められなかったのである。その時代の女性は成人であり、その中には教育を受けた者がいても、認められなかったのである。それと子どもの選挙権は別だ。

 女性の選挙権が認められない時代、例えば配偶者の男性が2票を得ていたか。戦前は妾制度が公然と認められていた。それでは妾を何人も有する男性は妾の分の投票権を代理・代行できたか。戦前、女性の選挙権が認められなかった不合理性、性差別の問題と、子どもの選挙権、少子高齢化時代の政治参加とは明らかに文脈が異なる。

 百歩譲って子どもの選挙権を認めるにしろ、その代理・代行はなぜ親だけなのだ。その親とはきちんと夫婦関係にある者だけなのか、結婚しないで子どもをもうけた場合はどうなのか。代理・代行権は親だけでなく、別の社会的人格者にも認めてもいいのではないか。などと拡大解釈されていかないだろうか。

 なにか近代以前の地主と小作農の関係のようなことが生じないか。地主は小作農の選挙権をまとめて代理・代行できる。なぜなら国家に租税しているのは地主だからみたいな言い草が喧伝されたり。

 0歳児選挙権を認めることで子どもをもつ若い世代の声が、政治に届きやすくなるというのも多分詭弁だろう。政治は多数の子どもをもつ世帯に対して露骨に支援金を出し、それで票を買うみたいなこと、今のバラまき政治体質であればかんたんに想像できる。

 そしてさらにそもそも論になるけど、今の国政選挙でも投票率が5割を切り、自治体選挙では投票率は3割前後という政治的無関心が国是となっているような国で、「0歳児選挙権」にどんな意味があるのだろう。もっと選挙に行く、政治参加をするための施策が必要ではないのか。

 自分はもはや今の低投票率を改善するには、棄権の場合には罰則を設けるくらいしたほうがいいのではないかと思っている。きちんとした理由を文書で事前、事後提出した場合をのぞき、棄権した場合には住民税を500円~1000円加算して徴税する。そのくらいやらないと今の低投票率は変わらないような気がする。

 今の低投票率で「0歳児選挙権」を導入しても、結局親の「代理・代行」権も行使されないままで終わってしまう。もともと選挙にいかないのに、子どもために選挙権を代理・代行するかということだ。

 選挙権を行使するためには公民権についての教育がきちんと行われ、自ら社会や政治に問題意識をもち、それを選挙権を行使することで、よりよいものに変えていくということが民主主義社会においては前提となる。しかし今はというと、とにかく若者に社会的な問題意識をもたせない方向で教育が行われている。なにかあると教育に、文化に、芸術に、政治を持ち込むなということが喧伝される。

 そうした徹底した社会教育、政治教育が行われない状況で選挙権を得た若者たちはというと、現実追随が前提となり与党に投票する以外の想像力をもたない人たちばかりである。20世紀の時代、若者たちは反体制志向が強く、それが社会人となるに連れて会社に順応的になっていく。そういうものだった。でも今や、学校教育を受ける頃からすでに社会的に順応化され、目立たず、空気を読み、所与の現実を受容するだけの若者だ多くなっている。今の保守党政権を支えているのは実は若者世代なのかもしれない。

 結局、若い世代で子どもがいる世帯に複数の選挙権を与えれば、体制維持はよりやりやすくなる。そういうことが透けて見える。今の「0歳児選挙権」の根底にあるのはそういうことなのだろう。

 もう一つ、付け加えれば「0歳児選挙権」などという妄言は世界中でもほとんど聞かれない。民主主義は平等に一人一票の選挙権を与えるということが原則化されている。親が子どもの選挙権を代理・代行して一人一票の原則を崩すなどというのは、多分民主主義が定着していない東アジアの小国ならではの発想ではないだろうか。